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■原始仏教談話室 その5■

1 :暇人:2006/10/20(金) 23:46:30 ID:dmhIG9ut
漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室です。
参学の途上にある者同士の談話室です。まったり ゆったり学んでいきましょう。
ご関心・興味ある方が気軽にカキコできるように
初心者の方に優しくで お願いします。

以下ご参考に
原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
原始仏教関連過去ログ倉庫
www.geocities.jp/jfcps873/index1.html 
パーリ仏典
www.metta.lk/tipitaka/
www.tipitaka.org/index.html
大正大蔵経-中華電子佛典協会
cbeta.twbbs.org/index.htm

難しい話や議論、論争は「原始佛教その19」へ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/l50

前スレッド  ■原始仏教談話室その4■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1146643240/l50

2 :Gocc (Get Mocc) ◆HswindowsI :2006/10/21(土) 01:17:32 ID:+2dAlutQ
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3 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 09:47:52 ID:BgMwdX5O
>>1
スレ立て乙

4 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 11:47:22 ID:NqY3wvF6
猿は死を理解出来ないのです。
母性本能とは関係ありません。


5 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 12:00:52 ID:NqY3wvF6
死を悲しむのは人類だけです。


6 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 12:07:58 ID:NqY3wvF6
人類は死が悲しいのです。


7 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 14:02:03 ID:AgGQEq8S
> 996 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 09:15:11 ID:fdy5O4JL
> >>991
> >類人類の段階から、
> ここは原始仏教談話室なので言わせて頂くが、原始仏典に於いて人間は猿から進化した
> とはなっていない。むしろ天人から退化したとも言うべき記述があります。進化論をも
> 鵜呑みにすることなく、そんな話も出来たらと思っています。

原始仏典での記述に関連して、類人猿にも類似の現象があったことを紹介したいと思い、
現在に引き付けた文脈で書いた、ということです。

> 天人から退化したとも言うべき記述があります
この点すこし疑問でもあるので、後学のため詳述お願いできればと思います。

> 進化論をも鵜呑みにすることなく
進化論に問題があることは承知しています。「ちくま選書」にそういう本がありましたね。
しかし、人類と類人猿との遺伝子レベルでの比較や形態比較などから、進化論を受容しています。
少なくとも、テネシー州の教科書裁判のような進化論完全否定の立場ではないです。

8 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 14:06:31 ID:x5JRrx22
>死を悲しむのは人類だけです

そんなことは無いと思うよ。像であれなんであれ、自分の子供をよく守る習生のあるものは、
そもそも、失うと言う悲しみから来る感情を原因として、子供を守っているのではないだろうか?
確かにそうに違いないと思う。仏教は全てのものは平等であると言うのは、全てのものは縁起の法則にある者であると言うことであり、
人間が子供を守ると言う原因結果があれば、そして像や他の動物にも、子供を守ると言う習生があれば、
そこには同じ縁起の法則が働いており、多少の薄い濃いの差異があるかもしれないが、人間の理解するところは、
間違いではないというべきであると思う。その証左に、生き物を殺傷しない、と言う戒めは
アリにも及ぶではないか。

9 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 18:10:57 ID:xtjQQDRU
>>900(前スレ)
ゴータミーの執着とゴータミーの子どもの命への執着とは、不可分です。
人間と人間の思想とが、それぞれ独立してあるのではなく、不可分であるように。
生と死もそうです。相対的に対象化させて捉えるだけでは、悟りに触れていることには
ならないと思います。ゴータミーは「不死に至る道を修めた(222)」の不死とは、生と
死の相対から抜け出たという意味でしょう。生と死は、一ならず、異ならず≠アれが
中道のスタンスだと思います。

ロシアの婦人の件については、悟ったお釈迦様には、食中毒のエピソードだってあるわけ
ですから、何にも食べずに生きていられると言う奇跡を根拠に、その女性が悟りに触れて
いるということにはならないと思います。また、粗大な食物ではなく、微細なエネルギー
を食するという理由を以ってしても、同様に悟りの理由にはならないと思います。


10 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 18:18:56 ID:xtjQQDRU
>>9

900→990の間違いです。m(__)m

11 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:48:14 ID:OUAzW+Ba
test

12 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:50:40 ID:OUAzW+Ba
公開プロキシ規制中とかで書き込み出来ず失礼しました。
>>7
 こうして暫らくすると,この水の上層が変化して味地(rasa‐pathavī)と
いうクリームのように美味な地となる。以上の各地が完成次第,次々と破壊
されなかった上の梵天地から,業が尽きたり寿量の終った天人達が各地に転
生して来るのである。この味地の人界に結生して来た者達も,梵天から転生
したばかりであるために前世の勝れた性質が残っていて,この地上には男女
の性別もなく,喜を食とし,体から光を発し空中を飛んでいるのである。そ
のうち彼等の中の好奇心の強い者がこの味地を見て,その美しさと香りに引
かれて舐めてみると,それがあまりにも美味なので何度も味わうのである。

それを見た他の者達も真似をして舐め,その美味を知り,すべての者がそれ
を食事として多量に摂るようになる。するとその味に対して生じた渇愛のた
めに体から光が失われて世界が真暗闇となる。その不安な暗闇を除くために
彼等の過去の善業によって50ヨージャナの太陽が現われて来るのである。そ
の太陽が沈んだ後にも彼等の求めに応じて、49ヨージャナある月と諸の星が
現われて来るのである。このように世界の創造のための雨が降り出してから,
太陽・月・星が出現するまでの間が成劫である。

13 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:51:29 ID:OUAzW+Ba
──略──
 こうして,太陽・月・星が現われてから,人々の食物は味地を食べる時代
を経て,次には地煎餅(bhūmi―pappaţaka)を食べるようになる。次には,地
が更に変化したパダーラタ(padālata)という蔓草を食べ,最後に米を食べる
時代となるのである。米を食べるようになると体内に食物の粕が残り,大小
便となるから,それを排泄するための出口も生じるようになり,更に男女の
別が生じて来る。この男女の別は,梵天に生まれる前の欲界に住していた時
の性が現われるのである。
 このようにして現に見られる人間の生活が始まって来たのである。この太
陽・月・星などが現われてから全世界を滅ぼす大雨が降るまでの間が住劫で
ある。


14 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:06:14 ID:rB9/gG5i
動物には未来予測能力がないから、つまりこうすればああなると言う認識がない。
あるのは条件反射だから
死、つまり生存の断絶は予測できないし認識できない
と言うのが現在の科学の見解です。
京大の霊長類研究所の先生が書いてたよ。

15 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:36:07 ID:BGtHPsZP
>>12-13
ご紹介ありがとうございます。
> この味地の人界に結生して来た者達も,梵天から転生したばかりであるために
> 前世の勝れた性質が残っていて,この地上には男女の性別もなく,喜を食とし,
> 体から光を発し空中を飛んでいるのである。

この部分ですね。これは世記経や倶舎論世間品、立世阿毘曇論と対応パーリ文
ローカ・パンニャッティ、カターヴァットゥなどで語られる宇宙生成譚のようですね。

細部に関して、各部派で相違する解釈も種々あるようですが、
こういった世界観が、いつ、どういう形で仏教に入ってきたのか興味があります。

16 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:55:09 ID:YxuQ1vx3
>死、つまり生存の断絶は予測できないし認識できない
犬や猫などには死が予測できない、というのはそういう気もするけど、
死が認識できない、とまで言えるのかな。死んだかどうかは分かるのではないかと思うけど。
その点、京大霊長類研の方が具体的にどういう表現をしていたか気になります。

洞窟遺跡で見付かった原人だかの骨の回りに、花粉のある植物の痕跡があったとかで、
花を手向ける風習が原人にもあったのか、ということが話題になったことがあったけれど、
一緒に生活した者を失った場合の悲しみは、原人にもあったのかも知れない。

17 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 17:36:27 ID:JrvctqhX
―平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜慈しみの心づかいをし
っかりたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―(スッタニパータ)

スマトラ地震で死んでいった人達と、残って悲しんでいる人達とに対して、
ブッダならどの様に、対処されるでしょうか?



18 :名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 21:35:31 ID:JrvctqhX
>>14
>つまりこうすればああなると言う認識がない。 あるのは条件反射だから

全ては条件反射ではないでしょうか?どんな行為でも必ずそれに伴う結果が伴います。
それを条件反射と言わなければならないと思うのですが。


19 :名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 16:24:29 ID:cTGcF9oo
因果のなかに生物学的反射は含まれますが
因果の全てが生物学的反射ではありませんよね。

瓦をハンマーで叩くと割れる。
これは因果であっても、反射ではありません。
因みに因縁の「縁」は副次的原因、つまり条件とか環境のことですけど。

20 :名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 19:38:12 ID:7ZU6p/2E
>>19
>因みに因縁の「縁」は副次的原因、つまり条件とか環境のことですけど。

仮に、原因に、ひとつは直説原因、もう一つは副次原因というものがあるとしても、
どれかを欠けば結果が無いならば、結果に対しては、副次であろうと直説であろうと無関係に、原因となると
言わなければならないと思います。経典(涅槃経)は、たしか、種を植えても、湿度温度がなければ成長しない。
種は直説原因であるし、温度湿度は間接原因、詰まり、「縁」としていたと思います。




21 :名無しさん@3周年:2006/10/28(土) 13:22:53 ID:kQsOyXls
俺は方便に付いて話したかったのだが、そして俺の考えでは、方便とは、縁起の法則の使用である、というのである。
智慧とは、縁起の法則の現象を見て、縁起しているものには実体が無いと言う判断である。従って、智慧と方便は、
空諦と縁起の法則の別の表現であるのだ。
 大乗経典においては、空諦と言う言葉が主流であるが、原始経典では中道と言う言葉が主流の様である。
しかし、これは同じ意味であり、翻訳の如何に関係しているのかもしれない。
 縁起と言う言葉は、大乗ではまれである。その代わりに方便と言う表現が強調される。

22 :名無しさん@3周年:2006/11/02(木) 20:13:16 ID:gAMD2cph
>>21
浄土にいて、空を完全に体得してるものは、方便を用いて衆生に接する以外ない。
例えば、旧約聖書は天地想像を述べているが、これが菩薩の方便と言われるものである。

23 :名無しさん@3周年:2006/11/03(金) 08:41:41 ID:/eTAtAAO
旧約は下手な方便か。

24 :暇人:2006/11/12(日) 05:09:42 ID:onGPKV7W
原始経典で「方便」という語はみたことない
見たことないというか 関心がないので 注意して調べたことないが
例えば 
釈尊が子を亡くした母に
「死人を出したことない家から芥子粒を貰っておいで
そしたら生き返らせてあげる」と言ったのは方便ではないだろうか。

これは「嘘」というより「真実に至る為の手立て」

25 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 09:45:49 ID:oNouF/1s
火宅の喩え

26 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 16:00:23 ID:wyu/CW9B
原始仏典〈第2巻〉長部経典2/春秋社に、
生成の由来についての大なる経―「大縁方便経」というのがあるみたいですが。
http://item.rakuten.co.jp/book/1612406/

説法の法とは、衆生の煩悩・執着を落とし、悟り・涅槃に導くための手段=方便
なのだから、仏が衆生を導く教えは、すべてが方便ということになると思います。


27 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 16:03:45 ID:FtXZBakF
>>24 分家・新婚夫婦の新宅なら、死人を出したことがないのでは

28 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 18:56:15 ID:N4WIwIa0
>>25
下らない小さな玩具を求めて争いをしている子供達に向かって、大きな牛が引く、それもとても速く走るぎゅ車
が家の外にある、それに乗って遊べ、という主旨の方便でしたね。
 中道に導くための方便方法でした。小さな詰まらない玩具と、生きている大きな牛とその後ろの見事な車、
そのさまは、詰まらない玩具と比べたら、比較になら無い物であり、それを想像したり、見たならば、
小さい詰まらない玩具など目もくれないようなものでした。正覚者の提示した牛車を縁として、家宅から飛び出したのです。
つまり、小さな詰まらない玩具と、生きた牛の引く車とは縁起関係にあります。小さな詰まらない玩具に執着して居る者は、
おおきな牛の引く車にも執着しているのです。これを両極端に執着すると言うのです。この両極端に執着する性質を
りようして、導くことを縁起の法則を利用して導くというのであると思うのです。
 しかし目的は、両者からの解脱です。火宅から飛び出すということで、解脱したのであると思います。
 

しかし本当の目的は、火炎が燃え盛る家からの救出でした。



29 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 21:04:01 ID:N4WIwIa0
>>28訂正
しかし本当の目的は、火炎が燃え盛る家からの救出でした。 →削除

たしか、原始経典に、ニルバーナに入りるのも縁起である、とある。当然だ。
次ぎに、ニルバーナにもその原因にも執着しない、と言うのがある。

30 :暇人:2006/11/13(月) 05:29:39 ID:NP5Jtm4y
>>26

失礼しました

31 :名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 23:23:49 ID:cnHn+QXB
縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?

32 :暇人:2006/11/16(木) 06:04:51 ID:XnSZHjgA
縁起の法則←なんかカルトぽい

33 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 10:49:37 ID:5LBZdPs3

縁起の法則→原因と結果の法則

結果として「苦」を解消するためには、
「苦」の原因を滅すればよい。
原因がなければ、結果は生じない。


34 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 10:54:33 ID:5LBZdPs3
>>33

訂正前
結果として「苦」を解消するためには、

訂正後
結果としての「苦」を解消するためには、


>>31 :名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 23:23:49 ID:cnHn+QXB
> 縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?

「人の苦を抜く」との表現はどこから?
新興宗教で「抜苦代受」と、非仏教の教えを説いているところはあるが。
原始仏教では、自業自得が大原則。
代受はありえない。


35 :暇人:2006/11/16(木) 19:44:54 ID:PIqMimjM
>>33

生老病死の苦を解消するには どうするん?

