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○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○

1 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/07(木) 20:25:10 ID:uaqwYIDi
 質問箱(その2)を立てます。
 質問箱が600件に満たない内にその2を立てることは、心苦しいのですが、前スレの
No556にノートントラップが仕掛けられました。この直後、検索エンジン(google)
がリンクを外しました。
 googleは、渡海難の書き込みにしばしば多くのリンクを張ってくれている巨大な検索エ
ンジンです。ノートントラップが仕掛けられたから注意書きをして欲しいとメール送った
ところ、googleは質問箱へのリンクを解除してしまいました。

 ノートントラップが張られるというのは、2チャンネルでは良スレの代表ですが、検索
エンジンに検索されないと言うことは残念なことです。
 ノートントラップなどの不届きな仕掛けにノーを言うためにも、新たなスレを立てるこ
とにします。
 前スレhttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/

 なお、前スレはノートントラップが仕掛けられれいます。アンチウィルスであるノート
ンの高度性を逆手に取った子供だましの悪戯です。ノートンだけが敏感に反応し、ウィル
ス検出という表示が出ます。
 対応ソフトがあります。http://ansitu.xrea.jp/guidance/?Trap#NortonTrap
 必要があれば使ってみてください。

2 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/07(木) 20:26:30 ID:uaqwYIDi
 親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
 親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからでき
るだけ分かりやすく、試行的に答えてみたいと思います。
 渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立
場から答えさせていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、谷派の坊さんも
常駐しています。教派的な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂ける
と思います。
 なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、
私宛の質問は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
 宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関す
る質問に限定したいと思います。

 地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽
浄土には、どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというの
は、本当か。死んだら極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏
になるのか。お釈迦様の悟りって何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら
称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏し
ら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。極楽って何?。地獄って何?。
阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄土に行きたいとも思
わないんだが、それじゃいかんのかね?。

 今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思いま
す。本派、谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。

3 :☆⌒゚( ´∀`)゚⌒☆ ◆72BsBsfcPc :2006/09/07(木) 20:26:42 ID:AjL+2psQ

           ,. -' ´ ̄ ̄ `¨ ¬ー- .._
           {  ,. -' ´ ̄ ̄ ` ¨ ー- .._ ``ヽ、_
           ヽ ヽ            ``ヽ 、  ヽ、_
             \ ヽ、             `ヽ、_ \
              `ヽ 、 ー 、. -──-  、_     \. ヽ、
                 , '´         `  、   )  }
             ___,/               \二 - '′ 
          , '´ /     / / / i           >─-
         /   /    / /l ,ハ. ト、     i   ! {     \
☆゚+.      /_/  /     l / l ! l l_,.⊥L.._ l   l i!      ヽ
       /イ/   ,ll  l  ,ィT厂lト ,ィ' l _ヽト トi`ト  ! |ト.     い.
       /   ,イム  l  l lL=、!  ヽ! ,ィテ=l、 l  li |l iヽ  ヽ   い
       { / /廴 V l〈 トッ:l     トッ::l 〉 j jヽ ll ハ  l  ト
   r‐、   ,.イ / /,1 \lへ 辷j     辷ソj / リ ノハヽj ハ l   lノ
   ヽ `< _V´   {i |   ilヘl '''' '__,  ''' // /イ/ ハVノ }ハ  /
     >、 ヽ! \   l! |i  l  lヽ、  ヽ_,ノ   ,// / ,/l l/l 「¨’´ V
   //-ゝ ヽ、. ヽ.  ,イl l |ヽ,ハ l>r-r‐_'´// /{/_从ハい
  // j_ _ `ヽ }   }V lトl L-==rこ7 /V「ィ/7 /'´ ̄`ヽ
. // 〈  ヽ  ) / }  い |_,/ _/.>クィ´ /l /  /   マ_
. //  { ー- ,) '´  l   /ハ.l_> _//ハヽ. //li , '      |
//  liヽ‐ァ'´     l  |_l レ'_/∠///ヽ_,/ j       |
! l  ,ル'´       l / ,ゝ'' 〃 //   /  ,1      ヽ. | 

4 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/07(木) 20:28:19 ID:uaqwYIDi
 前スレ447
>真宗の相対的優位性はどこにあるのだろうか。私にはわからない。

 ここからは、以下、キリスト教の教義と真宗の教義の比較をしてみよう。

5 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 01:04:13 ID:BvJsWvCM
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

6 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 01:08:14 ID:BvJsWvCM
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者

7 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 01:09:42 ID:BvJsWvCM
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む)
・会費 4000円
・HP  http://blog.goo.ne.jp/tkatasi/ ←閉鎖
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」http://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」http://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」http://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」http://life.2ch.net/psy/kako/1000/10001/1000165825.html
「親鸞仏教論 W」http://life.2ch.net/psy/kako/1012/10129/1012997700.html
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。

8 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 01:10:39 ID:BvJsWvCM
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

9 :南無大師遍照金剛:2006/09/08(金) 19:29:02 ID:OoqifQj5
ヽ(´∇`)ノ嵐にきたにょん♪

10 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/08(金) 20:20:07 ID:Rht2EWX5
>>9
ようこそ。目下多忙。しばらくしたら>>4の続きを書きます。
それまで、しばらく失礼。

11 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 22:15:39 ID:3SIqV43O
重複ですのでこちらで

□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/


12 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/10(日) 10:18:45 ID:DkggfimL
>真宗の相対的優位性はどこにあるのだろうか。私にはわからない。

 優位性はどこにあるかという設定は少し変更させて貰おう。優劣をつける論評ができるほどの能力は
僕にはない。ただ、僕は親鸞が好きで親鸞に学んできた。僕はキリスト教でなく、親鸞に惹かれる。な
ぜキリスト教に惹かれないのか。なぜ親鸞に惹かれるのか。僕は、惹かれるか惹かれないかという観点
で、教義を思想レベルで比較してみたい。

 阿弥陀仏とは何か。
 無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。形ましますと示す
時には、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き習いて候う。
弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり。(末燈鈔)

 真実の仏というのは、形がない。実体はない。実体はないから、まさにあるがままのままということ
になる。真実の仏を、形があるという表現で説明するときがある。形があるという表現で説明するとき
は、迷いが消滅した状態とは言わない。阿弥陀仏は、経典では始めがあり、終わりもあるように書いて
ある。始めがあり、終わりもあれば、それは生老病死の中であり、迷いが消滅した状態ではない。本当
は真実の仏ではない。
 迷いが消滅した状態とはどういうことか、実体がなくあるがままとはどういうことか、この様子を人
々に明らかにするにはどうすればいいか。阿弥陀仏というのは、その説明のために、必要があって先人
が創作した架空の仏である。始めて阿弥陀仏というものを教わったとき、そのように私は説明を受けた。
阿弥陀仏というのは、あるがままのそのままを教えるための資料である。手段である。

 のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて写させら
れて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥陀仏を
誉め給う徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ候なり(聞書き)。

13 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/10(日) 10:22:19 ID:DkggfimL
 蓮如上人は次のように言われた。浄土真宗では本尊として「南無阿弥陀仏」と文字に書いて壁に掛け
る。「南無阿弥陀仏」と書くのは、親鸞聖人を敬慕する流派だけの考えである。その他の流派では、「阿
弥陀仏」「釈迦無尼如来」などと書くが、そこに「南無」がつかない。そのようにいいながら、金泥を使
って「南無阿弥陀仏」という文字をお書きになり、お座敷の壁に掛けられた。さらに次のように仰った。
阿弥陀仏というのは、もともとインドの言葉だ。中国では不可思議光仏、無碍光仏などと言う。不可思
議光仏、無碍光仏という言葉の意味をよく考えると、これは南無阿弥陀仏は素晴らしいぞと、賞讃して
いる言葉である。阿弥陀仏というのは、「南無阿弥陀仏」は素晴らしいぞと賞讃している言葉なんだ。
 善導大師がなぜ偉かったのか。それは、「南無阿弥陀仏」は素晴らしいぞと教えてくれたから偉かった
のだ。曇鸞大師がなぜ偉かったか。それは、「南無阿弥陀仏」は素晴らしいぞと教えてくれたから偉かっ
たのだ。法然上人がなぜ偉かったのか。それは、「南無阿弥陀仏」は素晴らしいぞと教えてくれたから偉
かったのだ。
 阿弥陀仏というのは、あるがままのそのままを教えるための資料である。手段である。だから、阿弥
陀仏は大事なのだが、それ以上にもっと大事なのが「南無阿弥陀仏」である。だからこそ、浄土真宗で
は本尊として「南無阿弥陀仏」と文字に書いて壁に掛けるのだ。

14 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/10(日) 10:23:47 ID:DkggfimL
 キリスト教の神とは何か。ルカ伝は言う。
 イエスの、教(おしへ)を宣べ始め給ひしは、年おほよそ三十の時なりき。人にはヨセフの子と思は
れ給へり。ヨセフの父はヘリ、その先はマタテ、レビ、 〜(この間69代)〜 エノス、セツ、アダ
ムに至る。アダムは神の子なり(ルカ伝3−25〜38)。
 神とは何か。神という者をこれほど分かりやすく書いてある記述を外に知らない。要するに、神とは
アダムの両親であるということだ。
 アダムはユダヤ氏族の共通の先祖であり、神とは単にアダムを産んだ両親のことに過ぎない。天照大
神がいなければ、大和民族は存在しない。我々が存在するのは天照大神のお陰。そう思って大和民族が
天照大神を神として祀るのは、大和民族の勝手だろう。ゲルマン民族やスラブ民族の人には関係のない
話だ。ユダヤ民族が自分たち氏族の共通の先祖であるアダムのさらにその両親を神と仰ぐのはユダヤ民
族にとっては勝手だが、アダムの両親を、万物の創造主として我々が仰ぐのはおかしな話だろう。

 親鸞の浄土真宗には嘘はない。少なくとも僕に伝わってきた浄土真宗には、今のところ嘘がないよう
だ。ごまかしはないと思っている。しかし、聖書には明確に書いてあることが、現代のキリスト教神学
にはごまかしがあると思うのは僕だけだろうか。   (続く)

15 :名無しさん@3周年:2006/09/10(日) 14:00:33 ID:zkbX4p6O
二尊教という信仰形態を説明しないと
阿弥陀仏の手段を丁寧に説明することにならないと思うのですが・・・・
それがキリスト教との形式的な違いに成ってるのもありますし。
あとキリスト教を誹謗するのは貴方の人格をおとしめるし、
親鸞聖人は直接的に他宗を誹謗することはしなかったような・・・
キリスト教と言ってもほとんどが弟子の言葉。
それは貴方が嘆異抄を微妙に間違ってると言うようなもん。
師匠の言葉を間違って覚えている可能性もあるのではないでしょうか?
だからといって弟子の志まで違うとはいえない。
宗祖が論文を残しているのはでかいね。

16 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/10(日) 15:43:43 ID:DEzJ6Boi
>阿弥陀仏の手段を丁寧に説明することにならないと思うのですが・・・・
 それは貴方が行いなさい。僕の主張とは関係がない。

>それがキリスト教との形式的な違いに成ってるのもありますし。
 僕は、どこの誰とも知らない貴方の代理人になって、貴方の理論を代筆して
いるのではありません。
 貴方の意見は、貴方が書けばいいのであり、それが掲示板です。

>親鸞聖人は直接的に他宗を誹謗することはしなかったような・・・

   僕が誹謗?。心当たりがない。
   僕は何も誹謗などはしてないが、親鸞聖人のコピーでもなければ、マネキンでもない。
 
>貴方が嘆異抄を微妙に間違ってると言うようなもん。
  議論の誘導?。貴方の誘導に乗るつもりはない。

>だからといって弟子の志まで違うとはいえない。
  意味不明。

>宗祖が論文を残しているのはでかいね。
  意味不明。

17 : ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2006/09/10(日) 15:57:02 ID:SPubaJdW
    / ̄ ̄ ̄ ̄\   
   (  人____)
   |./  ー◎-◎-) 
   (6     (_ _) )    カタカタカタ
   | .∴ ノ  3 ノ  ______
    ゝ       ノ  .|  | ̄ ̄\ \
   /       \__|  |    | ̄ ̄|
  /  \___      |  |    |__|
  | \      |つ    |__|__/ /
  /     ̄ ̄  | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
 |       | ̄

18 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 10:16:06 ID:K9VZQI9x
 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を
取らじ。   <十七願>
 仮に自分は、小乗仏教を修了して辟支仏となったとき、世界中の賢人・哲人達が、私の名を賞讃して
くれるときが来るまでは、自分は大乗の覚りを得たと思わないようにしよう。
 阿弥陀仏は、世界中の賢人・哲人達が「我が名」を称(たた)えると言う。

たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。も
し生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。<十八願>
 仮に自分は、小乗仏教を修了して辟支仏となったとき、人々が心至・信楽して極楽浄土に生まれよう
と思って、その思いが十回にも及べば、もうそれだけで往生させよう。往生にはそれだけで不十分だっ
たら、それまでは自分は大乗の覚りを得たと思わないようにしよう。
 阿弥陀仏は、念仏を称えることを薦める。

 あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、
悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。
 五逆・十悪などの不善を行う者は、行った不善の報いを受けて悪の道に転落する。

 多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。
 こうした人々は、様々な遍歴を経過しながら、限りない様々な苦しみを受ける。

 かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念
仏せしむるに遇わん。
 このような人々でも、環境が大きく変わりそうになる時がくる。今までやっていたことが、どうにもで
きなくなってくることがある。やりたくてもできそうもなくなる。身動きが取れなくなりそうになって
くる。そんな人でも、色々親切に大事なこと、本当のことを教えてくれる人が出現する。そんな人が、
例えば「仏像・仏画などに描かれている仏の姿を、瞑想しながら心にイメージする観想の念仏をしてみ
なさい」と教えてくれる。

 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。
 ところが、身動きができなくなった悪人は、迫ってくる苦しみで観想の念仏などできる心の余裕がない。

19 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 10:19:55 ID:K9VZQI9x
 善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと。
 友は言う。観想の念仏ができないなら、「無量寿仏」と口に出して言ってみなさいと教える。

 かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。
 悪人は、必死になり、夢中になり十回以上「南無阿弥陀仏」という言葉を繰り返す。「阿弥陀仏」と
は、梵語で無量寿仏という意味である。

 仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。
 悪人は、仏の名を称えたことで、各一念一念の念仏毎に八十億劫という非常に長い間の様々な迷いが
晴れていく。

 命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち
極楽世界に往生することを得ん。
 いよいよ、これまでの環境が集結に至り、もうこれ以上悪事をしたくても不可能になったとき、光輝
く蓮華の姿を見る。蓮華の上には誰がいるのか、余りにもまぶしくてはっきりしないが、自分はその人
の前にいることに気づく。その瞬間、多くの人々が学びあっている極楽世界に往き生まれるだろう。
                         <以上、観無量寿経>


 もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二
日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、
命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。
 阿弥陀仏の話を聞き、阿弥陀仏の名をしっかり保持し、一日、二日、三日、あるいは、まあ例えば七
日くらい、一心不乱に称え続けてみるといい。善男善女であれば、環境が激変し、いままでの継続が不
可能になったとき、阿弥陀仏が多くの仲間達と一緒に現れてくれるだろう。

 この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。
 一心不乱に阿弥陀仏の名を称えた人は、いよいよ環境が激変したとき、多くの人々が学びあっている
極楽世界に、心動転することなく、往き生まれるだろう。
                         <以上、阿弥陀経>

20 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 10:22:54 ID:K9VZQI9x
 世界中の賢人・哲人達が「我が名を」称(たた)えていると阿弥陀仏はいう。だからこそ、観無量寿
経の善友は「無量寿仏」と称(とな)えよと教える。阿弥陀経の釈迦は名号(阿弥陀仏)を執持せよと
教える。
 名を称(とな)えよ。名号を執持せよと教えられても、浄土教の先人達は、「無量寿仏、無量寿仏、
・・」とは称えて来なかった。「阿弥陀仏、阿弥陀仏、・・」とも称えてこなかった。「南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏、・・」と言うふうに、「南無」という言葉を付けて称えてきた。南無とは感嘆詞である。
「ああ」という意味である。南無を付けること、ああを付けることを称名念仏では作法とし、南無阿弥
陀仏と称えてきた。先人達は、ああという感嘆詞を付けることにも様々な意味付けをしてきた。

 父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏すべしと   <信の巻>

 念仏は、普通は座禅して行う。普通の人は座禅して行う。自分は座禅は嫌いだという特別な人は別に
して、へそ曲がりでない限り、座禅して行うのが常識だ。
 行住座臥、不問時節久近。念仏は動きながら称えてもいい。止まっているときにとなえてもいい。座
っているときでも、寝ているときでもいい。称える時は選ばない。長い時間でも、短い時間でもいい。
駄目とは決して言わない。
 名を称えよと言われても、念仏は「南無」を付けるのが作法である。名を称えよと言われたから、わ
しゃ「阿弥陀仏」と称えるんじゃ。「南無」を付けてはいかんのじゃという人はいない。「南無」を付
けるのは嫌いじゃ、という人も少ない。同じ話だ。阿弥陀仏は、いつ称えても、どのような姿勢で称え
てもいいと言う。しかし、お釈迦様は、少なくとも自分の父親には座禅して称えたらどうですかと教え
ている。世の中に、座禅して称えるのは嫌じゃという人はあまりいない。座禅する余裕があれば、余裕
の中で座禅して称える。わしゃ悪人じゃから、座禅する余裕はないんじゃよというへそ曲がりは、少な
い。そんなへそ曲がりは、まあ、本願寺の外道の坊様くらいなものだろう。

21 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 10:23:57 ID:K9VZQI9x
 座禅しないで念仏を称えたらどうなるか。まあ、それは保証の限りではない。少なくとも、座禅して
念仏を称えると、次のような効果がある。<座禅しないで称えた場合の効果についての言及ではないこ
とは認識すべきだろう>

 一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五
つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つに
は常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。<信の巻>
 陰日向で様々な人々の助けを受ける。最高の徳が備わる。悪が善に転換する。様々な哲人・賢人達に
守られる。様々な哲人・賢人達に賞讃される。大悲つまり楽を与えていく行為が実践されていく。仏に
成る人々の仲間に加わる。 

 阿弥陀仏は結論として、南無阿弥陀仏を賞讃し、座禅して南無阿弥陀仏を称えよと教えてくれている。だから、阿弥陀仏は尊い。


 キリスト教の神はなぜ尊いのか。それは万物の創造主だからである。キリスト教の神はどのようにし
て万物を創造したか。次はこれを考えていこう。           <続く>

22 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 10:39:16 ID:K9VZQI9x
>>18
誤 人々が心至
正 人々が至心

>>19
誤 環境が集結に至り
正 環境が終結に至り

>>21
 誤
 様々な哲人・賢人達に賞讃される。大悲つまり楽を与えていく行為が実践されていく。

 正
 様々な哲人・賢人達に賞讃される。心は常に光に守られる。心には常に歓喜の思いが湧いてくる。先人の恩が報いようとする思いが湧いてくる。大悲つまり楽を与えていく行為が実践されていく。
 脳に大量に酸素が供給され、脳が活性化し、直感力が高まる。

23 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 11:18:46 ID:K9VZQI9x
No18〜22を整理する。言い方を逆転させると分かりやすい。

 阿弥陀仏は大切。なぜ大切なのか。それは南無阿弥陀仏は大事だぞと教えてくれている
資料だから阿弥陀仏は大切なのだ(蓮如)。
 阿弥陀仏は念仏を称えよと教えてくれている資料である。
 南無阿弥陀仏は座禅して称える。座禅して称えると、脳に大量に酸素が行き渡る。脳が
活性化する。直感力が高まる。活性化し、直感力が高まると、これまで見えなかったこと
が見えてくる。分からなかったことが分かってくる。自ずから十種の益(信の巻)を得る。
 進退窮まったときでも人は活路が見える。危機を脱出する道が開ける可能性が広がる。
人生の危機管理が可能になる。危機管理が充足されれば、平常生活において、構造の幅が
広がる。
 だから阿弥陀仏は大切なのだ。

24 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 19:31:16 ID:K9VZQI9x
 ちょっと。脱線します
 外のスレで、渡海難は坊さんなんじゃないかと書かれています。坊さんではありません。坊さんではあり
ませんから、本願寺などとは違った考え方をしています。
 どういうところが本願寺などとは違った考え方なのか、そこを明らかにします。
 違いはたくさんあります。一番大事だと思うところを一つだけ書きます。

 教行信証 行の巻
 浄土五会念仏略法事儀讃に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。終に実相に帰せし
めんとなり。 〜  如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて、父の王に謂いて曰わく、王いま座
禅してただ当に念仏すべしと。

 五会法事儀讃略抄(専修寺蔵)、親鸞の肉筆文は言います。
 それ如来、教を設け下(たま)うに広略根に随(したが)ふ。終(つい)に実相に帰せしめむとなり。真
の無生を得む者には、熟(たれ)か能(よ)く此(これ)を与えむ哉(や)。然(しかる)に念仏三昧は、
是(これ)真の無上深妙の禅門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって仏を為(な)して願力を 事(こ
と)にして衆生を度したまふ。 〜 如来常に三昧海の中に於(お)いて、網綿(もうめん)の 手を挙げ
て、父の王に謂いて曰わく、王今座禅してただ当に念仏すべしと。あに離念に同じて無念を求めんや。生を
離れて無生を求めんや。 〜 如来禅と名づく、二乗外道等の禅に非ず、信(まこと)に知る可し。

25 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 19:32:32 ID:K9VZQI9x
 http://www2.big.or.jp/~yba/index.html 
 浄土真宗やっとかめ通信(大谷派) 東海教区仏教青年連盟
 信あって解なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本となる」
と経にある通り、信心と学びは車の両輪。ともに法を信受し、如来の真実義を領解させていただきましょう。


http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/01_06_20.html
 仏教青年 Q&A
 浄土真宗では座禅を禁止しているのでしょうか?
 ― 宗教の中心軸をどこに置くか ―

 単に心を落ち着かせるだけの目的で座禅などしたら、かえって中途半端な境涯に閉じこもることになり、
修行したことを誇るようなむさ苦しい人間が出来上がります。これも実際、多くの修行脱落者の暴挙が伝え
られていますし、現代でも危険な偽宗教者は枚挙にいとまがありません。
 宗教では「生悟り」が1番危険です。それを避けるためには信頼のおける師匠が必要になります。同じよ
うに念仏の道でも善知識は欠かせません。正しい導きと多くの出会いが道を示すのです。
 座禅などしたら、むさ苦しい人間が出来上がります。現代でも危険な偽宗教者は枚挙にいとまがありません。
 大谷派に言わせると、親鸞聖人は現代でも危険な偽宗教者なんでしょう。

26 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 19:34:47 ID:K9VZQI9x
 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/03_09_21.html
 仏・菩薩の必要性
― 大乗仏教の本質として ―
意訳
『五会法事讃』にいわれている。
「そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。
それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教
えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の
名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。(中略)さて、如来は常に三昧の中に
あって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏す
べきであります。念を離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいこ
とが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。・・・」

 座禅という言葉が「静かに座」してという言葉に変わっている。
 親鸞は、実相に帰するために座禅をしようと言っているのではないのか。親鸞は、念仏三昧が、是真の無
上深妙の禅門であると言い、如来禅だという。
 座禅という言葉を聞くと、生悟りという言葉が出てくる。生悟りは危険だから、教行信証を書き直しまし
ょう、座禅はしないで、静かに座しましょうというわけだ。
 これは外道カルトの教義なんじゃないか?

註 如来禅 菩提達磨のもたらした禅は部派仏教における禅とは異なる大乗の禅であり、如来禅、如来清浄
禅等と称する。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AF%BA)

27 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/12(火) 19:36:12 ID:K9VZQI9x
 http://www.ji-n.net/
 大谷派東京教区のホームページを紹介しよう。

 http://www.ji-n.net/topics/cult-01.html
 カルト問題とは

 そうした集団(カルト)の問題の本質は、教義の問題にあるのではなく、その集団の実態と、そこに
起こっている被害の内容にあるのです。教義をいくら批判しあげつらっても、多くの場合、水掛け論に
終始することになります。

 大谷派の教義は、カルト宗教の教義と変わりがないと言うことだ。

 宗祖の心を知らない山猿坊主がサル知恵で教行信証を改竄するのは勝手だが、大谷派には真宗を名乗
って欲しくないものだ。外道の大谷派の主張とは、相容れないのが渡海難の主張。大谷派も本願寺派も、
所詮親鸞会と同じ穴の狢。その教義はカルトそのままということだろう。

 外道の大谷派の主張の前では、親鸞肉筆の五会法事儀讃略抄などは、か弱く聞こえる。五会法事儀讃
略抄が言う「終に実相に帰せしめむとなり」とは、十種の益(信の巻)を現実化するということだと考
える。静かに座しているだけで十種の益が現実化するとは思えない。「真の無上深妙の禅門」は、座禅
して念仏するということだ。

28 :名無しさん@3周年:2006/09/12(火) 19:43:54 ID:21Xvt55e
座禅というより「常行三昧の念仏」では?
やっぱり若き日のお山での体験が基礎なんでしょう。

29 :名無しさん@3周年:2006/09/12(火) 19:57:35 ID:DF05kTtT
>>28
渡海難はキチガイなので相手にしないように

30 :名無しさん@3周年:2006/09/12(火) 22:07:26 ID:HE/80kUT
大谷派のスレを無視して本願寺派のスレだけ粘着する渡海 難さんこんにちは

>>24

> 坊さんではありません。坊さんではありませんから、
> 本願寺などとは違った考え方をしています。

別に本願寺派の坊主が「違った考え方」をしてもかまわんだろ。
処分があるかどうかは別問題だしな。

>>25

> 浄土真宗やっとかめ通信(大谷派) 東海教区仏教青年連盟

わざと間違わなくてもいいのに。


31 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/13(水) 20:21:01 ID:qvswzeeW
>>28
>座禅というより「常行三昧の念仏」では?

 「座禅」では、まずいのか?。親鸞が言っている座禅ではまずいなら、まず親鸞を十分に批判しなさい
よ。先に親鸞が間違っているというところ示すべきだ。念仏は座禅して行うものじゃないのか?
 
 座禅して念仏せよ。座禅してというのが、念仏するときの作法なんだ。作法など守る必要はないとい
うのは自由だが、作法には作法でそれぞれ意味がある。
 絵画は額がなくてもいいが、絵画には額を付けるのが作法なんだ。作法を守るということはそれはそ
れなりに意味がある。座禅するというのは、「実相に帰せしめ」ようとする意味がある。空手形、絵に
描いた餅ではなく、十種の益の実現を意図するものだ。
 称名念仏は、無上深妙の禅門であり、達磨大師にも通じる如来禅である。親鸞の考は間違っているの
か?。僕の親鸞理解は間違っているか?。

 まあ、好きなら常行三昧もいいし、静座念仏でもすればいい。でも、教行信証を改竄するような大谷
派には浄土真宗を名乗って欲しくない。
 親鸞がおかしいというのなら、大谷派は教行信証をもっとしっかり批判し、親鸞をしっかり克服し、
決別する。世の中で、学ぶ相手は、親鸞だけではないだろう。

32 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/13(水) 20:21:53 ID:qvswzeeW
>やっぱり若き日のお山での体験が基礎なんでしょう。

  これは親鸞にとってはきつーい一言だろうね。
 「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」。親鸞は山の体験を捨てたつも
りでいたんだ。「親鸞さん、貴方は若き日のお山での体験が基礎なんでしょう」と言えば、顔を赤らめ
て、苦い顔をするかもね。
 自分の背中は見えないものだ。「お前の背中にはお山での体験が残っているよ」と言えば、自分じゃ
見えない背中に苦笑いするだろう。親鸞本人には、肯定も否定もできないだろうからね。
 ただ、僕(渡海難)には、親鸞の背中に棄てたはずの山の体験を引きずっているようには見えないよ。

>>30
>本願寺派のスレだけ粘着する渡海 難さんこんにちは        何?(゜〜゜)ヾ

>本願寺派の坊主が「違った考え方」をしてもかまわんだろ。      うん!(^^)

>処分があるかどうかは別問題だしな。

 処分?。何か処分でもあるのか?
 「間違った考え方」をしてもいても処分はいらんだろう。ただ、間違いを正して貰って本当のことを
教えて貰ったら、一言 「ありがとう」と、2茶でも言えるようにしてほしいと思う。
 家庭教師でもない僕が回答してやって、「ありがとう」と礼を言ってくるのは、百人か二百人に一人、
黙ってしまうのが大半、逆上してますます怒ってくる奴がいる。世の中で坊主ほどしつけの悪い人種は
ない。

 教行信証を改竄してインターネットに陳列するということは、宗教的に見れば大便と肛門の陳列より
悪質だ。自分の肛門とそこから出てくる大便をデジタルカメラで写し、教行信証議論の中でインターネ
ットでさらした阿呆坊主がいたが、教行信証を改竄して陳列する行為は同じ類だ。もっと悪質と言うべ
きだろう。ノータリントラップも同じだが、真宗坊主の阿呆には事欠くことがない。

>わざと間違わなくてもいいのに。   ??

33 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/13(水) 20:34:48 ID:qvswzeeW
>>23
 誤 構造の幅
 正 行動の幅

34 :南無大師遍照金剛:2006/09/13(水) 21:09:45 ID:XTEJlgLJ
ヽ(´∇`)ノ嵐にきたにょん♪

座禅って思考を停止させたり一つの事だけ集中して考えることなんでないの?
念仏唱える座禅ってトランス瞑想でないの?


35 :南無大師遍照金剛:2006/09/13(水) 21:11:08 ID:XTEJlgLJ
ヽ(´∇`)ノ念仏唱える座禅が瞑想なら本来の座禅とは全然違うね

36 :名無しさん@3周年:2006/09/13(水) 21:22:29 ID:oS1dPKgt
>>34
俺もそう思った。
体に起こる身体的生理現象を教えの中心に据えるのはオウムと同じなんだよね。
それに>>23は南無阿弥陀仏じゃなくても起こる現象という疑問が残る。


37 :南無大師遍照金剛:2006/09/13(水) 21:26:52 ID:XTEJlgLJ
>>23はトランス瞑想だね
座禅とは違うね
ヽ(´∇`)ノ

38 :南無大師遍照金剛:2006/09/13(水) 21:27:52 ID:XTEJlgLJ
ヽ(´∇`)ノ
もっと言えば
ナミョホレゲッキョでも同じだね♪

39 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/14(木) 09:29:47 ID:tFaRTJuB
>>34
>座禅って思考を停止させたり一つの事だけ集中して考えることなんでないの?

 思考が停止すれば停止させればいい。思考が停止しないなら停止しないでもいいだろう。一つの事
に集中していけば集中させればいい。しないならしないでもいいだろう。
 僕の場合は、停止するときもある。しないときもある。一つの事に集中していくこともある。集中し
ないこともあるよ。自由にやっているよ。

>念仏唱える座禅ってトランス瞑想でないの?   コメント不能。僕はトランス瞑想を知らない。

>>35
>念仏唱える座禅が瞑想なら本来の座禅とは全然違うね
 まあ、座禅という言葉に文句があるなら、法照禅師か親鸞さんに言ってくれ。
 僕はコメント不能だ。法照禅師の言葉を親鸞が書き写して関東の弟子に伝えている。

 念仏は声声に仏種を下す
    念仏というのは、一声一声の中に、仏になる因をもたらしてくる
 坐禅持戒は真功を用てなり
    坐禅・持戒は真の効果をもたらす。
 汝若し修せずして作仏すといはば
    坐禅持戒なく、作仏の因の念仏だけで仏になると言うなら、
 喩へば飢け人の空く風を掩(おほふ)がごとし
    たとえば、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ
       掩−おおいかくすこと。 腹の中に納めようとすること

 持戒・座禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり (行の巻)
 念仏は座禅して行え。
 薬あればとて、毒を好むべからず。
 受戒は無くても、実質的には仏教の戒が善悪判断の目安になる(非僧非俗)。
 座禅がなく、仏教の戒を軽視する人は、念仏を称えて形ばかり仏になっても真功(十種の益)はない。

40 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/14(木) 09:32:13 ID:tFaRTJuB
>>36
>オウムと同じなんだよね。
 議論の筋をそっちの方に持って行きたいのか。その手には乗らんよ(笑)。

>疑問が残る。
  結構な話だ。大いに疑問を持つといい。疑問が無いと発展しない。

>>37   コメント不能

>>38
>ナミョホレゲッキョでも同じだね
善知識の、ために大乗十二部経の首題の名字を讃むるに遇わん。かくのごときの諸経の名を聞くをも
ってのゆえに、千劫の極重の悪業を除却す。 (観無量寿経 下品上生)

 経典の題名を唱えるというのは、浄土教が起源だ。仏の名を称えるという称名念仏から分派した考え
だろう。

41 : ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2006/09/14(木) 09:34:07 ID:bAnBVSFq
  , v、ヘM 'リ"ノンミ/ソMv、
   ソVvミヘ/Wv彡vV/ ミ∠ミ::
  ミミ         _   ミ:::
  ミ    二__, --、r'"___、 ヾ ト、::ヽ
  ミレ'"~,-,、 !  ! ' '" ̄ .ノ \ヾ:、
  K/ー'~^~_/  ヽミ:ー‐‐'"   ヽ i.
 !〉 ー―'"( o ⊂! ' ヽ       Y_
 i     ,.:::二二ニ:::.、.       l i   
 .!     :r'エ┴┴'ーダ       !Kl      
 .i、  .   ヾ=、__./        ト= 
  ヽ. :、   ゙ -―-    ,;    ,! 
  \.  :.         .:    ノ
   ヽ  ヽ  .  . .  .  .  .イ
.    `i、  、::..     ...:::ノ ,

42 :ふーーーーーん、、:2006/09/14(木) 11:25:44 ID:RzVQyszz
渡海 難  ◆Fe19/y1.mI どの、ちと、騒ぎすぎじゃないかえ、、
他スレのコピペは、馬鹿に見えるぜ、、
考えは理解できるが、、
他人と論争、、それ以上に、他スレのコピペは、教祖にでもなりたくて、、
アポーーーんしたように、見える、、
自前のスレだけにしときや、、

43 :南無大師遍照金剛:2006/09/14(木) 11:57:01 ID:ZG2D/IP6
ヽ(´∇`)ノ
親鸞さんだけからの視点だけの議論じゃなく
他の考え方も取り入れたほいんじゃね?
親鸞こそ最高だろってより
どうだ親鸞さんだって凄いだろ♪って考えかたの方が受け入れやすいんじゃね?


