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■原始仏教談話室 その5■

1 :暇人:2006/10/20(金) 23:46:30 ID:dmhIG9ut
漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室です。
参学の途上にある者同士の談話室です。まったり ゆったり学んでいきましょう。
ご関心・興味ある方が気軽にカキコできるように
初心者の方に優しくで お願いします。

以下ご参考に
原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
原始仏教関連過去ログ倉庫
www.geocities.jp/jfcps873/index1.html 
パーリ仏典
www.metta.lk/tipitaka/
www.tipitaka.org/index.html
大正大蔵経-中華電子佛典協会
cbeta.twbbs.org/index.htm

難しい話や議論、論争は「原始佛教その19」へ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/l50

前スレッド  ■原始仏教談話室その4■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1146643240/l50

185 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:16:24 ID:VWUA0EN9
つづき
88
-----------------------------------------------------------------------------
修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、
清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を
自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、
すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさ
またげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界
はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏の
さとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを
除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべての
もののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除か
せる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけ

を楽しむのである。

 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い
求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果


186 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/11(月) 12:19:56 ID:joBTQVtB
>>180
> またも、答えを飛ばしています。

ふー。面倒臭いね。
じゃあ、最初からやり直そうか?

>>121-122
>>125
> やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。
●心というのは五蘊から色を除いた、残りの四蘊と考えていいのだろうか?(1)

●この時点での、あなたの主張は、
・色は存在する(2−1)
・心は存在する(2−2)

ということでいいですか?

>>126 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:05:14 ID:KjIgA/uA
> 五蘊があると妄想している人は、死んでも五蘊は、存在しつづけると考えているということであるから、
> 妄想は、三世の渡るのであるから、その時点で、永遠な妄想の世界を形成しているのである。彼は正法を受け入れない限り

●で、ここでは、
・「五蘊がある」というのは妄想である。(3)
とあなたは主張していますか?

●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?


187 :名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 19:11:14 ID:Q/tWkLWl
>>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
>●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?

なるんだと思っています。
視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。
そうすると色は色を知ることが出来ないのです。何によって色を知るのでしょうか?
それはやはり、受想行識により判断しているのだと思います。所が、受想行識は、そもそも縁起の産物であるので、
実体として存在していないのです。ですから、やはり、色というものは識(心)無くして存在していないと言うことになるのではないでしょうか?
 感覚器官を受そのものと勘違いしていたので、 「やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。 」
と言ったのです。
 相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、そこに統一した原理の如き法則を求めるのは、ゼノンのパラドックスとなるのではないでしょうか?





188 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:35:32 ID:raCSTr24
>>186
>ふー。面倒臭いね。

「じゃあ、」何故、返答を飛ばし、懐疑論をやっておきながら、
「最初からやり直」すというのですか? 矛盾しているし、都合が良すぎませんか?
ところで、そちら様が挙げたのは、全てこちらの投稿ではありませんね。

それにしても「ふー。面倒臭いね。」
こちらを「パス」して頂き、>>187との議論を頑張って下さい。

189 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:55:37 ID:y9OAO0gg
死か死、五感(五根)を備えているのは肉体であり、肉体というのは色に分類しているが、
その肉体が滅するならば、五感も滅するのである。五感が滅するなら意根も滅するのである。
こうして人間と言う肉体の存在に迷うのが凡夫である。
 誰か六根六処六入を整理して書いてくれないかな。五蘊に基づいて論ずるのが言いか、
六根に付いて論ずるのが良いか、五蘊と六根の関係又は相違点はいかなるものか、一度整理してみるのがいいと思う。


190 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 15:25:57 ID:TkIJ4VKU
カラスの変異体?
括弧の使用法が変ですね。
まずは言語のルールを守って言語を超えましょう。

191 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:16:01 ID:79Nq6snv
なんかいらいらする夜だぜ。
何も知らない馬鹿が、また知った風な口を聞いてるよーだなー。

>>190
言語を超えるってさ、それはある意味正しいだろう。だがお前に聞こう。
その言語を超えようって思う思考は、何から成ってるんだよ?あぁ?
おまえが真理を悟るには、千年はえぇんだよ、無智、無能が。「言」を悟らない馬鹿仏教徒が、
知ったふうな口を聞いいてるのは、笑けるんだよね。馬鹿ばっか。