36 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 22:25:50 ID:7hA9TaYn
>>35 :暇人:2006/11/16(木) 19:44:54 ID:PIqMimjM

> 生老病死の苦を解消するには どうするん?

八正道で、解脱すれば解消よんさま




37 :名無しさん@3周年:2006/11/16(木) 22:29:43 ID:3q3fBJSC
df

38 :暇人:2006/11/16(木) 22:30:39 ID:PIqMimjM
んだね 悟ればとあるね。

ただ法則というのはどなんだろうね
それは法則なのか

39 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 23:13:33 ID:7hA9TaYn

よくわかりませんが、
法則だとしたら、何か、不都合でもあるのですか?

私は、法則or真理だと思います。

40 :暇人:2006/11/16(木) 23:26:53 ID:PIqMimjM
うん 法則と絶対化したりする感じぢゃない気がするのね 釈尊。

彼あれば此れある。単純な事実を指摘みたいな
だけど言われてみて 目からうろことか

41 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/17(金) 05:45:01 ID:LB5Lm9J+
>>40 :暇人:2006/11/16(木) 23:26:53 ID:PIqMimjM
> うん 法則と絶対化したりする感じぢゃない気がするのね 釈尊。

ああ、そうですね。

『縁起の立場そのものを説くことは、
すでに一個の見解に堕すことで、
縁起の立場をふみはずすことになる。』
と森章司先生も「仏教的ものの見方」の中で述べていますね。

ただ、仏典に以下に対応する部分があったこともたしか。
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html
 ブッダの体系は、大きく二つの部分から成っている。まず、中心に置かれるのが、
縁起(因果関係)の論理学である。彼はこれを第一義とし、

●縁起を「これに縁ること」と具体的に呼んで、
●「如来が出現しても、如来が出現しなくても、これ(=「これに縁ること」)は確立している」

と述べたのである。
これは、わたしたちの住む自然界、つまり、現象世界を直接表現するための論理学である。


42 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:50:59 ID:jW+MAJ1A
> 縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?
抜苦与楽です。
縁起の法を学び体得し慈悲が育まれて人の苦をスルーできなくなるから抜苦与楽です。
慈悲とは大乗仏教の菩薩の特権ではありません。
仏教全般を貫いている不可欠な要素です。

43 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 19:01:52 ID:Wm4bNQn0
火事場の馬鹿力と言う諺があります。火事と言う大騒動に縁すると、それまで小さな力も出せないで居た人が、
大きな力をだして居るという事実である。これもある執着から人を離れさせる方便を言うものではないだろうか?
 又、海の塩が異常に引いていったところ、海岸の住民は、それを奇貨として海岸から潮の引いた海底に入り遊んでいた。
所が、小高い丘の上に建っていたお寺の坊さんが、その塩の引いたのは地震によるものであり、必ず津波が来る
と判断し、住民を丘の上に避難させる為に、お寺に火をつけて、お寺の災難を住民に知らせ、住民を海底から
丘に駆けつけさせた。かくして住民は津波から逃れることが出来た、と言う話がある。
 人が楽しみを求めて、酒を飲んだり、遊戯にふけったりするのも、執着を離れる手段即ち方便ではないだろうか?
人を苦から抜け出させるための方便としては、四諦の法門などがあると言われるが、菩薩と縁する人は、苦から逃れるであろう。
なぜなら、菩薩は、人の苦を見、それが縁起しているだけの実体の無いものであることを見ているからであり、
その実体の無い幻を、他の幻を作り出すことにより、執着からはなれさせることが出来るのである。
菩薩は一切が空で、実体有るものは無いと言うことを知っているから、自分が幻を作り出す以外、幻なるものは無いのである。
菩薩の代苦と言われるものは、この縁起の理法を応用することにより、苦しみとしてある幻を、消してしまうことに違いないと思う。
そして是が抜苦与楽と言われるものであるに違いない。菩薩に取り、このような苦が世間に多ければ多いほど、沢山の仕事があるのであり、
それは菩薩にとって少しも嫌な仕事ではないのだ。地獄に居ても菩薩自身は浄土である。地獄で菩薩に縁するもの達は
浄土に入るのであろう。
 原始経典には、このような教えは無いが、原始経典に言う、「善い行い」は
菩薩の行いを否定するものではなく、実にこの菩薩の行いのことを言って居るのだ。


44 :真光青年隊:2006/11/17(金) 19:11:07 ID:7eKfIZJR
『手かざし実践の鬼(御二)』こと「真光青年隊」でごんす(大爆笑)
最近メッキリ冷え込んで参りまして、とうとうストーブを使い始めました。
今日は感・感・感激!嬉しき有難き!世界総本山 元主晃大神宮に於きまして、
な・な・なんと!四十七周年秋季大祭の初日でございます!
岐阜県高山市も、かなり冷え込んでおる事と思います。
メインは何と言っても進発式でございますよ!
世界中から集結した真光青年隊代表者による「万国旗・御神紋旗・道場隊旗」の堂々たる大行進が行なわれるのであります!
私も旗手及び大祭御奉仕の経験が感度かございます。
あの感動は言葉に言い尽くせない込み上げて来る大神様への想いが沸き起こってまいるのでございます。
旗手介添えの隊員諸君もご苦労様です。
初次見面、請多関照(初めまして、宜しくお願いします)
実は私、「中華人民共和国」に無数の拠点、各道場と大都市圏には必ず大道場の設立を許されるよう日々祈り続けております。
これは「社会主義体制から神主主義」の移行を以前から強く叫び続けておるところから発せられておる所でございます。
その為の語学習得「中国語(北京語)」のための勉強にも少々取り組んでいます。
さぁ、貴方たちも是非、私と共に中華人民共和国の大神業恢弘普及に向けて歩武を進めさせて頂きましょう!!
当然、手かざし実践の鬼と豪語する以上、真光の業の急所は、完全制覇していますよ(笑)
こんな事は初級受講者の基本中の基本であり、それ以上に「霊細胞、幽細胞」を浄めるという霊主の捉え方が極めて重要であります。
真光の業にも奥義がございます。
口先だけではなく実践こそが極めて重要であり、最も大切な要諦でございます。
まさに天文学的数字では計り知ることの出来ない人知人力を超越した「極微実相の世界」なのです(笑)
はっきり申し上げると私ぐらい皆さん方の為を想って考えてみ教えを書いている人(霊止)はいないと思います。
私のお伝えしている「み教え」は非常に奥が深いのでございます。
私の書く内容を読めば誰でも一発で分かります。
この事を簡単に考えておってはなりません。
この事を今日は厳しく申し付けておきます。

45 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 19:21:16 ID:Wm4bNQn0
>>43つづき
 そもそも修行とは、あらゆる妄想を消滅させる行いであるが、こう妄想を消滅させると言うことは、
縁起しているものが妄想であると知ることであり、故に、妄想に引っかからないで居られるのである。
その妄想なるものは、一人において生じるということは無いのではないか。つまり一つの妄想は
あらゆる妄想を生じさせているのであるから、一人の人においてすべての妄想が消滅すると言うことは、
その人に縁するあらゆる人の妄想も消滅しているはずであろう。この故に「聖者の居るところは楽しい」と言われるのである。
又仏国土と言われるのもこのことであろう。

46 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 20:36:24 ID:wuRVGew/
暇人は馬鹿だから、理法とでも言っておけ。

47 :暇人:2006/11/18(土) 09:20:36 ID:seS4y89+
縁起は論理学ではないと思うけどね。
「視点」かも。
まだ理法のほうが一般的だけども いっしょぢゃん

48 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 09:59:28 ID:HP93/ZNE
>>47
縁起が論理
縁起は論理

何れも理屈に合わない。石飛さんはあれだけ論破されているのに気づかない。
理法という言葉は法則ほど狭くない。西洋哲学用語の制限から比較的自由。

49 :暇人:2006/11/18(土) 10:46:18 ID:UYj1L21P
法則とか 理法と言ってしまうとさ
(理法は日本大乗では一般的だし 法則はカルトが使っているが)
なんだか水戸黄門の印籠みたいになっちゃうような気がしてさ
「この紋所が目に入らぬか ひかえろー」みたくさ
「縁起の法則を用いて、人の苦を抜く」だと
なんだが
万能薬「縁起の法則」! 苦しみに効果的 即癒されます とか

50 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 10:58:05 ID:xxwXQ0Q1
・世俗諦では、「縁起とは」と言語で表現される事もある。
・勝義諦においては、縁起はあくまで観る(視る?)ものである。
(まぁ勝義諦では縁起すら空だが)

そこは言語表現のおいつかない領域。
実践を目指す人は、色々言わずに先ずは観察しようぜ。

三吉さんは成就したのかな?

51 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 11:00:06 ID:HP93/ZNE
>>49
理法とはもっと個別的、個人的な観点というほどのニュアンスがないかな。
真如なら「カルマの法則」に近いね。
縁起も所詮釈迦の観察だし、それに屁理屈をつけたもの。
万人に合うとは限らない。

十二縁起のそれぞれの現象に因果関係があるというのは真理
その個々の現象を総体として固定付けてしまった場合は真理とは呼べない。
なぜなら、さまざまな現象を想定できるから。

縁起が真理であると主張するのであれば、縁起の個々内容の必然性を論じなければならない。
石飛論はその作業を飛ばして真理表の矛盾をつくだけである。
また、真理表無矛盾指摘にも誤謬がある。
よって、石飛論は詭弁である。

52 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 12:48:51 ID:MzSzzIk7
縁起の法を理解するだけの機根や心の成熟がないと、たとえそれを印籠代わりに
持ち出しても、縁無き衆生は度し難し。その為にも慈悲の心でもって、様々な応病
与薬(対機説法)の工夫が必要とされる。
仏教が他の宗教と異なる視点は、存在論としての法を説かないことである。縁起の
法(則)とは、人間が自然界(人間を含む)を秩序立てて観察するための形式としての
理法であり智法であって、客観的な実体論や存在論としてのそれではない。縁起が
真理であるというのは、縁起=無常・無我・空が真理という論理で思惟すれば、実
体論や存在論の落とし穴に陥らずに済むのではないでせうか。

53 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 20:57:52 ID:FfUyxQ8/
縁起=空ではない。縁起であるから空なのだ。空と縁起は全く異なるものである。
縁起は世俗対と言われるように、理解は容易である。しかし縁起であるから空であると言う判断は、
釈尊だけではないか。

54 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 20:59:19 ID:k3IIoHF7
>>23
いえー

55 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/18(土) 21:47:17 ID:hfV/5E8c
嵐にきたじょぉ
ヽ(´∇`)ノ
縁起=空♪
だから
色即是空
空即是色
色は縁起と深く関わってる♪ 是諸法空相
この世に存在するものは縁起と深く関わっている♪


56 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 22:07:21 ID:MzSzzIk7
>>53
>空と縁起は全く異なるものである。
世俗諦を通して透徹されるのが勝義諦(空)ですから、縁起と空が
全く異なる独立した別物であるなら、縁起であるから空なのだとする
論理は成立しないでしょう。
>縁起は世俗対と言われるように、理解は容易である。
言葉は月を指し示す指にすぎないのではない。
指は指自身を指し示すことがことができないからこそ、指の先には月がある。
指は縁起で言説諦(世俗諦)、月は空で勝義諦。前者は有為法、後者は無為法。
有為と無為の間に断裂はない。性相融即、別の言い方を、色即是空。

57 :名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 23:28:07 ID:FfUyxQ8/
ニルバーナとは何も起こらない状態を言う。無起と言う。無作と言う。この意味は、
縁起するものが無いと言う意味である。縁起状態ではないと言うのがニルバーナの意味である。
であるから、ニルバーナを空の他に、一相無相無願・無起・無作とも言うのである。
 縁起とはある相が、因縁条件により生じると同時に、前のものが滅する、という「変化」を言う。
この「変化」と「ニルバーナ」は全く異なるものであるといわなければならない。これが理法である。
 
 色即是空・空即是色というのは、空と色が同じものであると言うのではない。
あくまでも「空」が真実なのである。
 空とは実に無判断を意味するが、色は、分別判断を意味する。分別判断とは
「是あれば彼あり、これ無ければ彼無し」の判断であり、この判断は、空と言うと言う「無判断」
に至るものであるが、あくまでも、前者の分別判断から、後者の無判断に至るのであるから、
分別判断と無判断が同一と言うことは出来ない。これは論理である。

色即是空・空即是色 この意味は文字通り取ってはならない。この真意は、一切が空であると言うことを意味している。

 もし誰かがあるものに執着し、それ以外目に入らないとするなら、目には要らないものは心にも入らないものであり、
このかれが等閑視している状態が、色即是空・空即是色なのである。真実を体得しょうとしている修行者は一切のものに執着せず、
彼にとって、世界は、 色即是空 空即是色 なのであろう。



58 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/19(日) 00:19:06 ID:2Ne8uADa
行を深めて般若波羅密多した時に色即是空というものがどんなもんかを理解した
つまり
般若波羅密多にならなきゃ色即是空ってのはどんなもんか分からないよん♪
ヽ(´∇`)ノ

59 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/19(日) 00:23:47 ID:2Ne8uADa
ヽ(´∇`)ノ何故
分かりやすく空を無って表現しなかったんだろう
色即是無ってしてくれたら簡単なのに♪
般若心経には他で無って使って空と無とを区別して使ってるのにね♪

60 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 01:52:17 ID:nSt+e/fR
>色即是空・空即是色というのは、空と色が同じものであると言うのではない。
>あくまでも「空」が真実なのである。
> 空とは実に無判断を意味するが、色は、分別判断を意味する。分別判断とは
>「是あれば彼あり、これ無ければ彼無し」の判断であり、この判断は、空と言うと言う「無判断」
>に至るものであるが、あくまでも、前者の分別判断から、後者の無判断に至るのであるから、
>分別判断と無判断が同一と言うことは出来ない。これは論理である。
同一と言うことはできないという単一判断なら、断見です。
正見(中道)なら、同一でもなく別異でもなくでしょう。
性相融即(色即是空)の即は中道の立場です。
単純な=ではなく、二辺を離れた重層的な=なのです。
実に縁起により中道が導き出されますから、縁起するものがない=無起・無作
の断見は、中道(正見)に違背していることになります。

61 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/19(日) 06:33:44 ID:f1ghXyqq
.
人間であれば、哺乳類である。
しかし、
哺乳類であるからといって、人間であるとはいえない。
.
この世に、常住不変なものはない。
自性は存在しない。
諸法無我ゆえに諸行無常である。
したがって、色即是空ということができる。
空とは自性は存在せず、全てのものは、他(の因縁)により成立していることを意味する。
.
しかし、空即是色は、一体何を意味するのか?
色即是空の逆は、いかなる、論理によって真理足りえるのか?