44 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/14(木) 13:55:34 ID:tFaRTJuB
>>42
>騒ぎすぎじゃないかえ、、他スレのコピペは、馬鹿に見えるぜ、、
  心当たりなし。
>>43
>他の考え方も取り入れたほい
  対応不可能。仏教はアマチュア。
  他の人に相談してくれ。



45 :ふーーーーん、、、、:2006/09/15(金) 10:51:21 ID:1vl/rMHI
やっぱり、相当、カルト的傾向があるね、、このひと、、渡海 難
キリスト教、福音派原理主義チックなところが、、

46 :名無しさん@3周年:2006/09/15(金) 11:11:51 ID:f7t3APxj
モノに成りきるというこはどういうことでしょうか?

47 :名無しさん@3周年:2006/09/15(金) 15:03:08 ID:vhKiuMfC
機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減ってどんなもん?

48 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 10:38:59 ID:eDb+WMjh
>>21
 キリスト教の神はなぜ尊いのか。キリスト教の神はどのようにして万物を創造したか。聖書の記述を
見てみよう。

 時代は紀元前三千年か四千年ころ。メソポタミア、あるいはアラビヤ半島の一角などを想定している。
一人の男の子が生まれた。名をアダムという。アダムは空想上の存在ではなく、歴史上実在の人物と考
える。アダムには当然、そのパパとママがいた。パパの名を神、ママの名を精霊という。

 元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり 地は定形(かたち)なく曠空(むなし)く黒暗
淵(やみわだ)の面(おもて)にあり神の霊水の面を覆たりき 
 アダムが誕生したとき、パパは産湯に入っているアダムを水の上からのぞき込んだ

 神光あれと言たまひければ光ありき
 目を開いてごらん。パパはアダムにやさしくそう呼びかけた。アダムは生まれて始めて目を開いた。
目にはまぶしいばかりの光が入ってきた。

 神光を善と観たまへり神光と暗を分ちたまへり神光を昼と名づけ暗を夜と名けたまへり 夕あり朝あ
りき是首(はじめ)の日なり
 アダムは始めて目を開いた日、やがて日没となり、夜となった。アダムはこの日、昼間と夜とを体験
した。

 神言たまひけるは水の中に穹蒼(おおぞら)を作りて穹蒼の下の水と穹蒼の上の水とを判ちたまへり
即ち斯くなりぬ 神穹蒼を天と名けたまへり夕あり朝ありき是二日なり。
 時間上の1単位が過ぎ、時間上で2単位目に入った。アダムは二本の足で立つことを覚えた。それま
で這ってばかりいたが、立ち上がった。這ってばかりいたときには分からなかったが、立ち上がったと
き始めて上下というのがあることを体験した。水は下に集まり、上には空という別の水があることを
知った。

49 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 10:41:11 ID:eDb+WMjh
 神言たまひけるは天の下の水は一処に集りて乾ける土(つち)顕(あらはる)べしと 即ち斯なりぬ
 神乾(かわ)ける土を地と名け水の集合れるを海と名けたまへり 神之を善と観たまへり
 時間上の2単位目が過ぎ、3単位目に入った。パパは散歩ができるようになったアダムを近くの海岸
に連れて行ったりもした。
 「水がいっぱいあるね」。「うん。いっぱい、いっぱいあるね」。「水のないところはこっちだね。
あっちには、いっぱい、いっぱーい水があるね。あれは海というんだよ。こっちは土というんだ。」
 神はアダムを肩車でもしながら、多分そんなふうな話をしていたのだろう。

 神言たまひけるは地は青草と実蓏(たね)を生ずる草と其の類に従ひ果を結び、みづから核(たね)を
もつ所の果を結ぶ樹を地に発出すべしと即ち斯なりぬ (中略)夕あり朝ありき是三日なり。
 神は家に畑を持っていた。小さいアダムは一人でもそこに出かけた。そこにはパパの姿があった。畑に
は草が生え、実を結ぶ樹木が植わっていた。アダムはそんな場所が好きだった。

 神言たまひけるは天の穹蒼に光明ありて昼と夜とを分かち又天象のため時節のため日のために成るべ
し 又天の穹蒼にありて地を照らす光となるべしと即ちかくなりぬ 神二つの巨なる光を造り大なる光
に昼を司どらしめ小き光に夜を司どれしめたまふまた星を造りたまへり 神これを天の穹蒼に置きて地
を照さしめ 昼と夜を司どらしめ光と暗とを分たしめたまふ神これを善と観たまへり 夕あり朝ありき
是四日なり。

50 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 10:43:24 ID:eDb+WMjh
 時間上の3単位目が過ぎ、4単位目に入る。アダムは遠くのものについて様々に関心を持ち、疑問を
持つようになってきた。アダムは神に聞いた。
 「ね。パパ。あれなあに」。「あれはお天道様だよ」。「ふーん」。アダムは好奇心一杯だった。空の
上でまぶしく光っているものの存在を見つけ、それを神に尋ねた。
 「お天道様はね。夜は沈むんだよ。」「ふーん。」アダムは父の話を感心しながら聞いていた。夜に
なった「ね、パパ。あれなーに。」「あれは月というんだ。夜はお月様が照っているんだよ。」「ふー
ん」。「パパ、あれなーに」「あれは星というんだ。いっぱいあるね。」「うん。いっぱい、いっぱー
いあるね」。
 アダムは、太陽、月、星をこのように体験した。 

 神云たまひけるは水には生物(いきもの)饒(さは)に生じ鳥は天の穹蒼の面に地の上に飛べしと 
神巨なる魚と水に饒に生じて動く諸(すべて)の生物を其類に従ひて創造り又羽翼(つばさ)ある諸の
鳥をその類に従ひて創造りたまへり神之を善と観たまへり
 時間上の4単位目が過ぎ、5単位目に入る。アダムも随分大きくなった。
 アダムのパパはすごい人だった。飛んでいる鳥をアダムの見ている前で弓で撃ち落としたり、泳いでい
る魚をアダムの見ている前で釣り上げたりした。それを見てアダムは叫んだ。アダムはそこで鳥を見、魚
を見、叫んだ。
「ワーイ。パパすごーい」。

 神之を祝して曰く。繁息よ海の水に充牣(みて)よ又禽鳥(とり)は地に蕃息(ふえ)よと 夕あり朝
ありき是五日なり
 アダムの父はいつも願っていた。どうか獲物がいつもいますように。鳥も魚もたくさん採れますように。
天地に祈っていた。

 神言給けるは地は生物を其の類に従て出し家畜と昆蟲(はふもの)と地の獣を其の類に従て出すべしと
即ち斯くなりぬ。 神地の獣を其類に従いて造り家畜をその類に従て造り地の諸の昆蟲を其類に従いて造
り給へり神之を善と観給へり
 アダムの父はいつも願っていた。アダムはそんな父を見、そんな様子が理解できてきた。天地には生き
物たくさん増え、家畜も沢山増えますように。昆虫類もたくさん増えますように。アダムの父は天地にそ
う祈り、またそのようになったとき、心から喜んでいた。

51 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 10:46:08 ID:eDb+WMjh
 神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり。
 時間上の4単位目が過ぎ、6単位目に入る。アダムは父母だけでなく、家族以外の人にも関心が及んで
くる。近所にも友達がいる。アダムはそんな子供達の存在にも気づき始め、互いに遊ぶようになる。

 神其造りたる諸の物を視たまひけるに甚だ善りき 夕あり朝ありき是六日めなり。
 アダムのパパはいつもたくさんの作物と獲物が得られることを念じ、そのようになったときには心から
喜び、天地に感謝していた。

 斯天地および其衆群悉く成りぬ。 第七日に神その造りたる工を竣(をへ)たまへり即ち其造りたる工
を竣て七日に安息たまへり。
 時間上の4単位目が過ぎ、7単位目に入る。アダムは数えで七歳になった。満では六歳である。現代で
は小学校に入る年だ。ここまでくるとほとんど親の手がかからなくなる。アダムのパパとママには、育児
に一休みできるときがきた。

 アダムはユダヤ民族の祖である。アダムの両親は、ユダヤ民族に対し、このようにして万物を創造し、
万物を与えてくれたのである。

 天地創造神話は、ソロモン王か誰かは知らないが、自分たちの最初の先祖をかなり想像を加えて書いた
ものだろう。アダムのパパとママは本当に天地を創造したのか。アダムのパパとママはアダムを産み育て
たのであり、天地を創造したのではない。少なくとも、ユダヤ教の神、キリスト教の神、イスラム教の神、
アダムのパパとママが天地を創造したのではない。アダムのパパとママは万物の創造主であると言えば、
それは偽物である。
 キリスト教の神は偶像である。僕はそう思うのである。

52 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 11:00:32 ID:eDb+WMjh
>>46
>モノに成りきるというこはどういうことでしょうか?

 これ誤爆? 外のスレにも同じことが書いてある。
 間違いで書いたのでないにしても、回答は保留する。どこかの大学の宗教学
科又は哲学科で学生に出した小論文かも知れない。そんなものには回答できない。

 質問の背景を説明してくれたら、こっちの考えを書くかも知れない。

>>47
>機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減ってどんなもん?

 難しいことではない。後日、回答しよう。

53 :名無しさん@3周年:2006/09/16(土) 17:45:21 ID:gXRAMqCg
渡海さんに質問があります。
浄土真宗は戒律がないとよく言われています。
しかし、私の考えとして親鸞聖人の教えを信じ、南無阿弥陀仏と唱えることが戒律なのではないでしょうか?

54 :ネットサーファー@神の国:2006/09/16(土) 17:47:09 ID:UdvnGdSU
そんな念仏はいりません。
阿弥陀仏に全てを任せるという悟りが重要なのです。

55 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/16(土) 22:36:22 ID:eDb+WMjh
 戒律は仏教にとって永遠の問題。仏教はこれを避けて語ることはできない。キリスト教論が終わったら考
えてみよう。なお、キリスト教論はしばらく続きます。
 多忙。数日間カキコ不能。

56 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/18(月) 00:00:59 ID:P4F5Uc6r
 ちょっと時間ができたのと、僕の大好きな得意の分野なので書きたくなりました。

 神が万物を創造したという意味をもう少し考えてみよう。天地は七日で創造された。この七日創造神話
はいつごろできたものか。できあがった時代が特定できると、神話の真意が見えてくるだろう。
 旧約聖書は、一般にモーゼが書いたと言われている。しかし、モーゼが書いたのは全体中の一部だ。時
代を超えて幾人かが執筆に関わっている。一番分かりやすい分類は、神をどう表現しているかという部分
である。例えば、日本語聖書(僕は文語文を使っている)の中で、「神」という記載と、「エホバ神」と
いう記載と「エホバ」という三通りの記載がある。原文上の違いは、そのまま日本語でも訳を変えてくれ
てある。この違いは、完成した時代の違いを類推させる。
 旧約聖書の最古の部分はモーゼが書いた部分と考えよう。七日創造神話は「神」という表現を使ってい
る。「神」という表現箇所は、モーゼによる最古の部分ではないだろう。では、七日創造神話はいつごろ
書かれたものか。
 七日創造神話は、子供の誕生から七年間の幼児期の記録である。読めば誰でも分かるだろう。七日創造
神話の1日は一年に当たる。つまり、時間的経過単位を、季節の循環周期と同調させることができるよう
になった時代に書かれているということだ。七日創造神話は、この点が大事なところだ。

57 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/18(月) 00:01:35 ID:P4F5Uc6r
 時間的経過単位を365日とすると、1経過単位が季節の循環周期と同調する。夏の暑い日から365
日経過すると、また同じように暑い日に巡り会う。冬の寒い日から365日経過すると、また同じように
冬の寒い日に巡り会う。現代の我々にとってこれは当たり前すぎる常識だが、考えてみればこれは大変な
発見だ。この七日創造神話は、時間的経過単位を季節の循環周期とほぼ同調させることができるようにな
った時代に書かれているのだ。七日創造神話は、1年365日が発見され、暦を大変革した時代に書かれ
たものだろう。また、この神話は、七という数字に強いこだわりを感じる。七とはどういう数字か。それ
は、十ではないぞという意味だろう。十という時代が終わったんだ。早く頭を切り換えろ。古い時代は終
わって新しい時代に変わったんだ。早く古いものを捨てよ。為政者の強いメッセージが聞こえてくる。古
い時代を十という数字に象徴させ、七という半端な数字を強制的に社会になじませることで、新しい時代
に変わったことを印象づけようとしているのだろう。
 暦の変革は、いつの世も革命的な時代変化の象徴として行われる。古い時代から新しい時代に劇的に変
化したとき、暦は、新たな指導者が新時代の到来を宣言して変更する。日本で暦を変更したのは明治維新
の時代である。このとき、政府は武家政治の終了を宣言し、新たな近代国家になったことを内外に示した。
 七日神話は、古いユダヤ国家が、動乱、混乱、困難な時代を乗り越えて新しい国家に生まれ変わったと
き、政策的に起草された神話だろうと考える。では、七日神話誕生前はどうだったか。それは、七ではな
く、十という数字が支配していた時代だろう。神というものの本質を考えてみたい。

58 :53:2006/09/18(月) 04:35:17 ID:4OFBa601
渡海さん、神様といえば「全能者のパラドックス」が有名です。
例えば、重い岩があったとします。全能者は、全能であるのでいとも簡単に持ち上げてしまいます。
しかし、岩を持つことを出来なくすることも能力のはずです。
でも自分を非力にするという能力を行使すれば、結果的に全能者は岩を持てないので全能でなくなってしまう。
渡海さんなら、どう説明しますか?
私は神様というのは、人間が解決できないパラドックスも全て解決しうる存在だと思ってますがどうでしょうか。

あと、53の質問もできればお願いします。

59 :>>47:2006/09/18(月) 07:39:02 ID:wUBvAqh5
>>58
しかしの後にでもと書いている。
だからだと思うが・・・

全能者の意志がぬけてる・・・
全能者がいるなら彼の意志において全能。

<私は神様というのは、人間が解決できないパラドックスも全て解決しうる存在だと思ってますがどうでしょうか。
それは真実ですが、人は神に成れないのもまた真実です。

60 :>>15:2006/09/18(月) 13:51:45 ID:wUBvAqh5
>>53>>55
唯物論で言ったら
人の集団が出来て
様々な問題が起きてそれに対処していった
のと
尊敬される集団に見える「様」に表面を整える
経験上から出た手段。

最澄が
大乗戒を作られたのも
目的ではなかったので、その時代に
適した「かたち」にしただけ。しがらみはあっただろうが。




61 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/18(月) 17:37:23 ID:6MsBOYrn
>>58
>私は神様というのは、人間が解決できないパラドックスも全て解決しうる存在だと思ってますがどうでしょうか。

 うん。まあ。そうかねぇ。
 まあ、僕に興味がわくような話じゃないな。何の前提もなく全能者はいるかどうかなど議論しても、僕には全く実
感がない。

 重い岩を持ち上げなければならない羽目に陥った全能者って何?。全能者ってのは、重い岩を持ち上げなければな
らないのか。自分を非力にしなければならないのか。あぁ、僕には全然イメージが湧かない。
 例えば、手力男尊のことか。手力男尊は、天照大神が隠れた高天原の岩戸を動かした力持ちだ。たしか、あれはお
相撲さんの神様だったと思う。現代で言えば、朝青龍か。それでも、全くイメージが湧かない。
 天照大神が岩戸に入るには、岩を動かさなければならなかった。隠れた岩は女子供にでも動かせるような岩だった
んじゃないか。そう考えると、手力男尊の全能力は半減する。

>>53の質問もできればお願いします。
    まあ、急ぐことでもないだろう。暫く待って欲しい。

62 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/18(月) 17:38:11 ID:6MsBOYrn
>>59
>人は神に成れないのもまた真実です。
 人は神になれないと説くのはキリスト教の教えだが、アダムを産んだ両親は、ユダヤ教、キリスト教では万物の創造
主に成っているんだ。イエスが神になったのも、実はそのキリスト教だ。
 神に成れるとか成れないとはどういう意味か、これにも僕にはよく分からん。いろんな考えもあるだろうが、人は
神に成れないと説く宗教が、人を神にしてきた歴史も忘れちゃいかんだろう。人は神に成れないと説く宗教が、人を
神に祀ってきたのはなぜか、どういう事情があったのか。そこを考えるのが、今回のテーマの一つです。

 浄土真宗は、キリスト教に近いと言われている。浄土真宗は極東のキリスト教か。浄土真宗とキリスト教の違いを
明確にしておきたい。

63 :53:2006/09/18(月) 20:20:12 ID:4OFBa601
渡海さん、回答ありがとうございます。
以前、「渡海さんは真宗のお坊さんではないか?」
と質問したのは実は私なんです。
私が考えるに、あなたはどこかの大学の先生(専攻は宗教学か哲学か)ですね。
いろんな宗教に精通してるみたいですし。

64 :名無しさん@3周年:2006/09/20(水) 10:37:51 ID:+63sl8La
うちは浄土真宗ですが何派かわかりません、何を調べたらわかるのでしょうか?


65 :名無しさん@3周年:2006/09/20(水) 13:42:46 ID:ThAM54Dw
>>64
以下で聞いたらどうですか ↓
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1157123485/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1076867038/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1155739909/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1156135800/

66 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/22(金) 00:36:24 ID:9OLYnj7g
 七日創造神話が作り出される前、天地創造神話は存在しなかったのか。天地創造神話の古い形もやは
り聖書に書いてある。僕はそう思っている。これは多分、モーゼが書いた記事だろう。神の表記が違う
ことに注目すべきだ。

 エホバ神地と天を造りたまへる日に天地の創造られたる其の由来は是なり 野の諸の潅木は未だ地に
あらず野の諸の草は未だ生ぜざりき其はエホバ神雨を地に降せたまはず亦土地を耕す人なかりければな
り 霧地より上りて土の面を遍く潤したり エホバ神土地の塵を以て人を造り生気を其の鼻に嘘入れた
まへり人即生霊となりぬ エホバ神エデンの東の方に園を設て其造りし人を其処に置きたまへり

七日創造神話とだいぶ趣が違う。これだけ違えば、恐らく原文でもだいぶニュアンスが違うのだろう。
この話では一日でできている感じがする。天地の創造は、人の誕生と同時にできている。アダムの誕生
と同時に天地ができている。内容は七日創造神話に比べてかなりあっさりしている。内容は七日創造神
話より原始的で、書かれた時代は七日創造神話より古い感じがする。石と岩だらけの荒れ地を開墾した
ところ、雨が降った後で草が生えてきたという話をしているように読める。塵をもって人を造り、息を
吹きかけたとというのは、どろんこだらけの子供に親が色々と話しかけ、知識を得て大人になったとい
うことだろう。エデンの東とは、イラク、あるいはサハラなどの地が名前として上がっているようだ。
 モーゼの話の種本はエジプトの神話だろう。モーゼが突如創作したとは考えにくい。モーゼはエジプ
トで教育を受けている。その中でエジプト神話も教わっていただろう。


67 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/22(金) 00:36:56 ID:9OLYnj7g
 それでは、モーゼ以前の伝承はどうだったのか、これも聖書に書いてあると考える。

 アダムの伝の書(ふみ)は是なり神人を創造りたまひし日に神に象(かたどり)て之(これ)を造り
たまひ 彼等を男女に造りたまへり彼等の創造られし日に神彼等を祝してかれらの名をアダムと名付け
たまへり アダム百三十歳に及びて其の象に循ひ己に象りて子を生みその名をセツと名けたり アダム
のセツを生し後の齢は八百歳にして男子女子を生り アダムの生存へたる齢は都合九百三十歳なりき而
して死ねり。

 アダム伝の書というのが、一番単純な記載で修飾がない。恐らくこれがモーゼ以前からモーゼに伝わ
っていたんだと思う。モーゼはこの話を膨らまし、さらにソロモンかダビデなどが七日神話にさらに拡
大したのが、ユダヤ・キリスト教の天地創造神話だろう。

  アダムの伝の書(ふみ)というから、これも文字で書かれていたんだろう。しかもこれは聖書に後
から継ぎ足したような書きぶりになっている。聖書への挿入時期がモーゼ以後であれば、しばらくは、
聖書と別にアダム伝の書というのが並行的に存在していたんだと思う。モーゼは聖書をエジプト文字で
書いたはずだ。アダム伝の書は楔形文字で書かれていたかも知れない。

 アダム伝の書が最も古い記録であると考えると、ここにこそ、実に驚くべき事実が報告されていると
僕は思う。神とは何か。神はなぜ神になったか。万物の創造主などというお伽噺ではなく、神の実体に
関わることが書いてあると僕は思う。  続く

68 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/23(土) 12:52:25 ID:d7cesIpx
 アダムの伝の書で驚くのは、年齢が書いてあるということだ。アダムは、年齢の記録がある最古の
人物ではないか。しかもアダムは、どこか巨大国家の権力者でもなさそうだ。一介の平民でその年齢
について記録がある。僕はここに非常に大きな驚きを持つ。
 年齢が書いてあると言うことは、その年齢を数えた人がいたということだろう。年齢を数えるとい
うことは、誕生時からカウントを始めたということだ。現代でこそ、子供が生まれれば、区役所、市
役所に届け出、何年何月何日に生まれたということを記録する。記録をみれば、いつ生まれていつ死
んだか、ほぼ百%の人についてすぐに分かる。
 紀元前数千年の頃、強権国家の権力者でもなく、一介の平民にどうして記録があるのだろうか。し
かもそうした記録はアダムだけではない。その子、孫、ひ孫まで連綿として残っているのだ。アダム
の誕生の日を原点とし、その時から時間のカウントを開始した人がいたと言うことを意味するのだろ
う。そのようなことができた人は誰か。外でもあるまい。それが可能だったのは、アダムを生んだ両
親だけである。
 時間をカウントするとはどういうことを意味するのか。それは、その瞬間から歴史が開始したと言
うことだ。普通、我々は歴史というと過去に遡る。過去の記録を探す。しかしアダムの親は、歴史を
未来に向けてスタートさせたのだ。これにより、アダム以降、その子孫達は、日々の記録を系統的に
残すことができるようになった。

69 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/23(土) 12:53:05 ID:d7cesIpx
 アダムの親は万物を創造したのではない。アダム伝の書には、万物を創造したなどと、どこにも書
いてない。アダムを産みましたと書いてあるだけだ。記載した言語は、恐らく紀元前数千年の頃のア
ラビヤ語かペルシャ語だろう。「創造」という言葉と、「産む」という言葉は、同一の単語を使って
いたのだろう。異議同一語なんだろう。
 アダムの親は、万物の創造などという笑い話の種を創造したのではない。それよりも真面目な遙か
に大きな物を生み出した。それは外でもない、歴史だ。時間だ。アダムの親は、時間というものを発
見し、アダムの誕生の瞬間に歴史をうみ出だしたのである。
 アダムの親自体には歴史を生み出そうというそんな意識は無かったろう。しかし、彼等は大きな発
見をした。時間の発見は、人類にとって、火の発明に並ぶ最大の発見の一つだろうと思う。アダムの
親はその時間というものを発見したのだ。
 時間の第一発見者は、既にその前に四大文明のどこかにいたかも知れない。しかし現代に明確につ
ながっている最古の発見者であり、その後の人類史に決定的な影響を残し、今も残し続けているのは、
他ならないアダムの親である。しかもそれは、文明創設の学者でもなければ、権力者でもない。どう
やら、一介の無名の農民だったところに僕は感動を覚える。
 それでは、アダムの親はどのようにして時間を発見したのか。発見の足跡を聖書を元に考えてみよう。

70 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/24(日) 10:29:57 ID:BtKlW/lg
 時間を発見したとはどういうことか。少し考えよう。
 火と時間は、いずれも人類の偉大な発見の項目の一つだろうと僕は思っている。人類の偉大な発見
には、火と時間に加えもう一つあると思う。僕はそれを引力だろうと思って。引力は、アイザック・
ニュートンが発見したものだ。引力の発見をベースにすると、時間の発見が見えてくる。
 引力というのは物質の本質的作用だから、ニュートンが発見する前からあった。ニュートンがリン
ゴの木を見る以前には、リンゴの実は空中に漂ったなどという馬鹿な話はない。ニュートンが引力を
発見したとは、彼がその本質を定量的に解明したということだ。数値化したということだ。定量的に
数値化することで、その本質を示した。彼はそこから微分・積分学を開発し、近代数学物理の基盤を
作った。
 時間を発見するということは、定性的ではなく、定量的に捉えたということだ。定量的に捉え、こ
れを数値化すると、足したり引いたりできるようになる。2006年の9月1日から10日間の時間
は、2006年の10月1日から10日間と全く同じ長さである。それを半分に割った5日間は9月
も10月も全く同じ長さである。まさにこれが定量化だ。我々の感覚では、夢中になっているときは
時の流れが速く、不快なときは遅い。アダムの両親は、主観ではなく、数値で客観的に捉えるという
まさにニュートン的手法を時間に適用したのである。
 聖書によると、アダムは930歳で死んだという。つまり、時間的に930単位経過したときに死
を迎えたのだ。紀元前数千年の時代の人の寿命はおよそ約30年と思われる。およそ医療という概念
が全くなかった時代、幼児期の死の危険時期を脱することができるとその後、14〜15歳くらいで
結婚し、子供を産んだ。非常に健康な人は40歳位まで生きた。

71 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/24(日) 10:30:45 ID:BtKlW/lg
 哺乳類には心臓時間というのがあるようだ。野生の動物の最長寿命を様々な動物、ねずみから象、
鯨まで比較する。全て太陽時間で計ると寿命の長さは違うが、その長さを心臓の鼓動の一周期でわる
と、不思議なことに全て一致するそうだ。つまり、哺乳類は心臓の鼓動がタイマーになっているとい
う仮説があるそうだ。これを当てはめると、人間の最長寿命は40年程度となる。つまり、全く医療
というものがないとすれば、原始の状態では人間はおよそ40年が寿命となる。
 アダムは、仮に30歳近くで死んだと考えると、人生30年は30×365日=10950日とな
る。これを930単位で除する。10950日÷930単位≒11.774 非常にいい数字ではな
いか。約10日である。1単位を10日と考えよう。すると930単位は、9300日となる。これ
は約25.5年ということになる。
 毎日毎日、日を記録していっても、記録を忘れることもあったろう。その分を多少上乗せすると、
アダムは26歳又は27歳くらいで死んだ。無論、現代では早すぎる死となるが、生活環境が99%
原始人であると考えれば、26歳〜27歳なら平均的な寿命ではなかったか。
 仮説だが、アダムの両親は、時間経過上、1日ではなく、10日間をまとめて1単位とする手法に
気が付いた。この瞬間、人類は始めて、時間というものを思考の対象に据えた。彼は時間をニュート
ン的に定量化したのだ。
 こういうと、反論も出てくるだろう。議論を続ける。

72 :こいつの正体わかったぞ、、:2006/09/25(月) 11:19:40 ID:G30AtTnp
渡海 難  ◆Fe19/y1.mI は
大本、生長の家、幸福の科学から、独立して、、
教祖と、なったヤツだな、、、、

73 :名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 12:45:27 ID:Hg9zx5jw
渡海さん、質問(2つ)があります
真宗の『お東さん』と『お西さん』の教義の違いってなんですか?
ウィキペディア読んで、昔にゴタゴタがあったのは分かりましたけど
現在でも仲が悪いのですか?

74 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/25(月) 14:03:26 ID:MUdBlETq
>>70,71を訂正する。
>70で、「非常に健康な人は40歳位まで生きた」は、撤回する。信用できない。 
>71で、「人間の最長寿命は40年程度となる」は、撤回する。信用できない。
>71で、「原始の状態では人間はおよそ40年が寿命となる」は、撤回する。信用できない。

なお、縄文時代の人の寿命は31歳だったそうだ(http://www2.athome.co.jp/academy/biology/bio03.html
アダムの寿命もその程度と考えるのは不自然ではないだろう。聖書が言う時間上の930単位(年)は、
その程度の長さと考える。

>>73
>真宗の『お東さん』と『お西さん』の教義の違いってなんですか?
  僕には回答不能。 ↓ ここで聞いて欲しい。
  http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/
  http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1157123485/
  http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1156135800/

 ちなみに僕は「お前は大谷教学だ」と言われたことがある。僕には大谷派も本派も親鸞会も、同じ穴
の狢に見えている。曾我量深さんの本は一通り読んだけど、印象は全く残っていない。

>現在でも仲が悪いのですか?

 今はむしろ、気持ちが悪いほど仲がいいんじゃないか。まあ、仲が良くて気持ちが悪いというのはお
かしな話だが、大谷派内、本派内での身内の同士の糞ションベンの引っ掛け合いの方が、犬も食わない
さんざんなものだろう。
 詳しくは ↓
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1157123485/
  で聞くといい。

75 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/26(火) 19:04:44 ID:qkZ8rt/N
 アダム百三十歳に及て其像(かたち)に循(したが)ひ己(おのれ)に象(かたどり)て子を生み其
名をセツと名けたり。

 アダムは時間上130単位経過時、自分によく似た子供を産んだ。130単位というのはおかしくな
いか。1単位10日であれば、130単位は1300日だ。生後、1300日目に子供を産むと言うこ
とは、3歳半で子供を産んだことになる。犬や猫であるまいし、これはありえないだろう。実は、時間
上の1単位はしばしば変更になっているのだ。

 エホバいひたまひけるは我霊永く人と争わじ其は彼も肉なればなり然ど彼の日は百二十年なるべし
(創世記6−5)。
 僕の持っているもう一つの1955年訳では、創世記6−5が、「わたしの霊はながく人の中にとど
まない。彼は肉に過ぎないのだ。しかし、彼の年は120年であろう」となっている。
 「わたしの霊はながく人の中にとどまらない」とは、まもなく自分(神)は死ぬということだろう。
アダムの父は遺言を残したような書きぶりになっている。「彼の日は百二十年なるべし」。今後人間の
寿命は120単位を限度にしようということだ。

 人の寿命は30年くらいだった。それを、120単位とするとはどういうことか。30年×365日
÷120単位≒100日/単位、すなわち、時間的単位を1単位100日に変更しようということなの
だ。10日を1単位にすると煩雑だから、時間軸を測定する分母を大きくしようという提案がなされて
いる。

76 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/26(火) 19:06:04 ID:qkZ8rt/N
 アダムの子孫の一人が一族会議で、アダムの父神様の遺言であるというような言い方でみんなを説得
に回ったのかも知れない。このとき、大単位を100日、小単位を10日とする多段階単位制を提案し
たのだろう。しかし、これが原因で聖書の年代の記述は、大幅に混乱を来した。
 1単位100日は父神様の御遺言である。だれかがそう提唱しても、一族がすんなりそれを受け入れ
るような問題ではなかったんだろう。なかなか統一的には浸透しなかったようだ。単式単位制から多段
階単位制にいきなり切り替えれば、原始人は混乱する。結局、ある者は旧単位(又は小単位)で計算し、
ある者は新単位(又は大単位)で計算する。ある場面では大単位を適用し、別の場面では小単位を適用
する。どうやら、同じ人の一生を、人生の途中までは旧単位、後半は新単位で計算するという無茶苦茶
な計算法もしているようである。
 共通の実話が複数の家系に伝承されても、ある家系ではそれを新単位で計算し、別の家系では旧単位
で伝承するということもあったようだ。数字の違う資料が多数併存すればどうなるか。普通、その平均
値が一番正しい数字に近いと思うのではないか。
 1単位を100日で計算している資料と、10日で計算している資料が併存し、この矛盾を解消する
ために後の世の研究者が平均値を弾けば、事実上(100+10)÷2=55、つまり事実上1単位が
55日になる尺度で計算したのと同じ結果になる。1単位を100日で計算している資料が一つ、10
日で計算している資料が二つあれば、(100+10+10)÷3=40、つまり事実上1単位が40
日になる尺度で計算したのと同じ結果になる。
 実際、アダムが今の年齢で15歳で生んでいれば、15年×365日÷120単位=45 つまり1
単位が45日の尺度が当てはめられている結果と同じになる。130単位目に子を産んだという話に4
0日/単位を当てはめると、14歳という数字が出る。55日/単位を当てはめると、20歳というこ
とになる。まあ、常識的に考えて、14歳から19歳の間で子を産んでいるんだろう。

77 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/26(火) 19:07:59 ID:qkZ8rt/N
 年齢の計算で聖書は混乱を起こしている。恐らく二つ以上の単位系が併存し、異なった単位系の数字
を、足したり割ったりして調整しているんだろうと思う。聖書から見えてくるのは、時間の計測を、日
単位でなく、10日とか、100日とか、あるまとまりをもって計算しているという事実があると言う
ことである。つまり、彼等は原始人でありながら、毎日がだらだらと流れているのでなく、時間という
ものを、他の物理的現象、諸事実と別に、独立的に思考の対象にしているのだ。そこに僕は注目したい。
また僕は、その単位が、10日と100日とが基礎になっていると仮説を立てる。
 7日創造伝説とは、アダムを共通の先祖と仰ぐユダヤ一族国家で、ある時期に新たな改革を行う上で、
王が、10日・100日体系の古い秩序を打破し、新たな秩序の定着を意図して創造した神話であると、
僕はそのように考えている。

 万物の創造神の創造者、偶像崇拝を否定する偶像崇拝教、2段階創造神、多神教を否定した多神教、
マリヤ信仰とイエス信仰、モーゼ以前のユダヤ教とエジプト的ユダヤ教、イエス有罪論、ユダ濡れ衣論、
イエス冒険主義、事故だったイエスの死、復活と勘違い、昇天と虚妄、キリスト教の救い、仏像礼拝を
勘違いして笑うキリスト偶像崇拝教、等々。キリスト教論は議論していけば話が尽きない。まあ、それ
らは別の機会にし、神の本質に関する議論は一応ここで終わっておこう。

 キリスト教の神と浄土真宗の阿弥陀とは同一ではない。一方は、時間を発見した歴史上の人物であり、
他方は釈迦をモデルに創作した架空の存在だ。この二つを同列に並べて議論することは誤りだ。また、
釈迦はソクラテスやアリストテレスと比較して議論することは意味があると思うが、冒険主義者のイエ
スと同列のテーブルには並べない。冤罪を背負わされている可能性のあるユダと、釈迦の暗殺を謀った
提婆達多とを同列のテーブルで比較することも誤りである。地理上の方位を示すエデンの東と、象徴的
意味で表現している西方極楽浄土を並べるのも誤りである。
 仏教とキリスト教で、誤った比較論をする人が少しでも少なくなることを僕は祈っている。

78 :名無しさん@3周年:2006/09/27(水) 03:34:25 ID:HaIHp2dZ
何このオナニースレ

79 :ふゆ:2006/09/27(水) 05:33:42 ID:CSIOom8t
はじめまして。
ちょっと思うところがあってこのスレを見ていました。
みなさんの知識には驚きの連続です。

ですが、、なんだか冷たく悲しい気分です。


80 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/28(木) 16:54:59 ID:iJaeqMiP
>>47
>機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減ってどんなもん?