192 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:25:20 ID:79Nq6snv
「言」を持たない犬や猫は、生まれながらに悟っているんですか?(大爆笑)

馬鹿仏教徒さんたち。現代仏教の大乗思想に毒されている君らは、心配しないでも今生は棒に振る。
諦めて、来世にかけるんだな。馬鹿は死ななきゃ治らないんだよ。残念だったね。ククク。

193 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:40:33 ID:2aLBBkLZ
そういや法華経には、女は涅槃に入れないので、悟りを開いた女坊主の股間から
男性器が生えてきて、成就するなんて、漫画みたいな話があったな。

女は、自らを男性にしないと、命はない。だが、女は命を生み出す。女がいなければ命はないのだ。
子宮を持つ女がいるから我々「人」もいる。我々「人」がいなければ、命もなく。涅槃もない。
完全な無は、涅槃ではない。無は無だ。それ以上でもそれ以下でもない。
なぁ>>190さん。言語を超えましょうなんて言ってるあんたなら、言ってる意味わかるよな?(嘲笑)

だいたい馬鹿は、宗教上の、男、女の意味もわかってなねぇで、「言語を超えろ」なんて、したり顔で話すんだよね。
「言」を悟らない奴に、何の悟りか。哀れ、馬鹿に付ける薬はなし。

ちなみにキリスト教の命とは、この世の命のことではない。
イエスはこの世に生まれ、この世に生きる我々を、死人達と呼んでいる。
そして彼は、死者の中から復活したとされる。わかるかな?わかんねぇだろうな〜。盲人は盲人のままだ。



194 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:47:31 ID:2aLBBkLZ
釈迦の悟りは、輪廻からの解脱だ。
死なないということは、生まれてこないということだ。

なぁ>>190さん。
「言」をもたない獣は、どうしてまたこの世に生まれてくるんですかね〜〜。
「言」を持たない獣は生まれながらに悟っているんでしょ〜?
悟っているのにどうしてまた生まれてくるのでちゅか??獣は言語を超えてるんでしょ?わっははは。

何も知らんボケが、知った風な口聞くなよ。

195 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 21:01:16 ID:2aLBBkLZ
涅槃とは無でちゅか?
わはは はははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
は〜アホクサ。

196 :名無しさん@3周年:2006/12/13(水) 23:29:44 ID:0lNoCT6T
縁起に逆らわない。それは、縁起しているものには実体がないと言うからである。
今までは、実体があると思っていたために、それを避けよう、それをうまくかわそうとしていたが、
縁起に従っていても、それに執着していないので、縁起に従うことで何かを得ると言うことが無いのだ。
縁起しているものには実体が無いので、縁起しているものに逆らわないのである。
縁起しているものに実体があるのなら、それを避けるように知恵を必要とするだろう。

197 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:35:22 ID:afozyuJd
女なんて大嫌いだ 嫉妬深くて陰口が大好きで 虐めは陰湿 お前等ブス女に私の気持ちなんてわかんないだろな この世に生まれてこなければよかったのに こんな辛い思いして生きるぐらいなら

198 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:40:57 ID:afozyuJd
私は自分の子供を産み自分の手で育てる事が一番の私の夢だった その夢が叶えられた事は一番の幸せかな でも結果は孤独だ 後は死を待つばかりとなった

199 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 09:38:51 ID:Yo3K5qiR
嫉妬深さや陰口をたたくのは男も一緒。人間は陰口をたたくように出来ているのだから、自分が成功すること、幸せになることが最大の復習になる。
辛い思いをすれば一番喜ぶのは陰口をたたいた人間ですよ。

あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。

200 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:06:15 ID:CGEf3+EZ
真理は人を自由にする。
この言葉の、本当の意味を、理解する者は少ない。

>>198
あんた仏教徒か?
仏教徒が、家族愛の執着を断ち切れず、苦しむなんざ笑える。
情けない奴め。幸いあんたは自分は傷ついたかしらんが、相手は傷つけていないんだろ?
それでいいじゃ「ないか。

家族愛。そんなものは捨てろ。たわけめ、あんたは仏教の何を学んだんだ?
>>199は、知ってか知らずか、いいことを言っている。
お前は独りになった。”独りになるということは、自由になった” ということだ。
せっかく自由になったんだ。自由を楽しめ。そしてあんたが仏教徒なら、自分の成すべきことがあるはずだ。
こんなとこでぐちってないで、自分の成すべきことをすればいい。