62 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 07:02:09 ID:ajThOeay
>この世に、常住不変なものはない。
あるじゃん。あれだよ。あれ。
あれがなきゃ仏教じゃない。

63 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 12:40:41 ID:KuL6K3Tj
真実は自性が無ければならない。空が真実なら空は自性あるものである。
自性あるものは、単一なものでなければならない。

64 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:14:25 ID:/gnr1G5d
>>62 常住不変なものは一切ないってのが仏教です

65 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:19:26 ID:MfGj5lMi
一切の事物に於て、縁起・無自性・空ならざるものはなし。
空の外延は無限大である。
外延が無限大なら、空の内包は反比例的に無限小である。
空に中味が無い、空に性質が無い、性がないから無自性という。
空が真実という言葉のぎりぎりにおける表現は、空という無自性が真実ということだろう。
外延は色、内包は空。ここでも色即是空が成立している。^^

66 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:38:40 ID:KuL6K3Tj
>>65
 外延とは何ですか?どんな概念ですか?

67 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:42:14 ID:MfGj5lMi
ぐぐって下さい。
ネットは百貨辞典です。

68 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:19:10 ID:KuL6K3Tj
>>61
>しかし、空即是色は、一体何を意味するのか?
色即是空の逆は、いかなる、論理によって真理足りえるのか?

五蘊は空であると言って居るのだ。そのなかの一つである色が空であると言うのを取り出しているのだ。
色は色形という物を表現している。その色形を認めるものは、「受」である。「受」無くして色形を見ることは無いのだ。
受が空であるといえば、色が空であると言う必要も無いのだ。
 五蘊を略して、色心と言う。この心には受想行識があるのだが、これらのものと色を区別しているのは、
便宜的なものであると思う。むしろ心の方を絶対的に重んじる方が間違いが起きないのではないかと思う。
心と物質は相対的に存在するものではない。そこで、受想行識が空であるので、物質である色は、
当然に空であり、色は心により認められるものであるから、当然に空である、といわなければならないだろう。
前者を、空即是色と言うのであり、後者を、色即是空というのであろう。
 五蘊全体が空であると言って居るのを閑却して、色即是空、空即是色だけでは混乱するのではないだろうか。

69 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:31:13 ID:/gnr1G5d
スマさんは「空即是色は後世の付け足し」と断言してたな

70 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:43:08 ID:KuL6K3Tj
スッタニパータの最後の章:第五彼岸に至る道の章、ではじめて「空」という表現が出てくるんだよね。

71 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 19:49:02 ID:KuL6K3Tj
>>64
不生不滅なもの、造られざるもの、これが空であるが、自性あるものとしてあるといわなければならない。


72 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 20:02:25 ID:nqyP92gi
398 名無しさん@3周年 sage 2006/11/03(金) 21:01:16 ID:ZzchwiI7
>> 227 >> 341
> 諸仏あるいは我を説き、あるいは無我を説く


「小空経」(『中部経典』、『中阿含経』巻49)
釈尊が鹿子母堂という講堂でアーナンダと比丘たちに説く。
「ここに牛はいない。牛に関して言えば、空である。
しかし、比丘はいる。比丘に関して言えば、空ではない。」

(補記。牛を探しに来た人々なら、後から来た人が「いるか?」と聞いて、先に中を覗いた人は
【いない】と答える。比丘を探しに来た人々なら「いるか?」【いる】となる。)

この「講堂の牛と比丘」の論法で、以下を見てゆく。

> 村想の時は[我なし]、人想の時も[我なし]、林想の時のみ[我あり]、と見る。
> 人想の時は[我なし]、林想の時も[我なし]、地想の時のみ[我あり]、と見る。
以下、同様にして、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の、いわゆる四無色定についても考察してゆく。


以上、「〜に関して言えば無我、…に関して言えば有我」というように、
四句分別の第三句「Aあり、また、非Aあり」を、同時に異なる立脚地から見ている例である。



73 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 21:26:25 ID:pXv/sWMn
>>69
案外あるかもしれない>付け足し
しかしなぁ縁起の概念で世界を眺めて、一回自分の中で(概念まみれの)
世界が崩壊し、その後違う形で世界の再構築が行われるから
色即是空 空即是色
ってのもアリなんじゃないか?と思ってはいたんだが・・・
まぁ再構築された世界は決して「色」ではないんだけどね。


74 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 22:16:32 ID:KuL6K3Tj
>>64
仏教がこの教えの程度で留まっているなら、仏教はニヒリズモであろう。
この真理に従えるもんは居ない、不可能だから。宇宙の闇に飛び込むような者である。
 空が自性あるものとして存在していることがわかるなら、これ以上に頼れる存在は無いのである。
 空が自性あるものであるので、縁起している無自性な物に執着しては行けないのである。

 自性あるものは、自存するものである。仏陀は自存者と呼ばれている。
 自存するものは、相対的存在ではあり得ない。
 一切は縁起しているもので、自性が無いと言われた。
其処で一切は無自性であると言われる。又自性あるものは無いとも言われる。しかし、ここにおける無自性は
あくまで、縁起している一切である。縁起しないものは無いのか?
 一切の無自性が縁起して居ないのだ。無自性なるものと無自性なるものは縁起関係に無い。
それなら、無自性が自性あるものといえるのである。 一切が無自性であるから、一切が無自性と言う自性を持っているのである。
そして、無自性と無自性は異なるものではないので、一相である。一相であるなら、其処に識別できる異なる相は無いのであるから、無相である。
無相であるなら、何かを求めることは間違った望みである。何かに当たるその物が存在していないのが真実であるから。望むなら、その人に禍となるであろう。


75 :62:2006/11/19(日) 23:05:12 ID:ajThOeay
>縁起しないものは無いのか?
何にも依存せずに存在するものがある。
縁によって作られるものではなく、無縁のものを忘れてますよ。皆さん。
あれですよ。あれ。

76 :名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 23:26:36 ID:r+pDinJS
鳥だ飛行機だ
いや!
アートマンだ!!!11

77 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/20(月) 05:50:04 ID:uoZLOLv1

五蘊は無常
涅槃は常住不変

したがって、この間には物凄い断絶があるのだが、
なんかどこかでごまかされてあいまいにされている希ガスw


78 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 07:52:58 ID:k2D3mx0O
涅槃って身体と自我が雲散霧消した状態のことをいうんじゃないの?
涅槃っていうモノがあるの?

79 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:21:41 ID:pql6Qtud
ルージュと言う人が、無自性空を説き、しかし、自性を説いていないなら、、実に言葉で「自性あるもの」を説いていないなら、
それは涅槃を説かない欠陥ある教えであると思う。
 そもそも、無自性無自性というのであるから、自性を前提に、又は、自性と相対的なものと考えねばならない。

 それから、今まで、勝義諦は表現できない、と言う意見があったが、そんなとは無いと思う。
もちろん教えとしての言葉は、理解され、その人の栄養となる時がある。そのための教えの言葉であろう。

 >>77
変化するものは常住ではない。変化して居るものは実体が無い。そのことを空といい、空とは
従って、変化が無い、と言う意味である。空は変化が無いのだ。変化の無いものは常住である。常住
であるものは自性があるのだ。涅槃は常住であり、それは空だから、自性があるから。


80 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:27:02 ID:WsmWItxp
>>78
状態だろうがモノだろうが境涯だろうが境地だろうが、
それが、(なんらかの)縁によってもたらさるのかどうか?という点に
無宗ださんの疑問は収束するのだよ。
涅槃は、縁起の内にあるのか外にあるのか?

たとえ、状態(≒境地・境涯)であったとしても、
それが、行(≒八正道)を縁として、一個人の上に顕われるものならば、
出家し、努め励むことによって一個人に見られるものならば、
それは、梵行を行ずることによってその人の上に生じた、と言い得るのではないか?
それとも、そうした個人の行が為されようが為されまいが(もっと言えば、釈尊の成道に関わらず)、
「ある」ものなのか?(勿論、経典にはそう書かれているが・・・)

81 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:32:46 ID:pql6Qtud
>>75
 62さん、必ずその「あれ」を明かしてください。

82 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 09:38:45 ID:AGc/Tbow
真摯に修行をし、求めるものにはいつでも変わらずに顕現するから、如来は常住
であると大乗の涅槃経には書かれているんだし、釈尊以前にも過去仏というのは
いたのだから、釈尊以前にも釈尊成道にも関わらずに、如来や涅槃といわれるも
のがあるとしても、不思議ではないと思う。原始仏典で言う常住不変とは、そういう
意味ではないですか。仏教では、主観を離れた客観的存在法、何ものにも依存せ
ずにそれ自体で単独に存在する実体法は説かないでしょう。もし、自性としての
法を認めるなら、わざわざ縁起の法とか四諦とか三法印なんて今更ながら説く必然性
もなかったでしょうし。三法印の、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静は、涅槃の境地が
縁起の法と密接に結びついてることを表わしている。

ての法は

83 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 09:41:14 ID:AGc/Tbow
ての法は、消し忘れです。^^;

84 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 10:10:26 ID:AGc/Tbow
縁起の内とか外という分別を離れたのが涅槃ではないのかと。
無常涅槃を得た覚者の縁起は、法性縁起でしょう。
法性が常住ということは、原始経典にも書かれている。

85 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 10:22:19 ID:AGc/Tbow
>>84
無常涅槃×
無上涅槃でした。^^;

86 :62:2006/11/20(月) 10:44:15 ID:SKdF4Qwo
>>81
もちろん、涅槃で御座います。
「第三涅槃に関する経」が説かれるに当っては、次のような話がある。世尊は種々の理由によっ
て輪廻の危険を示し、涅槃に関する法話を説かれた。すると修行僧たちは、こう考えた。「世尊は
この輪廻が無明などの縁によって作られるものである、涅槃は縁によって作られるものではない
と説かれた。とすると涅槃は無縁である。一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」と。
そこで世尊は説かれた。「この世において、或る人々は〃涅槃というものはただの言葉だけだ。
第一義的に得られるものではない〃と理解しているが、これは誤解である。涅槃というものは
第一義的に得られるものである。」と。

87 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 17:59:50 ID:DVjRNLZZ
>>48
さて、どれだけ論破されてるか?
私は、木村俊彦さん以外に批判した人は知らないが?

>>51
>>縁起が真理であると主張するのであれば、縁起の個々内容の必然性を論じなければならない。

論じなければならない必然性は何?

>>真理表無矛盾指摘にも誤謬がある。

それはどんな誤謬か? 
西洋論理学体系を真として、その記述・説明体系に合わなければ誤謬とするのでは、甚だ幼稚で木村さんと同じ。
それではインド思想を研究する意味が無くなるでしょう。

88 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 18:25:39 ID:pql6Qtud
>>86
>一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」

それでどの様に涅槃は得られると教えているのでしょうか?そして第一義的に得られるとはどのような意味でしょうか?

89 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 18:33:46 ID:SKdF4Qwo
「第四涅槃に関する経」が説かれるに当っては次のような話がある。世尊は種々の表現で涅槃に関する法話を説かれた。
すると修行僧たちは、こう考えた。「世尊によって涅槃の偉大さは示されたが、それに到達するための方法はまだ説かれて
いない。どのようにしてわれわれ修行者は涅槃に到達することができるだろうか」と。そこで世尊は説かれた。
「すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
涅槃に到達することができる。」と、このようにして感興をもって唱えられたのが本経である。
聖なる道とありますので八正道ということでしょうか。

90 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 20:07:31 ID:AGc/Tbow
>>86
81ではありませんが、涅槃が第一義的に得られるとのことですが、勝義諦のことを
唯識では第一義諦とも言います。梵文は解らないので、原語的にはどのようになって
いるかは知りませんが、関係があるのでしょうか。

91 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 20:23:20 ID:AGc/Tbow
仏典で言われている常住なんですが、常住とは縁起や空、如、法性、涅槃もなんです
が、同義語とされるそれらの概念を中道によって正思惟していった別の言い方だと思
うのです。それらの概念の中の縁起について言えば、もしも縁起に始まりがあるなら、
終りもあるということになりますが、それでは断見になってしまいます。終りがない
ということになると、今度は常見ということになります。ですから正見(中道)では、
無始無終です。始まりも終りもなければ、それは変化のない常住と言うこともできま
す。常住といっても、あくまでもベースは縁起(中道)が前提ですが。中論の八不中道
を端的に言うなら、常住(不変)です。ちょっと引っ掛かるのは、不断不常ですが、終
末も常恒もないなら、やはり無変化の常住です。(常無常無二だと解り易いと思う)
涅槃寂静とは、こういう常住不変のことを言うのではないですかね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中論・帰敬序 (八不)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)何ものもあらたに生ずること
なく(不生)何ものも終末あることなく(不断)何ものも常恒であることなく(不常)
何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)何ものもそれ自身において分かた
れた別のものであることはなく(不異義)何ものも[われらに向かって]来ることも
なく(不来)われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的議論)の消滅
というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最
も勝れた人として敬礼する。
                ◆中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)より◆

92 :62:2006/11/20(月) 21:08:37 ID:6Gn+xu71
アビダンマから少し書きます。

「ここに言われたアビダンマの義は、第一義的には全部で、心と心所と色と
涅槃との4種である。
 
 第一義(paramattha)とは、第一(parama)の本質(attha)、心(citta)とは、
所縁を知る本質、心所(cetasika)とは、心に相応して生じる本質、色(rupa)
とは、例えば冷熱の温度などによって変化する本質、涅槃(nibbāna)とは、
すべての苦の寂滅という本質をいう。例えば、貪(lobha)は欲求するという
性質を有するが、それは人・天・梵天などのあらゆるものに於ても変らない。
即ち、犬の貪と人間の貪でも、欲求するという性質は同じなのである。この
ように本質が変らないことを第一という。従って心などは、その本質が変ら
ないので、第一義といわれる。

>涅槃が第一義的に得られるとのことですが、
ここに引っ掛かるのは分かります。第一義的といえば無条件(無縁)でと
言っても良いでしょうから...