 2,3日休憩。その後二種深信について書きます。
 二種深信は、親鸞会スレで盛り上がっているんで、それも楽しみにしましょう。
 その後、戒律を議論してみます。


81 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/30(土) 10:06:54 ID:qh3pjatJ
 機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減というのは、まあそれほど難しい話じゃないんだが、
こういう話の回答者は、本当は僕よりもっと適任者がいる。例えば、マリナースのイチロー選手な
んかの方が、本当は適任なんだろう。野球の選手に限らない。例えば歌舞伎の中村勘三郎さんなん
かは、当然、同じように資格があるだろう。ハンカチ王子の斉藤選手なんかは、まだ早すぎるだろ
うが、西武の松阪選手なんかはもう分かっていると思う。ただ、ああいう人は、体では分かってて
も、それを表現する言葉まで持っているかというと、それは聞いてみないと分からない。体は分か
っているということと、その表現の巧みさとは別の問題だ。表現する言葉を貰うと、機の深信と法
の深信の非常にいい伝達者になるかもしれない。
 機の深信と法の深信というのは、善導大師の言葉だが、多分、武道とか、絵画とか、舞踊とか、
そういう世界で巨匠、名選手、大御所などと言われれるような人に出会い、そういう人から教わっ
た概念かも知れない。一流の人の心に通じる普遍的な心だ。
 僕らが子供の頃、川上監督が率いる巨人軍が破竹の勢いで連戦連勝していた。そのころの巨人軍
の中心選手は、王・長島だった。王は、荒川コーチから一本足打法を教わり、その後それを繰り返
し繰り返し練習してたそうだ。練習漬けと言うと、イチロー選手も大変な量の練習をしているそう
だ。

82 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/30(土) 10:08:20 ID:qh3pjatJ
 世界的に通用するような実力の持ち主というのは、みんな大変な努力を重ねている。機の深信と
法の深信というのは、そうした努力家達の努力を支える中身の断面を切り開いてくれた言葉だと思
う。断面だから、切り方によっては様々な別の情景がみえることもある。断面が違えば様々な表現
法ができる。機の深信と法の深信というのは、様々な表現法の一つ。表現の一つだけど、努力家達
の心の核心を突いているということも事実だろうと思う。ソフトバンクの王監督などに「選手時代、
どうしてあんなに激しい練習をしたんですか」と質問すると、うまくすると機の深信と法の深信の
本質を、だれよりも完璧に回答してもらえるかもしれない。監督が選手を今、指導しているその心
も、監督独特の今の機の深信と法の深信なんだろうと思う。
 王監督に実際に聞けばどんな回答が出てくるか知らないが、ここではそんなことを想像しながら
書いてみよう。(続く)

83 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/03(火) 00:36:25 ID:jYj5gWBv
 まあ、僕は王監督とは面識がない。そんな人がどんな風に応えるのか、お前に分かるのかと言わ
れれば、実は返す言葉がない。僕の勝手な想像に、王さん自身が不快に思うかも知れない。まあ、
もし不快に思ったら、そこは有名人の宿命と思って勘弁して貰いたいものだ。王という架空の別人
がいるんだと、ご本人には思って貰った方が、ご本人の精神衛生上は、いいかもしれない。こうい
うものの切り口は様々にある。切り口は様々だから、僕の切り口と王さんの切り口は全く違うとい
う可能性は大きい。切り口が違えば、表現は違ってくるだろう。

「王さん。なぜあんなに苦しい練習を続けられたんですか」
「そりゃ、練習しなかったら、野球が上手くならないからだよ。人間、生まれながらに野球の上手
い人はいないんだ。生まれながらのままでは、みんな下手なんだよ。
 練習しないで下手だったらどうなると思う?。我々はプロ野球なんだ。試合は宿命なんだ。試合
で負けるだろう。
 的確な動作をしようと言う意思と、的確な動作を向けた行動で試合いに臨んで試合を始めても
(生)、思いは変わらなくても動作がそれについていかない(病)、的確な動作をしても、思いが
そこに調和しなくなる(老)、やがて的確な動作をしようという意欲もなくなり、動作もちぐはぐ
になる(死)。これじゃ試合に勝てないだろう。試合を、何回やっても、何回やっても勝てない。
繰り返し繰り返しやっても、いつもその連続になる。まさに生まれながらの我々自身というのは、
そういう存在なんだ(機の深信)。だからこそ、練習をするんだ」。
 「生まれながらのままでは下手なんだ。だから練習する。それで苦しくないですか」
 「そりゃ苦しいときもあったよ。でも楽しいときもあったよ」
 「どうして?」  (続く)

84 :名無しさん@3周年:2006/10/03(火) 01:10:35 ID:5SHzHLT2
 +    . .. :....    ..  .. .
   +  .. .   ..   .  +..
   .. :..     __  ..
          .|: |      
          .|: |     
       .(二二X二二O 
            |: |    ..:+ ..
      ∧∧ |: |     
      /⌒ヽ),_|; |,_,,    さようなら、渡海難
_,_,_,_,,〜(,,  );;;;:;:;;;;:::ヽ,、  死んでくれて、世界は平和になったよ。
   "" """""""",, ""/;     地獄で苦しめ、お前が死んでもかなしむ者はいない・・
  "" ,,,  """  ""/:;;
  ""   ,,""""" /;;;::;;

85 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/03(火) 12:57:31 ID:1Aawrtvh
2,3日、多忙。カキコ不能。

86 :名無しさん@3周年:2006/10/03(火) 20:05:22 ID:FPLdIPnb
いやね・・・・・
基本的なトコ突っ込むと・・・・
世の成功者(イチロー・王)が なむあみだぶ を信心歓喜して
称えて無かったらどうするつもりなのかと・・・・・

それに「成功者」の例だと過去の妙好人の存在はどうなってしまうのかと・・・・

87 :名無しさん@3周年:2006/10/05(木) 00:11:56 ID:bKHXvLIU
教えてください。
この教えは何時ごろ誰が確立した教えですか。
<そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。>
宜しくお願いします。

88 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/06(金) 20:05:42 ID:rQjB8CO8
>>86
>称えて無かったらどうするつもりなのかと

 なるぼど、そういう読み方もある。狙いを決めて楽しみにして見てくれているファンがいるというのは嬉し
いものだ。
 
>「成功者」の例だと過去の妙好人の存在はどうなってしまうのかと

 残念だが、僕は過去、本願寺が認定した妙好人なんてものには、皆目興味がないんだ。

>>87
 回答不能。心当たりがありません。でも、これは日本仏教ではかなり普遍的に共感を得られる考えなんじゃな
いかと思いますよ。

  「悟りに至る道です。」というより、多分禅者などは「それがそのまま悟りだ」と言い切ると思うよ。

89 :愉然:2006/10/07(土) 03:23:46 ID:rUQ5NH0+
渡海さん、ストレートな質問なんですけど、私は何故生まれてきたのでしょうか。
そこがすっきりしないと、念仏していてもむなしくなるんです。
毎日、坐禅しながら念仏しています。念仏している間に幸福感が訪れたり、いい
アイデアが浮かんでくることも確かにあります。けれども、人生に辛さを感じることの
方が多く自殺を考えることもよくあります。阿弥陀様に救っていただけるということも、
そもそも私が生まれなければそんな問題は発生しないわけだと思うんです。
何だか上手くまとめられなくてすみません。



90 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:06:29 ID:rOKgA8RT
>>83
 「うん。そう。楽しいときもあったよ。辛かったけどね。
 確かに、僕は野球を上手くなりたいと思っていたんだ(双樹林下往生)。野球を上手くなりたい
う僕の思いに、荒川先生は応えてくれた。でも本当は、僕の気持ち以上に、荒川先生の方で、『こ
いつにホームランを打たせないでおくものか』という、おそらく不退転の決意(果遂の誓い)が生
まれていたんだと思う。実際、一本足打法は、最初はほとんど、先生の熱意に押され、僕の方は半
信半疑で始めたんだ(難思往生)。
 練習していくと変わってくるんだよね。最初は筋肉系に変化が現れた。体つきが変わってくる。
そうすると、それまで出来なかったことが出来てくる。はっとするような気づきも出てくるんだ。
言葉じゃうまくいえないけど、これなら打てるという自信みたいなのが出てくるんだ。言葉じゃ説
明できないけど、荒川先生は、これを僕に伝えたかったんだなと頷けてきたんだ。先生とものすご
い連帯感が生まれてきた(難思議往生)。
でも、人間だからそれでもいろいろスランプはある。僕も、随分波があった。毎試合ホームラン
を打ったり、一試合で複数本のホームランを打てたときは問題ないんだけど、何週間も打てないと
きもある。僕はホームラン王と言われたけど、押しも押されもしない三振王だからね。三振の数で
も記録保持者なんだよ。
 三振ばっかりの時は気が滅入る。気が滅入った時は練習する気もしない。でも僕は、そんな日で
も、やっぱり練習した。そんな日は、荒川先生が教えてくれた基本中の基本に徹底して戻るんだ。
そして、一回でもいいからと思って素振りする。一回も練習しなければ先生との連帯が切れると思
った。でも、一回でもやれば連帯は続くと思った(乃至一念・法の深信)。
 一回でもやれば連帯は続くと思って一回素振りすれば、もう一回ぐらい出来る。もう一回できれ
ば、もう二回できる。三回できる。スランプの時ほど、基本に戻って回数多く練習した。すると頭
の中はスランプでぐちゃぐちゃでも、試合の瞬間になると、そんなことも忘れて自然にホームラン
が出た。そのときスランプを脱していた。人には、無意識に働く意識というのがあるんだろうね。」
    続く

91 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:09:03 ID:rOKgA8RT
>>89
>私は何故生まれてきたのでしょうか。

 僕には回答不能。
 多分、生き甲斐のある人生が歩めてないだろうね。生き甲斐のある人生が歩めればこういう問い
は出てこない。生き甲斐のある人生が歩めていれば、その中に自分の存在意義が見つけ出せる。
 やっていて楽しい。やっていて嬉しい。自分も喜べて他人にも喜んでもらえるもの。貴方は、そ
れを探すことが今、一番大事なんだろう。どうですか。

>そこがすっきりしないと、念仏していてもむなしくなるんです。

 虚しい念仏も南無阿弥陀仏。虚しくない念仏も南無阿弥陀仏。同一念仏無別同故。
 虚しいか、虚しくないか、基本的には念仏には関係ないことだけど、虚しい念仏だと、持続性が
ないよね。続かなくなるよね。
 続かないなら、止めてもいいんだけど、何かもったいないよね。これは、念仏だけ考えていても
駄目なんじゃないか。生きていて充実感がなければ、念仏していてもむなしくなる。むなしさは、
念仏していないときにも多分、底流にあるんだろう。

 貴方は、自分がやりたいことを見つけることが必要なんだと思う。これは危機管理の問題じゃな
い。親鸞仏教は、生き甲斐の見つけられない人に生き甲斐を見つけてきてくれるようなサービスは
ない。生き甲斐が見つからないというのは、それだけでは、人生の危機ではない。世間道の問題だ。

92 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/07(土) 20:10:04 ID:rOKgA8RT
>念仏している間に幸福感が訪れたり、いいアイデアが浮かんでくることも確かにあります。

 二念は追わない方がいい。念仏しながら、湧いてきたことは、どんどん忘れることも大事だ。念
仏しながら感じた幸福感、アイデアは、どんどん忘れよう。ほとんどが妄想だ。

>阿弥陀様に救っていただける
  阿弥陀様が救う?。これは大きな妄想だ。忘れよう。

 生き甲斐がみつからない。自分は今後何をしていったらいいか分からない。そんな漠然とした悩
みがあれば、一人孤独に念仏を称えているだけじゃなく、いろんな人と腹を割って話をする機会を
作った方がいいだろう。
 世の中、お釈迦様、仏様、親鸞様だけが相談相手じゃない。パン屋さん、お巡りさん、理髪店さ
ん、主婦、学生、いろんな人が色んな知恵を持っているものだ。そういう人と、腹を割った色んな
話を聞くといいと思うよ。
 僕は、昔からエンカウンタグループを薦めている。カウンセリング理論を体系化したアメリカの
カール・ロジャーズ博士が数十年前に発表したカウンセリングの発展形だ。これは、グループダイ
ナミズムという心理的な働きを使ってその人の潜在力を導く。
 餅は餅屋。親鸞は危機管理が専門だ。消火器一本あれば人間の全ての問題が解決するなんてこと
はない。仏様じゃなく、普通の人からいろんな話を聞くと言うことも大事なことだ。プライバシの
ない掲示板は、プライバシが絡む話はできないからね。

93 :>>86:2006/10/07(土) 20:15:19 ID:0MbWTgJT
消化器で消すための「火」に当たる物事は、なんですかと前スレから聞いているのですが・・・


94 :いつ死んでもいい男:2006/10/07(土) 23:35:52 ID:GSy7MOYG
親鸞聖人の、「地獄は一定すみかぞかし」という言葉の解釈、
みなさんの琴線に一番響いた解釈はどんな解釈でしょうか?
http://www2.ocn.ne.jp/~mwm/old/2msg0209.html
たとえば、この人は牧師さんですが、この世に生きることそのものが地獄なのだと
解釈されました。
この世は地獄のようなものだから、その現実を受け止め、受け入れて生きるべきだと
いうことでしょうか?


95 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/09(月) 00:31:35 ID:DjDOrVBB
>>93
>「火」に当たる物事は、なんですかと前スレから聞いているのですが・・・

 そうそう。思い出した。思い出した。これは、そんなに難しいかな?。考えれば気が付くんじゃない
の?。ちょっと自分で考えてみない?。

 消火器というのはこっから取ったんだ。出典はわかる?

 衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯す。かくのごときの愚人、僧祇物を偸み、現前僧物を盗
み、不浄に説法す。慚愧あることなし。もろもろの悪業をもってして自ら荘厳す。かくのごときの罪人、
悪業をもってのゆえに地獄に堕すべし。命終わらんと欲る時に、地獄の衆火、一時に倶に至る。 〜 
この人、聞き已りて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風と為る。

 火が出てくるだろう。この火を消して清涼の風としようというわけだ。

96 :名無しさん@3周年:2006/10/10(火) 00:13:26 ID:dOqBRmnc
>>95
俺とはかんけーない事が解った。
だって八十億劫の生死の罪を除かれたらしいので・・・

ってゆーか、誰にでも当てはまる事でないと
「あっそ」って思われるんじゃない?
まあその調子で細木数子の所に乗り込んで
「不浄に説法して、慚愧あることなし」っていったら少しは話が見えるけど

97 :自閉:2006/10/10(火) 01:06:34 ID:obUt3pST
>>94
ぼくは、地獄往き間違いないしそれを回避する気概さへない(僕がですよ)
これじゃあ念仏ぐらいしかないなあって感じです
まあ地獄でみんなで念仏一揆しても良いし、一人だけだったら阿弥陀さんや
親鸞さんに念仏で悪態をつきます

98 :名無しさん@3周年:2006/10/10(火) 02:52:54 ID:Rvn4GixO
渡海 難さん、前法務大臣が大谷派の信者で『任期中は死刑執行書にサインを
しない』と仰ってました。
浄土真宗は死刑を認めていないのですか?
また認めていないのなら、悪人は阿弥陀様のみが裁き救済するといった思想なのでしょうか?
不勉強ですみませんが、ご教授下さい。

99 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:42:39 ID:MA3Xm5Id
>>94
>みなさんの琴線に一番響いた解釈はどんな解釈でしょうか?
  自分は、牧師さんの解釈が一番心に響きましたよということでしょうか。まあ結構な話でしょう。

>この世に生きることそのものが地獄なのだと解釈されました。
  まあ、人それぞれ好き好きがあるでしょう。

>この世は地獄のようなものだから、その現実を受け止め、受け入れて生きるべきだということで
しょうか?

 牧師さんの解釈への疑問は、牧師さんに直接なさったらいかがでしょうか。その方のホームーペー
ジには、メールアドレスも書いてありましたよ。

100 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:45:28 ID:MA3Xm5Id
>>96
>俺とはかんけーない事が解った。だって八十億劫の生死の罪を除かれたらしいので・・・

 世の中には医者いらずという人は少なくない。同じようなもので、宗教なんか全く必要ないという
人も多い。生涯、宗教などには全く関与しないで、立派な人生を全うしていく人は決して少なくない。
 宗教に振り回され、宗教で不幸のどん底に落ちたという人は、宗教で救われた人の何十倍、何百倍
と多いだろう。宗教は阿片だというのは、僕は決して否定しない。宗教は恐ろしい。

 宗教が本当に必要という人は少ない。しかし僕はそういう人は存在すると思う。そういう人には、
正しい宗教が正しく説かれると、実に素晴らしい人生が開けるだろう。しかし逆に、インチキ教義がデ
タラメに説かれると、やはりそういう人にも悲惨な結果がやってくる。

 誤解に基づく判断だったとしても、結論として自分は宗教に触れるのは止めようという選択は決し
て間違った選択ではない。No96は、宗教など全く必要なく、危なげのない人生を歩んでいけるこ
とを祈るよ。
 不幸にして、万一、宗教が必要になったときは、正しい宗教が正しく説かれる縁と正しく出会える
ことを祈っている。

>まあその調子で細木数子の所に乗り込んで
   存じ上げない。一面識もないもない方だ。

>少しは話が見えるけど
    あなたは、宗教などに興味を持たず、自分らしい自分の人生を歩む方がいい。

101 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 19:47:41 ID:MA3Xm5Id
>>97
>ぼくは、地獄往き間違いないしそれを回避する気概さへない

 地獄往きなんていう夢物語はどうでもいい話だ。今考えなけりゃならんことじゃない。それよりも、
身体が健康な間は、命尽きるまで全力を尽くすことが大事だ。

>地獄でみんなで念仏一揆しても良いし、一人だけだったら阿弥陀さんや親鸞さんに念仏で悪態をつ
きます

 絵本のお伽噺は絵本の中だけにしておきなさい。

102 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/10(火) 20:00:17 ID:MA3Xm5Id
>>98
>浄土真宗は死刑を認めていないのですか?
    そんな話は聞いたこともない。

>悪人は阿弥陀様のみが裁き救済するといった思想なのでしょうか?
    そんな話は聞いたこともない。
 ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。死刑の執行は是か非かは、法律・政治・民主
主義・法治主義・人道主義・社会倫理・社会正義という立場で考えればいい。親鸞の往生極楽の道
とは関係がない。


 法務大臣が死刑執行のゴーサインを出さないとはどういうことか。死刑判決を、事実上終身刑に
切り替えたというということでしょう。
 日本では終身刑がない。なぜなら、生涯刑務所に入れておくことは人道主義に反すると考えられ
ているからだ。だからこそ、無期懲役受刑者は、十五年位で出所する。死刑判決が出ているのに、
死刑を執行しないというなら、死刑受刑者でも刑務所から仮釈放しないと、これは人権侵害になる。
 死刑制は、死刑が刑の執行内容であり、収監は刑の執行項目ではない。死刑執行まで暫定的に短
期間(6か月以下)収監することは法の予定していることだろうが、無期限に収監するという収監
刑を死刑囚に執行することは予定していない。死刑囚の収監は、死刑を執行するための身柄確保で
あり、もし死刑の執行をする予定がないなら、さっさと家に帰宅させなければならない(居住の自
由)。
 行政府の長が独断で死刑判決を終身刑に切り替えることは、法治主義・三権分立・人道主義・社
会正義・憲法に反する。死刑囚を、正当な手続き無く、長期間収監し、が死刑にならず刑務所で天
寿を全うした場合、奴隷的拘束と苦役の禁止(憲法18)と居住・移転の自由(憲法22条)違反
になるだろう。死刑囚の遺族が、憲法違反を理由に国家賠償請求してきたら、ああいう法務大臣は
どう言い訳するんだろう。阿弥陀様の命令でしたとでも言うんだろうかね。

103 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 09:58:38 ID:0kWO1uLG
 機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減とはどこか。かつての王選手にとっては、例えば一本
足打法の習得に向けて果敢に練習を重ねて行くところだったろう。現代の朝青龍関などにとっても、
果敢に練習を重ねて行くところだろう。歌舞伎の勘三郎さんなどには、歌舞伎の道で基本的な練習
というのがあるはずだ。
 なぜ練習をするのか。もともと我々自身は、野球が下手。相撲が下手。歌舞伎が下手なんだ(機
の深信)。基本的な練習形態には、そんな自分たちを何としても上達させずにおくものかという先
人の不退転の決意が込められている(法の深信)。だからこそ、一流を目指す人は練習を重ねる。
一流と言われる人々は、みな練習、訓練を重ねて育っている。
 王さんには王さんなりの機の深信と法の深信のたて方があったろう。朝青龍関には朝青龍関なり
の機の深信と法の深信のたて方があるはずだ。中村勘三郎さんには、中村勘三郎さんなりの機の深
信と法の深信のたて方があると思う。ある人は、バッティングであり、ある人は相撲であり、ある
人は歌舞伎である。その外にも様々なたて方がある。人それぞれで、形が違う。学術研究の中でた
てる人もいる。絵画の学習の中でたてる人もいるだろう。そば職人はそばの作り方の中でたてるだ
ろうし、パン職人はパンの作り方の中で機の深信と法の深信をたてるだろう。
 善導・法然・親鸞に連なり、善導・法然・親鸞流の仏道をたてる者には、また相応の機の深信と
法の深信のたて方がある。たち方がある。我々はそれを称名念仏でたてる。

104 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 09:59:21 ID:0kWO1uLG
 念仏は座禅して称える。結跏趺坐、半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法だ。観無量寿経の仏達は
結跏趺坐する。略式的には僕はアマチュアの家庭では椅子禅という形もあるだろうと考える。正座
はだめかと聞かれることがある。僕にはあれはだめ、これも駄目という資格はない。ただし、結跏
趺坐、半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法ということだけ認識があればいいだろう。
 姿勢を正し、呼吸を整えながら念仏を称える。僕は最近、五会念仏を始めた。これまで五会念仏
は、儀式用の念仏方法だろうと思っていた。だからほとんど見向きもしなかった。しかし、やって
みると、非常に効果があることが分かってきた。あれ儀式のためのものではない。個人が、単独で
実践的に念仏するときの非常に効果のある方法だと感じてきた。法然も親鸞も、間違いなく五会念
仏を教えていたんだろうと確信できる。五会念仏は、次のように行う。
 第一の会は平声に緩く念ず 南無阿弥陀仏 
 第二の会は平に声を上げて緩く念ず 南無阿弥陀仏 
 第三の会は緩に非ず急に非ず 南無阿弥陀仏
 第四の会は漸く急に念ず 南無阿弥陀仏
 第五の会は四字に転じて急に念ず 阿弥陀仏
          (五会念仏法事儀讃 略抄 <親鸞作>)

105 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/11(水) 10:00:21 ID:0kWO1uLG
 親鸞は関東の弟子に言った。念仏三昧は、無上深妙の禅門であると。座禅のない念仏は、腹を空
かした人が自分に向かって吹いてくる風を思いっきり腹の中に蓄えようとするものだ。これでは腹
の足しにはならん。念仏は座禅して称えよ。座禅して行えば十種の益(信の巻)を得る。
 善導・法然・親鸞に連なる念仏者にとって、機の深信と法の深信のほどよい中道さ加減とは、か
つて王選手が繰り返し繰り返し一本足打法を練習したように、我々にとっては、可能な範囲で座禅
しながら繰り返し繰り返し五会念仏を実践していくことだ。一本足打法によって王選手はホームラ
ン王の道を歩んだ。念仏からは我々には十種の益が開けてくるだろう。 
                      <二種深信 終わり>

106 :名無しさん@3周年:2006/10/11(水) 15:00:45 ID:lK02MTIQ
渡海さん、こんにちは。
東条英機(大谷派信者)が死刑執行日に、自身があの世で救われるよう
『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と必死に唱えていたそうです。
これで救われるというならば、いくら人を殺めたとしても『南無阿弥陀仏』と唱えさえすれば
救われるということでしょうか?
つまりは、この世でどんな悪事を働いたとしても『悪人正機』で阿弥陀仏の本願により
救済されるということなのでしょうか?

107 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/12(木) 20:28:44 ID:4935Rtfb
>>106
戒律を議論した後で論じてみたいと思います。


108 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/15(日) 11:01:51 ID:duwSUG0u
>>53
>南無阿弥陀仏と唱えることが戒律なのではないでしょうか?

 善導は、仏教における戒律の地位を後退させ、その代わりに称名念仏を前面に出したけど、称名
念仏を戒律にするという考えは、浄土教にはないだろう。法然にも、一遍にも、融通念仏宗の良忍
にもないと思う。
 
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて  供養恭敬を薦めしむ 
(正像末和讃)  

末法濁世の今時の衆生無戒のときなれば、たもつものもなく、破するものもなし(口伝抄)。

 親鸞は、無戒の僧という自覚を持っていた。無戒とは、戒律がないといことだ。しかし無戒とい
う概念と僧という概念が並立するのか。ここは、大いに議論があるところだ。なぜなら、無戒とは、
僧としての最低条件がないといことだからだ。今後、もうちょっと考えてみよう。

109 :名無しさん@3周年:2006/10/15(日) 17:27:04 ID:3XTBIzbR
>>108
>>親鸞は、無戒の僧という自覚を持っていた。無戒とは、戒律がないといことだ。しかし無戒とい
>>う概念と僧という概念が並立するのか。ここは、大いに議論があるところだ。なぜなら、無戒とは、
>>僧としての最低条件がないといことだからだ。今後、もうちょっと考えてみよう。

なんかパラドックスが生じますよね。
たとえば、『人間は無欲になれるかどうか』。
人間が無欲になろうとするのも『欲』であるので、
結果的に人間は無欲になれないみたいな。

110 :名無しさん@3周年:2006/10/15(日) 18:24:25 ID:PsJSBBH0
自分で非僧非俗を名乗ってたじゃないですか。

111 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 00:17:01 ID:0hAVYc3h
>>109
>人間が無欲になろうとするのも『欲』であるので、結果的に人間は無欲になれないみたいな。

 ここはちょっと違うと思うよ。
 親鸞の無戒は、無戒になろうとしてなったんじゃない。
 主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。 〜 罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐
す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。
 親鸞の場合、いわば冤罪で僧籍を剥奪された。このとき、僧としての受戒の効果が全て剥奪された。
 まあ、本当に冤罪だったかどうだったかは、僕は知らない。歴史家じゃないからね。誰かを庇っ
て身代わりになったかも知れない。いずれにしても、国家によって無戒の身にされたんだろう。

 通常の優婆塞であれば、自分の意思で出家するという選択肢もあるが、いったん剥奪されれば、
当時のことだから名誉回復などと言うことは考えられなかったろうと思う。

>>110
>自分で非僧非俗を名乗ってたじゃないですか。

 ここは大事なとこだよね。ところで、無戒なんだから、当然「非僧」は分かる。それでは、「非
俗」とはどういう意味なんだろうね。問題はここなんだ。非俗とは僧という意味だ。しかし、非僧
だと言っている。親鸞に連なる法流では、僧が僧であるといえる根拠は何かといことだ。ここは
大きな問題だろう。

112 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 10:32:14 ID:0hAVYc3h
 浄土真宗を学ぶ場合、親鸞仏教と法然仏教との原理的根本的相違というものを認識しておく必要
がある。法然仏教は破戒を許容する。しかし、そこに無戒という考えはない。仮に無戒という言葉
を使っていても、それは親鸞が言う無戒ではない。破戒と同じような意味と考えるべきだろう。
 親鸞仏教にも破戒という言葉が登場するが、しかしその意味内容の実体は無戒である。親鸞仏教
は無戒を本質とする。破戒と無戒とは似たようなものと思うかも知れないが、全く違う。破戒は破
るべき戒律がある。つまり有戒なんだ。無戒とは、その破るべき戒律もない。そういう意味で全く
違う。
 親鸞仏教は流罪を原点としている。法然仏教には流罪事件の影響が全くない。なぜなら、法然仏
教は流罪事件前に完成していたからだ。流罪事件前に完成した法然仏教は、流罪事件によって変動
するようなものではなかった。ところが、親鸞仏教は流罪事件から始まった。親鸞仏教は流罪事件
を原点にする。そのため、親鸞仏教は法然仏教と別異の道を歩んでいる。
 親鸞仏教の大きな特徴は無戒という概念だ。これはその後、日本仏教全体に大きな影響を及ぼし
た。現代の日本仏教は、事実上無戒仏教化している。もともと釈迦仏教は三学を基礎とする。三学
とは、戒律と禅定と知恵だ。戒律が崩れれば三学はなくなる。三学が無くなれば、仏教は仏教でな
くなる。無戒仏教というのは、限りなく外道に近い。つまり、外道に転落する紙一重のところにあ
る。

113 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/16(月) 10:35:32 ID:0hAVYc3h
 親鸞の無戒の論理が正しく伝わって無戒化したなら、これは時代の流れとして、日本仏教にいい
結果を生んだと思う。しかし、浄土真宗は、日本仏教全体には、無戒という結論だけを軽薄に伝染
させた。残念なことに、他の既存諸宗は、この浄土真宗が発した猛毒に抵抗力がなかった。現代で
は日本仏教は、全体が事実上外道と化している言ったら言い過ぎか。最も外道と化しているのは、
無論、その発信地である浄土真宗であるという、実に残念な結果が生じていると僕は思う。
 最近、東南アジアから非常に戒律に厳しい上座仏教の坊さんが来日し、日本で多くの支持者を集
め出しているようだ。一方で、日本古来の律宗などは、非常に衰退しているようだ。ここで改めて
戒律が見直され、日本全体に例えば戒律が根付くなら、浄土真宗の猛毒から日本仏教を救うという
意味で、社会にいい結果を生み出すかも知れない。しかし、このとき、仮にも大乗仏教全体が否定
されるようなことになれば残念なことだ。
 我々の先人達は、小乗仏教と激しい論戦を行い、大乗仏教を選んできた。将来の人々が小乗仏教
を選ぶというのであれば、それはそれで自由な選択だろう。しかし、先人が大乗仏教を選んできた
理由を知らないで、単に古着を脱ぐように大乗仏教全体を使い捨てるようなことがあれば、これは
残念なことだ。
 日本仏教全体を無戒化した発信源、張本人として、親鸞における無戒とはどういうことなのか、
浄土真宗の立場の人は、改めて親鸞の本当の無戒の思想を明確化し、発信し直すことは必要だろう
と僕は思う。親鸞における無戒の思想とは、決してアナーキーではない。その実体は厳しく持戒を
守ろうとする仏教原理主義に近いということも、やがては理解して貰えるだろうと僕は思う。
    (2,3日休みます)

114 :名無しさん@3周年:2006/10/16(月) 11:55:29 ID:XOfrWI0O
        人
       (::::::)  渡海 難  ◆Fe19/y1.mIの正体
      (:::::::::::::) 
     (:::::::::::::::::::::)  小中高といじめられてきた。その扱いはまさに虫けら以下だった。
    (:::::::::::::::::::::::::::)  高校を中退してからは、一日中家の中に引き篭もっている。
  /:::::::::::::::::::::::::::::::\  50歳過ぎた今でも無職。友達も恋人もなし。PCだけが俺の世界。
 (:::::::::::::::::|_|_|_|_)  更に、肥満、腋臭、若禿、脂症、ニキビ面、インキン、真性包茎・・・
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ   どうして俺だけがこのような惨めな境遇なのか・・・。
  |::( 6  ー─◎─◎ )  
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)   
/|   <  ∵   3 ∵>
::::::\  ヽ        ノ\ 
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::

115 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/18(水) 22:06:10 ID:CfHk5jSS
>>113
ちょっと多忙です。戒の続きは来週から書きます。

116 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 08:12:29 ID:HpzZZRIG

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃                              ┃
┃【今日のピークパフォーマンス方程式】            ┃
┃                              ┃
┃ ■私たちは日々大量の情報に触れるが、100のうち100すべてが ┃
┃  入ってくるわけではない。無意識に自分の脳というフィルタ ┃
┃  を通して、必要と判断されたものだけが入ってくる。    ┃
┃                              ┃
┃ ■1000万部、数百万部の全国紙が読まれているが、誰一人   ┃
┃  同じ量の情報を受け取っていない。            ┃
┃  十人十色どころか、100万人100万色、1000万人1000万色だ。 ┃
┃                              ┃
┃ ■情報取得量は、立てているアンテナの高さと本数に比例する。┃
┃  アンテナの高さとは、目標の高さ。            ┃
┃  アンテナの本数とは、情報収集しているジャンルの数。   ┃
┃  可能な限り高い目標を可能な限り多く掲げたい。      ┃
┃                              ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「平成・進化論。」━━┛