201 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:13:49 ID:CGEf3+EZ
>>197
妬み嫉妬深さは、男も一緒。むしろ男のほうが、何をやっても上だ。
下手すると社会的に抹殺される。女の妬み、嫉妬など、せいぜい嫌がらせか
陰口くらいだ。男の嫉妬、妬みなどと比べれば、かわいいものだ。

男の陰険さは、女の比ではないよ。

202 :名無しさん@3周年:2006/12/15(金) 23:29:10 ID:/5rrrHlA
>>199
>あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。

仏典も孤独を勧めていますね。村八分にあっているのを幸いに、このままになっておこうかな?


203 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/17(日) 12:19:18 ID:sY63ie9G
>>187
レスありがとうございます。

> >>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
大変、失礼いたしました。

> >●それはすなわち、
> ・色は存在しない(4−1)
> ・心は存在しない(4−2)
> ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?
>
> なるんだと思っています。
> 視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
> 五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
> 眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。

私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。
自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。

もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

>  相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、
たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?


204 :名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:32:36 ID:UhCeIm9m
>>203
>ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?

>たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
 五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
しかし、五蘊が縁起の存在であると理解し、縁起の存在であるなら、実体として存在していないと判断
するなら、今までの五蘊に基づく判断は、措信してはならないと判断すべきものとなるでしょう。
にも拘わらず今までの習慣から、五蘊の情景が払拭できないのですから、その時に、
これは『ガンダルヴァの城』である、と言い聞かせることになるでしょう。この様に自己を抑制する修行を続け
るならば、ガンダルヴァの城に捕らわれない様になるでしょう。そして『ガンダルヴァの城』とは
縁起している無限の宇宙を指すことになります。
 
>相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?

相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
その心を滅却することになるでしょう。
 相対的に存在しているもの、と認めるなら、上の様に進展すると思いますが、その反対に、
相対的に存在するものは、実体として存在するものであると言う考えに進展する、と言うのは理解できないところです。
しかし、何か誤解が存在すると思われますから、あなたのいうように「相対的であれ、存在して居るとの前提」
の話を聞いてみたいものです。どの様に進展するのですか?



205 :名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:57:36 ID:UhCeIm9m
ガンダルヴァの城」とは、蜃気楼の城と言う意味です。

206 :名無しさん@3周年:2006/12/18(月) 22:41:19 ID:uTBW+phh
自分を支配する心などないのです。空が真実ですから。
何か心に浮かんできたら、それを縁起しているものと知って、『空』じましょう。
心配も、ウキウキする心も、実体の無いものと『空』じましょう。

207 :名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 09:50:40 ID:XWoonAh9
「世界を空なりと観ぜよ」(小空経?だったっけ)





208 :名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 21:25:20 ID:v5rN5SRS
>>207
スッタニパータ
-------------------------------------------------------------------------------
◆<16、学生モーガラージャの質問>◆
--------------------------------------------------------------------------------
1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。
しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」



209 :名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 08:07:03 ID:deWOMIGg
>>203
>私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

「仏教の原点」は、「生老病死という苦が」縁起せることだ「と考えています。」
「ですから、」無自性なる「苦が」「存在していた」とか「存在していない」
「といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。」


>自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。

「自分」「を見ることはできません」から、「他人」「を見ることは」不「可能です。」


>自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。
もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

「外界にものが存在することを否定するならば、バーチャルリアルティ」はありえるのですか?
「外界」がないのに、何に比して何者が「バーチャルリアルティ」なのでしょうか?
「外界にものが存在することを否定するならば、」「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」はありえるのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」は「外界」ではないのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり」とありますが、「仮定」とは認識ではありませんか?

「非常に不自然な」のは、漸く自己矛盾を認めながら尚も、
「非常に不自然なモデルを仮定」していることです。

210 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 10:47:34 ID:2KafzQpR
>>204
> >ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。
> 苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?
そうですね。ただ『楽』が存在するというよりは、
苦の無い状態を『楽』と呼ぶということになるかと思います。十悪に対する十善の関係と同じです。

> >たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
>  五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
この辺、言葉に混乱がありませんか?
「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> >相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?
>
> 相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
> と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
これに異存はありません。

> 心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
> その心を滅却することになるでしょう。
いえ、その渇愛の心を直接滅することができないから、
それが無明に基づくことを理解し、その心が初めから生じないように修行をするのです。