93 :62:2006/11/20(月) 21:20:11 ID:6Gn+xu71
参考までに涅槃に関する経を挙げます。

 第一涅槃に関する経

 「修行僧たちよ、このような涅槃がある。すなわち、そこには、地も水も火も風も
空無辺処も識無辺処も無所有処も非想非々想処もなく、この世、あの世もなく、
月日の両者もないものである。修行僧たちよ、私はその涅槃にある世界から来るとも、
ある世界へ行くとも、ある所にとどまるとも説かない。死ぬとも、生れるとも説か
ない。その涅槃は、滅することもなく、生ずることもなく、対象をも所有しない。
この涅槃こそ苦しみの終わりである。」と。

第二涅槃に関する経

 「涅槃というものは見られ難い。真理は容易に見られない。渇愛の苦因(集諦)の
捨断によって(苦諦、道諦、滅諦を)知り、また見る者に、不安はない。」と。

94 :62:2006/11/20(月) 21:20:46 ID:6Gn+xu71
  第三涅槃に関する経
 
 「修行僧たちよ、生じることもなく、存在することもなく、造られることもなく、
作為されることもないもの(涅槃)がある。修行僧たちよ、もし生じることもなく、
存在することもなく、造られることもなく、作為されることもないものがないならば、
この世において、生じ、存在し、造られ、作為されるもの(五蘊)の解脱はありえないで
あろう。修行僧たちよ、生じることもなく、存在することもなく、造られることもなく、
作為されることもないものがあるから、生じ、存在し、造られ、作為されるものの解脱は
あり得るのである。」と。

  第四涅槃に関する経

 「執着があれば動揺があり、執着がなければ動揺はない。動揺がなければ安らぎがあり、
安らぎがあれば渇愛はない。渇愛がなければ(あの世、この世の)往来はない。往来が
なければ死、生はない。死、生がなければこの世、あの世の両世に生まれることはない。
これこそ苦の終わり(涅槃)である。」と。

これらは Udāna に所収されています。


95 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 21:59:17 ID:AGc/Tbow
>>92
>>涅槃が第一義的に得られるとのことですが、
>ここに引っ掛かるのは分かります。第一義的といえば無条件(無縁)でと
>言っても良いでしょうから...

レスありがとうございます。
べつにそういう意味で引っ掛ったわけではないのですが。
第一義的といえば無条件(無縁)という場合の無の使い方は、有に対する無
のような相対無ではありませんね。相対的有無を含みかつそれを超越するような、
絶対無(あまり適切な表現ではないが)の無ですね。中道や空は、まさしく対立的
有無を超えた適切な言葉だと思うのですが。

96 :名無しさん@3周年:2006/11/21(火) 20:42:11 ID:/TvjWVkA
>>89
>「すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
涅槃に到達することができる。」

 大教でも「捕らわれの無い、妨げの無い、仏の智慧」を疑ってはならないと書かれて居ます。
「すべてのもににこだわることが無い」は、一切は縁起ものゆえに実体が無いという理法によるものです。
どんなに恐ろしいことが生じたと思っても、また、どんなに嬉しいと思うことが生じたとしても、いっさは縁起もの故に、
実体が無いと覚り、言い聞かせ、信じ、安楽に居ることにしょう。
 安楽に至る理法を解き明かしてくださった仏陀に尊崇の念を持つべきではないでしょうか?


97 :名無しさん@3周年:2006/11/23(木) 14:34:52 ID:vI0YZ+NV
『すべてのものに』と言って居るのに注意だ。一点でも空に反するものを無意識にでも
心にあるなら、『心身に安らぎ』は来ない。
 縁起はすべてのものに及んでいる。縁起に拠らずにあるものは無い。従ってすべては空なのである。

 仏教は縁起を言うものであるからといって、縁起を担ぐと言う意味の縁起であると思っている人がいる。
それは全くの、転倒した間違いであると思う。すべてのものは縁起であるから、すべてのものに実体が無い、故に、空であると言うのが仏教である。
 空は清浄である。

98 :名無しさん@3周年:2006/11/23(木) 15:33:51 ID:vI0YZ+NV
一切は無実体、無自性、空であるから、詮索し学ぶべきものが無いのである。
習得すべきものが無いのである。この真実『空であること』を知り、納得し
実践する人を『無学』を実践する人というべきであり、体得した人を
『すべてのものにこだわる事無く、心身に安らぎのある人』というのである。
 空しい哲学とキリスト教は言う、仏教では哲学的断定を捨てよ、と言うが、
これは『無学』を言うものである。

99 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/24(金) 12:46:18 ID:i386OEfa

>すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、涅槃に到達することができる。

修飾語を取っ払い、核となる部分を抜き出すと、

>修行者は涅槃に到達する

となると思うのだが、
修行者は、五蘊という無常な存在であり、
涅槃は出世間の常住不変のものであるから、

>五蘊は常住不変に到達する

というのはやはり、どこかおかしい。
どこで、間違えているのだろうか?

100 :名無しさん@3周年:2006/11/24(金) 20:21:27 ID:qMENs8oz
>>99
無常と言う妄想が消滅すれば、常住不変に到達する、ってことだろう。
五蘊は無常、涅槃は常住。五蘊は虚妄、涅槃は真実。

101 :名無しさん@3周年:2006/11/25(土) 06:46:39 ID:LWQY6HFq
縁起するものを皆殺し『阿羅漢』するのは、縁起するものには実体がないと言う真実に目覚めた智慧
である。縁起=業=輪廻=因果=六道(地獄)・縁起≠空諦

102 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:03:42 ID:A20zId2x
無常の意味は通常は、刻一刻と変化しており一刻もとどまるものはない、といって、時間的経過を強調して言われることが多いようだ。
この意味解釈は仏教的ではなく、間違っていると思う。釈尊が死に際に、すべてのものは無常であるといわれたとあるが、これは疑問である。
又、いとし子を失ったゴーダミーに、死人をだして居ない家を探して告げたなら、子供を蘇らせてあげようといわれたと言う話があるが、そしてこの時も
無常の説教が為されたと言うことではなかったか?ゴダミーの狂気を静める方便としては有益であったかもしれないが、彼女が子供を産むほどの年齢に達していた婦人であったなら、
皆が死ぬことぐらいはわかっていたのではないか?
 無常の正しい意味解釈は、時間的変化ばかりではなく、空間的変化をも意味しているのだ。色に於いての変化に付いては色即是空と言われ。
識の変化については、識則是空と言われるのである。色即是空は空間的変化が空であると言う意味であり、識即是空は時間的変化を言うもんである。
時間的に心が変化しているのは、空間における様々な色形があることが変化であるのと同じなのだ。四角が一つの相であるように、ある悲しい思いも一つの相なのだ。
このような相が縁起しているもの故に実体がない空であると言うのである。
 無常と言う意味はまさにこの意味においていわれなければならない、さもないならば仏教ではないのである。
つまり無常とは、常にある相、換言して自性ある相、実体ある相、はないと言う意味に使用されるべきである。
 ゴーダミーには、この真理と真実を認め修行するならば、いとし子にまみえることが出来ると諭すべきであった。そしてこれは真実である。


103 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:11:38 ID:A20zId2x
つづき
>つまり無常とは、常にある相、換言して自性ある相、実体ある相、はないと言う意味に使用されるべきである。

 縁起しているものに実体があると妄想して居ることが前提である。縁起しているものに自性が無いと知っている人には、
空無自性こそ自性あるものである、といわなければならない。

104 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:18:40 ID:A20zId2x
>>102訂正
>そしてこれは真実である
       ↓
    ”  真理 ”。    
       

105 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 12:45:55 ID:zdq+lJhU
>空間における様々な色形があることが変化である

それは、変化というより多様性では?
空間的変化というと、位置を変えることじゃないかな。

106 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 15:18:53 ID:A20zId2x
>>105
白い色が黄色の色と隣り合わせにある。四角形がある。色は必ず隣合わせの色を持っている。その隣り合わせの色と相対的にのみ、
自身の色を主張できる。色は必ず相対的存在である。四角形とその周囲の形は相対的存在である。
どちらかがなくなると他方も存在し得ない。
 白色は、ある点で黄色に変化しているのである。四角形はある線から、、四角形でないあるかたちに変化しているのである。
この変化のはじまる地点を、位置を変えるといっても良いのであるが。
しかし真実にはいかなる変化も無いのである。
 世親はこの変化の無いことを論理的に論証していたが。それは確か中間部におけるものだった。顕微鏡的に変化の始まる地点を
考究してみると、無いと言うのである。

107 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 15:55:43 ID:aRQpRG9n
諸行無常の行とは何かだれか説明してみ?
サンスカーラとは何か?
どうして中国語の行と訳されたのか?
日本語にすると何?

108 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:04:16 ID:gqudm7t+
「白い、と、黄色い」「四角形、と、たとえば三角形」というも、それは相対的な言い条である、
相対的である二つの片方が変化すれば、もう片方も前の状態ではありえない、
ということはわかるけど、

「無常が空間的変化をも意味する」という主張は、
時間的変化抜きで、単に空間的変化のみをとらえて言ってるのか、それとも、
時間的変化には、必然的に空間的変化も含意されている、ということなのか。

109 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:45:40 ID:A20zId2x
>>108
>時間的変化には、必然的に空間的変化も含意されている、ということなのか。

その通りと考えています。いやその通りです。
阿弥陀の浄土は、無限に広大である、と言われます。阿弥陀の浄土の仏菩薩声門の命は無限であると言われます。
そして、アミターバと言うのは無限の光と言う意味であり、アミターユスと言うのは無限の寿命即ち時間を意味す居ると言われています。
この阿弥陀仏の名前は偶然についたものではなく、時間と空間が同一のものであることを意味しているのです。
その広大さが無限と言うことで、空と言うことをも意味しています。
 広いと地を買えば、自由に遊べる場所があるということであり、その遊ぶ時間も随伴して長いものになる、と考えているのは言うまでも無いでしょう。






110 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:57:37 ID:A20zId2x
時間=距離(空間)

111 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 21:46:54 ID:52agi8BS
中論の去来品の最初の偈を「行くところ」とのみ訳しているのも見受けますが、
これはチベット訳の影響かな。
ほんとうは「世路」と言いたいのでしょうね。世(時間)の流れを路ととらえる見方。
gam-には「時が過ぎ行く」という意味もあるし、羅什の漢訳にも「時」と訳されています。

112 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 22:40:18 ID:A20zId2x
>>107
「 祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り、盛者必衰の理を表す.」
ここから判断するに、「行」は意志に基づく行為ではないでしょうか?
その意志は欲に導かれているのです.
 漢訳で「行」と訳されているものはすべて同じ意味を持つものと考えたほうが無難です.
十二支縁起の「行」、五蘊の「行」、諸行無常の「行」。

113 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 22:51:40 ID:kYg5Rn+c
>>111
質問を御許し下さい。

>gam-には「時が過ぎ行く」という意味もある
御迷惑とは思いますが、宜しければ、
上記御発言箇所のソースを御教え頂けないでしょうか。

2品冒頭の「すでに去られたもの(gata)」等の「もの」が、
御発言のように世路や時間なのか、路や空間なのか、
迷っておりまして、この点につきましても、
御意見を御教え頂ければ幸いです。

114 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 20:29:34 ID:7RXt2W7H
>>113
gam-についてはゴンダ文法の語彙欄をご参照ください。

「世路」という語は両義を併記させたものと思います。世が時間を、路がみちを。
両様にとらえうる、というか両義を兼ねたものとして表現しているのではないでしょうか。

(これは時間というものを、それ単体で存在すると見るのでなく、
ものの介在のもとで見る、というような理解ともかかわってくると思います。
また、時間を実時でなく、仮時(三摩耶時)としてとらえる点も重要のようです。)

「世路」をイメージで言えば、歩いている人が通り過ぎている路のイメージだけでなく、
それと共に時間の移ろいをも同時に見ているようなイメージでしょうか。
「三世」実有法体恒有説を批判する龍樹の立場からは、やはり
過去・未来・現在という時間の視点も欠かせないと。

ほんとうは、仏教の空間論というのも検討を要する気もするので、虚空とか、
倶舎論界品で描かれるような宇宙論に行く前の、身近な空間論があればいいんですが。

115 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:01:44 ID:LcN/yY9o
>>112
サンスクリタ(有為)と比べて、サンスカーラ(行)は受動でない、というニュアンスの違いなのでしょうか。
そうだとすると、「意志に基づく行為」ということで大よそはいいとして、
ただその外に、勤勇(意志)に基づかない雷なども諸行無常の中に入れられるので、
因縁が仮に和合してでき上がったもの、といった感じで捉えています。

116 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:17:16 ID:9CBYITRw
あ、そうか。時間と空間と行は関係していたのか。つまり、行とは時間と空間の別語であるのではないか、と問うて居ると考えられる。


117 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:32:41 ID:pyGwugnt
gam-
to go or pass (as time e.g. {kAlegacchati}, time going on, in the course of time)
--Monier

118 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:43:08 ID:9CBYITRw
時間=距離=数=縁起→空無自性=自性

119 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 23:03:08 ID:YZcJgCsb
ただ、gataを(行かれた路)として見れば、
行ったのは人などである、と見なせますが、
(路と見た場合、省略されていると想定されるmArgaは中性なので、
gataが中性gatamととらえられていることはクリアできています)

(過ぎ去られた時間samaya)と見た場合、
過ぎ去る行為をしたものは何か、ということを考えないといけなくなるのです。
それで時間をどうとらえていたのか、ということが検討課題となるわけです。

120 :113:2006/11/28(火) 12:09:09 ID:sSm0fYi4
御返答ありがとうございました。

121 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 23:05:29 ID:VmpLWiTY
心無く色が有るだろうか?あり得ない。
色無く心があるだろうか?