117 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:12:30 ID:hcGrd32h
 親鸞仏教は、流罪事件を原点とする。親鸞はこのとき、自らが僧籍を奪われるという経験と、法然
上人が僧籍を奪われるという事実を目撃している。法然は天皇の戒師を勤めるほどの天台宗の高僧で
ある。戒律の時代は終わったと親鸞が悟ったのは、恐らくこのときだろう。
 戒律が無くなれば、仏道入門者は、授かる戒律がない。授かる戒律がないということは、大衆には
仏道に参画する余地が無いということだ。仏教は戒・定・恵という三学を基礎とする。戒律がないと
言うことは、三学がないと言うことだ。三学がないということは、仏道が成立しないことを意味する。
 仏道は終わったのか。仏道に終わりがあったとすれば、それは仏道自体に生老病死があったという
ことだ。生老病死があっとすれば、仏道は迷いの中にあったということだ。つまり仏道は生死を分断
できていなかったということだろう。真実の教えではなかったということではないか。
 仏道が真実の教えであったとすれば、それは生死を分断しているはずである。輪廻を断っているは
ずである。輪廻を断っていれば死は無いはずだ。仏道に終わりは無いはずである。戒律が崩れ、仏道
はどのように継続するのか。親鸞は、僧籍を奪われても仏弟子としてのアイデンティティをなくさな
かった。戒は生老病死のある仮の教え、無戒の教えこそ、生死を超えた真実の教えである。親鸞はそ
う考えたのだろう。

 仏曰く、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下
十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。

118 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:14:22 ID:hcGrd32h
 五逆の者も、正法を誹謗する者も、等しく救うぞ。親鸞は、中国の高僧、善導が提唱したこの考え
に真の仏教の可能性を探っていく。
 親鸞仏教は流罪を原点とする。越後に流罪になるにあたり、禿と名乗る。自らを剃髪者と称すれば、
これは僧を意味する。そのような名乗りは僧籍を失った親鸞には許されなかっただろう。しかし、禿
という名には、朝廷はこれを禁止する理由がなかったようだ。

 清盛の召使はるゝ禿とさへ云へば、道を過ぐる馬、車もよけて通り、内裏の御門を出入するにも何
者ぞと咎むるものもなく、まことに都方にて威勢あるやうな人も目を側めて萬事見ぬふりをせられた
と申す(天草平家物語)。

 平家の時代、「禿」と名乗る平家親衛隊がいたようだ。平家が滅亡し、鎌倉幕府の力が京都政権を
凌駕するようになってくると、京都には平家への郷愁が戻ってくる。禿という名を名乗りたいという
親鸞の申し出は、平家を倒した鎌倉幕府に対する京都政権の微妙な心理を読んだものではないか。し
かし、この禿の中に、親鸞は剃髪者すなわち僧であるという意味を込めていたことは間違いないだろ
う。

 『月蔵経』巻第八「忍辱品」第十六に言わく、 〜 その時にまた一切天・龍、乃至一切迦た富単
那・人非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごときの言を作さく、「我等、仏一切声聞弟
子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。
護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。もし余の天・龍、乃至迦 富単那等、それ
悩乱を作し、乃至悪心をして眼をもってこれを視ば、我等ことごとく共に、かの天・龍・富単那等、
所有の諸相欠減し醜陋ならしめん。彼をしてまた、彼等と共に住し共に食を与うることを得ざらしめ
ん。また同処にして、戯笑を得じ。かくのごとく擯罰せん。(化身土巻)

119 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/22(日) 13:15:42 ID:hcGrd32h
 月蔵経は言う。天・龍を始めとする世界のあらゆる精神達あるいは命達は、釈迦の説法を聞き、新
たに誓いを建てた。仮に釈迦の戒律を守っていなくても、髪とヒゲを剃り、袈裟を着ているだけの形
ばかりであっても、形が僧の姿をしていれば、自分たちはその人を先生と考え、必ず守り育てます。
必要なものを与え、経済的に決して困らないようにしてあげます。もし、間違った心を起こし、誰か
がそれを蔑むようなことがあれば、そいつを思いっきりぶん殴ってやりましょう。一緒に食事をする
こともなく、談笑することも控えましょう。

 親鸞は、流刑の地に月蔵経のこの言葉を抱いて赴いたのだろう。流刑地で、僧服を着ることは許さ
れなかったと思うが、時折髪は剃ったかもしれない。晴れれば荒れ地を開墾し、魚を捕り、雨の日に
はあばら屋で念仏を称えていたことだろう。そんな親鸞の下には、やがて近くの腕白坊主共が覗きに
やってくる。子供達に都の子供の遊びを教え、自分の名前の書き方を教え、算術を教えれば、次には
大人もやって来る。
 鎌倉時代、雪深い北陸で流刑人が持戒の生活を維持することは不可能に近かったろう。髪も剃れず、
無精髭もそのまま、それでも念仏を称えるだけの一介の元天台僧の下には、多くの支援が集まってき
たようだ。

 仏教の戒律は無くなった。それでは仏道者は無頼漢でいいのか。倫理道徳はいらないのか。僧の使
命は何か。僧の社会的責任。僧の義務は何か。親鸞の考えをさらに考えていこう。

120 :名無しさん@3周年:2006/10/24(火) 19:51:09 ID:HNprCuSb
恵信尼は越後に所領を持っており、経済的に困窮することはなかったと思われ。

121 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/25(水) 00:48:26 ID:76AhV3G8
>>120
>恵信尼は越後に所領を持っており、経済的に困窮することはなかったと思われ。

 面白いことを考えるんだね。

代官「親鸞さんよ。それで、これから貴方には越後に行ってもらうんだが、越後はいいところだ
ぞ。三善為教という豪族がおる。娘はちくせん(恵信尼)という。可愛い娘御だ。あなたは将来、
浄土真宗をお開きになるのでしょう。かわいいちくせんと結婚し、越後では楽しく暮らせる。いい
住むところも、着るものも、食べるものも、何の不自由もない。三善為教は大金持ちだ。ああ、う
らやましいなぁ」
 親鸞「そうでございましたか。お代官様。それでは、わたくしは早速越後に楽しく出かけ、その
かわいい娘と夫婦になり、三善為教と何不自由なく暮らしましょう。おいしいものを沢山たべ、何
の苦労もしないで笑って楽しく過ごしたいと思います。そしてわたくしは、やがて浄土真宗という、
大きな宗派を作ります。そしてその宗祖となります

 越後に到着すると、可愛い顔をしたちくせんが道ばたで待っている。
ちくせん「あ〜ら、親鸞様。ようこそいらっしゃいました。それでは二人は早速結婚して、仲良く
楽しく暮らしましょう。おいしいものも、たくさんたべましょうね。浄土真宗というおおきな宗派
を楽しく作りましょう」。

 親鸞は、越後で何不自由なく、毎日毎日楽しく笑って過ごしましたとさ。

 ひょっとして、こんな風にでも考えるんでしょうか。

122 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/25(水) 00:49:56 ID:76AhV3G8
 宗祖親鸞は、越後に向かうに当たり、何を考え、また流刑囚として何を感じ、経験したか、親鸞
の記録から、合理的、創造的に思索を巡らすのは、親鸞に学ぶ者の務めだと思いますよ。

 日野家の記録には、恵信尼を、三善為教女と書いてある。女という字では、三善為教の娘か、下
女か、居候か分からない。娘というのが通説らしいが、これを肯定する特別な証拠はないんだろう。
否定する証拠もない。
 三善為教は豪族だったらしいが、仮に三善為教の娘だったなら、流刑囚の身分で地元の有力者の
娘と夫婦になるには、余程の信頼を得たのだろう。その陰では、親鸞には大変な苦労があったろう
と考える。下女か居候だったなら、三善家から援助はなかったろう。
 親鸞思想の原点は、教行信証の化身土巻に行間に書かれていると考える。

123 :名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 21:31:46 ID:NyUuwQ3X
>>121
突っ込み所は沢山ありますけど、面白い面白くないで言えば面白くないので止めておいて、ちょっと違う質問をしてみたいと思います。

あなたは念仏者はすべからく富貴であってはならないとお考えなのでしょうか?
もしそうだとしたら、それは究極的には何も持たないこと(無一物)を指向するのか、それともしないのか?
それはどのような理路を辿って導かれる真理なのか?
或いは、富貴であるとか無一物であるとか、そういった対立概念は重要でないのか?
重要でないなら>>121のレスはどのような存念をもって書かれたのか?
あなた自身の考えに基づくのか親鸞の教説に基づくのかも明記した上で、是非ともご教授願いたい。

124 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/26(木) 00:08:15 ID:7HoMJpn+
>あなたは念仏者はすべからく富貴であってはならないとお考えなのでしょうか?
     およそ考えたことがない。関心もない。コメントできない。

>そういった対立概念は重要でないのか?

 およそそのような種類の思考を巡らすことがない。関心もない。思考
も巡らない。

>是非ともご教授願いたい
   ご依頼に応えられず申し訳ない。

>121のレスはどのような存念をもって書かれたのか?

 お気に障れば無視して下さい。親鸞が見たもの、感じたもの、考えたことなどを、できるだけ親
鸞の視点で考えてみようという提案をしたかったんだと思ってください。

125 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/27(金) 00:53:23 ID:HGmj2IQk
 親鸞は関東から帰京するにあたり、関東のお弟子さん達に次のような文書を残している。
               (専修寺 宗祖真筆)

 浄肉不浄肉の文 涅槃経に言わく。人、蛇、象、馬、獅子、狗(いぬ)、猪(いのしし)、狐、猿、
驢(うさぎうま)、十種不浄肉。
 又言、三種浄肉。見・聞・疑。見といふは、わが目の前にて殺す肉を食するなり。聞と言うは、我
が糧に採りたるを食するを言ふ。疑といふは、我が糧かと疑ひながら肉食をするとを言ふなり。この
三つの肉食を不浄と言ふ。この三つの様を離れたるを三種の清き肉食と言ふなり。

 口伝抄のエピソードを紹介しておこう。
 聖人、別して勇猛精進の僧の威儀を正しくましますことなければ、ただ世俗の入道、俗人等に同じ
き御振舞なり。よって、魚鳥の肉味等をもきこし召さるること、御憚りなし。ときに鱠を御前に進ず。
これをきこし召さるること、常の如し。

 この文は何を意味するのか。無戒の親鸞の戒律に対する考えが非常によく現れていると思う。今日
は時間がない。後に、詳細に論じよう。

126 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/10/29(日) 00:57:21 ID:DZHutE80
 親鸞が鳥や魚を食べること自体に余り抵抗が無かったというのは、口伝抄から見る限り事実なん
だろう。しかし、親鸞を、例えば公然と肉食妻帯した高僧だと言って、盛んに持ち上げている人な
どがいる。そういうのを見ると、親鸞聖人が、草葉の陰でお風邪でも召し、くしゃみでもされてな
ければいいがなぁと、僕などは心配したくなるときがある。
 徳川時代は東北が稲作の北限だった。鎌倉時代は鎌倉当たりが北限だったのではないか。親鸞が
暮らした北陸、あるいは北関東は、米はなく、おそらく自生していた粟・稗・麦・栗などを食べ、
主食は狩猟した鳥や魚などではなかったか。北陸、あるいは北関東で、肉食をしてはならないなど
と言えば、民衆は飢えて死ねということでは無かったか。この辺は、歴史家の意見を聞きたい。
 口伝抄を読む限り、関東在住時、親鸞は鳥や魚を食べることに抵抗は無かったようだ。しかし、
浄肉不浄肉の文を読む限り、親鸞は鳥や魚を食べることでも飽くまで仏教の戒律の枠にこだわって
いる。ここは注目すべきだろう。
 浄肉不浄肉の文は誰に向かって書き残した物か。恐らくこれは、関東教団の出家者に向かって書
き残したものだろう。関東には、漁師もいた、狩人もいただろう。そういう人々に向かって浄肉不
浄肉の文を送ったとは考えられない。
 ここで二つの意外性がわき起こる。親鸞は無戒ではなかったのか。無戒でも、戒律を守れとはど
ういうことか。しかも、無戒といいながら、関東教団の中に出家集団の存在を示唆している。口伝
抄からは、親鸞は僧(出家)として扱われている。これは一体何を意味するのか。親鸞の無戒とは
一体どういうことなのか。これは親鸞仏教の重要な論点である。考えていこう。

127 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/02(木) 10:57:25 ID:Z21Uvzog
 無戒でも関東では僧として扱かわれていた。これは、結局、私度僧という扱いだろう。行基菩薩
のように大衆を動かすような僧が、政府の統制外で出現するようなことは困る。そこで、政府は中
国から鑑真和上を招き、東大寺、国分寺、国分尼寺を全国に建てた。しかし、僧の国家管理が行き
届いていたのは、京都・奈良を中心にした関西圏だけであり、特に関東、東北などには国家の統制
を受けない多くの私度僧がいただろうと思う。
 私度僧とは、師匠を持たないで勝手に出家宣言した僧である。仏教は、出家得度にあたり、原則
は師匠から戒を授かり、戒律を守ることを誓って入門するという方法を採る。しかし、経典は師匠
の無い人には自分一人で僧になる道を認めている。鑑真和上以前の僧は全て私度僧であり、空海も
30歳までは私度僧だった。空也も正式に得度したのはかなり遅く、長い間私度僧として活動して
いた。
 私度僧は、師匠がなくて勝手に出家した僧である。手続きは、例えば梵網経などに詳しく書いて
ある。ただし、非常に厳格な要件が必要だ。経典は命がけの修行条件を求めている。恐らく過去の
多くの私度僧達は、そのような条件を満たすことなく、勝手に僧宣言を行い、僧に近い身なりで、
僧のような生活をしていたのだろうと思う。そういう人々も、僧として関東では処遇されていただ
ろう。
 親鸞の時代、関東の大名は、みずから一切経を集めるなど、京都に対向できる文化圏の創設を目
指した。比叡山で二十年間修行を積み、さらに数年間法然の下で修行を積んでいたという親鸞が、
関東では僧として遇されても何ら不思議はないだろう。受戒の効果は流罪によって消滅したと言っ
ても、それは京都文化圏での話である。新興文化圏には新興文化圏なりの価値観がある。特に、法
然教団には熊谷直実がいた。熊谷直実は、義経と共に平家と戦った源氏の武将である。熊谷直実は
その後法然の下で出家し、親鸞はその熊谷直実とともに法然教団にいた。熊谷直実と昵懇であれば、
京都政府からは追放された身でも、関東政権からは厚く遇され、関東在住の私度僧のリーダのよう
な地位が与えられていたのではないだろうか。

128 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:45:01 ID:PJS5kbcM
 親鸞の考えは、新興の文化圏では幅広く受け入れられたようだ。親鸞思想は無戒という考えにあ
る。無戒とは、戒律がないということだろう。戒律がないと言うことはどういうことか。従来の戒
律を否定するということでも、従来の戒律に反抗すると言うことでもない。飽くまで、戒律がない
ということ。つまり制度的、形式的には命脈が尽きたと認識しようということだろう。
 命脈が尽きれば受戒は意味を失う。つまり、受戒という形式に意味が無くなったということだろ
う。受戒が意味を失えば、出家・在家という境はボーダレスになる。戒律を守って生きていけば、
それだけで人々の尊敬を受け、人々を指導できる信頼的基盤が得られるということもなくなる。そ
のことは、法然上人が捕縛され、流罪になったという事実から明らかである。国家そのものが、持
戒の高僧に対する尊敬を失った。
 受戒が制度的に意味を失ったということは、そこに書かれていることが無意味になったというわ
けではない。人を殺してはいけないと教えていた戒律が無効になれば、人を殺してもいいことにな
ったのか。そんなことはない。嘘をついてはいけないと教えていた戒律が無効になれば、嘘をつい
てもよくなったのか。そんな馬鹿な話はないのだ。
 国には憲法がある。法律がある。市町村には条例。会社には社内規、学校には学則、町内には町
内規約がある。何が善、何が悪。現代はそんなことを仏教が、仏教の看板で教えなければならんよ
うな時代ではない。お坊さんに教えて貰わないと、善悪が分からんなどと、人々がそんなことを言
う時代じゃないんだ。

129 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:46:16 ID:PJS5kbcM
 お釈迦様の時代から二千年以上たっている。大昔の、しかも外国(インド)の物差しをもってき
て、これをしなさいとかあれをしては駄目と言ってみても意味がない。パン屋さんにはパン屋さん
の取り決めがある。うどん屋さんにはうどん屋さんの取り決めがある。パン屋さん、うどん屋さん
は、パン屋さん、うどん屋さんの取り決めを守ればいいし、取り決めを破れば、取り決めに基づい
て制裁を受けるだろう。
 法律や条令を破れば、法律・条例に基づいて人は罰せられる。悪を行って法律・条例で罰せられ
れば、仏教はそれに追い打ちをかけるように重ねて弾劾はしない。地獄に堕ちるぞと、脅迫して威
嚇することもない。そんな必要もない。そんな時代ではなくなったということだろう。
受戒がその意味を失えば、出家と在家とはボーダレスになる。ボーダレスになっても、出家が必
要ないということではない。人々が無明の中でケダモノになり、鬼になり、あるいは有頂天になる
というこの十二因縁の事実は、昔も今も変わりがない。人々が人生の危機を迎えるというリスクは、
昔に比べれば、時代と共に比較的少なくなってきた。しかし、解決不能の危機というのは誰にでも
厳然とある。人々に人生の危機管理の方法を伝えるという僧の教育者としての社会的役割は、釈迦
の時代に比べてもいささかも小さくなってはいない。前に生まれた者が後を導き、後に生まれた者
は前を訪うという、この連続は決して断ってはいけない。
 パン屋さんにはパン屋さんの取り決めがある。うどん屋さんにはうどん屋さんの取り決めがある。
パン屋さん・うどん屋さんは、それぞれの取り決めを守ればいい。それでは、人々に危機管理を教
えようとするその教育者はどうなのか。教育者にはルールはいらないのか。悪人こそ救われるので
あり、悪人正機のお救い教ということであれば、破廉恥の無頼漢になり、拝み屋シャーマンという
社会の寄生虫になれば幸福なのか。そんなことは決してない。やはり厳しく戒律を建てるべきだろ
う。

130 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/03(金) 10:47:35 ID:PJS5kbcM
 受戒そのものに意味が無くなっても、戒律の中で記載されているもの全てが無意味になったわけ
ではない。現代では意味を失った条項もあるだろう。しかし、現代の価値観に照らして妥当するも
のは決して少なくない。多くのリスクを負いながら、十二因縁の束縛の中で生きている人々に向か
って危機管理の知恵を発信していこうとするなら、現代でも妥当する条項については、やはり守る
べきだろう。
 法然上人の破戒と親鸞の無戒とは、大きく異なると考える。法然上人の破戒は、自らは僧として
厳しく戒律を守りつつ、他の人々が仮に反戒律的な行動に出ても出来る限り大きく包容していこう
とするものだろう。すなわちこれは、他者の反戒律的な行動に視点を向けている。親鸞の無戒は、
逆に自らに視点を向けている。受戒というものが既に意味を失った以上、可能な限り自律的に戒律
の中身を守っていこうとする考えだ。かつて、大乗の菩薩にとって戒律を守ることは、人々からの
尊敬を直接確保する重要な手段だった。しかし親鸞には、人々からの尊敬を確保するための手段と
いう観念はない。戒律を保持すれば、それだけで反射的に人々の尊敬を受けられるという観念は全
くない。しかし、その親鸞でも、教育者には人々からの尊敬が無用であるという考えも無い。それ
は、浄肉・不浄肉の文書から明らかだろう。あの文書は、不浄肉を食べれば人々の尊敬を失うぞと
教えるものだ。教育者であろうとするものは、人々からの尊敬を忘れてはいけない。そう教えてい
る。
 社会教育者であろうとすれば、その場その場で人々の尊敬を受けられるように努めることは必要
だ。教育の地盤は人々の尊敬にあることは、昔も今も変わらない。人々の尊敬を受けようとするな
ら、戒律の条項には多くのヒントが隠れている。無用なものもあるがヒントもある。僧を自認する
なら、戒律は参考になる。教育者のアイデンティティの問題として、結果的には戒律条項の保持と
いうものを親鸞はかなり厳格に求めていると考える。      続く

131 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/04(土) 10:48:01 ID:4slV/c35
 持戒・座禅を正法と名づく(行の巻)。親鸞は自らを無戒名字の比丘と言う。しかし、その親鸞
が、持戒が正法なんだという。
 法然上人の捕縛・流罪という事実は、戒律に対する社会的な評価を白日にさらした。戒律を守っ
ても、社会はそれを決して評価しない。親鸞自身も、流刑囚となれば、僧としての受戒の効果を失
った。しかし、それでも戒律はその全てが現代では意味を失ったわけではない。社会的な評価もな
く、受戒もなくても、親鸞は、いわば孤高を持して戒律の中身を保持しようとする。自らが受戒の
効果を失った身であれば、自らが進んで人々に他人に「戒律」を総論的に説くことはなかったろう。
戒律だからというだけで、現代はそれを機械的、盲目的に堅持する時代ではない。親鸞は、個々の
項目を一つ一つ吟味しながら、主体的、自覚的、自律的にその実体的な中身を守ること、親鸞はこ
れを正法として重要なことと考えている。
 正法は、座禅と持戒である。念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり。これを如来禅という。
二乗外道の禅ではない(五会法事儀讃略抄 親鸞作)。念仏は座禅して行え(行の巻)。親鸞は達
磨大師から伝わる正当な禅法「如来禅」を説く。
 極楽浄土では結跏趺坐して着座する(観無量寿経)。行住座臥 不問時節久近。念仏は動きなが
ら行ってもいい。止まって行ってもいい。座って行ってもいい。寝て行ってもいい。時間も問わな
い。暫くぶりに行っても、頻繁に行ってもいい。しかし、絵画は額を付けて鑑賞するのが作法、生
け花は花瓶に挿して見るのが作法、飯は手づかみではなく箸を使って食べるのが作法、そうであれ
ば、念仏はできるだけ座禅して称えたいものだ。

132 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/04(土) 10:55:04 ID:4slV/c35
 親鸞は、如来禅こそが正法だという。ただ、誹謗正法は除く(大経)。持戒・座禅を誹謗する者
は除く。持戒・座禅を誹謗する者は極楽浄土に往生させない。大無量寿経はそう言う。しかし「こ
れは未造業について解するなり。もし造らば還りて摂して生を得しめん。彼に生を得といえども、
華合して多劫を径(へ)ん。」(行の巻)。極楽浄土に往生しても、長い間、花は開くことがない
だろう。親鸞は、いまし還りてこの正法を聞く。悪と慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずるこ
と難し(総序)。
 禅律いかんぞこれ正法ならん(行の巻)。座禅・戒律がどうして正法でないということがあるだ
ろうか。本願寺教学では、「座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません」と説く
(浄土真宗やっとかめ通信)。残念なことだ。
 念仏は声声に仏種を下す。座禅持戒は真功を用(もちい)てなり。汝若し修せずして作仏すとい
はば、喩(たと)へば飢(き)け人の空(ひろ)く風を掩(おお)うが若(ごと)し(五会法事儀
讃略抄 親鸞作)。
 念仏は、一声一声に仏になる因を実現させる。しかし、念仏は座禅して行え。戒律を保て。これ
は、観念的なことではなく、実利(十種の益<信の巻>)を得よというものだ。座禅も持戒もない
念仏を称え、これで自分は仏になったと言ってみて、そこにどれだけの実利があるのか。座禅持戒
の無い念仏を称えると言うことは、腹を空かした人が、自分に向かって吹いてくる風を思いっきり
腹の中にため込もうとするようなものだ。これでは腹の足し(十種の益)にはならんだろう。
 本願寺教学は、腹を空かした仏になれと言うのか。そこにどれだけの意味があるのか。腹の足し
にならん仏教より、腹の足しになる仏教を求めよ。親鸞は腹の足しになる仏教を説く。極楽浄土で
多劫を径て長い間花の開かない仏教ではなく、すぐに花開く仏教を学ぼう。座禅と戒律に関する親
鸞の考えは、正確に受け止めていきたいものだ。

133 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/05(日) 10:21:30 ID:O3ppcYQD
 戒律に関する議論は、一応ここで終わりにします。
 もっと続けようかと思いましたが、ここまででも予想以上に長く成りすぎた
感じがします。
 戒の話で残っているのは、親鸞の結婚の問題ですが、これはそれだけでもまた
長くなりそうなので、機会を別にします。

134 :106:2006/11/05(日) 19:24:42 ID:rcIcy+oI
渡海さん、ありがとうございました。
多忙かと思われますので暇なときに106の質問も宜しくお願い致します。

135 :名無しさん@3周年:2006/11/05(日) 19:38:32 ID:/BBRnsu4
>>134

一国の元首が、外交の一手段としての戦争に敗れたからといって
戦勝国が逮捕して死刑にする事自体が国際法違反。傀儡法廷を通しても
実質上は同じこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061105-00000012-yom-int



136 :名無しさん@3周年:2006/11/05(日) 19:47:45 ID:61l8z75/
言うまでもないがバチカンや米国が言っていることは
全て嘘である。彼らは宗教を装ったこのシステムで相当数の
地球民を殺してきている。殺した数は地球人口の相当割合に及ぶ。

キリスト教の言う愛は愛ではない。偽愛である。
スケープゴートを前提とした偽宗教や社会システムなど
人類社会にとってはマイナス以外でしかないだろう。

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1162598313/


137 :106:2006/11/05(日) 22:22:41 ID:rcIcy+oI
>>135
この質問の大事なところは
戦勝国と敗戦国の価値観の相違ではありません。
親鸞思想に基づいた上で
『この世でどんな悪事を働いたとしても『悪人正機』で阿弥陀仏の本願により
救済されるということなのでしょうか? 』
というところです。

138 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/06(月) 08:28:01 ID:ItGuB0hw
>>106
数日したら書いてみましょう。

139 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/08(水) 10:18:34 ID:sta8FcLi
多忙。2,3日 カキコ不能

140 :106:2006/11/10(金) 00:13:29 ID:z9X7BCgh
渡海さん、こんにちは。106です。

>>国には憲法がある。法律がある。市町村には条例。会社には社内規、学校には学則、町内には町
>>内規約がある。何が善、何が悪。現代はそんなことを仏教が、仏教の看板で教えなければならんよ
>>うな時代ではない。お坊さんに教えて貰わないと、善悪が分からんなどと、人々がそんなことを言
>>う時代じゃないんだ。

渡海さんが仰るように、悪人は現世において、憲法等により罰せられます。
この罰せられたことで、現世の罪は相殺されて、死後に阿弥陀仏に救済される
ということでしょうか?
とはいえしかし、現世における最高刑(死刑)等を<<受けさえすれば>>、
救済されるのでしょうか?
これなのであれば、「どうせ救済されるのだから」と自らの欲求を抑制せずに
罪を犯す者もいるはずだと思われます。

すみません、勝手に解釈してしまいました。
渡海さんの回答を待つことにします。

141 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/11(土) 00:22:54 ID:6Rijf3Za
>>140
>現世における最高刑(死刑)等を<<受けさえすれば>>、救済されるのでしょうか?
 別に、最高刑等を受けなくても救われるんだよ。

 106さんは、救いとは何かという、その救いの概念について、誤解があるんだろう。106さん
が救いと考えているものは、仏教が言う救いではない。仏教が救いと考えているものは、恐らく
106さんにとっては救いではないんだろう。

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲
ば、遠く宿縁を慶べ。

 仏道に参加できること。仏道ができる身となるということ。仏道と出会う道が無かったものが、
仏道と出会えたということ。仏道のできなかったものが、仏道をできる身となったということ。
仏弟子になるということ。これが仏教の言う救いだ。

 仏道には、106さんがまだ体験したことのない世界がある。106さんが体験するときっと
見えてくるものがある。仏教が言う救いというのは、実は生の体験に立った非常に生々しく、ど
ろどろしたものだ。僕はそう考えている。その辺をもっと突っ込んで考えていこう。(続く)

142 :106:2006/11/12(日) 19:47:32 ID:0IzOne1F
私が考えていた『救済』とは
死後に阿弥陀仏が浄土へ向かわせることだと思っていました。
当然、それは楽なものではなく、人間にとって苦痛なことだと私は思っています。

他宗教で悪人というのは地獄へ落とされると聞きます。
この地獄とは、たとえば火で身を焼かれて死んでも、また生き返らされて
これが永遠に続くようなものだというイメージを私は持っています。
これは永遠の苦しみですから、『救済』はないです。

対して、親鸞思想は『悪人正機』というのがあります。
人間はすべて悪人で、阿弥陀仏の本願は悪人を救済するところに
あるとされています。

ですから、勘違いしてしまったんだと思います。
親鸞思想において、永遠の苦しみなんていうのはありますか?
まだ、頭が整理できてません。


143 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/13(月) 00:31:19 ID:tt+DbfPA
>>142
>死後に阿弥陀仏が浄土へ向かわせることだと思っていました。

 こういう言い方もできる。確かにできる。ただしその場合、多分貴方の考えている阿弥陀仏の定
義、浄土の定義と、親鸞が考えている阿弥陀仏の定義、浄土の定義とが同じじゃないと思う。貴方
が考えている阿弥陀仏や浄土は、親鸞に言わせれば阿弥陀仏でも浄土でもない。親鸞が考えている
阿弥陀仏や浄土は、貴方に言わせれば阿弥陀仏でも浄土でもないんだろう。多分そこがずれている
と思うよ。

>他宗教で悪人というのは地獄へ落とされる

 悪人は地獄に堕ちる。確かにそうなんだ。しかし、地獄と何かとなると、ここにも定義の違いが
ある。貴方が地獄に堕ちていくと思っている人は、必ずしも仏教では地獄に堕ちていくような悪人
ではない。貴方が地獄に堕ちていかないと思っているような人が、仏教では地獄に堕ちていく。多
分そんなずれがあると思う。

 大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。 〜 大王、それ「衆生」は
出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説き
て「殺」とす。乃至

 その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を
発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。

 時間がないから口語訳は書かないけど、地獄の問題は教行信証の信の巻、阿闍世段で詳細に議論
されていると僕は考える。もし読解力があれば、穴の開くほど読んでみるといい。

144 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/13(月) 00:32:28 ID:tt+DbfPA
>親鸞思想は『悪人正機』というのがあります。人間はすべて悪人で、阿弥陀仏の本願は悪人を救
済するところにあるとされています。

 悪人正機は歎異抄の中にある。歎異抄とは、異を嘆いて書いた本だ。言い換えれば、親鸞の思想
の中に異議を生み出すような原因があったわけです。
 異議を生み出す親鸞肉声の教えは何だったのか、そこをまず掘り起こし、そこからどういう異議
が生じ、悪人正機になっていったか、そのルートをきちんとたどる必要があると思います。

>親鸞思想において、永遠の苦しみなんていうのはありますか?

 弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし(序文)。

 自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁
あることなき身としれ(歎異抄)

145 :名無しさん@3周年:2006/11/13(月) 00:47:38 ID:jQ1xD+n6

                                           
─────────  ヽ从人∧人∧人∧人从人从/
───────── ― )  とっとと逝けぇー!! (
─── /⌒ヽ, ────丿VVVvVVVVVVVvvVVvV\
 ̄ ̄  / ,ヘ  ヽ∧_∧  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   , ” ' ‐ ,
 ̄ ̄ i .i \ (il|l ゚Д゚l|)ヽ,___,, __ _ ,, - _―" ’’・ ∵, ’・, ∧_∧
── ヽ勿  ヽ,__    j i~""     _ ― _: i ∴”_∵ (∵)゚∀。)
______   ヽ,, / / __,,, -- "" ─ "ー ・,. ; ; - 、./つ渡海つ
─────── ヽノ ノ,イ  ─── ― -         / / /
───────  / /,.  ヽ,  ──            .(._.ノLノ
______   丿 ノ ヽ,__,ノ ___ _ _ _     
           j  i                
_____    巛i~ ____ _

146 :106:2006/11/13(月) 00:55:43 ID:9Trmtm3j
う〜ん、私には読解力がないのでちょっと読めないです。。

単刀直入に聞きますと、
『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行けますか?
また、その浄土とはどのような所ですか?
浄土が場所ではないとしたら何なのでしょうか?
そして、浄土は死んだらどのような手続きで行けるのでしょうか?

私が本来、本当に知りたいのは以上です。
すべては親鸞思想上の質問です(当然ですが)。
よろしくお願いいたします。

147 :106:2006/11/13(月) 01:00:25 ID:9Trmtm3j
付け足しますと、
私は『浄土』とは、いわゆる『天国』(幸福が満ちて苦痛のない場所)だと
思っています(ました)。

148 :106:2006/11/13(月) 01:11:35 ID:9Trmtm3j
私のような質問は、本やHPで載ってると思います。
しかし、私は渡海さんの解釈が聞きたいんです(以下、24のレス)。

>>外のスレで、渡海難は坊さんなんじゃないかと書かれています。坊さんではありません。坊さんではあり
>>ませんから、本願寺などとは違った考え方をしています。


いくらでも待ちますので、時間があるとき御願いします。

149 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:09:04 ID:nVLYpsUJ
>>146
 簡単な質問なので簡単に答えます。

>『南無阿弥陀仏』と唱えれば浄土に行けますか?    行けます。

>その浄土とはどのような所ですか?