 相対的であれ、苦や煩悩が存在し、それに執着する我もまた縁起しており、
 そのままでは、また輪廻を続けることになるから、
 我を含めた相対的な存在には執着しないように修行をするのです。

> しかし、何か誤解が存在すると思われますから、
たしかに、どこかに、ちょっとして誤解がありそうですね。


211 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 20:20:13 ID:2KafzQpR

第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、
第二の矢は、主観的に存在する。

客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。


212 :名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 20:42:17 ID:hmNKFDcw
客観的に存在するものなど、存在しない。

213 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
>>211
>第一の矢も、第二の矢も、

これは何のこと?

214 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:53:15 ID:Vtn4d/3n
>客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。

で、一切の認識行為を介さずに、「客観的に存在する」と出来るのですか?

ところで、懐疑論や自己矛盾言動を繰り返して平然としていると、
あ○み氏の同類ということに成りますが、それで宜しいですか?

215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
>>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
あるからでしょう。そのあるものは、既にそれと相対的なある物を「必然」として
生じているのであるといわなければならないのです。ですから、相対的に存在している一方を
実体として存在していると妄想しているのです。何か有るものがあると妄想しないならば、それに「必然」
として付随する相対的存在を見ることは無いわけです。あるものを妄想し、それに伴って必然的に生じる
相対的存在が、連綿と無限に生じるのを「輪廻」するというのだといわなければならないと思うのです。
 何かあるものが有ると思う(妄想する)ことを、「執着」というのであると思うのです。
色があると思うこと、すなわち、色形があると思い、ある色形は良く、そうで無いものは悪いと考えることは、
色に執着しているのです。受があると思うこと、すなわち、ある感覚は快く他の感覚は悪い、と考えることは受に執着しているのです。
色んな光景を見ても、それに執着しないとは、そのある部分を珍重し、手に入れたい、そして、そこに家を建てたい、そして、
そして、こんな生活を実現したい、と思わないことであると思うのです。凡人には
困難なことでしょうでしょうけど。

216 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:38:33 ID:58zScJon
>>213 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
> >第一の矢も、第二の矢も、
>
> これは何のこと?

「第二の矢を受けず」でググレばいろいろ出てきます。

ttp://www.myoshin.com/story/sensin_ippannhouwa_015.htm

ttp://www.shinryuji.jp/daruma_req.htm
<−−
釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、花瓶に生けようとする。
これが第二の矢であります。
ここには私たちの執着があるのです。
−−>


217 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:39:23 ID:58zScJon
>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> >>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
> 「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
> 三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

えーと、
「人が空である」という意味で、
私は人は「縁起の存在」である
といって良いと考えているのですが、あなたは、違うのでしょうか?

人は空である。
人は縁起している。
人は縁起の存在である。

私は、同じ意味で使おうとしたのですが、あなたは、
「空」≠「縁起の存在」
と考えているのでしょうか?


218 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz
>>217
>「空」≠「縁起の存在」

この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?

219 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 15:32:30 ID:58zScJon
>>218 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz

> この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
> 無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
> 「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
> 無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?

「苦」は、縁起していて、諸行無常。
「空」=「涅槃」で、常住不変。

ということですか?

「空」=「涅槃」と考えたのには、根拠となる経典とかはあるのでしょうか?


220 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
>>219
ダンマパダ
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人──このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうこちなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥かせないように──そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人──そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲望を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。



221 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 17:32:10 ID:1F4fGVNG
>>220 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
> ダンマパダ
> 92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
>
> 93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

引用ありがとうございます。
なるほど。「空」を、私とあなたでは全く違う意味で使っていたことがわかりました。

>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

さて、そうすると、
私は

人=五蘊=縁起の存在=諸行無常

と、考えているのですが、
あなたは、

人=空=涅槃=常住不変

と考えているということでしょうか?


222 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 17:35:15 ID:Vtn4d/3n
>釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、
花瓶に生けようとする。 これが第二の矢であります。
>第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、第二の矢は、主観的に存在する。

これを以って自己矛盾していないとしたいというわけですか。
しかし「美しいものを“見て”美しいと“感じる”」のではありませんか?
「美しいもの」とは「見る」「感じる」ことを介在させずに可能でしょうか?

223 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
>>221
人=空=涅槃=常住不変
と考えているということでしょうか?