122 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/29(水) 11:10:20 ID:PBO/ECZ4
>>121 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 23:05:29 ID:VmpLWiTY
> 心無く色が有るだろうか?あり得ない。

何故?
「死体」って、心無く色(身体)だけがあるのではないですか?


123 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 12:21:16 ID:6rUo32hq
 ニーチェは、人間は「力への意志」によって、世界を切り分けて解釈しているに過ぎず、
その切り分けられた「何か」が、あらかじめ客観的に存在しているわけではないといった。

 フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
すべては自分の意識に現れ出るものだという。

 ハイデガーは、「自分」という存在が単独に存在するのではなく、
自分とは他者(他物)との関係において、初めて「自分」なのだという。

 これらが、仏教の「唯識論」と大部分で重なり合うところがおもしろい。
唯識論では、人間の認識を八種(八識)に分類する。
その内の6つは、般若心経で言う「眼耳鼻舌身意」、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいわゆる「五感」と、
意識である。残りの2つは、末那識(マナ識)という「自分」にこだわる心の働きと、
命にこだわり維持しようとする働きとも言うべき阿頼耶識(アラヤ識)をいう。

 いわゆる「理性」はこの八識で言う「意識」だと考えても、ほぼ差し支えないと思うが、
しかしこの「意識」は「五感」からの入力だけでなく、さらに根底にある「末那識」や「阿頼耶識」の強い影響下にある。
この「末那識」と「阿頼耶識」の働きを、ニーチェの「力への意志」に置き換えてもよいだろう。

 彼の考えでは、「世界」とは無秩序な混沌(カオス)であり、
本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
そこから人間が「力への意志」によって、ある秩序を切り出すようにして認識する。
つまり、この世の一切のものには「ものそれ自体」が持つ性質というものはない、というのである《諸法無自性》。

ついでにいうと、人間の認識が、連続体である「世界」から切り出した「あれ」や「これ」に名前を付けると、
言語の分節性という話になる。実はこれも仏教思想の中でも指摘されている。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin50.html

124 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 19:37:12 ID:tdyl5tJo
>>119の訂正です。mArgaは男性名詞でした。また、想定される語は、mArgaというより、
adhvanの方がより適切だと思います。mArgaは、どちらかというと、24章で論じられる四諦の
道諦の方でしょうね。

世路の原語は addhan m. (Skt. adhvan) で、これは路・旅路と共に、時・時間・経過とも訳します。
なお、三時・三世の原語は tayo addhA。

時間論に関わる世無別体依法而立、Ac.副詞化/impers.などの細かいことは、そのうち「原始佛教」スレの方にでも。

125 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 23:30:14 ID:KjIgA/uA
>>122
 死んだ当人は心(受想行識)を失っているので、自分が肉体を持っている事を認識していないのだから、
色は無い。
 第三者は、死んでる人を見ているが、自分の心を通じて、死体と死体から心の失せたことを認識している。
この第三者の、死体を認識する心と、死体から心の失せたことを認識する心が無ければ、死体とその死体から心の失せたことを認識
することが無いのである。従って、心無く、死体と死体から心の失せたことを認識することは無いのであるといわなければならないのではないでしょうか?
従って、色があるが、心が無いと言う状態はあり得ない。
 そして、どうも、色が無くして、心があるということも言えないのではないかという気がする。
やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。

126 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:05:14 ID:KjIgA/uA
>>125つづき
五蘊があると妄想している人は、死んでも五蘊は、存在しつづけると考えているということであるから、
妄想は、三世の渡るのであるから、その時点で、永遠な妄想の世界を形成しているのである。彼は正法を受け入れない限り
永遠の地獄から抜け出ることは出来ない。勧経に正法に縁することにより、成仏できる子とを説いているが、これは真理であると思う。
科学的な真理である。
 正法を受け入れている人、そして理解している人は、五蘊は空であると信じているから、決して輪廻することは無く、
縁起(因果)の世界から離脱しているから、自分の死を見ないし、生をも見ないのである。
正法を受け入れている人、それを理解している人は、他人の死を見ないし、他人の生をも見ないであろう。こう言う理屈にならないだろうか?



127 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:50:24 ID:KKCQ+PQI
>>123
西洋哲学においても縁起と言うことは理解されているのですね。其処から発展して、
空思想に発展しないのは、どうしてでしょうか?キリスト教の影響でしょうか?
挙げられた哲学者の時代には、インド思想が翻訳されて著名な思想かが感動したと言う記述を
見たことがあります、シェリングだったでしょうか?にも関わらず、空思想に発展しなかったのでしょうか、それとも
短に、紹介漏れでしょうか?

128 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 18:52:48 ID:KKCQ+PQI
>>123
 >彼の考えでは、「世界」とは無秩序な混沌(カオス)であり、
本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
そこから人間が「力への意志」によって、ある秩序を切り出すようにして認識する。
つまり、この世の一切のものには「ものそれ自体」が持つ性質というものはない、というのである《諸法無自性》。

無秩序な混沌=本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
これが理解できないし、仏教と違背する。
 空は一相無相とも言い、カオスのようなものではない。空自体で清浄なのだと言われている。
そして、真実は一つであり、一つは空でなければならないのである。

129 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/30(木) 19:20:41 ID:4OL3wWtY
>>125-126
つまり、

>>123 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 12:21:16 ID:6rUo32hq
>  フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
> すべては自分の意識に現れ出るものだという。
と同じ立場ということですね?

・生物が絶滅しても夕焼けは赤いだろうか。
・無人の森で木の倒れる音はするのだろうか。
といった問いには、
認識主体が存在しないところに、認識対象は存在しない
と応えるわけですね?

私は、「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と考えます。
だから、赤いし、音はすると考えます。

>  そして、どうも、色が無くして、心があるということも言えないのではないかという気がする。
私は、脳がなければ、高度な思考はありえないと考えます。

そういう意味で
> 色が無くして、心があるということも言えない
と考えます。


130 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:54:46 ID:KKCQ+PQI
やはり違うと思う。
色があるかどうかどうして知るのですか?
心を通して以外無いでしょう?
だったら、やはり、色は心の範囲内にあるのであるといわなければならないでしょう。
 唯識と中間派の領域に入っているのではないでしょうか?


131 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:58:14 ID:KKCQ+PQI
>>130つづき
色は心から独立して存在し得ない。

132 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:07:51 ID:uX/mPvw8
>>131
それは、五蘊の色だよね?
六境の色も?(他五境も同様だが・・・)
それって独我論?

133 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:32:24 ID:KKCQ+PQI
>>132
 六境の色も同じことであると思います。


134 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:36:46 ID:uX/mPvw8
ということは、仏教は、
菩提樹の下から既に唯識だったということか・・・。

135 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:46:20 ID:KKCQ+PQI
目が無くして色は無い。
色が無くして眼は無い、とはいえない。この色は他の根により既に認識されているもので、
それは具体的に、あるものがあるとか無いとか想定しているのであり、それが無い時眼が無いとか、それが無い時
眼があるとか言っているに過ぎない。つまり、色はひとつのものばかりではないのであり、しかもあるものが無い時
眼が無いとかあるとか言う様に要求しているが、他に色がある以上色は必ずあるのであるから、そして、それは心により認識されているのであるから、
人を騙してここに有る色はないと言っても、無益な仮論である。即ち心により認識された色は必ずあるのである。
心がなければ色はない。

136 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:04:49 ID:KKCQ+PQI
>>134
 そう考える方が、合理的であると思いますね。
仮に主体客体があるとしても、それを認めるのは何でしょうか?やはり心でしょう。
そして両者を空ずる判断は必須なのですから、そして、空ずる対象は、あると思っている心です。
原始経典においても、唯識に基づく真理の教えが多くないですか?

137 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:56:26 ID:uX/mPvw8
>>136
本スレ(或いはその先)へ持っていくべきかもしれませんね。
教証の精査をして貰えるかもしれません。

138 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 23:55:52 ID:uX/mPvw8
>>123
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161498172/12


マルチか?
ま、こっちへ貼って正解かもしれんがw

139 :転載:2006/12/01(金) 00:00:15 ID:j0MK1s52
31 名前:疑問[] 投稿日:2006/11/30(木) 21:12:39 ID:6dnmU7H2
疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家してしまったら
子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教えと言うことにならないか。
二つに出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われて在家で戒律は守れず修行も出来ない者は救われない
のかどうか。その在家が出家者に布施をしてるんだろ。在家の救いはどうなる。
三つに生き物の殺しはどう考えればいいのか。仏教は生き物の命を殺すなというけど
それじゃどうやって生きるのか。出家の僧は生き物を殺さないといっておきながら、在家が殺した生き物や穀物をもらって
しっかり食べて自分は命をつないでるだろ。それじゃ生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に
押しつけていることにならないか。

140 :素人:2006/12/01(金) 00:07:59 ID:IJlMVZpF
>>139
なかなか良くまとまった質問事項かと思います。
ゆっくり時間が取れたら、レスしてみたいと思ってます。
本スレのように、しっかりとした教証をベースにとはいきませんが、
(その辺は本スレでアホダラさんがやってくれるでしょうw)
自分へのドリルとして、答えてみたい気がします。
気長に待ってください。


141 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 22:16:35 ID:z/ra2Olk
知性は五蘊の何処に属するのだろうか?知性が縁起そして、空であることを判断するのだが。
それとも五蘊に属さないのだろうか?この点に中間派と唯識派の論争の回答の鍵があるように思われるが。

142 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 11:01:06 ID:pjTMuZD6
>>141
心のことを知性といってるのではあるまいか?
五蘊は何によって五蘊と言われるのであろうか?
知性は何かを創り出したか?
心は何かを創り出したか?
五蘊というものを造り知らせめた。
しかし
空と言う究極の真実は、知性:心を滅ぼしたのではないか?
知性:心が空というものを創り出したのではない。
反対であろう。空と言う真実に出会って滅んだのである。
 

143 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 20:29:45 ID:qlKFw7JQ
問う者 としての投稿者
>>142へ 解なり!

144 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/02(土) 20:50:59 ID:D+aRrLNu
>>130-131
> やはり違うと思う。
> 色があるかどうかどうして知るのですか?
> 心を通して以外無いでしょう?
> だったら、やはり、色は心の範囲内にあるのであるといわなければならないでしょう。
>
> 色は心から独立して存在し得ない。

他人はどこに、存在するのですか?
あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?


145 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 21:00:05 ID:jFDxBU6r
なるほどw
他人の身体は五蘊の外にあるが
「他人」(→当人によって知覚・認識された「他人」というキャラクター)は
識の内、或いは眼耳鼻舌身意の意識に於いて生じたもの、
ということ?
唯識っぽいな・・・。

146 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 23:09:26 ID:pjTMuZD6
>>144
>他人はどこに、存在するのですか?
あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?

私の五蘊の中に他人は存在します。私の五蘊が無いならば、即ち私が存在しないならば、
この世界は存在しません。この世界とは縁起の世界です。

147 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/03(日) 05:46:15 ID:3Eds04da
>>146 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 23:09:26 ID:pjTMuZD6
> 私の五蘊の中に他人は存在します。私の五蘊が無いならば、即ち私が存在しないならば、
> この世界は存在しません。この世界とは縁起の世界です。

レス、ありがとうございます。
私とあなたとでは、根本的に世界観が異なるようです。

私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。


私は現在、以下の考え方に共感しています。

> ある仏教徒の「死後の世界」観
> http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html


148 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 07:50:51 ID:ghUd4+gH
>「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と考えます。
>脳がなければ、高度な思考はありえないと考えます。

「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と
“「考え」て”おられます。矛盾に御気付きでしょうか。
一切の「考え」をも介さずに、「脳がなければ、
高度な思考はありえない」と可能でしょうか。
如何なる認識行為も介さずに、脳研究は可能でしょうか。


>他人はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?
>私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。

「私」「はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
あなたの五蘊の外ですか?」
「縁起」ゆえに、「私」が「存在し」ないのに、
どうして「他人」が「存在するのですか?」
ところで、「縁起の世界」なのに
「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」のでしょうか?

149 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/03(日) 12:33:25 ID:ADBdBqev
>>148
> 「私」「はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
> あなたの五蘊の外ですか?」
> 「縁起」ゆえに、「私」が「存在し」ないのに、
> どうして「他人」が「存在するのですか?」
> ところで、「縁起の世界」なのに
> 「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」のでしょうか?

「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。
こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

薪に火をつければ、炎の揺らめきを目にすることができます。
そこに火は存在するのです。
火は縁起しているのです。

火は自分の外側に「客観」的に存在しています。
炎は、目によって、網膜に写し取られ、
脳で情報処理されることにより、
炎として認識されます。

150 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 22:52:44 ID:HNoIztCZ
>>147
>私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。

縁起の世界とは虚妄の世界ではなかったでしょうか?真実の世界は不生不滅なものとして
あると言っているのではないでしょうか?
 この世に存在するものはすべて最初から常に平安で、静かである。―――法華経方便品

私は現在、以下の考え方に共感しています。

 ガンダルバの城ではないでしょうか?