 広い意味では、釈迦がおり、龍樹・世親などがおり、善導・法然・親鸞がおり、空海・最澄・
鑑真・行基など、名前を歴史に轟かした無数の高僧達がいる世界です。
 狭い意味では、空海・最澄・鑑真・行基などはいないかもしれない、特に日蓮聖人はいないか
も知れない。でも、善導・法然・親鸞などがおります。仮に末席とは言え、同じテーブルで、全
く同じ椅子に座ります。

>浄土は死んだらどのような手続きで行けるのでしょうか?
     鬼籍に入れば足ります。

150 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:12:14 ID:nVLYpsUJ
>>147
>私は『浄土』とは、いわゆる『天国』(幸福が満ちて苦痛のない場所)だと
思っています(ました)。

 幸いあるところ:原語スカーヴァティー(Sukhavati)の訳。漢訳では安養浄土・安楽・無量寿
仏土・無量光明土・無量清浄土・蓮華蔵世界・清泰国ともいう。阿弥陀仏が成道したときに、西
方充万億の国土を過ぎたところに構えた世界であって、苦難なく、安楽のみある処という。〈岩
波浄土三部経〉 

 貴方が幸福と思っているものは、先人達は幸福とは思っていない。貴方が苦痛と思うことは、
先人達は苦痛とは思わない。
 先人達が幸福と思うものを、貴方は幸福とは思わない。先人達が苦痛と思うものを、貴方は苦
痛とは思わないのでしょう。貴方と先人との間では、恐らく認識に開きがあるでしょう。

 諸仏、俗に随いて、また説きて「殺」とす(化身土巻)。
 真実を知っている人は、阿闍世王に父王殺害があったとは思っていない。しかし一応、多くの
人々の認識に合わせ、仮に「殺害があった」と言う表現をする。

 たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非
無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわち非有とす。
 悟りは、有でもなければ無でもない。それでいて、有である。殺すと言うことも同じ。有でも
なければ無でもない。それでいて、有である。釈迦は、阿闍世に、慙愧のある人に対する話をす
る。

 幸福は存在しない。しかし存在しないわけでもない。それでいて存在する。先人達は、一応、
多くの人々の認識に合わせ、仮に幸福という言葉を使い、苦しみという言葉も使う。

151 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:20:49 ID:nVLYpsUJ
>>150
誤  化身土巻
正  信の巻

152 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/14(火) 10:57:13 ID:nVLYpsUJ
 防災の専門家が大事なことだと思うことを、一般の人は大事なことだとは思わない。防災の専
門家が大事ではないと思うことを、一般の人は大事なことと思う。
 一般の人が大事なことと思うことを、防災の専門家は大事なことだとは思わない。一般の人が
大事ではないと思うことを、防災の専門家は大事なことと思う。

 家に消火器を用意し、日々点検しておくことは、防災の専門家は大事なことだと思う。一般の
人は大事なことだとは思わない。商品売り場に足の踏み場もないほど商品をきらびやかに沢山な
らべることを一般の人はいいことだと思う。いったん火災になれば逃げ道がないじゃないかと、
防災の専門家は眉をひそめる。一般の人は、火事のことなんか考えちゃいられないと反論する。

153 :106:2006/11/14(火) 16:47:37 ID:+Li/A9o3
回答ありがとうございます。

私が考える死後の『幸福』とは
例えば両親、恋人、友人など『愛する人に会える』ことだと思っています。
また『苦痛』であると考えることとは、『孤独』です。

私が考えている『幸福』と『苦痛』は
先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?

また、先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は
私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦痛』に成り得ますか?

154 :名無しさん@3周年:2006/11/14(火) 23:10:32 ID:rhsJffSJ
消火器の比喩は不完全であるから辞めたほうがいいのでは・・・・・

また、先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は
私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦痛』に成り得ますか?

証の巻と文類抄を読むと解りやすいよ。

155 :106:2006/11/15(水) 02:23:08 ID:trJQu34M
ぅ・・・手元になにもないんです・・・。
読解力もないし・・・。

156 :名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 02:30:23 ID:pU29dwZj
本気でやるなら仏教の基礎からやったら?
四苦八苦が仏教・釈尊の探求の出発点だよ

生老病死に人間は苦しむ
なぜ人間は四苦に苦しめられるのか?
その解決は?
お釈迦さんは抜苦与楽の道を見いだし、その延長線上に親鸞さんはいる

157 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/15(水) 09:13:19 ID:DrL/O1aa
 防災屋は、消火器を置くと幸せになりますよと言う。
 消火器を知らないで買った人は、「消火器を持つと、サンタクロースがやってきて、おかしや
おもちゃを沢山貰え、ジングルベルが鳴り、シンデレラの舞踏会が始まり、花火が鳴って、道化
師がやってきて、みんな踊り、歌い幸せになるんだ」と思う。
 防災屋はそんなものを幸福とは思っていない。人はいつどんな時に火事になるか分からない。
しかし、消火器一本で安全が守れることがある。幸せになるとはそういうことだ。だから消火器
を持とうという
 しかし、普通の人はそんなことは考えない。火事があるなんてことは、全く考えない。火事に
なったら危ないなんてことは考えたこともない。だから、消火器を持つとジングルベルが鳴って、
サンタクロースがお菓子をもってきてくれるんだと思いたいと思う。
 防災屋は、相手の言葉に合わせて、仮に「幸福」と言う。幸福の意味内容は全く違う。苦しみ
という言葉も意味が違う。普通の人は、あしたサンタクロースが来ないこと。あしたジングルベ
ルが鳴らないこと。これが大変な苦しみだと思う。ところが、防災屋は、そんなことは考えない。
百年に一度でも、火事で焼け出され、あるいは焼死することを苦しみと考える。
 あしたのサンタクロースを夢見るという意味の幸福という言葉を、防災屋は、相手の言葉に合
わせて、100年のとりあえずの一応の安全という意味で使用する。安全と言っても、化学消防
車や、消防ヘリコプターが来ないと対処できないという、そんな火事まで想定しているのでもな
い。サンタさんが来ないという意味の苦しみと言う言葉を、100年に一度の火事という意味で
使用する。幸せと苦しみの意味は、全く違う。

158 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/15(水) 09:14:18 ID:DrL/O1aa
>>153
>私が考えている『幸福』と『苦痛』は先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりま
すか?

 (━_━)ゝウーム。僕はまだ先人になった経験がないんで、よく分からんが、愛する人と生き
ている内で会えなくて、死んで会えるようになるかなぁ?。死んだ先のことは分からんが、死後
のお楽しみにしておいた方が、夢があっていいんじゃないか?。
 会うんなら、むしろ生きている内にどんどん会うように努力したらどう?僕は、死ななくても
親鸞に既に出会ったと思ってる一人だが、こういう出会いは、出会ったことにはならんのか?。
相手は死んでいても、自分は生きている内に出会っちゃいかんのか?。
 甲府に行くと、信玄堤というのがある。武田信玄は、400年、500年後の人々のことまで
考えて治水をしている。武田信玄は、将来生まれてくる我々と、既に生きている内に出会ってい
たんじゃないのか。死んだ人だけでなく、今生きている人、これから生まれてくる人々とも、自
分が生きている内に出会うように努力したらどう?。死んでからのことは、その後のお楽しみで
はまずいか?。

 孤独?。難しいな。まあ、先人の答えではなくて申し訳ない。

>先人達が考えている『幸福』と『苦痛』は私にとって(現代人にとって)、『幸福』と『苦
痛』に成り得ますか?

 愛する人とは別れにゃならん。嫌な奴とは会わねばならん。
 ほしい物は手に入らん。世の中で苦の種にならんものはない。
 再起・挫折・再起・挫折の連続はどこかで断ち切らにゃならん。こういうのは昔も今も同じで
しょう。

159 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/15(水) 09:49:17 ID:DrL/O1aa
>>156
>本気でやるなら仏教の基礎からやったら?

 仏教なんかは、小手先でちょこっとやれば、十分だと思っているよ。
 東大寺の管長さんになろうとか、延暦寺の座主さんになろうというんじゃないんだろう。まあ、
せいぜい、介護福祉士さんとか、警備員さんとか、パン屋さんとか、不動産屋さんとか、家庭の
奥さんとか、そういう人になろうとするんだろう。それなら、基礎なんか全く必要ない。仏教な
んか、小手先でちょっとやれば、一生それで十分だ。話を聞いて貰えれば、2ちゃんねるの僕で
も十分伝えられる。
 例えば、ラーメン屋さんは、ラーメン屋さんになれば十分であり、別に仏様になる必要はない
んだ。生きている内も、死んでからも仏様になる必要はない。要するに、自分の生きていく中で
困難に出会ったとき、仮に最善の選択肢でなくても、最悪の選択肢以外の選択肢を何とか自力で
見つけ出せるようになれば、仏教はもうそれでいい。常に最悪の選択肢以外の選択肢が選べてい
ければ、苦しくても道は最低限、なんとか開けるだろう。それ以上のよりよい選択肢については、
ラーメン屋さんはラーメン学校で、不動産屋さんは不動産屋さん屋さん学校で教えてくれる。
 複数の選択肢があった場合、その中で最悪の選択肢だけは選ばないようにするということにつ
いては、仏教は面白い知恵を持っている。それ以外のことで、ラーメン屋さんや介護福祉士さん
や警備員さんなどが仏教から学ぶことは無くていい。僕はそう思っている。その程度なら、仏教
は、小手先でちょこっとやればすぐ分かる。僕は、まあ、2,3日だと思っている。
 それ以上の仏教を学びたいと思えば、それは別だ。もし、相手と議論して、相手に「参りまし
た!」と言わせられるようになりたいとでも思うなら、まあ、勝手にたくさん勉強すればいい。
それでも、そういう仏教は、ラーメン屋さんや警備員さんの腹の足しにはならんだろう。

160 :名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 14:46:16 ID:0twMXyi2
相変わらず冗長だな

釈尊が抜苦与楽で言うところの苦と楽とは何か?
ここを押さえないで議論しても仏教の話にならない
法然さんや親鸞さんの問題意識も、すべてここに基づいている

>>106さんは土台となる基礎知識を欠いている
その上での思索が無意味とは言わないが、本気でやるなら基礎を押さえるべきだ
お釈迦さんの問題意識と生涯について、本を二・三冊読むなり、ネットを検索するなりした方がいい

まあ、あんたが仏教の基礎をわかりやすく教えるというのでもいいだろう
四苦八苦、三法印、四諦八聖道、大乗の空、あたりのキーワードを押さえてね

161 :106:2006/11/15(水) 23:28:47 ID:EzQW2aF8
>>僕は、死ななくても 親鸞に既に出会ったと思ってる一人だが、
>>こういう出会いは、出会ったことにはならんのか?。
>>相手は死んでいても、自分は生きている内に出会っちゃいかんのか?。

確かに、死んだ人の愛や恩恵を私も受けています。
でも、死んだ母親にまた会いたいですね。

>>死んでからのことは、その後のお楽しみではまずいか?。

また会いたいですね。

>>本気でやるなら仏教の基礎からやったら?
>>>>106さんは土台となる基礎知識を欠いている

ごもっともです。
つい最近、自分の宗派を知った無知な私です。

162 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:16:36 ID:eO7DmU2Y
>>160
>相変わらず冗長だな      <ご批判は拝聴しておく。>
>釈尊が抜苦与楽で言うところの苦と楽とは何か?
 汝若し修せずして作仏すといはば喩へば飢け人の空(ひろ)く風を掩(おほふ)がごとし
 坐禅持戒なく、作仏の因の念仏だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込
んで腹の足しにしようとする様なことだ
 苦と楽とは何かが分かっても、腹を空かしたときの腹の足しにはならん。まあ、警備員さんや
ラーメン屋さんの場合、満腹の時のおしゃべりの余興、他人への優越感の足しにはなるかも知れ
ん。ただし、回りから浮き上がらないように注意するといい。下手するとひとりぼっちになる。
>ここを押さえないで議論しても仏教の話にならない
 坐禅持戒なく、議論だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足
しにしようとする様なことだ。
 空腹の時の余興にするというなら、回りから浮き上がらないように注意するといい。

163 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:18:06 ID:eO7DmU2Y
>その上での思索が無意味とは言わないが、本気でやるなら基礎を押さえるべきだ
  坐禅持戒なく、基礎を押さえるだけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ
>お釈迦さんの問題意識と生涯について、本を二・三冊読むなり、ネットを検索するなりした方
がいい
  坐禅持戒なく、本を読んでネット検索だけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。
>四苦八苦、三法印、四諦八聖道、大乗の空、あたりのキーワードを押さえてね
  坐禅持戒なく、キーワードだけで仏になると言うなら、空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。
  信心のひとに劣らじと 疑心自力の行者も如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし
  坐禅持戒しながら称名念仏に励めば、おしえざれども自然に真如の門に転入する
  聖道門は、知恵を磨いて成仏す。浄土門は愚痴に戻りて往生する

164 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:20:07 ID:eO7DmU2Y
>>161
>確かに、死んだ人の愛や恩恵を私も受けています。
  やはり、ちょっとずれたようだ。
>でも、死んだ母親にまた会いたいですね。
  お袋さんを亡くされたようですね。葬式を仏式でやって、仏教に興味を持ったんでしょうか。
  死んだ人は帰ってこない。死んだ人にはもう、二度と会うことはできない。
  自分も死んだら会えるか。会えると言えば、それはまあ、気休めだろう。ただ、何となく寂し
くて落ち着かないというなら、念仏を称えてみるといい。念仏には精神安定剤の効果がある。繰
り返しやってみるといい。
  足を結跏趺坐、又は半跏趺坐に組む。結跏趺坐、又は半跏趺坐に組むのが極楽浄土の正式な着
座法だが、足が痛くて落ち着かないとなれば、正座でもいいだろう。僕は普段は椅子に腰掛けて
やっている。
  目は閉じても開いてもいい。総持寺の坊さんは、坐禅の時、目を開くことを勧めていた。上半
身の姿勢を正し、手は臍の位置で組む。鎌倉の大仏さんの姿勢だ。鎌倉の大仏さんは阿弥陀像だ。
  腹式呼吸しながら、五会念仏(ごえねんぶつ)を称える。仏壇があればその前で行うのもいい。
  以前、僕は、小さな声で単に繰り返すだけということを言っていたことがあったが、今は考え
を変えた。五会念仏がいい。親鸞が関東のお弟子さんに教えた法照禅師流の称名念仏だ。
  抑揚を付けず、単調にゆっくりと南・無・阿・弥・陀・仏と称える。
  半音程度声を上げ、抑揚を付けず、単調にゆっくりと南・無・阿・弥・陀・仏と称える。
  普通の速度で抑揚を付けず、南無阿弥陀仏と称える。
  南無を普通の速度、そのまま続けてやや速度を上げて阿弥陀仏と称える。
  速度を上げ、阿弥陀仏と称える。
  この五回の称名を1サイクルとして繰り返す。
  最初は1回でも、2回でもいい。お袋さんに会えるとは言わないが、繰り返せば、寂しいとき
の精神安定剤の効果はあるだろう
>つい最近、自分の宗派を知った無知な私です。     <無知は往生の邪魔にはならん。>

165 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/16(木) 10:21:39 ID:Co6eYTkf
かいどさんこんにちは
(´∇`*)いつも空き家荒らさせ貰ってまふ

因みに質問です
海渡さん
海渡さんはお経は読まれまふか?
般若心経の空
この空の意味はどのように解釈されてまふか?


166 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/16(木) 10:29:24 ID:eO7DmU2Y
>>165  コメントは次回。 なお、数日間、カキコ不能。

167 :106:2006/11/16(木) 18:34:02 ID:5XFWSQOW
渡海さん、回答ありがとうございます。
164のことを実践してみたいと思います。
ちょっと図々しいですが、また何かあったら質問したいと思います。

168 :オーム浄土真宗:2006/11/16(木) 20:12:22 ID:Vt2hDvBZ
>>164
渡海さん はじめまして これってヨーガで結跏趺坐してマントラを
唱える修行がありますよね(ジャパ) 同じように速度を上げたり下げたり
するんですが何が違うのですか? 

169 :名無しさん@3周年:2006/11/16(木) 21:23:34 ID:3wzV/67V
一心に弥陀の「名号を専念」して、行住座臥、
時節の久近を問わず、念々に「捨てざる」をば、
これを「正定の業」と名づく、
かの「佛願」に順ずるがゆえに。
もし「礼誦等」に依らざれば、
すなわち名づけて「助業」とす。聖典p217

170 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 00:32:52 ID:bL4IXyh9
>>162-163
今度は壊れたテープレコーダーみたいだな

>汝若し修せずして作仏すといはば喩へば飢け人の空(ひろ)く風を掩(おほふ)がごとし

法照禅師の言葉だね

>坐禅持戒なく、本を読んでネット検索だけで仏になると言うなら、
>空腹の人が風を思いっきり吸い込んで腹の足しにしようとする様なことだ。

まず、私は仏教で説く苦と楽を知識として知るだけで解脱できる、などとは一言も言っていない。
こちらが言ってもいないことを批判されても、ただあきれるしかない
(いつものことだが)

> 苦と楽とは何かが分かっても、腹を空かしたときの腹の足しにはならん。

といっているが、しかし>>153で出された質問は
>私が考えている『幸福』と『苦痛』は先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?

だ、こう聞かれれば、釈尊の苦と楽についての見解を紹介するべきだろう。
仏教における先人は、まず釈尊だからな。
>>106さんはその辺のことについて何も知らない。

>仏教なんかは、小手先でちょこっとやれば、十分だと思っているよ。

と豪語するのだから、その小手先で学んだ基礎的なことを教えてあげればいいんだよ。
具体的には、四苦八苦、三法印、縁起説、四諦八聖道、大乗で説く空あたりだ。
(まあ、小手先で理解できたと思えるような人間には無理なのかもしれんがね)

171 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 00:35:47 ID:bL4IXyh9
さて、法照禅師についてだが
行巻
>正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法と名づく。
>念仏成仏はこれ真宗なり。
>仏言を取らざるをば外道と名づく。
>因果を撥無する見を空とす。
>正法よく世間を超出す。禅・律いかんぞこれ正法ならん。
>念仏三昧これ真宗なり。
>性を見、心を了るはすなはちこれ仏なり。
>いかんが道理相応せざらん。{略抄}

ところで正法について化身土巻には
>ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、
>〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち<<正法滅尽せん>>〉
>と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。
真聖全2 P170 註釈版P420

とまあ、ここには正法は末法には滅尽するとある
持戒座禅は正法だが末法の凡夫には修しがたい
しかし、念仏は

化身土巻
> 浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
真聖全2P166 註釈版P413

と、真宗である念仏は持戒・座禅などの正法と異なり、末法まで通じる。

ところで法照禅師は
>仏言を取らざるをば外道と名づく。
と仰ってるね。
仏の言葉を知ることは大切なことだ
>>106さんが聖道門を行くか、浄土門に入るかは別にしてだ。

172 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 00:37:59 ID:bL4IXyh9
>>106さんへ
改めて言うけど、本気で仏教をやりたいなら小手先でちょこっとやっただけで、
知ったような口をきく半可通の言うこと(私もそのたぐいに毛の生えたようなものだが)
に耳を傾けるのではなく、まともな本を二・三冊でも読むべきだ。

とりあえず原始仏典の中でも古い部類の釈尊の言葉
スッタニパーダ
ttp://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta0.htm
ダンマパダ
ttp://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/sinri-0.htm

仏教について
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/

真宗関係の聖教はここでそろうが、ちょっと読めないかもしれない
ttp://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/next/d_database.htm

>>169
度海難は専修念仏じゃないという批判は大昔からあるが聞く耳持たない
それが彼の信仰なんだから、ほっとくより仕方がない

173 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 00:43:24 ID:bL4IXyh9
それとグダグダと料理屋の話をしていたが、マールンキャ経の毒矢の譬でも出せってんだ
釈尊は形而上的な議論は時間の無駄であると無記とした時に出したあの譬だ

もっとも苦と楽について探求することは仏教の基礎であり、
毒矢の羽や毒の種類のようなどうでもいいことではないがな

174 :106:2006/11/17(金) 21:42:06 ID:C02E/m4X
>>bL4IXyh9さん
ありがとうございます。読んでみます。
>>改めて言うけど、本気で仏教をやりたいなら小手先でちょこっとやっただけで、
>>知ったような口をきく半可通の言うこと(私もそのたぐいに毛の生えたようなものだが)
>>に耳を傾けるのではなく、まともな本を二・三冊でも読むべきだ。
本を読むことは、とても大事なことです。
しかし、渡海さんの話を聞いて私は良かったと思っています。
渡海さんは無償で丁寧に答えてくれます。
こういう方はあまりいないと思いますよ。
bL4IXyh9さんの仰るように、本も読んでみたいと思います。

175 ::2006/11/17(金) 22:25:22 ID:ddZ3V34D
本に京都にいけば法名を戴けると書いてありましたが、普通の人でも戴けるんでしょうか!?

当方は家柄、真宗です。

kwskおながいします。

176 :名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 22:41:28 ID:FkxFE3A+
>>175
 ここで聞くといい。
  ↓ 
【御同朋】浄土真宗(真宗)総合サロンO【御同行】
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1156135800/
真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド Part.25
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1161968182/
浄土真宗本願寺派 [20拍]
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1161002483/

177 ::2006/11/17(金) 23:07:17 ID:ddZ3V34D
>>176
ども、丁寧にありがとうございまつ。
(´・ω・`)

178 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:35:19 ID:YuHn7dvJ
>>165
> (´∇`*)いつも空き家荒らさせ貰ってまふ
( '-' )( ,_, )( '-' )( ,_, ) はいはい。どもどもです♪ドーーモ\(∩_∩ ) ( ∩_∩)/ ドーーモ♪。
.
>かいどさんこんにちは
 はいはい(^コ^)(^ン^)(^ニ^)(^チ^)(^ハ^)
 僕をかいどさんと言ってくれるのは貴方だけなんだけど、何か意味アリ?
.
>海渡さんはお経は読まれまふか?
 まあ、読んでませんよと言っても、信じてくれないでしょう。
 読んでますよと、胸を張れるほどでもない。まあ、そんなところか。
.
>般若心経の空この空の意味はどのように解釈されてまふか?
 ものごとには、断面の切り口の違いでさまざまな言い方がある。有を有という言い方で説明す
る方法と、有を無という言い方で説明する方法がある。無を、無という言い方で説明する人もい
れば、有という言い方で説明する人もいる。
 有を無という言い方で説明するのが般若心経の空、無を有という言い方で説明するのが輪廻思
想。実際には、有ではない。非有でもない。非非有でもない。非非非有でもない(百非の譬え)。
般若心経の空と浄土教の輪廻は、同一の客体を別の言い方で説明したものだろう。どっちかとい
うと、空の方が若干概念が広いのかなというのが僕の印象です。輪廻の方が初心者は分かりやす
いと思う。

179 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:38:55 ID:YuHn7dvJ
>>168
>マントラを唱える修行がありますよね(ジャパ)   全く知りません。聞いたこともない。
.
>同じように速度を上げたり下げたりするんですが何が違うのですか?
.
 念仏と瑜伽と何が違うのかという質問ですか?。僕は瑜伽を知りませんので、比較できません。
 法照は五会念仏を禅の一種と言っています。達磨大師は中国に禅を伝え、達磨禅は中国ですぐ
に南北に分かれます。一方は北方禅、他方は南方禅です。曹洞禅・臨済禅というのは、みな南方
禅です。北方禅は天台宗の中に入り、最澄などは北方禅を学んだと聞いたことがある。真偽は知
りません。善導禅師、法照禅師など、念仏系の禅師は北方禅なんじゃないかと、僕は勝手に想像
しています。
 禅は、インドで瑜伽から分かれ、分かれた後の禅が中国に入ってます。唯識法相宗は、瑜伽を
実践します。玄奘三蔵はインドから中国に瑜伽を伝えています。日本法相宗は瑜伽をやらない。
理由は知りません。瑜伽と禅の違いを調べれば、貴方の問いも答えが出るでしょう。
 釈迦は、瑜伽行者だったのでしょうか、禅行者だったのでしょうか。考えてみると面白い。ち
なみに、北方禅と南方禅は何がどう違うのかも調べるといい。瑜伽と五会念仏の違いについて興
味があるなら是非研究してみてください。一生を賭けるのにいいテーマかも知れません。親鸞は
瑜伽行者だったという結論を導けると、本願寺の坊さん達はどんな顔して怒り出すか、想像する
だけでも面白い。

180 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/19(日) 10:41:28 ID:YuHn7dvJ
 法照禅師は、五会念仏法事儀讃というボリュームのある書物を書き残しています。仏教系の図
書館に行けば、大正大蔵経があるでしょう。五会念仏法事儀讃はその中に入っているはずです。
全文漢文です。歯ごたえがある。興味があれば是非研究してみてください。唐ではどうして仏教
が盛んになったか、その理由も分かるでしょう。貴方が研究成果をこの2ちゃんねるで公開して
くだされば、興味をもって読ませて頂きます。
.
 五会念仏は、唐の代宗皇帝の前で実演し、それから中国全土に広まったそうです。実践してみ
ると分かりますが、禅定に入るのが非常に早い。それでいて、深く入りすぎない。妄想を打ち消
してくるので素人がやっても安全性が高いのでしょう。
.
 なお、164で書き忘れていました。五会念仏の最後は、速度を上げて「阿弥陀仏」と称えま
す。「南無阿弥陀仏」と称えるのではないという注意書きを落としていました。
.
>>169
 言いたいことがあったら、自分の言葉で主張したらどう?。切り抜き短冊の陰に隠れてるだけ
じゃ、他人からは貴方の主張が全く見えない。

181 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/19(日) 11:39:25 ID:2Ne8uADa
>>178渡海さん…( ̄□ ̄;)!!
失礼しますた
因みになんて読むんでせう?
あとレスありがとございますた

182 :オーム浄土真宗:2006/11/19(日) 20:13:07 ID:9KRDdmYE
>>179
丁寧な回答どうもありがとうございます
ところで本家インドではどのような修行形態だったと予想されますか?
僕は某会のような聴聞一本やりではなく渡海さんの方法の方が近いと思います

そう言えば香港のカンフー映画で少林寺の坊さん(確か北方禅でしたね)が
「南無阿弥陀仏」
と唱えてました その時は「なんで?」と思ったんですが
お釈迦様は出家して6年間最初2人の仙人に瞑想(ヨガの原型?)習ったらしいです
それでは完全でないと・・いわゆるヴィパッサナー瞑想(この間の世界不思議発見の
タイ特集でお坊さんが実際やってましたね)で悟りに到ったそうです
先の瞑想が土台になっているので単純に苦行を捨てたという話でもなさそうです

今アショーカ・K・バンカーの現代版「ラーマーヤナ」読んでるんですけど
(羅刹軍団が攻めてくるお話)読んでみて法華経ってちょっとだけこれの
パクリではないですか?(笑)いろいろ面白いです・・





183 :名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 19:36:43 ID:mTdHW1qR
>181
因みになんて読むんでせう?     Toumi Katasi

184 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:34:53 ID:eX0Tru1J
>>170
>今度は壊れたテープレコーダーみたいだな    苦笑

>私は仏教で説く苦と楽を知識として知るだけで解脱できる、などとは一言も言っていない。

 なるほどね。仏教の目標は解脱にあるという、まあ通俗的なコンセンサスを前提にしたんだが、
議論は粗雑だったかも知れないね。まあ、落としどころに急ぎすぎた。

>こちらが言ってもいないことを批判されても、ただあきれるしかない
   なるほどね。粗雑だったね。

>こう聞かれれば、釈尊の苦と楽についての見解を紹介するべきだろう。

 貴方はいったい誰に向かってものを言っているつもりなんだい?。僕は貴方の考えで動いてい
る貴方の代理人ではないんだ。それは分かっていますか?。こうした方がいいと思うことがあれ
ば、それは貴方がすればいい。
 「先人達が考えている『幸福』と『苦痛』に当てはまりますか?」この問いには僕は答えてい
るよ。回答不能だと。僕は先人じゃないから答えられないんだよ。

>仏教における先人は、まず釈尊だからな。
 僕に対し、釈尊になりかわれとでも言うの?。馬鹿を言うのも休み休みにしたらどう?(苦笑)

185 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:38:05 ID:eX0Tru1J
>小手先で学んだ基礎的なことを教えてあげればいいんだよ。
 
  小手先で分かればいいこと。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。この他に何か知ってお
くことがありますか?。
 
 将来の人生の危機に備え、ちょっと仏教を勉強しよう。そう思ったら仏教を教わればいい。何
を教わるのか。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。
 警備員さんになろう。ラーメン屋さんになろう。介護福祉士さんになろう。そういう人は、こ
れだけで分かればもう十分なんだ。これが他力なんだよ。
 普通なら、基礎から勉強しなけりゃいかん。ところが、親鸞さんは基礎はいらんと言ってくれ
た。「本願を信じ念仏申さば、仏になる。この他何の学問かは往生の要なるべきや」。本願を信
じ念仏申さば、仏になる。これだけわかれば、この後ラーメン屋さんは簿記の勉強でもしなさい
よ。介護福祉士さんは、介護方法を勉強した方がいい。仏教はもう卒業だ。親鸞さんはそう言っ
てくれている。それが他力本願なんだ。不足分は、仏さんが勝手に見繕って補充しておいてくれ
るだろう。

 念仏は座禅してしなさいよ。五会念仏を称えなさい。親鸞はそうお弟子さんに勧めていた。そ
れじゃそれをやろうじゃないか。
 仏教はこれで全部だ。「本願を信じ念仏申さば、仏になる」。さあ念仏を称えてみようじゃな
いか。これ以上、一体何が必要だい?。

 初心者は、数を数えるといいかも知れないね。何事も目標を決めてやればやりやすい。
 仏教に興味のある人は、数珠を持っていることがある。僕の数珠は珠が23こある。五会念仏
は5回が一サイクルになっている。1サイクル称えたら数珠の珠を一つ動かしていくと数珠1周
で115回になる。例えばその115回を目標にして称えるのもいい。その1/4を目標に称え
てもいい。数を数えるのは、先人も勧めている。

186 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/21(火) 00:40:06 ID:eX0Tru1J
>> 106さんはその辺のことについて何も知らない。
 そんなことは、知ってても知らんでもいいことだ。
 
>四苦八苦、三法印、縁起説、四諦八聖道、大乗で説く空あたり
 
 馬鹿馬鹿しい。ラーメン屋さんがこんなこと知ってても、ちっとも偉くない。パン屋さんはこ
んなこと知らなくても、全然困ることはない。知りたければ、自分で勉強すればいい。僕が2チ
ャンネルで話すことじゃない。                   続く

187 :名無しさん@3周年:2006/11/21(火) 01:18:30 ID:K3P5GZnw
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ;
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

188 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:37:37 ID:4Ua51mpL
>>171 >持戒座禅は正法だが末法の凡夫には修しがたい

 自分にはできないという人はしょうがない。座禅したらどうですかという話は、座禅できる人に言って
いる。私にはできませんという人にまで勧めているわけではない。「座禅は自力だ」とノータリン教義で
洗脳されている人には、座禅などできるわけがない。外道に染まった悲劇だな。

 持戒と言っても、授戒の僧を立て、仏になる必須の要件として受戒するということじゃない。親鸞だっ
て、無位無冠無名無戒の私度僧だった。元流刑囚の無戒の私度僧の親鸞が戒律を守ろうと言ってい
るんだから、要するに現代社会の倫理・道徳・常識をきちんと守ろうということだろう。
 現代社会の倫理・道徳・常識に反した戒律まで守れと言っているわけじゃない。戒律になければ、赤
信号の交差点を車で走ってもいいなどと、現代社会のルールを破ってもいいと言っているわけでもない。
 ラーメン屋さんならラーメン屋さんのルールを守る。パン屋さんならパン屋さんのルールを守る。無戒
の私度僧とは言っても、僧を名乗るなら、他人から後ろ指さされ、背中から笑われるようなことをするも
んじゃない。仏教は危機管理の教えだ。自分から危機を招くようなことをしてはいけない。世の中には、
背中を指さされ、笑い物になっているノータリンボーズなど山ほどいる。現代社会の倫理常識など、自
分には守れませんというノータリンにまで、余計なお世話でアドバイスする暇人はいない。普通は「他
人に誤解されるようなことはしてはいかん」というが、誤解ではなく、それが本物である人物には、誤解
を招くなと言ってみても意味のないことだ。

189 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:42:12 ID:4Ua51mpL
>真宗である念仏は持戒・座禅などの正法と異なり、末法まで通じる。

 正法は、末法に通じないと言うことか!?
 「念仏成仏」、これは真宗だという。それでは、「念仏成仏これ真宗」というこの言葉は、
bL4IXyh9にとって、正法なのか、正法ではないのか。
 
 摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証 序文)
  摂取不捨の真言は、正法なんだろうか、悪法なんだろうか(苦笑)。持戒座禅が正法だと言
えば、摂取不捨の真言は正法でないような錯覚をもつようだ。

 まあ、質問するのも面倒くさい。所詮、ろくに仏教を知らん奴の寝言だ。要するに、倫理・道
徳・常識に縛られるのは嫌。座禅は嫌いといっているだけだろう。外道の坊主は座禅が嫌い。倫
理・道徳が嫌い。勝手にするがいい。

>仏の言葉を知ることは大切なことだ

 社会のルールを守り、座禅して五会念仏を称えようというのが、仏の言葉に反しているという
のは、ノータリン浄土真宗のノータリンボーズくらいなものだ。

 世世に善導いで給い 法照少康と示しつつ 功徳蔵を開きてぞ 諸仏の本意遂げ給う
 持戒座禅して五会念仏を称えようと言うのは、親鸞が聞いた法照禅師の提案だ。親鸞が肯いた
法照禅師の提案を外道という。まあ、呆れかえってものも言えん。

190 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/22(水) 09:44:42 ID:4Ua51mpL
>>172
>度海難は専修念仏じゃないという批判は大昔からあるが聞く耳持たない
   まあ、何とでも勝手に言えばいい。

念仏は念念に仏種を下す。坐禅持戒は真功を用いてなり。汝若し、修せずして便ち作仏すといは
ば、喩へば飢け人の空を掩(おほふ)がごとし。(五会法事儀讃略抄)

 念仏申せば仏になる。善導は戒律を守ることを仏になる要件から外した。だからと言って、坐
禅・持戒は不要と言っているわけではない。坐禅持戒をうち捨てて真功の無い空腹を抱えた仏に
なって、どんな意味があると言うのか。愚かなことだ。

>>173
>マールンキャ経の毒矢の譬でも出せってんだ

 今か今かと話題が出てくるのを待ちかまえていたが、なかなか出てこないのでしびれを切らし
たか。僕は貴方の手の上で踊っているんじゃないんだ。目を覚ませ。

191 :名無しさん@3周年:2006/11/22(水) 10:53:33 ID:ycE8U8zY
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ;
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

192 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:20:57 ID:ABSxvJG6
>>182
>ところで本家インドではどのような修行形態だったと予想されますか?