この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。


224 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:06:50 ID:XU5vQnFz
空とは何も無いと言うが、空の状態はすべてのものが満足の状態を言う。

225 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:16:51 ID:v6VVBuXe
時代や部派(或いは経典)ごとに
「空」や「人・我」の語義を、箇条書きでいいから整理してみたら?

まるで、北半球では「12月は冬だ」と言い
南半球では「12月は夏だ」と言い合っているようだ。
12月って何?

空って何?

226 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
ID:XU5vQnFzですが、先ほどラーメン屋から車を運転しバックで出る時、どう言うわけか、コンクリートの電柱にぶつかってしまった。
位置的にはぶつかりやすいところに電柱があるのですが、そして、入る時もそれを経験しているのですが、
損傷は大したことは無く、運転にも支障はない。プラのバンパーが20〜30センチ割れている。しかし衝撃はがツンとしたもので、慌ててバックのままアクセルを少し踏んでしまった。
これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
何もなかったことになるのだろうか?

227 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:58:04 ID:ihqD+b1c
そうですね

228 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 00:04:24 ID:J7W+TTV8
>>221
、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」なので以下のように言われるのである。
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

>>225
>空って何?
 
 一相無相の別名だ。求めるものがすべて自分に備わっているので満足するのである。すべては自分
である。自分自身であれる。自存者である。

229 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 05:56:03 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

私は、そうは思いません。
「縁起と空の論理」の前に、十悪の殺生に該当してしまうと考えます。


>>223 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
> この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
> 覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。

我(アートマン)については、どのようにお考えでしょうか?

ひょっとして
===
我=五蘊 と妄想することが、誤りであり、輪廻の原因である。

我=空=涅槃=梵=常住不変であり、

悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?


230 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 08:10:13 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

ん? ちょっと、待った。

> 縁起であるから、空である
って?

「人を轢いても縁起である」というのは、
いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きた
という意味ですよね。

それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?


231 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:03:07 ID:J7W+TTV8
梵我一如
>>229
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)
が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとさる。不二一元論ともいう。

>我=空=涅槃=梵=常住不変であり、
悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?

空が梵と同じものなら、当然そう言うことになるでしょう。
所が、頭書の解説の様に、支配する原理というと、それは仏教に言う「縁起の理法」
と言うべきです。私の今の理解では、縁起の理法はあくまでも世俗諦であり、勝議諦として「空」
の真理真実を説かれるべきなのに、それが無いのがおかしい、つまり、究極の真実をといていないのであると思われます。
パルメニデスは、これを解き明かしています、プラトンも後半パルメニデスに近づいて自分のイデア論に疑問を呈している
と言われています。

232 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
>>230
>「人を轢いても縁起である」というのは、いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きたという意味ですよね。
それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?

要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。実体が無いことを「空」と言います。
空であるので、無相:一相:といいます。つまり、この様の事故は無かったのであると言うことになるのです。
この空思想の故に、どんな人の罪も許されると言われるのです。但し、この空の真理を理解し信じるならばですが。
この真理を無視誹謗するものは決して許されない、と言うことにもなるのです。

233 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 13:19:55 ID:rrDbxvdm
>>232 :名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
> 要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
> 相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。
ここまでは同意です。

> 実体が無いことを「空」と言います。
私は、縁起したものには、「実体が無い」という性質があり、
その性質を「空」と呼ぶと考えていました。

したがって、

◎相対的に存在しているもの=縁起の存在
であると同時に
◎縁起の存在=空
でした。

あなたは、
---
縁起の存在には、実体が無い
実体が無いことを「空」という
しかし、
>>218
>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?


234 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 14:59:27 ID:J7W+TTV8
>>233
>>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?

○執着心により、存在が発生し、その存在は必然として無限に相対的存在を発生する。
これが縁起の存在(世界)である。これが空と何の関係もない世界であることは明らかだろう。
彼は原因を作って結果を求めている。それを繰り返している。善因を作ろうとしてその結果を求める。
 しかし縁起しているものには実体が有り得ないと観る者は、無作:無願となり、執着心を起こして
縁起の世界を造ろうとしない。彼は世界が空であることを知っているからである。
 人は縁起せるものには実体が有り得ないと言う真理を知るまでは、縁起せるものを実体あるものと追い求めていたのである。
したがって、縁起の世界≠空の世界である。


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