151 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 23:21:23 ID:HNoIztCZ
>>149
>「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。

 常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

 唯識派と中間派の論争も、帰結するところは、同じなんですよね。ともに空であると。
日常生活においても、これはどんな縁起関係の故に生じたものか、解らない時があります。
でも結論が同じである場合、必ず論争の解決は出来ると感じます。縁起関係と言う理法と、
縁起しているものには実体が無いと言う判断理法が両者において、問題となっていません。
私は前に、真実により心:知性は滅ぼされた、と言いましたが、不適切と思います。
心:知性は真実に服従することになったと言うべきです。
 であるとすると、以下の勧経の言葉はどの様に解釈するべきだろうか?
「次ぎに仏を観想するのだ。それはなぜかと言うと、諸々の仏如来達は、存在するものすべてを身体とする者であり、
すべての生ける者どもの心想の中には入って来るからである。それ故に、あなた達が心に仏を観想する時
この心がそのまま仏の32の大相であり、80の小相なのだ。
 この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海の如き諸々の仏たちは心想から生ずる。」

152 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/04(月) 05:31:07 ID:HSTwXGrZ
>>150
> 縁起の世界とは虚妄の世界ではなかったでしょうか?真実の世界は不生不滅なものとして

三界は縁起の世界であり、人間界は三界の内にあります。
たとえ、虚妄の世界であったとしても、存在はしているのではないでしょうか?
もし、仮に不生不滅な真実の世界が存在するとすれば、それは出世間にあり、
議論の範囲を超えていると私は考えます。

>>151
> 常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
> 我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

あなたは、「自性がある」ものにだけ実体があり、「自性がある」ものだけが存在すると考えているのですか?
たしかに実体があるは、誤解を招く表現だったかもしれません。
しかし、私は縁起している物には、自性はないが、存在はしていると考えます。

私は縁起している。あなたは縁起している。掲示板は縁起している。
縁起している掲示板は、私にとってもあなたにとっても、認識対象として存在している。
この場合、「掲示板は客観的に存在している」と言ってよいと考えます。

苦は存在します。
苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。


153 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 06:10:01 ID:QFM08CbZ
問う者 としての投稿者
>>152
涅槃も滅しませんよ。

154 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/04(月) 06:51:00 ID:HSTwXGrZ
>>153 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 06:10:01 ID:QFM08CbZ
> 涅槃も滅しませんよ。

その根拠は?っチューカ、涅槃は世間にありますか?
あなたは、涅槃を認識しているのですか?
涅槃はどこに存在するのでしょうか?


155 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:00:59 ID:vD+uHrr2
>「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。
こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

“「私」”「の五蘊の中に」、「掲示板に書き込みをしている」“「私」”が
「存在」するのですか? 
前者の「私」とは、「五蘊の“中”に存在し」ているのですか?
前者と後者の「私」とは何者で、かつ、両者の関係はどのようになるのですか? 
「「縁起」ゆえに、常住不変」ではなくとも「私」は「存在」するのであれば、
「私」と称する際の必要最低限の条件とは何ですか?
「五蘊の“中”」とは何処ですか? 「五蘊」に「中」と非「中」があるのですか?


>火は自分の外側に「客観」的に存在しています。
炎は、目によって、網膜に写し取られ、
脳で情報処理されることにより、
炎として認識されます。

一切の認識行為を介さずに、
「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」と可能ですか?
一切の認識行為を介さずに、「脳で情報処理されること」を研究可能ですか?

156 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:55:14 ID:vD+uHrr2
>「自性がある」ものだけが存在すると考えているのですか?
>しかし、私は縁起している物には、自性はないが、存在はしていると考えます。

「自性はない」「もの」が「存在すると考えているのですか?」
「縁起している物には、自性はない」のに、何故「存在はしている」のですか?


>私は縁起している。あなたは縁起している。掲示板は縁起している。
縁起している掲示板は、私にとってもあなたにとっても、認識対象として存在している。
この場合、「掲示板は客観的に存在している」と言ってよいと考えます。

「私」、「あなた」、「掲示板」は「縁起している」のに、何故「存在している」、
「客観的に存在している」と「言ってよいと考え」るのですか?


>苦は存在します。 苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。

「苦は存在し」、「虚妄」ではないのならば、「苦は滅」するのですか?

157 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:20:33 ID:vD+uHrr2
>常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
>我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

「常住不変」が何故「空性」なのですか?
「空性無自性と言う自性」とするならば、何故「空性“無”自性」と称し得るのですか?

空性という見解(『中頌』]V−8)の見事な見本に・・・。

158 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:21:09 ID:tgygt5bX
問う者 としての投稿者
>>154
アハ体験ですよ。「涅槃を認識する」この意味が分かります?
答えは、最初から述べていますよ。
「 言葉に頼らない思考が出来るなら
  思考を伴わない理解に至ったらどうでしょうか? 」
私は才無き者、
私は能無き者、               以上。
   



159 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 22:45:55 ID:OUhugbQE
>>157

「常住不変」が何故「空性」なのですか?
縁起しているもの又は、原因結果の関係にあるものは、必ず相対的に存在している。
相対的存在無くしては、縁起又は因果関係はあり得ない。
 相対的存在は、両者二つのものがある。これらは相依的存在であるから実体「自性」が無い。
しかし、1者しか存在しないならば、その1者は絶対的存在であると言うことである。
1者だけの存在であるならば、 生滅はしない。解りやすい例えとして色相を例にとって見よう。
色んな色相がある。各種の色相は、隣り合う色相と相依関係により存在している。今一つの色相のみが存在しているとしょう。
それを「青」としよう。青色しか無い時、青と言う色相を認識するだろうか?しないだろう?
これを「一相」と言い「無相」と言い、「空相:空性」というのである。
 いろんな色相が無限にあるが、それらはすべて相依関係により存在しているだけで、自性「実体」が無いと判断される。
それ故色相すべては無自性であるのだ。真実には色相は無いのである。これを色相における空性というのである。
今まで色相があると思っていた者には、色相が無いと言うのを言葉で教えるとき、空性と言う表現が使用されたのである。
 今色相環における例を取ったが、現実は色相ではなく五蘊がそれに当たるのである。
相対的存在は実体が無いから幻であるし、幻ですらなくなるのである。しかし、絶対的存在は、
縁起するものではないので、常住不変である。常住不変な者は、相手を持たないので、
1者であり、無相であり、空性であるのだ。
 
>「空性無自性と言う自性」とするならば、何故「空性“無”自性」と称し得るのですか?

人を案内する時、言葉と言う表現手段を用いるのである。言葉は案内手段である。特に空無自性は、
縁起関係にあり相対的に存在している両者を止観する時に最初に必要な案内言葉であると思う。


160 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 22:49:07 ID:OUhugbQE
>>157
>空性という見解(『中頌』]V−8)の見事な見本に・・・。

ここにどのように書かれているか引用してください。


161 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 23:04:16 ID:Q5i0arUT
>>131
>色は心から独立して存在し得ない。

色と心は相互に依存して存立している、という見方を一旦離れて言うと、

「感受および推量を通して知りうる以外の色は(あったとしても)認知しえない。
よって、存在するとは言わない」と言うのがいいんじゃないのかな。
つまり、「認知外Aは存在しない」ではなく「認知外Aが存在する、という主張の否定」じゃないかな。

これは、全てを認識不可能とする一般的な不可知論とは違って、
「不要不急な領域(特に形而上学に属する)の知に関しては無記、知るべきことに関しては全知」
という釈尊の立場にも合致すると思うけど。

162 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 05:46:40 ID:CujBkzFO
>常住不変な者は、相手を持たないので、
1者であり、無相であり、空性であるのだ。

「常住不変な者は、相手を持たないので、1者であり、無相」なのだとしても、
それが何故、「空性である」のですか?


>人を案内する時、言葉と言う表現手段を用いるのである。言葉は案内手段である。特に空無自性は、
縁起関係にあり相対的に存在している両者を止観する時に最初に必要な案内言葉であると思う。

今度は、『中頌』]]U-11への抵触されているような…。


>ここにどのように書かれているか引用してください。

論拠は適切に挙げてあります。希稀本ではないので、簡単に確認可能なはずです。
空性について言及しながら、この重要な本頌を暗記していないのは不可解です…。
ところで、こういうことをいうからには、
>>151、そして、>>159の論拠を引用してからにして下さい。
もちろん、今後の投稿でも必ず論拠を引用して下さい。

163 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 08:47:32 ID:MHPl+hdw
【科学】人間の赤ちゃんは「生後5カ月」で人の顔を認識する
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1165254272/

生後五ヶ月ぐらいから視覚情報の概念化を始めているそうな。
こりゃあちょっとやそっとじゃあ悟りは開けんなぁw

164 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 12:56:55 ID:IfhPhnK2
>>155 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:00:59 ID:vD+uHrr2
> >「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
> しかし、「如是我聞」の我は存在します。
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

> “「私」”「の五蘊の中に」、「掲示板に書き込みをしている」“「私」”が
> 「存在」するのですか? 
おかしな表現になっているね。スマソ。次のように訂正させてくれ。

【訂正前】
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

【訂正後】
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は存在します。

五蘊と私の関係は、厳密にはよくわかりません。
単に一人称として使用しています。それで、意味が通じませんか?


> 一切の認識行為を介さずに、
> 「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」と可能ですか?
> 一切の認識行為を介さずに、「脳で情報処理されること」を研究可能ですか?
『「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」』は認識結果です。
認識行為がなければ、認識結果は生じません。
また、認識行為無しで研究が成立するとも考えられません。
したがって、どちらの応えも「可能ではありません」になります。

いったい何を聞きたいのでしょうか?意図が不明です。


165 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 12:57:38 ID:IfhPhnK2
>>156
> >苦は存在します。 苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。
>
> 「苦は存在し」、「虚妄」ではないのならば、「苦は滅」するのですか?

どうも、
・縁起する
・存在する
・虚妄である。
・滅する
といった、言葉の定義に関して、合意が取れていないようですね。

わたしは、「縁起したもの」は、
・他の原因により、生じた結果である。
・他によって成立するもの
・自性がなく、空であるもの
と考え、これを「存在する」と称して良いと考えます。

「虚妄である。」とは、逃げ水をみて、水があると誤認識する場合のような、
認識において、なんらかの不具合の発生している状態というイメージがあります。

「滅する」とは、「縁起しているもの」の原因を取り除くことにより、
「縁起できなくすること」を意味すると考えます。

あなたの定義を教えて下さい。


166 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 13:00:57 ID:IfhPhnK2
>>158 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:21:09 ID:tgygt5bX
> 問う者 としての投稿者

すみませんが、私には、
あなたの書き込みを理解する能力が無いようです。
また、理解しようとする気力も起きません。


167 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 21:03:22 ID:hdg3rhqS
>>161
正しく理解してくださいました。

168 :名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 21:03:33 ID:hT3dqH4K
>>167
とは言うものの、もう少し。
智慧とはなにか?

ち‐え〔‐ヱ〕【知恵・×智×慧】
「ちえ」を大辞林でも検索する
1 物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。「―を借りる」「生活の―」

2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。

上の解釈はヤフー辞書からであるが、どうも不満である。

 智慧とは、真理真実を知ったことによる利益である、と言うべきであると思う。
智慧と漢字するが、知恵の意味に他ならないと思うのだ。
 真理真実を知っているので、虚妄に惑わされないで、道を間違えないのである。
闇を照らす明るいランプがあるので、迷わないのである。
 この様な意味が上のヤフーの解釈にはないのである。
このような解釈こそ適切で、原語のサンスクリットにおいても、このような意味で知恵と言う表現を用いていないなら、
真理真実の意味を知らないのではないだろうか?
 
めぐみ【恵み】
1 めぐむこと。恩恵。また、いつくしみ。「自然の―」「天の―」
2 キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう。聖寵(せいちょう)。
めぐみ‐の‐あめ【恵みの雨】
1 大地をうるおして草木を生育させる雨。慈雨。また一般に、天の助けのように降る雨。「連戦の選手たちには―となった」
2 神仏の恵みや君恩などが隅々まで行きわたるたとえ。 「君が代に民の伏屋もうるふなり―や... [さらに]


169 :名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 21:31:23 ID:hT3dqH4K
つづき
色であろうが、五蘊の他の蘊であろうが、自分と縁起していない蘊はあり得ないのである。



170 :名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 21:26:06 ID:0MZYyLxb
一切は縁起しているのであるから、一切は空で、総体的に見て空であり、一相であり無相であると言う。
それなら、一切は空であり、総体的に空一相であるところ、其処にある一点を設定するとしよう。
それは1点と言う認識であり、執着である。執着で無いなら、1点があるとは認識しないだろうから。
 そこで、1点があるとすると、1点の他の部分が必然的に生じているものと言わなければならない。
1点を設定することにより、今1点とその他の部分という他のものが生じて、あるものは二つとなった。
1点と他の部分は相対的に存在しているのだ。次ぎに、この1点とその他の部分を合わせて、一つのものと考える事が出来る。
そして、そのあわせたものを一つと考えると、その一つと、その他の部分も考える事ができる。
こうして無限に有るものが拡大していくことになるのだ。
 空である真実に対して、一つの小さな執着点を持つと、無限に他の執着するものが生じてしまうのである。
この執着とは真実に対する「罪」「反逆」である。一切は空であると理解しその体得を目指す修行者は、ほんの小さな罪をも
頭上の大雲の様に恐れる、と原始経典においても言われている。上に言う様に一切の執着を必然として所有してしまうからである。
 それから、一つの執着を持つと無限に他のものを相対的に存在せしめ、それらを執着として所有することになると言う
今日接は、古代ギリシャのパルメニデスの教説である。プラトンの「パルメニデス」を参照されたし。
仏教の空を理解している人には、善き友となると思います。

 ゼノンのアキレスと亀の競争のパラドックスと言われる話が有ります。
早い、遅いの変化は無いと言う証明です。物と物との変化はないと言うのです。
諸法は一相であると言うのです。ものは分割できないと言う証明です。


171 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 05:16:35 ID:RuudTwHN
>>164>>165

>五蘊と私の関係は、厳密にはよくわかりません。
単に一人称として使用しています。それで、意味が通じませんか?