 まあ、多分祇園精舎にも禅室があって、そこで結跏趺坐して称えていたんだろう。
 中国伝来の浄土教では、阿弥陀仏だけ称えるけど、古代の仏教では四方に無数の仏さんがいる。
そうした無数の仏の名を次々と称え、その姿をイメージしたんだろうというのが僕の想像なんだ。
 釈迦は、大無量寿経で、過去・現在・未来の仏を念じている。龍樹の易行本を見ると、無数の
仏が登場する。その辺の記載から、想像しているんだ。

193 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:21:55 ID:ABSxvJG6
至道抄という書き物がある。存覚が書いた物だ。

 おほよそ仏法修行のところはみな道場といふ、いはゆる真言をおこなふ所をは三蜜瑜伽の道場
といひ、妙法を行ずるみぎりをば法花三昧の道場といふ。念仏三昧の道場もその義おなじかるべ
し。されば、念仏の行者、うちに信心をたくはへて心を浄土の如来にか(掛)くといふとも道場
をかまへて功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。
 〜 この道場は、そのかまへをいふに、仏閣にあらずといへどもこの所におひて仏像を安じ、
その体をいふに人屋たりといへどもこの所にをひて念仏を勤行す。念仏の中には衆悪を遠離して
衆善に親近し、世間舎をいでて出世間舎に住する功力をそなへたり。かるがゆへに念仏を行ずる
所は道場なり。 〜 大経の正宗に弥陀如来の因中の願をとくには、其の衆奇妙にして道場超絶
せられといひ 〜 穢土なれども浄刹に准じて道場といふなり。〜 されば自作教他ともに最上
の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、同行を会して念仏を行ずべきなり。

194 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/23(木) 21:24:39 ID:ABSxvJG6
 真宗寺院の多くは、当初、念仏道場と言われていたものが、やがて寺院化している。在家が、
近在の人に念仏道場として自宅の一角を開放し、代を重ねる中で寺院化した。
 道場は穢土に設定されているが、浄土に准じて道場といふ。極楽浄土は、結跏趺坐が正式の着
座スタイルだ。昔の念仏道場では、それぞれ仏像を安置した。仏像を安置できない人は名号を安
置したんだろうが、念仏道場として家を開放できるような人は、仏像くらい用意できたんだろう。
 人々は、日時を決め、その時に合わせて道場に参集してくる。到着した人から順に、思い思い
に結跏趺坐・半跏趺坐を組み、思い思いに五会念仏を称え始め、一時を過ごす。称えながら外の
人が集まってくるのを待ったんだろう。
 みなが揃えば、文字の読める人が宗祖の手紙や和讃を読み上げ、あるいは到着した蓮如のお文
を読み上げる。暫く互いの了解を言い合うと、その後は生活に関わる各種の取り決めを話し合っ
たんだろう。
 人々が、互いに座禅を組みながら同じ五会念仏を称える様子を想像すると、そこではグループ
力による強烈な仲間意識が生まれても不思議はない。スポーツチームが、スポーツをするとき、
盛んに声を出し合う。声を出し合うというのは、人々の心理的な結束を強化する。一向一揆がい
いか悪いかは別にして、一向一揆を盛り上げたあの人的結束エネルギーは、深い禅定状体の中で、
互いに五会念仏を称え合うその作業から生まれたものだろうと思う。

195 :名無しさん@3周年:2006/11/24(金) 21:44:02 ID:LfDcKYw0
いろいろお聞きしたいのだが。アミダさんの浄土に生まれるためには、浄土に
生まれたいと思い、信じて念仏をとなえればいいのか。

196 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/25(土) 00:45:13 ID:Azyj5v5V
>>195 その通り。

197 :名無しさん@3周年:2006/11/25(土) 12:50:18 ID:68zikrym
アミダの浄土が優れているのは分かるが、浄土に生まれたいという菩提心が
凡夫におこせるのかどうか。

198 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/25(土) 17:07:14 ID:Azyj5v5V
>>197
>アミダの浄土が優れているのは分かるが

これは本当ですか。アミダの浄土が優れていると、貴方にどうして分かるのですか。
人がそう言っているからですか。
自分がどうしてそう思うのか、一つ一つ検討していくことも大事でしょう。

199 :名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 08:37:55 ID:eJap0Kd9
>>195-196で、念仏を唱えればよいとありますが、念仏を唱えるとはどういうことですか?

200 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:44:31 ID:NG49KXLn
>>197
>アミダの浄土が優れているのは分かる

 アミダの浄土が優れているかどうか。こんなことは分からんのよ。同じものでも、ある人は素
晴らしいと言うが、別の人に聞けばつまらんものだということもある。
 他人が素晴らしいと言っていることは、必ずしも自分もそう思うということじゃない。他人が
素晴らしいと言っていれば、「そうか素晴らしいんだろうな」と、共鳴して思うのは自然だが、
そこを通り越して「素晴らしいことは分かる」などと、こう言い出すと、自分の判断力は迷路に
入る。
 他人が、「浄土は優れているところだ」と言えば、それは飽くまでその他人の思いであり、決
して自分と同じ価値観であるということではない。

 なるほど、親鸞さん。アミダの浄土が優れていると貴方が言えば、それは貴方には優れている
所なんでしょう。しかし、それは親鸞さん、貴方の思いですよね。貴方の思いは、貴方の思いで
あって、私の思いではありませんよ。私にとっても優れている所かどうか、そんなことは分かり
ません。私にとって優れてないところかも知れません。あなた方が悪いところだと言っている地
獄の方が、ひょっとして実は私にとっては優れているところかも分かりません。なぜなら、私は
まだ地獄にも極楽にも行ったことがありません。そんなところは見たこともありません。本当に
そんな所があるのか、作り話か、私には全く分からないんですよ。

 浄土とは何か。仏道を求めようとするなら、まず自分のスタンスをしっかりと持とうじゃあり
ませんか。

201 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:45:38 ID:NG49KXLn
>浄土に生まれたいという菩提心が凡夫におこせるのかどうか。

 菩提心などいらんのよ。
 比叡山延暦寺に入り、千日回峰行をやろう。永平寺に入って二十年、三十年、冬の暖房も断っ
て粗食に耐えて修行に励み、やがては永平寺の貫首様になろう。そのように思うなら、それは菩
提心が必要でしょう。しかし、自分はラーメン屋さんになろう。洗濯屋さんになろう。自分には
警備員さんが向いているから、警備員さんになろうなどと思っている人は、菩提心など、全く必
要はない。

 菩提心があれば、それはラーメン業の修行に向けなさいな。洗濯屋さんの洗濯業の修行に向け
なさい。一人前のラーメン屋さんになろうと思えば、ラーメン業の修行に向けた菩提心が必要だ。
一人前の洗濯屋さんになろうと思えば、洗濯業の修行に向けた菩提心が必要だ。一人前のラーメ
ン屋さんも、一人前の洗濯屋さんもみんな、菩提心を以て修行をしている。しかし、浄土に生ま
れたいという菩提心をもって仏道修行をしたラーメン屋さんというのは、まあ、余り余り聞いた
ことがない。
 比叡山で、生死を彷徨うような千日回峰行を修行した人が作ってくれたラーメンなら、比叡山
の中腹で観光客として食べさせて貰うのはいいだろうが、その人が自転車に乗って三丁目からわ
ざわざ出前してきてくれたら、食べる気も失せるだろう。

202 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:46:57 ID:NG49KXLn
 仏道と言っても、先人達が行っていた仏道は、大変厳しいものだ。まして、そんなものは、ラ
ーメン屋さんが片手間で出来ることではなく、パン屋業の合間でできるようなものでもない。し
かし、仏道と言っても非常に幅が広い。色々なものがある。初歩の初歩、仏道の入口の修行法さ
えも、我々の手の届かないものだと思う必要はない。

 仏道の入口は称名念仏である。中国の高僧、初等教育学の専門家善導大師は、仏道界の頂点に
立ってそう言ってくれた。善導がいう初心者の称名念仏は、千日回峰行ではない。常行三昧でも
ない。いつ称えてもいい。久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもい
い。そういう修行法なんだ。仏教の右も左も分からない初心者が、始めて行う修行方法だから、
これは自由にやっていい。善導大師はそう言ってくれている。
 通常、仏道の修行は、高僧から受戒し、戒律を守ることを誓って開始する。ところが、善導大
師は、称名念仏について、その戒律さえも必要ないと言ってくれている。それじゃ、初心者のた
めのその称名念仏だけやってみようじゃないか。

 普通は、入口を過ぎればその先に進むんだが、ラーメン業をしているラーメン屋さんには、そ
の先はいらん。警備業をやっている警備員さんには、その先はいらん。善導大師はそう言ってく
れている。仏道というのは、その入門の修行法だけでも、素晴らしい効果がある。善導大師はそ
う言ってくれている。

203 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:51:43 ID:NG49KXLn
(順番逆転 202は無視してください)

 極楽浄土は優れたところか優れてないところか、まあ、そんな話はどうでもいいことだ。笑い
話として聞き流せばいい。浄土に生まれたいという菩提心が必要なんじゃないか。まあ、そんな
ことを思う必要はない。ただ、仏教は、多くの優れた教育者を育ててきた。鑑真和上は、日本に
戒律を伝え、奈良時代の人々に、善悪という価値観があることを教えてくれた。奈良時代には、
多くの留学僧が日本に先進の学問をもたらした。空海は、多くの経典・医学・薬学・天文学など、
国家にとって非常に重要な知識をもたらし、その後継者達はやがて全国に散り、各地に土木・建
築・美術・医学などを伝えた。
 徳川時代、全国の小寺院は寺子屋と言われ、農民・漁民の子供達に読み書きを教え、それが明
治維新を作った。

 極楽浄土は優れたところかどうか。まあ、僕はそんなことは知らない。そんなことは僕は考え
たこともない。そんな話じゃなく、僕は、鑑真和上・弘法大師・伝教大師・道元禅師等々、こう
いう人々は実に優れた人々だったと思う。こうした素晴らしい彼等を育てたのは何か。それは釈
迦以来の仏道だったんだ。
 無論、我々は、彼等と同じようになる必要はないし、なれると思う必要もない。自分たちの仕
事はラーメン屋さんでいい。パン屋さんでいいんだ。警備員さんでいいんだ。介護福祉士さん、
不動産屋さんでいい。しかし、われわれがラーメン屋さんを営む、パン屋さんを営むという話と、
仏道には素晴らしい可能性があるということとは、矛盾する話ではない。


204 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:53:11 ID:NG49KXLn
(202と同文です)

 仏道と言っても、先人達が行っていた仏道は、大変厳しいものだ。まして、そんなものは、ラ
ーメン屋さんが片手間で出来ることではなく、パン屋業の合間でできるようなものでもない。し
かし、仏道と言っても非常に幅が広い。色々なものがある。初歩の初歩、仏道の入口の修行法さ
えも、我々の手の届かないものだと思う必要はない。

 仏道の入口は称名念仏である。中国の高僧、初等教育学の専門家善導大師は、仏道界の頂点に
立ってそう言ってくれた。善導がいう初心者の称名念仏は、千日回峰行ではない。常行三昧でも
ない。いつ称えてもいい。久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもい
い。そういう修行法なんだ。仏教の右も左も分からない初心者が、始めて行う修行方法だから、
これは自由にやっていい。善導大師はそう言ってくれている。
 通常、仏道の修行は、高僧から受戒し、戒律を守ることを誓って開始する。ところが、善導大
師は、称名念仏について、その戒律さえも必要ないと言ってくれている。それじゃ、初心者のた
めのその称名念仏だけやってみようじゃないか。

 普通は、入口を過ぎればその先に進むんだが、ラーメン業をしているラーメン屋さんには、そ
の先はいらん。警備業をやっている警備員さんには、その先はいらん。善導大師はそう言ってく
れている。仏道というのは、その入門の修行法だけでも、素晴らしい効果がある。善導大師はそ
う言ってくれている。

205 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 10:58:20 ID:NG49KXLn
 まあ、そこまで言うなら、騙されたと思ってやってみようじゃないか。いつ称えてもいい。久
しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいい。歩きながらでもいい。そんなラクチンなら、騙
されたと思ってやってもラーメン業の邪魔にはならんだろう。パン屋さんの邪魔にもならんだろ
う。金を取られるわけでもない。所詮、入口の修行法だ。仏道の右も左も分からん人に向かって
勧めている修行法だ。厚い菩提心など必要はないそうだ。気楽にやればいい。
 入口の修行法でも、仏道修行を始めれば、それだけで、仏道修行者の仲間の一人となる。仏道
修行者の仲間と言えば、そこには鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数のきらびやかな人々
が含まれている。我々もそのグループに、末席の末席とは言ってもその一角に入り込むんだ。善
導大師はそう言ってくれている。

 鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数の高僧達も参加しているそのグループの中に入れて
もらえるとんだというなら、まあ、あまり恥ずかしいことはしないでおこう。入口の修行法と雖
も、我々にできる唯一の修行法であれば、余り疎かにはしたくないものだ。いつ称えてもいい。
久しぶりに称えてもいい。寝ながら称えてもいいとは言っても、一応作法があるならできるだけ
作法に則ってやってみようじゃないか。

206 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 11:12:23 ID:NG49KXLn
 鑑真和上・伝教大師・弘法大師など、無数の高僧達も参加しているそのグループに入れて貰え
るというなら、あまり恥ずかしくないようにしよう。まあ、礼儀も知らない山猿がキャッキャ、
キャッキャと称えるんじゃないんだから、それじゃまあ、多少心を落ち着かせ、坐禅して称えた
らどうでしょう。坐禅は、仏道修行者の正式な着座スタイルだ。
 鑑真和上や伝教大師のようになれるなどとは、夢にも思ってはいかん。しかし、これはきっと
素晴らしい効果があるだろう。ラーメン屋さんとして念仏を称えても、それで後世に評価される
ということは絶対に無い。絶対にないけれど、ラーメン屋さんとして自分の人生の中で苦難にぶ
つかれば、その後それを思い出して自分なりにはきっと満足できる評価になるだろう。

207 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 21:56:10 ID:NG49KXLn
>>199
> 195-196で、念仏を唱えればよいとありますが、念仏を唱えるとはどういうことですか?

  ↓ まあ、理想を言うとこんな姿勢だろう。
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/c/c8/Kamakura-daibutsu.jpg

 ↓ 足はこんな風に組む。これが結跏趺坐
 http://www.sotozen-net.or.jp/zazen/img/zazen05%5B1%5D.gif
 結跏趺坐は両足を組む。右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、次に、左の足を右の股の上
にのせる。禅宗では、周囲が狭く、少し高さのある座布団を使う。坐蒲という。これをお尻の下
に敷き、お尻だけ少し高くする。
 坐蒲は、多分、真言宗などでは使わない。坐蒲を使うとお腹が凹まないで楽に呼吸ができる。

 足は、半跏趺坐でもいい。↓
http://www.sotozen-net.or.jp/zazen/img/zazen06%5B1%5D.gif
 左の足を右の股のうえに深くのせる。結跏趺坐でも半跏趺坐でも両膝とお尻の三点で上体を支
える。

208 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 21:59:38 ID:NG49KXLn
 結跏趺坐・半跏趺坐が極楽浄土の正式な着座法。蓮華座ともいう。当然だが、念仏道場でもこ
れが正式の着座法だ。

 結跏趺坐や半跏趺坐は足が痛い。坊さんでもなく、在家が自分一人でやるばあいには、正座で
も、胡座でもいいだろう。僕は椅子に座って背筋を伸ばす。自分が一人でやるときは椅子でもあ
ぐらでもいいが、蓮華座が極楽浄土、道場の正式な着座法だということは常識として知っておき
たい。
 鎌倉の大仏さんは少し猫背だ。もう少し首を立てた方がいいだろう。

 念仏は声をだす。五会念仏は5回を一サイクルとする。
 最初の南無阿弥陀仏は、少し低めの声でゆっくり南ー無ー阿ー弥ー陀ー仏と称える。抑揚を付
けない。
 次ぎに、半音程度上げる。ゆっくり南ー無ー阿ー弥ー陀ー仏と称える。抑揚を付けない。
 3回目、自分の普通の速度で南無阿弥陀仏と称える。抑揚を付けない。
 4回目、「南無」は普通の速度、阿弥陀仏を早く称える。
 5回目、阿弥陀仏と称える。南無を付けない。早く称える。
 これを繰り返す。

209 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/26(日) 22:04:58 ID:NG49KXLn
 腹式呼吸を行う。呼吸の速度と称名念仏の声とは、自然に調和させる。

 坐禅の時は眼を開けた方がいいそうだ。総持寺の坊さんはそう言っていた。僕の場合、生理的
に瞳孔の奥が収縮して目が閉じる。無理して開けようとすれば、薄目になる。

 昔、長島監督が現役選手時代に巨人軍の監督だった川上哲治さんは、夜寝る前に坐禅すると言
っていた。僕はSOHOの自営業だから、普通は仕事を始める前に行う。夜寝る前にすることも
ある。それ以外でもまあ、ちょくちょくとやっている。

 親鸞さんは仏像などの本尊を置いてその前でやることを勧めている。仏壇があれば、その前で
行うのもいいが、そんなもの無くてもできる。インターネットで仏さんの写真をダウンロードし
てもいいだろう。

 数珠なんかなくてもいいが、数珠があればそれで数を数えて行うのもいいだろう。1サイクロや
れば、珠を進める。最初は5サイクル程度を目標にしてみるのもいいだろう。

 なお、「天台小止観」位は読むといいかも知れない。坐禅の古典的入門書だ。あの本は、親鸞
もあれは読んで勉強していただろうと思う。

210 :199:2006/11/26(日) 22:40:50 ID:eJap0Kd9
>>209
ありがとうございます。
念仏を唱えるというのが、僕のイメージする「南無阿弥陀仏」と唱えることとは違った意味合いがあるのかと思って質問しました。

親鸞さんは「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」と言われたと聞きました。
これはどういうことでしょうか?
また、念仏を唱えることは幸せになるために何の効果があるのでしょうか?

211 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 00:29:28 ID:6vNFKhNA
         /:::::::::::::::::::::\
       /::::::::::::::::::::::::::::::::\
       |:::::::::::|_|_|_|_|_|
       |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ
       |::( 6  ー─◎─◎ )
        |ノ  (∵∴∪( o o)∴)
      |   <  ∵   3 ∵>
     /\ └    ___ ノ
       .\\U   ___ノ\
         \\___)  ヽ
       †渡海 難  ◆Fe19/y1.mIの正体†
頭髪    :似つかわしくない茶髪、ボサボサロンゲ、ボウズ、フケ、シャンプー使ってない。
顔     :アンパンマン、なすび、無精ヒゲ、二重アゴ、目脂、吹き出物、歯糞、-=・=- -=・=-、サイクロプス。
服装    :ダサダサのバンダナ、安物の水色シャツ、アニメキャラプリントシャツ、ヨレヨレのジーパン、ブリーフ(シミ付き)、スニーカー。
身体    :デブ、チビ、もやし、短足、皮膚病、多汗症、腋臭、爪に垢。
股間    :短小、包茎、早漏、梅毒、尖圭コンジローム、インキン、チンカス、童貞。
アクセサリ  :汗だくのタオル、オタク系携帯ストラップ、ダサダサ眼鏡、野球帽、リュック、ポスターサーベル、ポータブルCD/MDプレーヤ(ヘッドギア)、
       :膨れた財布、盗撮用デジカメ、スタンガン、アルカリ電池、ノートPC(CD革命、駅すぱあと、他オタク好みファイル)、バイブ。
臭い(ニオイ):口臭、体臭、イカ臭い、酸っぱい、砂煙臭い、プゥ〜ン。
性格    :挙動不審、人間不審、丸丸、多重人格、屁理屈、根暗、引き籠もり、ロリコン、変態、キチガイ。
特技    :妄想、傷の舐め合い、自作自演、被害妄想、掲示板では強気、妙な言葉遣い、揚げ足、ああ言えば上祐。墓穴を掘る、レイープ。
趣味    :2ちゃんねる、座禅念仏、真宗叩き、僧侶叩き、WinMX、アニメ、ゲーム、ギャルゲ、エロゲ、同人誌即売会、CD-R、アキハバラ/日本橋(電気街)。
好きな物 :スナック菓子、うまい棒、コーラ(炭酸系)、吉野家、ガスト(ドリンクバー)。
愛読書  :教行信証、ネットランナー、ゲームラボ、メガミマガジン、同人誌、完全自殺マニュアル、週刊少年雑誌、エロ本。
恋人    :ブラウン管に映るキャラクタ、美少女フィギュア、心/脳内(仮想の彼女)、右手、コンニャク、つーか彼女自体いない。
ペット   :シラミ、ノミ、ゴキブリ、蠅、蛾、毬藻、堀江由衣、ダッチワイフ、大腸菌。
最終学歴 :中学、工業高校、3流大学、代々木アニメーション学院。(虐めで中退有り)。

212 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 13:06:01 ID:gmVYLpJk
ff

213 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 17:42:09 ID:gmVYLpJk
問題はそこなんだよな−。字が称と言う字だもんね。唱なら口でとなえるんだろうけど
称となると別の意味があるんじゃないのかな−。
アミダの浄土が優れているのは簡単に言えばあらゆる諸仏方が褒め称えていることでも
分かるんじゃないか。
おそらく経にも アミダの名号を聞いて往生を願う者を救うとか
        アミダの名号を聞いて喜び満ちあふれるものを浄土に往生させるとか
まあ念仏を唱えるんじゃなくて名号を聞くことによって救われるんじゃないのかな−。
そうなると念仏を何回唱えたとか唱え方とか腹式呼吸がとうだとかあまり関係ないんじゃないのか。

         



214 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 18:41:02 ID:gmVYLpJk
209
親鸞さんは仏像などの本尊を置いてその前でやることを勧めている つて書いてるけど
どこにそんなこと書いてるのでしょうかね−。親鸞という人が座禅を勧めているとは聞いたことが
ないけど。

215 :名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:11:09 ID:gmVYLpJk
199へ
たぶんオレのカンだけど名号をとなえるのじゃなくて、名号を聞くんじゃないかと思うわけよ。
その聞名を説いているのが大経なんじゃないかな。アミダ経でも聞説アミダ仏、執持名号−−−と
アミダの説くを聞いて名号をたもて−と説かれてるから、名号をきいてそれを忘れずに保てばいいんじゃないか。


216 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:53:10 ID:pGqPceYh
>>210
>親鸞さんは「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」と言われたと聞きまし
た。これはどういうことでしょうか?

  法を聞けと言うことを、非常に口酸っぱく繰り返し繰り返し言っているのは、親鸞ではなく、
蓮如だと思います。親鸞と蓮如の立場の違いを理解すべきでしょう。

 仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、
あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき(一代記)

 信心の原則は親鸞にあります。親鸞のスタンスを考えましょう。

 摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(序文)
 必ず救うぞと言っている真実の言葉、滅多にない世を超えた正しい教え、これをよく聞き、そ
の上で考えて欲しい。引っ込み思案でためらっていてはいけない。

217 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:54:33 ID:pGqPceYh
 自分で考えるということのない聴聞に対しては、親鸞は強い警告を発する。

 信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、
思より生ぜず、このゆえに名づけて信不具足とす。(化身土巻)

 信心は聴聞から生まれる場合と、思索から生まれることがある。ただ聞いているだけではだめ
だ。自分で考えないと本当のことは見えてこない。

 真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。(信の巻) 真実
の信心があれば、そこには必ず名号がある。つまり信心があれば名号が必ず口から出る。ただし、
名号が口から出ているからと言って、必ずしも信心がある人とは限らない。信心が無くても、名
号が口から出ているひとはいる。しかし、名号が口から出ない人で、信心のある人は、存在しな
い。

218 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/28(火) 00:56:38 ID:pGqPceYh
 「念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事だ」
 これは、念仏を称えないでもいいから、仏法を聞きにきなさいということでしょうか。念仏を
称えないということは、信心がないということです。信心が無くても念仏は称えられるんです。
念仏は称えないが、私には信心がありますというということは決してありえません。念仏を称え
ださない限り、信心などは決して生まれない。
 まず念仏を称え、称名念仏をする中で聴聞し、思索することで信心が見えてきます。

 消火器屋さんの話を聞くのが先か、消火器を買うのが先か。これは入口の議論でしょう。本当
は、消火器をしっかり設置し、日々点検し、消火器屋さんの話も聞き、レバーはどこだ、ホース
はどうなっているのかと、自分で現物をよく確認して、始めて非常時に備えられる。消火器を買
わないで、消火器屋さんの話を聞いても、それじゃ火事に間に合わない。

 消火器は買わなくていいから話だけ聞いてくれと言うのは、まあ商売だからそれもいい。しか
し、消火器を買わないと言う客に代金を請求したら、これは詐欺師だろう。
 念仏を唱えることよりも、まず説法を聞くことが大事というなら、念仏を称えない客からは代
金は取らないという考えを徹底すべきだろうね。    (続く)

219 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 01:43:58 ID:hyCEaLDx
称という字はハカリ知ることと言う意味が強いと思われます。それに対して唱という字は
口に出して唱えることと言う意味ですね。親鸞さん多分よくこの意味をご存じで、称の字訓に
ハカリと書き込んでおられますね。そういった意味で称名とか念仏を称えるとか言った場合は
念仏とはなにか、名号とは何かをハカリ知っていくと言う意味になるんじゃないかな。
ハカリしるとは聴聞思かな。聞は字のごとく外から聞こえてくる、聴くはこちらから注意してきく
思はおもいはかるという意味かな。真宗の仏道は言葉を換えて言えば聞名道と言ってもいいように
聴聞に極まるみたいだね。これは釈迦の原点に返ったともいえるね。だつて釈迦は耳ある者は聞けと
いったというし、初天法輪でも釈迦が真実の法を説いて5人の比丘がそれを聞いて悟ったんだろ。
次に問題になるのは名号とは何だということだね。阿弥陀如来とは何だということだね。



220 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 02:16:38 ID:ZcvZpYqJ
>>218
消火器で消す火は何だろう?
火が出るので、消火器を使う必要が出てくる。
消火器は南無アミダ仏だろう。
火の正体が分かれば、アミダ仏の正体も推理できるかもしれない。

221 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 02:55:35 ID:IkH/gm2C
馬鹿森の話を聞くのは少なくとも釈迦の原点ではない

222 :199:2006/11/28(火) 08:28:22 ID:ECKdzl9U
>>220でも聞かれていますが、
消火器が南無阿弥陀仏だとすると、その消火器で消す火事とは何のことを指すのですか?
また、南無阿弥陀仏を称えることでその火事を消せるというのは、どういった仕組みで火事を消すに至るのですか?

223 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 11:52:11 ID:hyCEaLDx
まあ喩えがよく分からないというか。消化器なんかにたとえなくても良いと思いますが。
しかし消化器を設置して説明をきいていざ消そうとしたら中身が空っぽというのもあります。
賞味切れだったり。中身の入っていない消化器は空消化器ですね。


224 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 13:05:12 ID:hyCEaLDx
まあ無理して消化器で言うなら、買う必要なんてないんだよ。もうすでにあるというか、来ているというか、
届いてるのよ。それが分からないんだな。

225 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 00:17:42 ID:o4cyqqFL
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1163946355/

226 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 23:44:11 ID:jLZAAfqs
要するにアミダさんの徳を賛嘆して褒め称えて名を呼び念じているのが諸仏たちで
、その諸仏達が褒め称えているのを聴聞するのが凡夫である私達という構造何じゃないか。
それでこの国の諸仏の一人は釈迦なのか。親鸞さんにとっては法然さんや7高僧も諸仏方に
なるみたいだね。

227 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:16:38 ID:tDpy3Grq
質問です。
(株)チューリップ企画 という浄土真宗の教えやら、親鸞聖人・・・云々
と言って講話や研修会を公民館、市民会館などで開催している、宗教法人でなく
株式会社ですが、どうなんでしょうか?
ご存知な方、詳細情報きぼん。
知り合いがハマりかけております。このまま放置して良いやら、
止めさせた方が良いか??アドバイス宜しくお願いします。


228 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/11/30(木) 00:21:48 ID:h8UBPzGX
2,3日カキコ不能

229 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 12:12:20 ID:h8UBPzGX
>>227
 (株)チューリップ企画は、新興宗教の親鸞会が作った会社です。
 親鸞会はカルト性が高い要注意教団です。親鸞会からは、精神病患者も出ています。
詳しくは
 ↓
射精寸前もっこり親鸞会
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1163593864/
ろくなことない親鸞会
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1163084275/
 で質問するといいでしょう。
 親鸞会元会員などが常駐しています。

 友人にこの2ちゃんねるを紹介してみてください。

230 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 14:34:00 ID:j0MK1s52
浄土真宗親鸞会について考えるページ ジャンヌ
ttp://homepage1.nifty.com/you/

なぜ私は親鸞会をやめたのか
ttp://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/

浄土真宗親鸞会の謎
ttp://www.nurs.or.jp/%7Ejuunenso/shinrankai.htm

浄土真宗親鸞会被害家族の会
ttp://homepage2.nifty.com/nonsect/

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
ttp://shinrankai.jugem.jp/

231 :疑問:2006/11/30(木) 21:12:39 ID:6dnmU7H2
疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家してしまったら
子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教えと言うことにならないか。
二つに出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われて在家で戒律は守れず修行も出来ない者は救われない
のかどうか。その在家が出家者に布施をしてるんだろ。在家の救いはどうなる。
三つに生き物の殺しはどう考えればいいのか。仏教は生き物の命を殺すなというけど
それじゃどうやって生きるのか。出家の僧は生き物を殺さないといっておきながら、在家が殺した生き物や穀物をもらって
しっかり食べて自分は命をつないでるだろ。それじゃ生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に
押しつけていることにならないか。

232 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:20:20 ID:S91RVAsX
>>231
非僧非俗、肉食妻帯の親鸞聖人のスレッドでその質問はないだろう。

233 :オーム浄土真宗:2006/11/30(木) 22:33:06 ID:Im9s6Cwy
〇森先生に聞いてみたらどうですか?(笑)
>世の中みんな出家して仏教徒
そんなことありえませんので あなたにとって無駄な思考です
あなたもあなたの子供も寿命がくれば滅びますよ
>在家の救いはどうなる
あなた本当に自分以外の事心配してますか 嘘つきは泥棒のはじまりですよ
泥棒や不倫のはじまりでもありますよー お母さんに言われませんでしたか(笑)
>生き物の殺し
あなたインドでジャイナ教徒になって裸で森で餓死しなさい(笑)
あなたも他の生き物もウンチしてセックスして子供育てて淡々と生きてるんですよ
感謝しましょう

234 :疑問:2006/11/30(木) 23:48:39 ID:afmTNRIl
232や233みたいに結局浄土真宗の特色は都合の悪い質問は質問に答えられないから
質問自体を間違っているとか、質問者を問題にするのが特徴だね。



235 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 23:58:47 ID:j0MK1s52
>>232
その質問は真宗どころか、お釈迦さんの時代からあったらしい
(詳細は忘れた)
どっちかというと仏教質問スレか原始仏教スレの方が専門的な回答が期待できるだろう

236 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 00:22:44 ID:WJIswJdG
>>234
少々乱暴な答え方かもしれませんけど、あなたがおかしいと思ってる事を親鸞もおかしいと考えた訳です。
それで念仏以外の事はせんでもええという結論に達したんです。
まぁ>>235の言うとおり別のスレできいたほうがいいね。
通仏教的な解釈だとスレ違いになっちゃうし。

237 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 01:25:19 ID:rfcWQSUp
永六輔 @浄土真宗

http://www.jinken.ne.jp/buraku/ei/ei01.html

部落どまんなか

僕が生まれ育った浅草は、江戸時代に今でいうホームレスらが集まってきた下町。
生家は弾左衛門(だんざえもん)の縄張りのお寺でした。

---------------

弾左衛門

江戸時代、江戸浅草を中心に関八州の穢多、非人等を支配した被差別民の頭。

238 :疑問:2006/12/01(金) 01:48:27 ID:45J+O5R0
なんだここは質問をする板じゃなかったんだ。私はてっきり親鸞の教えが仏教の極致だと
なんとなく思っていたのでここで質問すれば回答があるとおもったよ。
関係ないが士農工商エタヒニンという江戸時代の身分制度も部落差別の大きな要因と昔、企業研修会で
聞いたが、疑問に思うのはみんな今は平等平民というけど、よく考えてみると武士の上に公家、天皇がいるから
天皇、公家、士農工商、エタヒニンじゃないのかな。で現在は天皇、皇族、平民。
これって天皇制とか王政があるかぎり階級とか差別なんか基本的に無くならないんじゃないのか。
まあ、そんなのはどうでもいいけど、そういった当時の世間の最底辺の人間扱いされてなかった人々に手をさしのべたのは
真宗だと思うけど。そういった意味じゃ真宗は人間としての尊厳をとりもどせる、人間として自立出来る教えでも
あるんだろうね。

239 :疑問:2006/12/01(金) 01:53:59 ID:45J+O5R0
追伸 
渡海さんはまだ書き込むことができないんですか。はやく復帰出来ることを
願ってます。

240 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 02:11:55 ID:EdX5g0dB
ここは渡海難が自作自演で質問したり回答したりするスレだ
まともな答えを期待するな

241 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 02:29:50 ID:E1o14ySC
>>231
あなたの質問は親鸞というより、
むしろ根本仏教に対する疑問ですね。

まず一つ目の疑問ですが、
根本仏教において、在家がいなくなれば子孫ができないというより、
そもそも出家も全員生きていくことができません。
そして出家とは釈迦の言うように、
布施してくれるものが誰もいなくなれば
そのまま飢え死にしても構わないと、そういう人達なのです。
従って全員が出家すれば人類は滅びますが、
出家することだけが道でもありません。

二つ目の疑問、
そもそもあなたの考える救いとはなんでしょうか。
根本仏教の教えとは、簡単にいえば
世の苦しみから離れて生きていくための人生哲学のようなものです。
そこには輪廻も極楽も地獄もありません。
在家でも釈迦の教えを聞き、戒を守って生きることはできます。
出家と違い子供も作れれば肉も食べれますが、
それでも教えに触れ少しでも実践していけば、
それだけこの世の苦しみから離れることができるわけです。

242 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 02:30:24 ID:E1o14ySC
三つ目の疑問、
当初の出家は生き物だけでなく、
果物なども自分でとることはできませんでした。
肉はダメですが在家が傷をつけた果物は死果といって食べてもいいと、
そういうような戒律だったわけですね。
これは生き物にたいする慈愛の精神から、
命を奪うようなことは極力しないでおこうという意味なのですが、
もちろん出家がくれた死果は食べているわけですので
意味が無いと言われるかもしれません。
けれども同じような疑問に、中国の思想家孟子も答えています。

ある君主が王宮の台所に足を運んだ所、
たまたま今日料理される予定の鹿を目にした。
それを見て哀れになり、その鹿を殺すのをやめさせて
代わりの家畜を料理させることにした。
これは明らかに意味が無いことだ。
しかし、意味が無くても目にしてしまった以上殺すには忍びない。
それが最も大切な仁の心であると。

うろ覚えですがそういう感じですね。
釈迦の言いたい事もそういうことなのでしょう。
以上はかなり簡単に答えただけですので、
わからない所があればご指摘ください。

243 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 02:41:18 ID:E1o14ySC
孟子の話、鹿ではなく牛でしたね。
この話の結論は肉を食べるにしても仁者は見てしまった以上情が移ってしまう。
だから、「君子庖厨(料理する場所)を遠ざかる」であるという、
有名な成語のもとになった故事です。

244 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:55:08 ID:wsRkokpR
>>210
>また、念仏を唱えることは幸せになるために何の効果があるのでしょうか?

 僕の場合、人生の危機に立ったとき、最悪の選択肢以外の選択肢が見つかってくること
があるという言い方をしておきたい。
 親鸞はこんなことを言っている。
 
 一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏
護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つ
には知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(信の巻)

 「冥衆護持の益」見えないところで、様々な人々が協力してくれるようになる。
  危機に立つと、自分でも回りが見えなくなる。ところが、念仏して安心感が出てくる
と、周囲の様々な支えが見えてくる。協力してくれているとき、それを受け入れる余裕が
でるんだろうね。無我夢中で自分のことで精一杯なら、なかなか僕なんかにはあまり実感
がないけど、気づかないところでそういうことはあるだろう。
 まあ、奥さんに逃げられてもおかしくない状況になっても、不思議と夫婦円満に助け合
えるということはあるだろう。

245 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:56:02 ID:wsRkokpR
>>213
>そうなると念仏を何回唱えた

 もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり、と(行の巻)。
 初心者は、称えた数を数えていくのもいいでしょう。これも聖教に書いてある。

>腹式呼吸がとうだとかあまり関係ないんじゃないのか。
   五会念仏を称えると、自然に腹式呼吸になる。肺呼吸では難しい。

246 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 06:56:59 ID:wsRkokpR
>>214
>どこにそんなこと書いてるのでしょうか

 念仏、誰か一万遍に限れと定めし。精進の機ならば、ひめもすに称うべし。念珠をとら
ば、弥陀の名号をとなうべし。本尊にむかわば、弥陀の形像にむかうべし(唯信抄)。

 大方は、唯信抄・自力他力の文 〜 、これらを御覧じながら、〜おおくの念仏者達の、
弥陀の本願をすて参らせ合うて候らんこと、申すばかりなく候(血脈文集)。

 道場を構へて本尊を安置し、同行を会合して念仏を勤行すべきなり(至道抄 存覚 著)

>親鸞という人が座禅を勧めているとは聞いたことがない

 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)
 念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり
   (愚禿親鸞見聞集 伊勢専修寺蔵宗祖真筆本  五会法事讃略抄)。

 貴方に師僧がいれば、師僧の選択を誤っているようです。

247 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:35:09 ID:wsRkokpR
>>222
>消火器で消す火は何だろう?

 長い人生には、様々な苦難がある。人生で困ったことがあれば、色んな人に相談すると
いい。法律問題で困れば、弁護士に相談するといい。健康問題で困れば医者に聞く。その
外にも、市役所、区役所には様々な相談窓口がある。その外にも、親・兄弟・親戚など、
世の中には、思わぬ所で様々な知恵を持っている人がいる。
 色んな書物を読みあさるのもいい。本屋にも、図書館にも本はたくさんある。現代では、
本以上に強力なツールがある。二十年前には考えられなかったと思うが、インターネット
での検索はものすごい力を発揮する。
 ところが、そうした手段でも力が及ばないことがあるだろう。相談する相手も尽き、探
すべき本もない。インターネットにも書いてない。

 駅前の一等地で、高い地代を払ってパン屋さんを開業していたが、郊外に突如、街のよ
うに大きなスーパーマーケットができた。車を持っている人は、みんなそっちの方に買い
に行く。駅前は閑散としてきた。地代は嵩む。さあ、店を移転すべきかどうか。
 中小企業診断士の先生三人に相談しても、三人が三人とも別の考えを言う。唯一共通し
ているのは、「何とも言えません」ということだ。そんなときどうすればいい?。

248 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:36:18 ID:wsRkokpR
 親が突然倒れた。自分も長くは会社を休めない。親を残して会社にはいけない。介護人
さんを雇う金ははない。区役所に相談しても、全くらちが明かない。いっそ、右手に刃物
をもって、親の胸に突き刺そうか。ここで、いくら治療を続けても、老い先短かい親は、
このまま寝たきりが続くと、医者は悲観的なことばかり言う。しかし、胸に刃物を突き刺
せば、心臓から真っ赤な血が噴き出し、それは天井まで届くだろう。
 体が動かないとは言っても、全身は「生きたい、生きたい」と思っているのだ。それな
ら、いっそ自分が先に死んでしまおうか。自分が死ねば、親は恐らく二日と持たないだろ
う。それならいっそ、親を殺して、自分も死のうか。
 いやいや、親さえ死ねば、自分は死ぬ必要はないんじゃないか。しかし、親を殺して自
分だけ生きていけるだろうか。

 こんな話は、世間でいくらでもあるだろう。こんな八方ふさがりの時、親を殺してはい
けませんとか、いいですとか、そんなこと誰が答えられるだろうか。世の中の常識でどん
な結論が出せるだろうか。いい方策など、どこに書いてあると言えるだろうか。
 相談する先がない。自分で考えても分からない。そんな時こそが、本当の宗教の出番な
んだ。ここで糞の役にも立たない宗教じゃどうしようもない。このようなときに、もし糞
の役にも立たないような宗教があれば、それは捨てなさい。

 もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一
日、もしは二日、 〜 もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。


249 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:37:28 ID:wsRkokpR
 周囲の状況が激変し、今までの環境の継続が不可能になってきたときどうするのか。最
悪の選択肢しか選択の余地が無い場合、結局は最悪の選択肢を選ぶしか方法は無いかも知
れないが、ひょっとして、最善ではなくても二善、三善の策があるかも知れない。
 不幸な環境状況は、実は自分が一番よく知っている。念仏してみても、新たな情報は入
ってこないけど、忘れていた情報を思い出すことがある。何かのこだわりで、情報と情報
とがつながりを嫌っていたなら、そんなこだわりも無くなるかもしれない。
 本当に困ったときには、ぜひ座禅して念仏してみなさいな。人間、逆境に落ち込めば、
判断力は通常の一割、二割に落ちる。それが、座禅して念仏する中で、仮に、通常時の三
割に回復すれば、人の能力は、一倍半から三倍に増大することになる。それでも、通常時
の判断力には及ばないかも知れないが、やってみる価値はあるだろう
 本当に最悪の選択肢しかなかったなら、その選択肢を選んではいかんとは僕は言わない。
しかしそれ選ぶなら、その前に半日でも、一日でも必死に念仏称えてみなさいな。どうせ、
最悪の選択肢を選ぶなら、それが、半日、一日遅れても、罰はあたるまい。親鸞聖人の教
えとは、そんな危機管理の教えだと僕は考えている。

250 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:54:43 ID:wsRkokpR
>どういった仕組みで火事を消すに至るのですか?

 座禅して念仏していると、横隔膜が大量の空気を吸収し出す。脳は、体の構造の中で、
最大の空気消費器官だそうだ。
 座禅している場合には、下半身の血流が非常に少なくなる。その分、上半身に大量の血
液が循環し出す。大量の血液が、脊髄血管を激流のように上昇し、これが脳を内側からポ
ンプのように圧迫する。心臓の鼓動に合わせ、いわゆる脳に按摩効果が及ぶんだろうと僕
は勝手に思っている。
 脳の中で惰眠を貪っていた細胞組織などは、停滞していた古い血液が押し流され、新し
い血液が流入して目を覚ます。
 僕などは何度も経験しているが、座禅して念仏していると、反射的に背筋が伸びること
がある。同時に、脳は、脈動を開始する。脳の解剖図を見ると、色々なブロックに分かれ
ている。脳が、心臓の鼓動に合わせて脈動を開始するとき、前頭葉、後頭葉、右脳、左脳
など、あのブロックごとに動き出すから面白い。無論、脳全体が脈動を開始することも少
なくない。
 眠っていた脳細胞は、眠りから揺り起こされると、危機意識が、脳の一部だけから体全
体に波及する。特に、横隔膜当たりが感じ出す。自分が非常時にあることを、全身が察知
する。こうなると、忘れていた情報が思い出されてくることがある。つながりが悪かった
情報がつながることがある。
 僕などは、本当に困ると、二日でも三日でも、ぶっ通しで念仏を称える。すると、夜は
熟睡しながらも脳は、活動を継続している(不眠ではない。熟睡しているのだ)。明け方、
突然、誰かの声が聞こえて飛び起きる。声は言う「くよくよしていてもしょうがないだろ
う」。この声が聞こえた瞬間、一気に気分が変わる。まあ、そんなこともあった。

251 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/01(金) 07:57:22 ID:wsRkokpR
 昔の人が、神の声を聞いたとか、仏の声を聞いたといっている。恐らく同じような経験
だろうと僕は思っている。まあ、あれは脳の中の自分の声なんだろう。それが、あたかも
他人の声のように錯覚する余地がある。とにかく、一瞬の声だ。

 脳漿を絞るという言葉がある。辞書にも載っている。あれはたとえ話ではない。現実に
僕などは、脳中で霧吹きのように脳内麻酔が噴出した経験を二、三度もつ。脳内で液体が
吹き出る感触がはっきりと分かる。この瞬間、気分が一気に変わる。
 人生の苦しみの中にあっても、解決策が何もない場合がある。そんなとき、少なくとも
麻酔だけ噴射して気分だけでも良くしておこうというそんな防衛機構が脳にはあるようだ。
これも座禅しながら念仏しているときに起きる。

>>223
>中身の入っていない消化器は空消化器ですね。

 汝若し修せずてすなわち仏になるといはば喩へば飢えたる人のひろく風を掩〔おほふ〕
がごとし(五会法事儀讃略抄)

 持戒座禅しないで、念仏だけ称えて自分は仏になると言う人は、空腹を抱えた人が、自
分に向かって吹いてくる風を思いっきり腹の中に詰め込もうとするものだ。
 消火器の中に薬が入っていない。腹の足しにならん念仏とは、坊さん達の念仏だ。

No231以下は後日。

252 :疑問:2006/12/01(金) 18:14:02 ID:UOk1iGWG
わお−渡海さんまた書きこみ出来るようになったんですか。よかったですね。
座禅して念仏の件なんだけど、親鸞聖人の本典行巻の引用ですね。そこは座禅が問題ではなくて
お釈迦さんも念仏を勧めていることを言いたかった所じゃないかな。文の前後からするとね。
それで親鸞さんや法然さんが注目してるのは座禅ではなく一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」(散善義)
の文だと思われます。念仏は行住座臥 不問時節と以前聞いたのですが。

あと真宗に限らず仏教は不殺生が極めて重要な教えなんだが、この不殺生をどう理解すればいいのか。



253 :疑問:2006/12/01(金) 19:50:17 ID:UOk1iGWG
不殺生を生け贄などの供儀の禁止という意味ならわからなくもないが、生き物の命を殺すな。
殺させるなとなると、生きていけないだろ。釈迦は托鉢に出てるわけだけど、在家の信者から
食べ物をもらっているよね。それは在家が生き物の命を奪ったものだろ。その一部をもらって食べているわけだ。
不殺生だから釈迦自分自身は手を下さないかも知れないけど、それだと随分身勝手と言うことになる。
現にドイツ仏教でも五戒のうちこの不殺生以外は受け入れているのをみると
まだこの不殺生の意味の問題が解決されていない。親鸞さんも狩人や漁民など命のやりとりをして生きていく
人々の救いに興味を持っているようだけど。

254 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 20:29:02 ID:E1o14ySC
>疑問氏

土を掘ると土中の小生物を殺してしまうため、
仏教には掘地戒というという戒があります。
出家は土を掘ることも掘れと命令することもできないわけですが、
それを厳格に守れば生活ができないので、
ゼスチャーによって在家に気を利かせて掘ってもらっていたようです。
何故そこまで細かい戒律があったのかというと、
仏教においては、私の命は私のものではなく、
あなたの命もあなたのものではなく、
生き物の命も全て仏からの預かり者なのです。
仏から預かった命をむやみに絶つことができないのは当然です。

肉食に関する考え方は、
分かりやすいものを挙げればこういう釈迦の説話があります。

「父母と子供の3人が旅をしていた。
しかし砂漠を横断していた途中で迷い、
何日も飲まず食わずで砂漠を彷徨うことになってしまった。
このままでは必ず3人とも死んでしまうと、
父母は泣きながら我が子を殺しその肉を食べ、
砂漠を渡りきることができた。
この話で、その父母は我が子の肉を喜んで食べたのだろうか。
そう考えると肉食を離れることができる。 」

つまり釈迦は肉食そのものを明確に禁じていたわけではありませんが、
慈悲の心からできるだけしないでおこうという努力目標にはしていたわけですね。
もちろん生きるために在家からいただいて食べている例があるわけですが、
それが意味が無いかあるかという論点は
すでに「君子房厨を遠ざかる」の故事を引用して説明しているので割愛します。

255 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 20:29:48 ID:E1o14ySC
そして大きな誤解されていると思われる点は、
仏教において布施とはただのプレゼントではありません。
布施をさせるほうが感謝するべきものではなく、布施をするほうが
「功徳を積ませていただいてありがとう」と感謝する性質のものなのです。
つまり出家が布施を貰うのは自分のためではなく、
在家に悪業を被せているわけでもなく、
換言すれば在家に功徳を積ませてあげているという善行なのですね。

256 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 20:43:25 ID:E1o14ySC
少し補足すれば、
肉食というのは仏から預かっている命を、
生き物同士が分け与えあっているという状態なのです。

食物の制約は様々な宗教にあり、
イスラム教は豚肉食、ヒンドゥー教では牛肉食を禁じ、
ユダヤ教でも様々な制約がありますが、
共通しているのは「何故」という疑問はタブーなことです。
そういった疑問が発生する事自体神に対する不信だからですね。

仏教が違う点は、仏教において戒律は厳格な制約ではなく、
できるだけしないでおこうという目標なのです。
出家には出家だけが守るべき戒律、
在家には在家も守るべき戒律というふうに
戒律が分けられているのはそういう理由なんですね。

257 :疑問:2006/12/02(土) 00:32:36 ID:NNwwZR1K
出家者に食事を布施をしようとして植物や動物を殺して捧げた。これは
功徳を積んだのか殺生戒になるのか。

258 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 01:04:02 ID:thjvCINO
もちろん功徳です。
掘地戒や壊生種戒は出家者だけの戒律ですので、
在家のものは守る必要がなかったのです。
もちろん在家の者でも不殺生戒など5戒は守らなければなりませんが、
戒とはサンスクリット語でシーラといい、習慣や傾向という意味です。
つまり絶対守らなくてはならない規則ではなく、
出来る限りそういう習慣を持とうという自発的な目標以上のものではありません。
なので、戒を破っても罰則などはありませんし、
狩猟を生業としているような者なら守れなくてもしかたがありません。
そしてそういう肉しか布施できないような人にも功徳を
積ませてあげなければなりません。
だから、例外的に出家者でも肉を食べることがあるのです。

259 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 01:41:08 ID:vGWToM8Z
>>226
>それでこの国の諸仏の一人は釈迦なのか。
>親鸞さんにとっては法然さんや7高僧も諸仏方になるみたいだね。
地球上に現れた仏は釈迦一人だけでは?
また、凡夫が聞けるのはその釈迦が説いたこと(仏教)であって、
それは善知識(法然や7高僧などの仏教を正しく伝える人)によって伝えられるという形では?


>>229
>親鸞会からは、精神病患者も出ています。
考え方として、生きがいという崩れてしまう幸せを生きる目的であると勘違いしては本当に幸福にはなれない、
しかもそれが人間である、と。
てことなんだから、中には自分の人生のことを真剣に考えて精神を病む人が出るもので、
親鸞会が悪いとは言えないのでは?


>>247-250
消火器=念仏、火事=人生の様々な困難という例えなわけですね。
つまり座禅して念仏することは、現在世の枝末無明に対してのみ効果があって、
肝心な後生の一大事(根本無明)には効果なしということですか?

260 :258:2006/12/02(土) 02:07:40 ID:thjvCINO
誤解を招くといけないのでもう少し説明しておくと、
戒は守らなくても罰則はないといいましたが、出家者は話が違います。
戒律は本来、「戒」と「律」とで分けて考えるべきもので、
律とはサンスクリット語でヴィナヤ。規律という意味です。
在家と違い出家者はこのうちの「律」のほうも守らなくてはなりません。
要するに250戒ですが、これを破れば教団追放などの罰則があります。
これは仏教教団の中で修行という共通目的をもち集団生活をする以上、
当然組織としての規則、規律が必要となってきます。
そのための特別な戒律なので、
出家在家問わず守らなくてはならない戒とは区別しなくてはなりません。

遊女であるために不邪淫戒を守る事のできないアンバパーリーが、
熱心に釈迦に教えを聞いたという話がありますが、
釈迦も彼女の供養を優先して受けています。
このように戒律については釈迦自身が融通の利いた判断をしておられるので、
戒だ律だと必要以上に執着して拘っておられるのも
あまり意義のあることではないのではないでしょうか。
親鸞の悪人正機説というのも、原点はここにあるような気がします。

261 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:44:51 ID:ickjmA/D
>>231
>疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家して
しまったら子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教
えと言うことにならないか。

 疑問なんだが、高等学校はほとんど結婚禁止だ。少なくとも推奨はしない。子供ができちゃう
と、後ろ暗い気持ちで堕胎を勧められる。この状況は、大学もおおよそ同じだ。大学生で結婚し
ましたと言ったら、周囲は余り祝ってくれない。みんな、高校や大学に行きだしたら、人類は滅
んでしまうんじゃないか。そうすると学校は人類滅亡の教えと言うことにならないか。

 まあ、こんなこと言って人類の滅亡を心配する人はいないよね。出家仏教の一番古い形は、上
座部系に残っている。タイ・ミャンマー・スリランカなどのお寺では、還俗というのは日常茶飯
事だ。一生の内、一回は半年程度出家して仏教を学ぶ。まあ、一生に一回は高等学校に入学して
一般知識を学ぶというのと同じだ。
 一度出家したら、生涯出家を守るというのは大乗仏教だ。上座部系では国民全てに出家を呼び
かけるが、大乗仏教にはその考えがない。大乗仏教は、有志が他を代表して出家して仏教を学び、
その内容を在家の人々に伝達する。その代わり、子作りは在家の人に任せる。仏教で人類が滅亡
する心配はないだろう。

262 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:46:54 ID:ickjmA/D
>出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われ

 教師は、学生がちゃんと物事を理解できるようになって、始めて職務が遂行されるんだ。在家
(学生)が救われないうちに、出家(先生)だけが勝手に救われるという発想は、大乗仏教にな
い。

  たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念
せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。

 これはそういう意味だろう。

>生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に押しつけてい
ることにならないか。

 殺生戒に対する見解が杓子定規に過ぎないか。
 これは、律宗の坊さんに聞くといい。貴方のような杓子定規の考えではなく、律宗の坊さんな
らもっと血の通った話をしてくれるだろう。
 ぼくが好きなホームページを紹介しよう。ここの坊さんは、言っていることは筋が通っている。
 http://www.horakuji.hello-net.info/kairitu.html

 最澄・親鸞などに対する見解も、フムフムと、非常に頷けてくる。どうやらまだホームページ
としては完全には完成してないようだが、戒律の考え方はよく分かる。

 メールアドレスも公開している。貴方の問いに直接解答している記事はないようだから、一度
質問してみたらいいだろう。じかに訪問して聞いてくるのもいいかもしれない。
 ノータリン真宗坊主が勝手な思いこみで吐いてる暴論よりも、戒律についてはその専門の坊さ
んから直接聞くのが一番いい。
 僕などは、こういうお寺なら、いつかゆっくり話を聞きに行きたいものだ。

263 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:47:51 ID:ickjmA/D
>>252
>念仏は行住座臥 不問時節と以前聞いたのですが。

 貴方は何のために仏法を聞こうとするんでしょうか。貴方が仏教を聞く目的は何ですか。
 貴方と僕とは、仏法に向かう目的が違うようだ。僕は、人生の危機管理として、目的を持って
聞いているんです。
 座禅して念仏せよとは、まさにその危機への向かい方を教えてくれている。自分には、人生の
危機はあると考えるのか、無いと考えるのか。そこを切り分けるといいだろう。
 自分が聞いた解答は、自分が聞きたいことに応えているかどうか、そこをチェックしたらどう
でしょうか。

 僕は在家。外に仕事がある。人生に危機なんかないと言う前提に立てば、僕なんかは仏教なん
か、全く聞く必要はない。

264 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:51:08 ID:ickjmA/D
>真宗に限らず仏教は不殺生が極めて重要な教えなんだが、この不殺生をどう理解すればいいの
か。

 パン屋さんならパン屋さんのルールがある。うどん屋さんならうどん屋さんのルールがある。
パン屋さん、うどん屋さんはそのルールに従えばいい。
 食肉加工場の人には食肉加工場の人のルールがある。漁師さんには漁師さんのルールがある。
裁判官さんには裁判官さんなりのルールある。死刑執行刑務官さんには、死刑執行刑務官さんな
りのルールがある。それぞれの社会には、それぞれのルールがある。人はそれに従えばいい。そ
れらのルールを破ってでも殺生はいかんと仏教が言っていると言うなら、それは仏教が間違って
いる。
 真宗坊主は、基本的には私度僧だ。私度僧と言っても、自ら僧を名乗るなら、できるだけ、戒
律を重んじるべきだ。あいつは坊主のくせになんだと、背中を指さされ、嘲笑の的にならないよ
うできるだけ戒律を守れ。

 生き物を殺すなと言っても、体の中に寄生虫が発生すれば、それを殺してはいかんとは言わな
いだろう。寄生虫を駆除したら、背中を指さして嘲笑する奴がいれば、嘲笑する奴がおかしい。
町中にペストが発生したから、お寺でもねずみ取りを仕掛けるだろう。それを非難する奴はいる
はずもない。
 血を吸いに来た蚊を追いかけて殺しちゃいかんなどと、そんなこと言う奴はおらんだろう。
 ただ、無闇に生き物を殺せば、これは可愛そうだ。生き物は、無闇に殺すものじゃない。坊さ
んの服を着て、鉄砲担いで鳥撃ちにでかければ、眉をひそめる人は多いだろう。ただ、町内に野
生の熊が出没し、市や県でその駆除を決議すれば、その決議の範囲内で坊さんも参加して熊を駆
除すれば、ご苦労さんと言って貰えても、非難されることはない。

265 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 20:53:13 ID:ickjmA/D
 まあ、坊さんであれば、釣りとか狩猟とかは趣味にすべきではない。僧侶を死刑執行刑務官と
兼職するというのも、あまり感心はしない。しかし、きちんと合理的に理由があれば、生き物を
殺しても悪いことじゃない。ただ、その合理性は、それぞれの帰属社会で違いがある。坊さん社
会では、合理性の基準を高めにすべきだろう。人間と人間以外の動物、家畜、昆虫、植物で、合
理性に差異があるというのも当然だろう。
 死刑執行刑務官が、法務大臣の命令で死刑囚に対し死刑執行することは正しいことだ。しかし、
それ以外の場で、人を殺すことがあってはいけない。
 念仏は座禅持戒して称えよという法照禅師の言葉は、そのように聞いている。戒律の専門的な
ことは、律宗の坊さんに聞いてくれ。

>>257
>これは功徳を積んだのか殺生戒になるのか。

 自分が食事を布施するときに考えたらどうですか。
 狩猟が趣味で、鳥撃ちに出かけ、狩猟場の近くに坊さんを招待し、撃ち落としたばかりの鳥を
さばいて相手に馳走すれば、僕などは眉をひそめたくなる。しかし、坊さんが肉屋にカレー用の
肉を買いに行っても、それを悪いとは思わんよ。

 客が生け簀の魚を指定し、店側がその注文に応じてそれをさばいて刺身にする料理屋がある。
そういう店に坊さんが出入りしていれば、あまり感心はしない。
 雑貨屋に坊さんがねずみ取りやゴキブリほいほいを買いに行っても、これはおかしなことじゃ
ないだろう。
 戒律の専門的なことは、律宗の坊さんに聞いてほしい。


>>259
>肝心な後生の一大事(根本無明)には効果なしということですか?

 あなた方の宗教とは、後生の一大事(根本無明)というものの概念が違うんだろう。
 あなた方の宗教が言う無明は、僕に聞こえてきている無明ではない。僕に聞こえてきている無
明は、あなた方の宗教では無明ではない。
 まあそれだけの話でしょう。

266 :なんでも信じる:2006/12/02(土) 21:02:46 ID:cj+QAYkz
>264
仏教は仏教のルールがあります。
仏教から見れば、そのルールが正しい。
他宗教から見れば、そのルールが間違いかもしれません。
だから、どの宗教も自分の宗教に閉じこもれば正しいでして、
他宗教にもって行くと間違いかもしれません。

267 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/02(土) 23:07:54 ID:HM5NbSy9
>>266
>仏教は仏教のルールがあります。仏教から見れば、そのルールが正しい。

 どんなに合理的に書かれているルールでも、読む人が杓子定規に解釈すれば、ルールは
死んでしまう。
 ルールは言葉で書いてある。言葉には表現に様々な制約がある。合理的に血の通った解
釈をすることは、どんな場合でも大事なことだ。

268 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 00:32:21 ID:vi8GrDlk
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ;
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

269 :疑問:2006/12/03(日) 02:18:39 ID:+bYIScgI
う−んやっぱり今ひとつ納得してない自分です。

270 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/03(日) 15:23:48 ID:6Z89jT9T
久しぶりにホームページを再開することにしました。
大型の議論を保管していこうと思います。
五会法事儀讃略抄の全文を掲示しています。
  http://members2.jcom.home.ne.jp/propatent/index.html  

271 :オーム浄土真宗:2006/12/03(日) 19:06:55 ID:hOaMImrz
五会法事〜読みましたよ
ごくごく普通に渡海さんの説が正しいです 親鸞上人ってすごく伝統的な仏教です
全然違和感ありません
念仏は座禅して唱えるものだったんですね 
インド系の宗教は全て瞑想法とセットですから


272 :疑問:2006/12/03(日) 20:02:54 ID:+bYIScgI
おいおい大丈夫か。上人じゃなくて聖人だよ。親鸞聖人。まずね親鸞と呼び捨てに
するのは論外。次が親鸞聖人、次が宗祖親鸞聖人、それからご開山、ご開山聖人、親鸞さんと。
ちょっと特殊なんだけど愚禿釈親鸞、愚禿鸞で論議をすることもある。親鸞聖人によって
体解され開顕された真宗をとおして真実にふれていこうとする者にとって、呼び捨てすることは
ないんだよ。まして御名を間違えるなんざ、ありえない。
なんて言っておきながら私も呼び捨てにしてしまうときも結構ある。


273 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 20:13:27 ID:xAaMxnwg
行院の指導員は平気で呼び捨てにしていましたが

274 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 20:21:41 ID:xAaMxnwg
まあ真宗の行院ではありませんが、真宗の教えも学びましたね

275 :疑問:2006/12/04(月) 00:33:05 ID:l3Lta3OK
行院は何宗なんですか。

276 :疑問:2006/12/04(月) 01:27:38 ID:l3Lta3OK
1−−−きちんと合理的に理由があれば、生き物を
殺しても悪いことじゃない。−−−と渡海さんはいうけど、その合理的理由は戦争にしても
お互いの国にとっては合理的な理由でやったんだよ。こちらの合理的理由は相手にとっては不合理的な理由なんだよ。

2−−−パン屋さんならパン屋さんのルールがある。うどん屋さんならうどん屋さんのルールがある。
パン屋さん、うどん屋さんはそのルールに従えばいい。−−−それは仏教が間違って
いる。 −−なら、仏教は世界宗教で無く真実の法でもないことになる。真実真理は一つだとおもうがね。

3−−−真宗坊主は、基本的には私度僧だ−−についてはそれについては真宗以外の宗派や僧が国家ボウズだったんだろうな。
国家の試験に受かって仕事は国家護持と祈祷。これじゃ国家を相対化できないな。と言うことは民俗宗教レベルだ。
親鸞によって日本は初めて国家に支配されない僧、まさしく出家どころではない出国僧が誕生したんだろうな。
だから私は国、や天皇から試験を受けて合格して国に忠誠を誓う僧ではなく釈迦に帰依をする僧であるといって
国家僧ではないから非僧といったんだろ。釈迦に帰依してるのか、もしくは国家に帰依してるかの違いだな。


277 :疑問:2006/12/04(月) 01:35:28 ID:l3Lta3OK
寺領についてもこれは言える。当時土地はすべて国天皇のものが基本だ。だから寺院は
国から寺領をもらってる。これを福田というのよ。山をもらったりもしてる。
で寺はこの土地をさらに増やして裕福になろうとして終いには寺同士があらそってたんだな。
山法師とか雇ってね。真宗は信者即ち門徒を持って福田とするんだよ。この門徒も国家に縛り付けられてる
民衆ではないから非俗というわけだね。

278 :疑問:2006/12/04(月) 01:38:20 ID:l3Lta3OK
親鸞上人ってすごく伝統的な仏教−−−−そのとおり。というより釈迦の教えの原点にちかづいてる。
そういう意味では伝統的だな。

279 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/04(月) 19:54:02 ID:F61hCSbI
>>276
>その合理的理由は戦争にしてもお互いの国にとっては合理的な理由でやったんだよ。

 それがどうした!?。
 イラク戦争が正義の戦争か、大義無き不正義の戦争か知らんが、国民は銃をもって戦わなけれ
ばならん時はある。

>真実真理は一つだとおもうがね。

 馬鹿も休み休み言うもんだ。何が善、何が悪か。善悪の判断は時代・社会で変化する。ルール
は人間が作るものだ。
 二千年・三千年も昔、赤道近くのサバンナで妥当した価値観が、二千年・三千年後の雪降る北
方の国々で妥当するとは限らんだろう。二千年も三千年も昔、赤道近くのインドで、ラーメン屋
さんがあったと思うか?。うどん屋さんがあったと思うか?。道路に赤信号があったと思うか?
 赤信号の時は、出前で急いでも止まらなければならん。二千年・三千年も昔のルールには、赤
信号で停止しろとは書いてない。当たり前の話だ。それじゃ、ラーメン屋さんは赤信号で停止す
る必要はないのか?。
 二千年も三千年も昔、赤道近くのインドで、ゴキブリやねずみが病気を媒介するなどと言う知
識があったか?。無かったろう。ゴキブリは赤痢、疫痢、ねずみはペストを媒介する。そういう
知識があっても、釈迦は、ゴキブリやねずみを殺すなと言ったと思うか?。
 ラーメン屋さんやうどん屋さんは、厨房にねずみやゴキブリが徘徊していたら、きちんと駆除
するのが常識だ。
 生き物を殺すな、殺すなと言って、腹に回虫が寄生しても、虫下しも飲めなくなるそんな馬鹿
馬鹿しい善悪基準にどんな意味があると思うんだ?。

 ルールは、人が幸せになるような内容であって始めて意味がある。人が守れる現実味があって
始めて意味があるんだ。ルールは人が作る。凡そ、常識的な人間が守れないようなルールを作り、
「悪だ、悪だ」と血も涙も通わない心ではやし立てて、何か意味があるか?。馬鹿も休み休みい
うもんだ。
 善悪の判断は、時代、社会で変化する。ルールは時代・社会に合わせて変わっていく。当たり
前の話だろう。馬鹿馬鹿しい。

280 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/04(月) 19:55:26 ID:F61hCSbI
>真宗以外の宗派や僧が国家ボウズだった

 ?? 私度僧とは、戒師を立て、受戒して出家した僧ではないという意味です。
 僧は、授戒僧から受戒を受けて始めて正式に僧として認められる。
 確か、鑑真来朝以来、明治維新までは、受戒後その名を朝廷に登記して正式に僧になった。
 釈迦の戒律を守ることを誓うことで、釈迦族に加わえてもらう。これが出家です。

 出家の作法は真言・天台・律などの坊さんに聞け。
 僕は詳しくは知らん。

>>277-278 コメント不能。

281 :疑問:2006/12/05(火) 01:58:47 ID:S0USR7vP
しかしブッタ釈迦は生き物を殺すなと言った。

282 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 08:25:02 ID:dXNqpSgE
疑問さんが何を疑問に思っているのか、むしろそのほうが疑問ですね。
生命への慈しみをもち、生き物を無闇に殺さないこと。
それは釈迦がいうまでもなく、倫理的に当たり前のことではありませんか。

283 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 08:39:58 ID:dXNqpSgE
もちろん生きている以上は、やむをえず他の命をうばわなくてはならない場合はあるでしょう。
だから釈迦は、命令のような形で絶対殺すなといっているわけではありません。
無闇に殺さない心がけを持とうというのが戒の精神です。

釈迦は999人の命を奪った殺人鬼アングリマーラですら、
前非を悔いれば側に置かれ仏の道に入ることを許されているのです。

284 :疑問:2006/12/05(火) 12:19:44 ID:S0USR7vP
私が分からないのは生き物を殺すなという内容なのです。
生き物は命のやりとりをして生きていくわけでしょ。単に戒だから努力目標という意見なら
生き物をなるべく殺さないようにしましょうとなる。
2つに生き物に慈しみをもてということなのか。慈しみのその心があるかないかをもんだいにしているのか
3つに殺してはいけない。殺さないんだという絶対的なものなのか。釈迦は自らも実行して、また出家者にも
守らせたのか。もしその場合出家者は出来るかも知れないが、出家者に食を布施する在家者は
生き物の命を奪う行為をしてしまう。
4つに生き物の命を奪うことが罪であり悪とする。しかしその行為を悔いたりある行為をすれば罪や悪は滅してしまうのか
これは後に念仏が滅罪の利益があるというのに発展している。