「常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない」、しかし、
非「常住不変」なる「五蘊と私の関係は、厳密にはよくわか」らないならば、
その「一人称」されているのは、結局は何ですか?
言い出したそちら様が「厳密にはよくわか」らないのに、
こちらに「意味が通じ」るというのです「か?」


>いったい何を聞きたいのでしょうか?意図が不明です。

「いったい何を」述べ「たいのでしょうか?意図が不明です。」
「どちらの応えも「可能ではありません」にな」るのに、
「火は“自分の外側に「客観」的”」なのですか?


>あなたの定義を教えて下さい。

「「縁起したもの」は、・他の原因により、生じた結果である。
・他によって成立するもの ・自性がなく、空であるものと考え」ます。
何故「これを「存在する」と称して良いと考え」るのですか?
「虚妄」とは空性です(『中頌』]V-2)。
「「滅する」とは、「縁起しているもの」の原因を取り除くことにより、
「縁起できなくすること」を意味すると考え」るのに、
「苦は存在し」、非「虚妄」なのですか?
「存在」「の定義を教えて下さい。」

172 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/09(土) 06:10:03 ID:lnlV9luL
>>171
ことば遊びならパスしたのですが。

> その「一人称」されているのは、結局は何ですか?
> 言い出したそちら様が「厳密にはよくわか」らないのに、
> こちらに「意味が通じ」るというのです「か?」
はい。意味は通じると思いますよ。
あなたは、ご自分で、「そちら様」、「こちら」という言葉を
使用されています。
「そちら様」というのが、私にとっての「私」であり、
「こちら」というのが、あなたにとってのその「一人称」です。

そして私は、
「そちら様」や「こちら」は、
縁起していると主張しています。

ここまではいかがでしょうか?


173 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 06:28:01 ID:UceTzdbL
>>171
>>172
どちらも正しい

174 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 07:17:28 ID:RuudTwHN
>>172
>はい。意味は通じると思いますよ。

いいえ「。意味は通じない」「と思いますよ。」
「そちら様」は「常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない」、
しかし、 非「常住不変」なる「五蘊と私の関係は、厳密にはよくわか」らないと
しているからです。つまり「私」や「一人称」「という言葉」で何が指示されているか
「よくわか」らないのに、どうして、「一人称」と
「そちら様」「こちら」を結び付け得るのですか?


>ことば遊びならパスしたのですが。

「ことば遊びならパスした」い「のですが。」
自己矛盾したり、肝心な点については答えないことが多過ぎます。
ちなみに、「パス」してくれても構いませんけれども。

「こ」れで「いかがでしょうか?」

175 :莫迦牟尼佛 ◆6.4oHoukEI :2006/12/09(土) 09:39:08 ID:oY3MuHct
しかしまぁ変なコテハンが多いこと。

176 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/09(土) 16:17:32 ID:+Mr/4IiI
>>174 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 07:17:28 ID:RuudTwHN
> 「こ」れで「いかがでしょうか?」

結局、世界観が違うということで、いいんでないの?

あなたは、
----------------------------------
一切が空であり、
したがって、一切は虚妄であり、存在しない。

苦も存在せず、苦を滅するためには、
ただそのことに気付けばよい。

涅槃だけが存在する
----------------------------------
といっているだけですよね?


177 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 21:41:46 ID:eSRQf1Cb
やはり真理真実は一つであると言うのが真理である以上、それを認めない又はそれに至らないくて途中で妥協するのは、
真理真実に反すると思うね。

 仏教に反する教えとして、人は神になれないと言う教えが有ると思うのだ。
人はキリスト教のエホバの神と同等の神にならなければ救いはないのである。
その様にキリストも教えているのである。インドのバラモン教をも釈尊は全否定しているのではなく、
人が絶対神になれると言う教えは受け入れているのだと思う。それに反する部分は否定しているのだ。
この様に考えてくると、ギリシャ神話などももう一度、この様な認識のもとに読み直してみてもいいと思う。

178 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 22:38:34 ID:PIIDgsCE
>>177
>やはり真理真実は一つであると言うのが真理である以上、それを認めない又はそれに至らないくて途中で妥協するのは、
>真理真実に反すると思うね。

論点先取の例文みたいだ

>真理真実は一つであると言うのが真理である

まず、これを証明しないと

179 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 23:01:25 ID:eSRQf1Cb
>>178
証明を観たいのか?

180 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 09:32:34 ID:9TKa9yo2
>>176
またも、答えを飛ばしています。

>結局、世界観が違うということで、いいんでないの?

論破出来無いとなると、懐疑論的に、
「結局、世界観が違うということ」で片付けるのですか?
こういうのを「ことば遊び」「と」言う「んでないの?」


>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

何者が?
ところで、「一切が空であ」るのに、「一切は」「存在しない」し、
「涅槃」は「存在する」のですか?

181 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 12:47:26 ID:odaRYQxu
電波ゴッコはやめれ

182 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 17:57:34 ID:VWUA0EN9
>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

三世として過去現在未来と言われるが、過去と未来だけだ。
そこで、過去にも未来にも一切こだわらない現在(過去と未来の境界)、どうのような心境であるかが言われるべきである。
そこには、縁起(原因結果の基づく心境)による悲喜の心境が全く見出せないのである。
それらを否定する心境があるのみである。彼の心は色心が無限にい縁起して広がっているのに応じて、
その縁起している色心に束縛されていないから、色心を超越して、見下し、無限に広がっていくのである。
縁起して居る者に執着すると言う罪を犯さないから、執着ゆえに束縛されるということが無く、真理真実を見失って、
迷うと言うことが無い。この様に推測される。彼は自分が何年の何月何日に生まれ、何歳であるかと言うことを思わない。
自分の肉体の死滅を心配することが無い。食物に付いて心配すると言うこともない。
 このような心境に付いて大乗経典は、長々と叙述しているね。




183 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:09:58 ID:VWUA0EN9
>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

三世として過去現在未来と言われるが、過去と未来だけだ。
そこで、過去にも未来にも一切こだわらない現在(過去と未来の境界)、どうのような心境であるかが言われるべきである。
そこには、縁起(原因結果の基づく心境)による悲喜の心境が全く見出せないのである。
それらを否定する心境があるのみである。彼の心は色心が無限にい縁起して広がっているのに応じて、
その縁起している色心に束縛されていないから、色心を超越して、見下し、無限に広がっていくのである。
縁起して居る者に執着すると言う罪を犯さないから、執着ゆえに束縛されるということが無く、真理真実を見失って、
迷うと言うことが無い。この様に推測される。彼は自分が何年の何月何日に生まれ、何歳であるかと言うことを思わない。
自分の肉体の死滅を心配することが無い。食物に付いて心配すると言うこともない。
 このような心境に付いて大乗経典は、長々と叙述しているね。




184 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:14:21 ID:VWUA0EN9
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub25.htm その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それ
に執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどま
るのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何
ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競
い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与
えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持
たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。
つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深
い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜
ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。

 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべ
てその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を



185 :名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:16:24 ID:VWUA0EN9
つづき
88
-----------------------------------------------------------------------------
修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、
清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を
自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、
すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさ
またげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界
はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏の
さとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを
除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべての
もののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除か
せる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけ

を楽しむのである。

 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い
求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果


186 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/11(月) 12:19:56 ID:joBTQVtB
>>180
> またも、答えを飛ばしています。

ふー。面倒臭いね。
じゃあ、最初からやり直そうか?

>>121-122
>>125
> やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。
●心というのは五蘊から色を除いた、残りの四蘊と考えていいのだろうか?(1)

●この時点での、あなたの主張は、
・色は存在する(2−1)
・心は存在する(2−2)

ということでいいですか?

>>126 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:05:14 ID:KjIgA/uA
> 五蘊があると妄想している人は、死んでも五蘊は、存在しつづけると考えているということであるから、
> 妄想は、三世の渡るのであるから、その時点で、永遠な妄想の世界を形成しているのである。彼は正法を受け入れない限り

●で、ここでは、
・「五蘊がある」というのは妄想である。(3)
とあなたは主張していますか?

●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?


187 :名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 19:11:14 ID:Q/tWkLWl
>>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
>●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?

なるんだと思っています。
視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。
そうすると色は色を知ることが出来ないのです。何によって色を知るのでしょうか?
それはやはり、受想行識により判断しているのだと思います。所が、受想行識は、そもそも縁起の産物であるので、
実体として存在していないのです。ですから、やはり、色というものは識(心)無くして存在していないと言うことになるのではないでしょうか?
 感覚器官を受そのものと勘違いしていたので、 「やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。 」
と言ったのです。
 相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、そこに統一した原理の如き法則を求めるのは、ゼノンのパラドックスとなるのではないでしょうか?





188 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:35:32 ID:raCSTr24
>>186
>ふー。面倒臭いね。

「じゃあ、」何故、返答を飛ばし、懐疑論をやっておきながら、
「最初からやり直」すというのですか? 矛盾しているし、都合が良すぎませんか?
ところで、そちら様が挙げたのは、全てこちらの投稿ではありませんね。

それにしても「ふー。面倒臭いね。」
こちらを「パス」して頂き、>>187との議論を頑張って下さい。

189 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:55:37 ID:y9OAO0gg
死か死、五感(五根)を備えているのは肉体であり、肉体というのは色に分類しているが、
その肉体が滅するならば、五感も滅するのである。五感が滅するなら意根も滅するのである。
こうして人間と言う肉体の存在に迷うのが凡夫である。
 誰か六根六処六入を整理して書いてくれないかな。五蘊に基づいて論ずるのが言いか、
六根に付いて論ずるのが良いか、五蘊と六根の関係又は相違点はいかなるものか、一度整理してみるのがいいと思う。


190 :名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 15:25:57 ID:TkIJ4VKU
カラスの変異体?
括弧の使用法が変ですね。
まずは言語のルールを守って言語を超えましょう。

191 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:16:01 ID:79Nq6snv
なんかいらいらする夜だぜ。
何も知らない馬鹿が、また知った風な口を聞いてるよーだなー。

>>190
言語を超えるってさ、それはある意味正しいだろう。だがお前に聞こう。
その言語を超えようって思う思考は、何から成ってるんだよ?あぁ?
おまえが真理を悟るには、千年はえぇんだよ、無智、無能が。「言」を悟らない馬鹿仏教徒が、
知ったふうな口を聞いいてるのは、笑けるんだよね。馬鹿ばっか。

192 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:25:20 ID:79Nq6snv
「言」を持たない犬や猫は、生まれながらに悟っているんですか?(大爆笑)

馬鹿仏教徒さんたち。現代仏教の大乗思想に毒されている君らは、心配しないでも今生は棒に振る。
諦めて、来世にかけるんだな。馬鹿は死ななきゃ治らないんだよ。残念だったね。ククク。

193 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:40:33 ID:2aLBBkLZ
そういや法華経には、女は涅槃に入れないので、悟りを開いた女坊主の股間から
男性器が生えてきて、成就するなんて、漫画みたいな話があったな。

女は、自らを男性にしないと、命はない。だが、女は命を生み出す。女がいなければ命はないのだ。
子宮を持つ女がいるから我々「人」もいる。我々「人」がいなければ、命もなく。涅槃もない。
完全な無は、涅槃ではない。無は無だ。それ以上でもそれ以下でもない。
なぁ>>190さん。言語を超えましょうなんて言ってるあんたなら、言ってる意味わかるよな?(嘲笑)

だいたい馬鹿は、宗教上の、男、女の意味もわかってなねぇで、「言語を超えろ」なんて、したり顔で話すんだよね。
「言」を悟らない奴に、何の悟りか。哀れ、馬鹿に付ける薬はなし。

ちなみにキリスト教の命とは、この世の命のことではない。
イエスはこの世に生まれ、この世に生きる我々を、死人達と呼んでいる。
そして彼は、死者の中から復活したとされる。わかるかな?わかんねぇだろうな〜。盲人は盲人のままだ。



194 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:47:31 ID:2aLBBkLZ
釈迦の悟りは、輪廻からの解脱だ。
死なないということは、生まれてこないということだ。

なぁ>>190さん。
「言」をもたない獣は、どうしてまたこの世に生まれてくるんですかね〜〜。
「言」を持たない獣は生まれながらに悟っているんでしょ〜?
悟っているのにどうしてまた生まれてくるのでちゅか??獣は言語を超えてるんでしょ?わっははは。

何も知らんボケが、知った風な口聞くなよ。

195 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 21:01:16 ID:2aLBBkLZ
涅槃とは無でちゅか?
わはは はははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
は〜アホクサ。

196 :名無しさん@3周年:2006/12/13(水) 23:29:44 ID:0lNoCT6T
縁起に逆らわない。それは、縁起しているものには実体がないと言うからである。
今までは、実体があると思っていたために、それを避けよう、それをうまくかわそうとしていたが、
縁起に従っていても、それに執着していないので、縁起に従うことで何かを得ると言うことが無いのだ。
縁起しているものには実体が無いので、縁起しているものに逆らわないのである。
縁起しているものに実体があるのなら、それを避けるように知恵を必要とするだろう。

197 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:35:22 ID:afozyuJd
女なんて大嫌いだ 嫉妬深くて陰口が大好きで 虐めは陰湿 お前等ブス女に私の気持ちなんてわかんないだろな この世に生まれてこなければよかったのに こんな辛い思いして生きるぐらいなら

198 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:40:57 ID:afozyuJd
私は自分の子供を産み自分の手で育てる事が一番の私の夢だった その夢が叶えられた事は一番の幸せかな でも結果は孤独だ 後は死を待つばかりとなった

199 :名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 09:38:51 ID:Yo3K5qiR
嫉妬深さや陰口をたたくのは男も一緒。人間は陰口をたたくように出来ているのだから、自分が成功すること、幸せになることが最大の復習になる。
辛い思いをすれば一番喜ぶのは陰口をたたいた人間ですよ。

あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。

200 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:06:15 ID:CGEf3+EZ
真理は人を自由にする。
この言葉の、本当の意味を、理解する者は少ない。

>>198
あんた仏教徒か?
仏教徒が、家族愛の執着を断ち切れず、苦しむなんざ笑える。
情けない奴め。幸いあんたは自分は傷ついたかしらんが、相手は傷つけていないんだろ?
それでいいじゃ「ないか。

家族愛。そんなものは捨てろ。たわけめ、あんたは仏教の何を学んだんだ?
>>199は、知ってか知らずか、いいことを言っている。
お前は独りになった。”独りになるということは、自由になった” ということだ。
せっかく自由になったんだ。自由を楽しめ。そしてあんたが仏教徒なら、自分の成すべきことがあるはずだ。
こんなとこでぐちってないで、自分の成すべきことをすればいい。


201 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:13:49 ID:CGEf3+EZ
>>197
妬み嫉妬深さは、男も一緒。むしろ男のほうが、何をやっても上だ。
下手すると社会的に抹殺される。女の妬み、嫉妬など、せいぜい嫌がらせか
陰口くらいだ。男の嫉妬、妬みなどと比べれば、かわいいものだ。

男の陰険さは、女の比ではないよ。

202 :名無しさん@3周年:2006/12/15(金) 23:29:10 ID:/5rrrHlA
>>199
>あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。

仏典も孤独を勧めていますね。村八分にあっているのを幸いに、このままになっておこうかな?


203 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/17(日) 12:19:18 ID:sY63ie9G
>>187
レスありがとうございます。

> >>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
大変、失礼いたしました。

> >●それはすなわち、
> ・色は存在しない(4−1)
> ・心は存在しない(4−2)
> ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?
>
> なるんだと思っています。
> 視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
> 五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
> 眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。

私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。
自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。

もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

>  相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、
たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?


204 :名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:32:36 ID:UhCeIm9m
>>203
>ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?

>たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
 五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
しかし、五蘊が縁起の存在であると理解し、縁起の存在であるなら、実体として存在していないと判断
するなら、今までの五蘊に基づく判断は、措信してはならないと判断すべきものとなるでしょう。
にも拘わらず今までの習慣から、五蘊の情景が払拭できないのですから、その時に、
これは『ガンダルヴァの城』である、と言い聞かせることになるでしょう。この様に自己を抑制する修行を続け
るならば、ガンダルヴァの城に捕らわれない様になるでしょう。そして『ガンダルヴァの城』とは
縁起している無限の宇宙を指すことになります。
 
>相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?

相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
その心を滅却することになるでしょう。
 相対的に存在しているもの、と認めるなら、上の様に進展すると思いますが、その反対に、
相対的に存在するものは、実体として存在するものであると言う考えに進展する、と言うのは理解できないところです。
しかし、何か誤解が存在すると思われますから、あなたのいうように「相対的であれ、存在して居るとの前提」
の話を聞いてみたいものです。どの様に進展するのですか?



205 :名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:57:36 ID:UhCeIm9m
ガンダルヴァの城」とは、蜃気楼の城と言う意味です。

206 :名無しさん@3周年:2006/12/18(月) 22:41:19 ID:uTBW+phh
自分を支配する心などないのです。空が真実ですから。
何か心に浮かんできたら、それを縁起しているものと知って、『空』じましょう。
心配も、ウキウキする心も、実体の無いものと『空』じましょう。

207 :名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 09:50:40 ID:XWoonAh9
「世界を空なりと観ぜよ」(小空経?だったっけ)





208 :名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 21:25:20 ID:v5rN5SRS
>>207
スッタニパータ
-------------------------------------------------------------------------------
◆<16、学生モーガラージャの質問>◆
--------------------------------------------------------------------------------
1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。
しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」



209 :名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 08:07:03 ID:deWOMIGg
>>203
>私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

「仏教の原点」は、「生老病死という苦が」縁起せることだ「と考えています。」
「ですから、」無自性なる「苦が」「存在していた」とか「存在していない」
「といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。」


>自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。

「自分」「を見ることはできません」から、「他人」「を見ることは」不「可能です。」


>自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。
もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

「外界にものが存在することを否定するならば、バーチャルリアルティ」はありえるのですか?
「外界」がないのに、何に比して何者が「バーチャルリアルティ」なのでしょうか?
「外界にものが存在することを否定するならば、」「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」はありえるのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」は「外界」ではないのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり」とありますが、「仮定」とは認識ではありませんか?

「非常に不自然な」のは、漸く自己矛盾を認めながら尚も、
「非常に不自然なモデルを仮定」していることです。

210 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 10:47:34 ID:2KafzQpR
>>204
> >ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。
> 苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?
そうですね。ただ『楽』が存在するというよりは、
苦の無い状態を『楽』と呼ぶということになるかと思います。十悪に対する十善の関係と同じです。

> >たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
>  五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
この辺、言葉に混乱がありませんか?
「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> >相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?
>
> 相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
> と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
これに異存はありません。

> 心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
> その心を滅却することになるでしょう。
いえ、その渇愛の心を直接滅することができないから、
それが無明に基づくことを理解し、その心が初めから生じないように修行をするのです。

 相対的であれ、苦や煩悩が存在し、それに執着する我もまた縁起しており、
 そのままでは、また輪廻を続けることになるから、
 我を含めた相対的な存在には執着しないように修行をするのです。

> しかし、何か誤解が存在すると思われますから、
たしかに、どこかに、ちょっとして誤解がありそうですね。


211 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 20:20:13 ID:2KafzQpR

第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、
第二の矢は、主観的に存在する。

客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。


212 :名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 20:42:17 ID:hmNKFDcw
客観的に存在するものなど、存在しない。

213 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
>>211
>第一の矢も、第二の矢も、

これは何のこと?

214 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:53:15 ID:Vtn4d/3n
>客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。

で、一切の認識行為を介さずに、「客観的に存在する」と出来るのですか?

ところで、懐疑論や自己矛盾言動を繰り返して平然としていると、
あ○み氏の同類ということに成りますが、それで宜しいですか?

215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
>>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
あるからでしょう。そのあるものは、既にそれと相対的なある物を「必然」として
生じているのであるといわなければならないのです。ですから、相対的に存在している一方を
実体として存在していると妄想しているのです。何か有るものがあると妄想しないならば、それに「必然」
として付随する相対的存在を見ることは無いわけです。あるものを妄想し、それに伴って必然的に生じる
相対的存在が、連綿と無限に生じるのを「輪廻」するというのだといわなければならないと思うのです。
 何かあるものが有ると思う(妄想する)ことを、「執着」というのであると思うのです。
色があると思うこと、すなわち、色形があると思い、ある色形は良く、そうで無いものは悪いと考えることは、
色に執着しているのです。受があると思うこと、すなわち、ある感覚は快く他の感覚は悪い、と考えることは受に執着しているのです。
色んな光景を見ても、それに執着しないとは、そのある部分を珍重し、手に入れたい、そして、そこに家を建てたい、そして、
そして、こんな生活を実現したい、と思わないことであると思うのです。凡人には
困難なことでしょうでしょうけど。

216 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:38:33 ID:58zScJon
>>213 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
> >第一の矢も、第二の矢も、
>
> これは何のこと?

「第二の矢を受けず」でググレばいろいろ出てきます。

ttp://www.myoshin.com/story/sensin_ippannhouwa_015.htm

ttp://www.shinryuji.jp/daruma_req.htm
<−−
釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、花瓶に生けようとする。
これが第二の矢であります。
ここには私たちの執着があるのです。
−−>


217 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:39:23 ID:58zScJon
>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> >>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
> 「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
> 三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

えーと、
「人が空である」という意味で、
私は人は「縁起の存在」である
といって良いと考えているのですが、あなたは、違うのでしょうか?

人は空である。
人は縁起している。
人は縁起の存在である。

私は、同じ意味で使おうとしたのですが、あなたは、
「空」≠「縁起の存在」
と考えているのでしょうか?


218 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz
>>217
>「空」≠「縁起の存在」

この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?

219 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 15:32:30 ID:58zScJon
>>218 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz

> この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
> 無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
> 「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
> 無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?

「苦」は、縁起していて、諸行無常。
「空」=「涅槃」で、常住不変。

ということですか?

「空」=「涅槃」と考えたのには、根拠となる経典とかはあるのでしょうか?


220 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
>>219
ダンマパダ
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人──このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうこちなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥かせないように──そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人──そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲望を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。



221 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 17:32:10 ID:1F4fGVNG
>>220 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
> ダンマパダ
> 92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
>
> 93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

引用ありがとうございます。
なるほど。「空」を、私とあなたでは全く違う意味で使っていたことがわかりました。

>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

さて、そうすると、
私は

人=五蘊=縁起の存在=諸行無常

と、考えているのですが、
あなたは、

人=空=涅槃=常住不変

と考えているということでしょうか?


222 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 17:35:15 ID:Vtn4d/3n
>釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、
花瓶に生けようとする。 これが第二の矢であります。
>第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、第二の矢は、主観的に存在する。

これを以って自己矛盾していないとしたいというわけですか。
しかし「美しいものを“見て”美しいと“感じる”」のではありませんか?
「美しいもの」とは「見る」「感じる」ことを介在させずに可能でしょうか?

223 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
>>221
人=空=涅槃=常住不変
と考えているということでしょうか?

この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。


224 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:06:50 ID:XU5vQnFz
空とは何も無いと言うが、空の状態はすべてのものが満足の状態を言う。

225 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:16:51 ID:v6VVBuXe
時代や部派(或いは経典)ごとに
「空」や「人・我」の語義を、箇条書きでいいから整理してみたら?

まるで、北半球では「12月は冬だ」と言い
南半球では「12月は夏だ」と言い合っているようだ。
12月って何?

空って何?

226 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
ID:XU5vQnFzですが、先ほどラーメン屋から車を運転しバックで出る時、どう言うわけか、コンクリートの電柱にぶつかってしまった。
位置的にはぶつかりやすいところに電柱があるのですが、そして、入る時もそれを経験しているのですが、
損傷は大したことは無く、運転にも支障はない。プラのバンパーが20〜30センチ割れている。しかし衝撃はがツンとしたもので、慌ててバックのままアクセルを少し踏んでしまった。
これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
何もなかったことになるのだろうか?

227 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:58:04 ID:ihqD+b1c
そうですね

228 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 00:04:24 ID:J7W+TTV8
>>221
、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」なので以下のように言われるのである。
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

>>225
>空って何?
 
 一相無相の別名だ。求めるものがすべて自分に備わっているので満足するのである。すべては自分
である。自分自身であれる。自存者である。

229 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 05:56:03 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

私は、そうは思いません。
「縁起と空の論理」の前に、十悪の殺生に該当してしまうと考えます。


>>223 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
> この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
> 覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。

我(アートマン)については、どのようにお考えでしょうか?

ひょっとして
===
我=五蘊 と妄想することが、誤りであり、輪廻の原因である。

我=空=涅槃=梵=常住不変であり、

悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?


230 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 08:10:13 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

ん? ちょっと、待った。

> 縁起であるから、空である
って?

「人を轢いても縁起である」というのは、
いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きた
という意味ですよね。

それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?


231 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:03:07 ID:J7W+TTV8
梵我一如
>>229
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)
が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとさる。不二一元論ともいう。

>我=空=涅槃=梵=常住不変であり、
悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?

空が梵と同じものなら、当然そう言うことになるでしょう。
所が、頭書の解説の様に、支配する原理というと、それは仏教に言う「縁起の理法」
と言うべきです。私の今の理解では、縁起の理法はあくまでも世俗諦であり、勝議諦として「空」
の真理真実を説かれるべきなのに、それが無いのがおかしい、つまり、究極の真実をといていないのであると思われます。
パルメニデスは、これを解き明かしています、プラトンも後半パルメニデスに近づいて自分のイデア論に疑問を呈している
と言われています。

232 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
>>230
>「人を轢いても縁起である」というのは、いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きたという意味ですよね。
それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?

要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。実体が無いことを「空」と言います。
空であるので、無相:一相:といいます。つまり、この様の事故は無かったのであると言うことになるのです。
この空思想の故に、どんな人の罪も許されると言われるのです。但し、この空の真理を理解し信じるならばですが。
この真理を無視誹謗するものは決して許されない、と言うことにもなるのです。

233 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 13:19:55 ID:rrDbxvdm
>>232 :名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
> 要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
> 相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。
ここまでは同意です。

> 実体が無いことを「空」と言います。
私は、縁起したものには、「実体が無い」という性質があり、
その性質を「空」と呼ぶと考えていました。

したがって、

◎相対的に存在しているもの=縁起の存在
であると同時に
◎縁起の存在=空
でした。

あなたは、
---
縁起の存在には、実体が無い
実体が無いことを「空」という
しかし、
>>218
>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?


234 :名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 14:59:27 ID:J7W+TTV8
>>233
>>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?

○執着心により、存在が発生し、その存在は必然として無限に相対的存在を発生する。
これが縁起の存在(世界)である。これが空と何の関係もない世界であることは明らかだろう。
彼は原因を作って結果を求めている。それを繰り返している。善因を作ろうとしてその結果を求める。
 しかし縁起しているものには実体が有り得ないと観る者は、無作:無願となり、執着心を起こして
縁起の世界を造ろうとしない。彼は世界が空であることを知っているからである。
 人は縁起せるものには実体が有り得ないと言う真理を知るまでは、縁起せるものを実体あるものと追い求めていたのである。
したがって、縁起の世界≠空の世界である。


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