285 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 14:34:56 ID:dXNqpSgE
>>284
そうやって疑問点を纏めていただけると答えやすいですね。

我々には「人を殺を殺してはいけない」という通念がありますが、
なぜ殺してはいけないのでしょうか。
あなたも「違法で罰せられるから」とか「恨みを買うから」といった
損得勘定のみで殺してはいけないと思っているわけではないでしょう。
それだと殺した方が得なら殺していいという話にしかなりません。
人を殺すという行為は重大な背徳であるという意識がまず
先に来るのが普通だと思います。
この場合、人を殺してはいけないのか、
慈悲の心があるかないかの問題かという議論はナンセンスでしょう。
親鸞の言葉を借りれば、両者は一体不ニです。

慈悲というのはあらゆるものに平等にそそがれるものです。
仏教では涅槃経にあるように、
「山川草木悉有仏性」と言って、生きとし生けるもの全てに
仏性が備わっているという考え方をしています。
虫けらでも仏となる可能性を秘めているわけなので、
人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない。
つまり「全ての生き物を殺してはいけない」というのは、
「人を殺してはいけない」と同じ意味ということになります。
しかし、相手が人であっても正当防衛などでどうしようもなく
殺してしまう場合もないとはいえません。
釈迦は「自灯明」「法灯明」と表現しているように、
不殺生戒は罰則規定のない自律的な性格のものですので、
どの程度厳格に守るかは個人の受け取り方に委ねられているわけですが、
少なくとも普段から心がけていれば
やむを得ず殺してしまった時にも罪悪感を感じ、
次からは守っていこうという戒めになる。
戒(習慣性)とはそういうことでしょう。

286 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 14:36:58 ID:dXNqpSgE
釈迦や出家者は数多くの非常に厳しい戒律を守らなくてはいけません。
代表的なものは淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の「波羅夷」といって、
これを破れば教団追放されます。
五戒と一部重複するものがあると気づかれたことと思いますが、
それがより限定的で厳しくなっています。
こういった出家者専用の戒律は比丘で250、比丘尼で348もあり、
これは修行や集団生活、組織の規律のための戒律なので、
在家者は守らなくてもよく、また守れるようなものでもありません。
それを守らなくてよい在家者であれば食物を布施しても
戒を破らなくてもよく、また肉を布施する場合でも、
僧に布施するために捕られ料理された肉は布施することはできないので、
布施のために特別に不殺生戒をおかす心配もありません。

アングリマーラは贖罪のために、
街に托鉢にいくよう釈迦に命ぜられました。
その度に恨みをもった民衆から暴行され何度も死ぬ思いをしています。
懺悔したから途端に罪が消えたのではなく、
懺悔したからそこまでのことができたのです。
そして念仏で滅罪するなど親鸞が教えているでしょうか。
滅罪ではなく、悪人のまま成仏できるという考えですね。

287 :疑問:2006/12/05(火) 19:15:02 ID:S0USR7vP
まずはお答え頂きお礼をもうします。随分理解しやすいです。
念仏滅罪の件なんですが親鸞は現世利益和讃に最澄の文をかりてなも阿弥陀仏を称えれば
七難消滅することを利益としてあげてます。また本典の例えば行巻には八十億こうの罪を滅する
だの八十億こうの生死の重罪を除滅するだの、諸仏の名号を称すること功徳無量なれば罪障を滅すだの
観経下品や下々品にも念仏滅罪は説かれてますので、親鸞さんも注目はされてたのではないかと思うんです。
だから命を奪うこと殺すことは罪であるけど念仏によって滅罪すると言うのであればある程度納得は出来ます。
観経で釈迦が説いてますので。しかしどうして弥陀の御名を称えたら罪が消えるのかは考えないといけませんが。

288 :疑問:2006/12/05(火) 19:28:26 ID:S0USR7vP
これらを考えると、やっぱり命を奪うのは殺生戒で罪であるという絶対的なものじゃないかとおもうんです。
だから出家して殺生をするなということじゃないかと。出家が当然の事として当時のインド社会にあったのではと思うんです。
人生を3つに分けて、勉強の時期、妻をもらい子を産み育て社会のために尽くす時期、そして出家とあって
みんなほとんどがそういった人生を送っていたというか理想の人生だったのかなと。
それであるならば在家より出家の方がすぐれていますね。
これなら人生第3期に出家しても、第2期で在家で妻をもらい子をもうけ社会に尽くしてますから、人類は滅びませんよね。


289 :285:2006/12/05(火) 21:30:12 ID:dXNqpSgE
仰るとおり経典には滅罪すると書いてありますが、
親鸞の滅罪に関する考え方は『歎異抄』の第十四段で明確にされていますよ。

一年まうせば、八十億劫の罪を滅ぼし、
十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといふ。
これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるか。
滅罪の利益なり、いまだわれらが信じるところにをよばず。

ようするに滅罪の利益など我々は信じなくてもいいと。
なぜ信じなくていいのか、十四段を読み進めば理解できるはずです。
簡単に説明すれば、
念仏のたびに罪を消そうと考えるのは自分で罪を消そうという努力することである。
しかし人間は一生のうちに考えることは、
全てわれわれを生死の苦しみの世界に結びつける罪のようなものであるから、
それでは臨終の瞬間まで怠り無く念仏を唱え続けてやっと往生できるということになる。
しかし人には宿業というものがあって、どんな出来事にあうか分からないし、
病に苦しんで正気を失ったまま臨終を迎えることになる。
その時は念仏ができないが、ではその期間の罪はどうして消す事ができようか。
罪がが消えなければ往生できないのか。
そうではなく、我々は衆生を救いとりたいとの阿弥陀仏の誓願にたよるからこそ、
どのような不慮の罪業をつくって、しかも臨終に念仏ができなくても、
すぐに極楽往生させていただけるのである。
罪を消すというのは自分の考えであって、その考え方は臨終に称える念仏に
最上の価値を見出す考え方につながり、他力の信心ではない。

つまり、親鸞は滅罪というような教え方はむしろ否定しているのですね。

290 :285:2006/12/05(火) 23:19:18 ID:dXNqpSgE
読み返して気づきましたが、>>286の最後の行は成仏でなく、往生ですね。
自明のはずのことを、どうして書き間違えたのか自分でもいまいち謎です。

291 :疑問:2006/12/06(水) 01:13:51 ID:HHfkJULe
まったくそうだ。歎異抄の14にあるんだよ。まずこの書物をどう考えるかだ。
親鸞さんが書いた書ではない物をどう見るか何だ。弟子の唯円だろうと言われているが
親鸞さんではないという事実が一つと、それじゃ親鸞さんの書いた書物には
14条のようなことが親鸞自身書いているのかというとないんじゃないのか。
二つに念仏滅罪を考える場合、根拠は観経の下品だろうけど、はたして臨終に善知識にあうだの、
念仏もうすことが出来ればいいけど、出来ない場合もあるんじゃないのか。すると臨終の死に際の
姿が問題になるね。

292 :259:2006/12/06(水) 11:25:33 ID:rFxSnkAH
>>265
ありがとうございます。
僕が聞いたのは浄土真宗のお話で、無明の闇には枝末無明と根本無明があると聞きました。
それと渡海さんの宗教とで概念が違うというのは、同じ浄土真宗でも教えが違うということですか?
仏教=釈迦の教えだと思うのですが、しかも同じ浄土真宗なのに、どうして違ってしまうのですか?


293 :オーム浄土真宗:2006/12/06(水) 17:50:38 ID:heOBTqgL
それはやっぱり個人の体験の差じゃないでしょうか
スポーツをやったことないのにスポーツを語るとほとんど誤解だし
楽器ができないのに音楽を語るとほとんど誤解なのと同じです
お経や人の話も同じです
だから少なくとも親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい
唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言っているのです
その上でこれも無常であるから 普段は聞法しなさい 考えなさい
念仏しなさいと・・ 僕はそういうふうにとらえました

294 :オーム浄土真宗:2006/12/06(水) 18:19:55 ID:heOBTqgL
ですから親〇会のようなのは完全な邪見ですね
人の体験の話はどこまで聞いても読んでも自分の体験ではありません
言葉遊びです

295 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/06(水) 22:31:07 ID:v9KYC82s
>>285
>つまり「全ての生き物を殺してはいけない」というのは、「人を殺してはいけない」と同じ意
味ということになります。

 ここは、何か意味があってこういう説明をしているんですか。

 生き物を殺すな 五戒、十善戒  不殺生戒
 人を殺すな   四分律波羅夷法 殺人(せつにん)戒
 自分も含めて凡そ人を殺すな 梵網経 一重戒 

 凡そ生き物を殺すという行為と、人を殺すという行為とは明らかに扱いが違う。蟻を殺すなと
いう意味と、人を殺すなという意味とを同列に扱うという考えは仏教にない。

 人を殺すなという意味と、自分を含めて人を殺すなとも扱いが異なる。

 先人の思想は、丁寧に追っていきたいものです。


>>286
>淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の「波羅夷」といって、これを破れば教団追放されます。

 回虫を殺す虫下しを飲んだら教団から追放されるという、そんな馬鹿な話はない。
 殺人(せつにん)戒を破れば教団追放になるが、回虫を殺しても追放にはならない。

>相手が人であっても正当防衛などでどうしようもなく殺してしまう場合もないとはいえません。

 仏教に正当防衛などという論理的な考えはない。殺すことがやむを得ないことであれば、許さ
れるという、非常にアバウトな考えをしているようだ。

296 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/06(水) 22:32:37 ID:v9KYC82s
>>287
>しかしどうして弥陀の御名を称えたら罪が消えるのかは考えないといけませんが。

 うん。確かにここは考えてみる必要がありそうだ。僕も、納得できそうな答えがすぐには見つ
からない。
 ただ、一つヒントのようなものはありそうだ。疑問さんは、仏教の善悪が、人道的普遍的な価
値観にもとづいて決められていると考えているんだろう。僕は違うと思う。
 仏教の戒律は、仏が決めている。仏道を学びたいなら、これだけのことを守れと言っているに
過ぎない。釈迦のルールと毘盧遮那仏のルールと阿弥陀仏のルールは異なる。松下電器の社内規
とトヨタ自動車の社内規と、早稲田大学の学則と、慶応大学の学則とは異なっても不思議はない。
飲酒運転をしたら、即懲戒解雇という規定を設けるのも、各企業の自由。飲酒運転をしたら罰金
1万円と決めるのも各企業の自由。様々な考えがあっても不思議ではない。

>>293
>親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい    <これは正しい。>

>唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言って
   こんなことは言ってない。

>その上でこれも無常であるから 普段は聞法しなさい 考えなさい

 聞いて欲しい。考えて欲しいとは言っている。「無常であるから」というようなことは言って


297 :名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 23:08:51 ID:Wnoo7V42
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ;
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

298 :オーム浄土真宗:2006/12/06(水) 23:31:39 ID:heOBTqgL
こんばんわ「三昧」とはなんでしょうか?
主体客体の合一です
林檎に集中すれば己が林檎になり マントラを唱え集中すれば己がマントラになる
実際五会念仏はヨーガのマントラ修行とそっくりです

「仏法僧を准念して更に雑念なし 念は則ち無念仏の不二門なり」
この境地が無常であるかどうか・・ちょっと思索中です
二乗外道の禅にあらず・・というのがヒントのようです


299 :疑問:2006/12/07(木) 00:05:14 ID:OiAheBJ2
渡海さんお久しぶりです。どうされてるのかと思ってました。元気そうでなによりです。
さて、
疑問さんは、仏教の善悪が、人道的普遍的な価値観にもとづいて決められていると考えているんだろう。ってことですが
全くその通りにかんがえてます。例外なし。あらゆるすべてと考えてます。
理由は結構簡単で外的には、と言っても勝手に外的と言っているのですが真実の法であるならすべてのものが含まれ宇宙を貫いているだろうと
思ってます。喩えが悪いけどこの法は釈迦が作ったのではなく、見いだしたのだと思ってます。ニュ−トンが万有引力を作ったのではなく、
ニュ−トンがこの世に居ようがいまいが引力はあるのであって、たまたまニュ−トンが見いだし、立証し多くの人に伝えたように、
釈迦が出ようが出まいが法として真実はあって釈迦はそれを見いだしたと思うんです。だから釈迦以前にもこの法を見いだし悟り仏になったのも
居たんだろうとね。そしてすべてのものはその法の中にあるんだろうと思ってます。
内的には例外がなくすべてが含まれ普遍であると言うことは、逆に自分からすれば、私はその法から漏れてないというか、私も法の中にあるということ
と思ってます。



300 :渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2006/12/07(木) 00:14:38 ID:irxO/LdF
      。ρ。      
         ρ      
         mドピュッ
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) ) 渡海 難が300ゲットぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
    /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
   (__/

301 :285:2006/12/07(木) 00:24:41 ID:5DBAswCJ
>>295
私は幾度も戒と律とは違うと説明してきたつもりですが、
難しい部分であるのか、なかなか理解していただけないようですね。
まず不殺生戒など五戒は、
出家者はもちろん在家者にも守る事が薦められてきた仏教の基本理念です。
ここでは人と他の生き物の区別無く殺さないことが定められていますが、
人は歩けば虫を踏むわけです。
厳格に守ろうとすれば、空気中の小生物を吸い込まないようマスクをしたり、
生命を奪わないよう断食をして死ぬことが美徳とされるような、
ジャイナ修行僧のようになるのですね。
それでは苦行とかわらないので、釈迦の本意ではないでしょう。
だから五戒は自らをもって戒むるという自律的な性格のものであって、
どれだけ厳格に守るかは自分で判断することなのです。

次に他をもって律する、いわゆる律の話ですが、
これは理念ではなく、あくまで組織としての教団を統率するための律法です。
仏教教団は当初この律のようなものはありませんでした。
それは理念を守っていれば問題をおこす出家者もいなかったからです。
しかし、少しずつ教団が大きくなって出家者の数も増えてくると、
色々と教団内で問題をおこす者がでてきます。
その度に問題を解決するため定められたのが律なのですね。
最初に定められたのは淫戒だといわれていますが、
最も重要な律である波羅夷罪の淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒なども、
当然ながら全て定められるきっかけの事件があったのです。

302 :285:2006/12/07(木) 00:27:27 ID:5DBAswCJ
この殺戒というのを誤解されているようですが、
私があらかじめ五戒と違い“限定的”だとことわっていた理由は、
例えば殺戒の場合、これは殺生ではなく殺人を禁止したものであるという点です。
これが制定された理由は、修行僧の1人が厭世的な気持ちをおこし、
他人に殺してもらうよう頼んで衣服を謝礼に渡したという事件が
きっかけだといわれています。
その嘱託殺人を引き受けたものは味をしめ、
追剥のようになって人を殺したといわれています。

生き物の命はすべて平等であるというのは理念です。
理念は基本でも、
蟻を踏んだり蚊を叩いたたびに教団追放では組織はやっていけません。
だからといって人を二三人殺人しても蚊を殺したのと同じ扱いをしていては、
これまた組織としてやっていけないでしょう。
人間とは社会的な生き物であって、
国家では法律、学校では校則、会社では社則というように、
人との関わりの中では、理念以外にも特別な規則がいるのです。
規則=理念というのは間違いなのと同じように、
律で殺人だけ特別扱いであるから、
理念としても人は特別なのだという受け取り方をするのは誤りです。

303 :285:2006/12/07(木) 01:33:35 ID:5DBAswCJ
>>291
『歎異抄』は弟子の唯円が書いたものですが、
これは唯円個人の考えを書いたものではなく、
唯円が覚えていた親鸞の言葉を記したものである
というのは真名序に書いてある通りです。
もちろん嘘だったり記憶違いだったりする可能性も皆無とはいいませんが、
親鸞の弟子は唯円だけでなく、多くの弟子がその教えを聞いているわけです。
その中で教えに逆らうことを親鸞の言葉として書いていれば
すぐ問題となって、書が後代まで残されることもないと思います。

正しさを証明することなどできませんが、
そもそも経典ですら釈迦の書いたものではありません。
聖書にしてもコーランにしてもイエスやマホメットの書ではありません。
それは信じるかどうかは論理ではなく、信仰です。
釈迦の教えが虚言でなければ、善導大師の注釈にも誤っておらず、
善導大師の注釈が正しければ法然上人の教えもむなしくない。
法然上人の教えが正しければ親鸞聖人の言葉もむなしいわけがない。
歎異抄のが正しいかどうかも、つまるところは同じでしょう。

304 :285:2006/12/07(木) 02:38:14 ID:5DBAswCJ
>>295
特に重要なものではないと思いますが、
ついでに正当防衛云々についてもコメントしておくことにします。
もっとも普通に読めばわかると思いますが、
正当防衛というのは喩えで例に挙げただけです。

法律には条文と判例というものがあります。
煩雑になりすぎるため条文には細かな条件など書いてありませんが、
実行に移す際の逐一の基準は、条文とは別にしっかりあるものです。
『四分律』などには、
男の僧が男の僧に性器を口に含められた場合淫戒に当たるかなど、
色々な具体的状況を想定して、
釈迦が波羅夷罪であるかないかを判断している記述があります。
アバウトなのはあくまで条文の文章のほうであって、
それを判断するにはアバウトではない確たる基準があるわけですね。

それと私が、
「250戒を守らなくていい在家者は食物を布施しても戒を破らなくていい」
と言ったことを波羅夷の殺戒と混同して
誤解されているのかもしれないので補足しておきます。
在家者も250戒を守らなくてはならないのだとすれば、
食物を布施すると戒を破らなくてはいけません。
しかし、それは殺戒ではなく壊生種戒に当たるからですね。
壊生種戒は植物でもとってはいけないという戒律です。
ただし刑法でも量刑に軽重があるように、律の場合も軽重があります。
壊生種戒は破っても軽罪なので、即教団追放になったりはしません。

305 :285:2006/12/07(木) 04:21:39 ID:5DBAswCJ
>>296
少し疑問に思った点があるのでこちらからも質問させていただきます。

私は他宗の教師なので真宗の細かい教義などはよくわかりませんが、
親鸞は好きなので知人の真宗の住職と親鸞について議論したこともありました。
その際にお互い歎異抄を親鸞の言葉という前提で話していたので、
歎異抄は真宗でも重要視されている書物だと思いこんでいたのですが、
滅罪についてその十四段を無視して「考えてみる必要がありそうだ」と
仰っている点に意外な驚きを感じました。

渡海難さんは真宗坊主たるものの心構えなどを語っておられたので
真宗坊主の方なのだと思いますが、
真宗では歎異抄をどういう位置付けで扱っているのでしょうか。

306 :疑問:2006/12/07(木) 10:59:02 ID:OiAheBJ2
歎異抄についてあれこれと私なりに思っていることとたたき台をかきます。
まず前半部分は明らかに親鸞さんのお側にこの作者はいつも居たんだろうなと思うほど親鸞さんの言葉に
リアリティ−と迫力があると思う。
2−言葉は作者が耳の底にとどまるところを書いている。おそらく長い年月多くの事を親鸞さんから聞いたのだろうけど
  ほとんど忘れた中で、忘れようたって忘れることの出来ない言葉を書いてるわけだから、肉が落ちて骨の部分だと
  思う。
3−この書の時はまだ真宗が教団という形をとってなかったのではないか。教団にとっては都合の悪いことが述べてある。
  例えば弟子一人も持たずなんて言葉もある。だからこの書を門外に明治時代までださなかったのではないか。
4−多くの人がこの歎異抄をとおして親鸞さんにふれ、真実なるものにふれている。例をあげると20世紀世界の頭脳といわれた
  ドイツのハイデッカ−や司馬遼太郎などだ。つづく
  

307 :疑問:2006/12/07(木) 11:05:48 ID:OiAheBJ2
司馬さんは1996年に同ししゃ大学で行われた記念講演で自らは仏教徒であり、仏教の中でも親鸞の教えを
信じていると告白して、この歎異抄を是非読んでほしいと言っている。
ドイツの哲学者ハイデッカ−は最晩年この書物に初めて触れて帰依をした。その時の手紙がある。
「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者親鸞を知った。
 もし、十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び、親鸞の教えを聞いて世界中に広めることを生き甲斐にしたであろう。だが、おそかった。
 自分の側には、日本の哲学者や思想家が三十名近くも留学していたが、誰一人日本にこんな偉大な人がいたことを聞かせてくれなかった。
 日本の人たちは何をしているのだろう。日本は戦に負けて、今後文化国家として世界文化に貢献すると言っているが、私をして言わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
 何もいらないから、親鸞の教えを世界に宣伝していただきたい。
 商売人、観光人、政治家であっても、日本人にふれたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。
 そうしたら世界の人々がこの親鸞の教えの存在を知り、それぞれにその教えをわがものとするであろう。
 その時初めて、世界平和の問題に対する見通しがつき、二十一世紀文明の基礎がおかれる」



308 :疑問:2006/12/07(木) 11:21:07 ID:OiAheBJ2
まだまだ多くの方がこの書に触れ真実に目覚めておられるが私にはこの二人だけで
十分心強くかんじる。なお司馬さんの講演はテ−プで世にでている。
5−親鸞さんを生んだ法然さんの選択本願念仏集、親鸞さんが生んだ弟子の唯円さんの書いた
  歎異抄という見方をしたらこの親鸞さんを挟んで前と後、即ち選択本願念仏集と歎異抄は
  よんでみる必要もあると思う。
6−なんでもこの書物は声にだして読まなくてはならないらしい。司馬先生が言ってた。
思うことをざっと書いてみたけど、最後に私が歎異抄の中でこころを惹かれる言葉はいくつもあるが
その一つは−−ひとたび業縁がふけばいかなるふるまいもしてしまう−という所です。

309 :疑問:2006/12/07(木) 11:34:02 ID:OiAheBJ2
司馬遼太郎−−以下無用のことながらの本の中から
歎異抄はじつにいい文章です。明晰な論理と修辞に富んでいます。
日本語で思想が述べられたものとしては歎異抄が最初のものでしかも、
傑作というべき名文です。親鸞の思想をつきつめて考えますと、阿弥陀如来への
感謝ということに尽きます。阿弥陀如来は空の別名であってつまり数学上の0です。
だから親鸞は御名だけを称えよ。礼拝の対象としては彫刻の阿弥陀如来はこのましくないといいました。
つまり親鸞によってガンダ−ラ以前の原始仏教にかえったというべきでしょう。
大乗仏教はもっとも純粋で本質的なかたちで十三世紀の親鸞においてもっとも鋭く単純化され再生したと思ってます。
と司馬先生はいわれてます。

310 :名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 15:05:51 ID:eqFW5txa
>>294
>人の体験の話はどこまで聞いても読んでも自分の体験ではありません
>言葉遊びです

しかし親鸞聖人はその体験や真実の自己がどんなものか、無碍の一道がどんなものなのかを書き表されて、それを説法されてきたのではないのですか?
お勤めで正信偈を読むのはその一つだと聞きました。
そして「仏法は聴聞に極まる」と言われており、善知識からこれらのお話をお聞きするのはまず最初に大切なことなのではないのですか?


>だから少なくとも親鸞上人はまず座禅して五会念仏しなさい
>唱えてる自分がなくなるまで集中しなさいと言っているのです

これはどこに書き表されているのですか?

311 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:16:00 ID:82CatKY7
>>299
>全くその通りにかんがえてます。例外なし。あらゆるすべてと考えてます。

 戒律について、僕は突っ込んだ議論を控えるけど、こういう考え方をしていると、仏典の随所
で引っ掛かるだろうと思う。

>>301
>私は幾度も戒と律とは違うと説明してきたつもりですが、難しい部分であるのか、なかなか理
解していただけないようですね。 〜 例えば殺戒の場合、これは殺生ではなく殺人を禁止した
ものであるという点です。

 貴方は、議論の運びが悪い。
 「人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない。つまり『全ての生き物を殺してはいけ
ない』というのは、『人を殺してはいけない』と同じ意味ということになります」。
 「人と他の生物の間には根源的な命の軽重の差がない」という議論を先行させ、続けて、
「『代表的なものは淫戒、盗戒、殺戒、妄語戒の『波羅夷』といって、これを破れば教団追放さ
れます。』」という議論をすれば、 殺戒は殺生戒だと読み手が読んでも不思議はない。

 ここは2ちゃんねるという、不特定多数のひとが野次馬のようになって斜め読みしているとこ
ろです。なかなか理解していただけないんじゃなく、貴方は説明方法、書き方が悪い。

312 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:17:12 ID:82CatKY7
>>291
>その中で教えに逆らうことを親鸞の言葉として書いていればすぐ問題となって、書が後代まで
残されることもないと思います。

 本願を信じ念仏申さば仏になる。歎異抄の思想は、信が行に先行しています。
 親鸞の思想は、教行信証という名称から明らかなように、行が信に先行しています。
 歎異抄と親鸞の思想は、思想の骨格が違います。骨格が違うと言うことは、遺伝子が違うとい
うことです。
 遺伝子が違っても、そっくりな生き物はいくらでもいます。

 その外にも、僕が気が付いている中で、歎異抄には親鸞の考えを勘違いしているところがある。
僕は、歎異抄は余り評価しない。むしろ蓮如上人聞き書きの方が数段しっかりしている。

>>303
釈迦の教えが虚言でなければ、善導大師の注釈にも誤っておらず、善導大師の注釈が正しければ
法然上人の教えもむなしくない。法然上人の教えが正しければ親鸞聖人の言葉もむなしいわけが
ない。歎異抄のが正しいかどうかも、つまるところは同じでしょう。

 こんな馬鹿話は、信じなさんな。
 釈迦の教えが正しくても、別異の人格である善導大師の注釈が正しいとは限らん。
 善導大師の注釈が正しくても、別異の人格である法然上人の教えが正しいとは限らん。
 法然上人の教えが正しても、別異の人格である親鸞聖人の言葉が正しいとは限らん。
  こんなことは当たり前のことじゃないですか。詭弁を弄してどうするの?。

313 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:18:14 ID:82CatKY7
>>305
>私は他宗の教師なので真宗の細かい教義などはよくわかりませんが、
    ものごとは、合理的、論理的に考えるべきです。

>仰っている点に意外な驚きを感じました。

 あたりまえのことでしょう。観無量寿経は、唯円よりさらに数百年昔に書かれている。観無量
寿経は、唯円が書いたんじゃないんですよ。つまり、唯円とは、別異の人格がその著述に関わっ
た。
 観無量寿経は、その著者の主張を第一に考えていくことが一番大事。小説「坊っちゃん」は、
夏目漱石の主張を考える。源氏物語は、紫式部の主張を考えながら読んでいく。著者の主張を考
えないで、その数百年後の誰かが「ああだ、こうだと」言えば、数百年後のひとの感想が正しい
ことになるなんて、そんな馬鹿な話があるわけないでしょう。

>真宗坊主の方なのだと思いますが、     <誤解です。>

>真宗では歎異抄をどういう位置付けで扱っているのでしょうか。

 真宗ではなどと、個人の人格を無視した十把一絡げの馬鹿な質問はしなさんな。もっと、生き
ている人一人一人に注目したらどうですか。

314 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/07(木) 17:20:11 ID:82CatKY7
>>307−308
 やれ、ハイデッカーだ、司馬遼太郎だなどと、そんな名前に騙されなさんな。
 聞思するというのは、自分で聞いて、自分で考えると言うことです。これが大事なんです。ハ
イデッカーさんに感心して貰っても糞の価値もない、司馬遼太郎がどうこう言ってるなんて、そ
んな馬鹿話に踊らされたらだめなんだ。
 宗教は、自律的、自覚的に求めていかなければ、騙される。恐い宗教は世の中にいくらでもあ
る。宗教ほど恐い物はない。

315 :疑問:2006/12/07(木) 20:43:50 ID:OiAheBJ2
渡海さん大荒れですね。まさに難渡海ですな。もう少し言葉を慎む事を考えられては
いかがでしょう。宗教は主体的に求めるのは当たり前として、多くの先人や各人の尊敬する
人も歩んでいった道は勇気づけられ励ましになりますよ。親鸞さんにしても法然さんや七高僧の
方々の先人の歩かれた道、言葉をたよりに行かれたんじゃないでしょうか。
先に生まれた者は後を導き後に生まれた者は先を訪ねてきてほしい。連続してとぎれないようにして
みんなで無辺の生死海を渡っていこうと親鸞さんもいわれてます。


316 :オーム浄土真宗:2006/12/07(木) 20:48:31 ID:rz+PQpna
>>307
なんかハイデッカー云々って・・親〇会臭がしますね(笑)
野球観戦暦何10年の人が何人集まっても薀蓄を語っても聞いても野球をやったことがなければ
少年野球の小学生にかないません
クラッシック鑑賞暦何10年の人が何人集まって薀蓄を語っても聞いても楽器をやったことが
なければ弾き語りのストリート小僧以下です
だからまず座禅して念仏しなさい・・と
別の世界が開けますよ 
下手糞ですが阿南尊者らと同じですよ と親鸞上人は言ってるのです
読んだ本の内容を掲示板にうつしても意味ないですよ ということです



317 :疑問:2006/12/07(木) 20:56:02 ID:OiAheBJ2
私も僧侶ではなく単なる会社員ですから専門的なことはよく分かりませんが、
結局大乗仏教というのは釈迦がどうして布教して多くの人の苦しみを解こうとしたのか。
釈迦を動かしたのは何か。そこを注意深く確立させていったのではないかと思うんです。
そこに阿弥陀如来という働きを見たのではないでしょうか。釈迦の仏教は教があり信じて行をして悟りを得ると
いう教信行証ですね。信と行をするのは私です。阿弥陀の仏教は教行信証で行も信もこれは弥陀がするんですよ。
本願を信じ念仏申さば仏になるの前に弥陀の働きによって行も信も回向されているのがあって初めて私に届いてるわけです。




318 :名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 21:53:59 ID:YncE0Tus
他の人はどうか知らんが・・・
疑問さんの文章は面白く感じます。
心が動いた言葉を人に「正確に」伝える事は、
意味が有るか無いかは解らないが、私には大切だ。



319 :名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 22:00:13 ID:7CE1DDBn
その昔、南無阿弥陀仏第三部(?)でしたっけ、NBさんに
教えて頂き2ちゃんにいました。それこそ遠い昔です。
お元気そうでなによりです。NBさんも元気かな?


                          (笑)より。

320 :285:2006/12/08(金) 07:05:03 ID:bVp8mLqX
>>307
司馬氏の親鸞評はよく存じておりますが、
ハイデッガーがそのように評価しているとは過分にして知らず、
彼の思想に興味をもって『存在と時間』など
著書を読んでいたこともあるだけに大変驚きました。
なるほどあらためて考えてみれば親鸞とハイデッガーは、
存在性に対する考え方など通低するものがある気がしますね。

321 :285:2006/12/08(金) 07:06:34 ID:bVp8mLqX
>>311
律の中でも波羅夷は最も重要なもので、
調べていただければすぐわかるので改めて解説の必要は無いと思ったのですが、
説明の仕方が悪いと言われれば、
ただただ申し訳ありませんというしかありません。
ただ仏教の理念の話の後に律の話をもってきたのは理由があります。
疑問さんの質問の仕方が1、2というふうに
個別に仕分けしてあった為というのも1つにはあり、
また、そこで波羅夷等の律は理念と「一部重複する」と
あえてリンクさせて語ったのは、淫戒、盗戒、殺戒(殺人)妄語戒(悟ったという嘘)。
これらは五戒の不殺生戒、不妄語戒、不偸盗戒、不邪淫戒に全て内包されていて、
理念が純粋な形で守られていればそもそも律の大部分は必要ないもの
であるということをいいたかったためです。

>>312
教行信証については善導大師のいう就行立信の解釈に関係してきます。
釈迦の教えを受け信じて自ら行をすることによって証を得る。
教信行証はむしろ私のような聖道門の人間に当てはまり、
絶対他力という真宗の立場にたてば、
教えを受けて阿弥陀仏の行に触れ、信じることで往生の証を得る。
念仏(行)を唱えているのは自分ではなく、
阿弥陀仏のはからいで唱えさせてもらっているわけです。
つまりそこでの行とはあくまで阿弥陀仏の本願の回向であって、
自力で行うものではないのですね。
行はすでになされているわけなので、改めて云々するまでもない。
「口で唱えるもよし心に思うもよし」となるわけです。

322 :285:2006/12/08(金) 07:07:45 ID:bVp8mLqX
そして信仰とは愛するのと同じで理由を問わないものです。
詭弁ではなく、親鸞聖人を信じるということは、
親鸞聖人の信じる法然上人を受け入れることであって、
またその拠所の阿弥陀仏に至る善導大師や釈迦の教えを
全て受け入れるということです。

>>313
私が真宗ではと聞きましたのは、
けしてあなた個人の人格を無視しているわけではなく、
日本人の大半は歎異抄によって親鸞の教えに触れているのに、
本家の真宗では軽視されているというのなら
ある意味面白い構図だなと興味をもったからです。
誤解であれば失礼しました。

323 :疑問:2006/12/08(金) 09:43:11 ID:G/MOemND
聖道門なんですか。質問してもいいでしょうか。
出家されてますか。あの−つまり家をすて独身で財産もなく−−−
2つにこの世で悟りを開いてブッタとなるわけですか。それはどの教によるものですか。
宗派は知りませんが涅槃経で釈迦が私の手はいつもひらいていたといってますが
要するに隠し事や秘密の教えはないと語りますが密教とか秘仏とかあるのはどうしてですか。
あとこれはちょっと下品なしつもんなんですが、女性にたいして−−−
私はセックスのあとは割ととらわれないのですが、ないとムラッときますけど、その辺は
最後に極楽浄土は方便だと私はおもっています。凡夫を導いていくのに。
自転車しかのれない人にいくらロケットや飛行機の構造をおしえてもとべないでしょ。人間の機と教えがあっていないと
いけないのではとおもうのですが。

324 :285:2006/12/08(金) 12:47:21 ID:bVp8mLqX
私は教師資格は持っているので世間的には僧とみなされますが、
まだ受戒することのできない若輩者なので厳密には正式な僧ではありません。
もちろん出家者の中には家を捨てて独身で財産もなく
厳しい修行に励んでいる人もいますが、そういう人は一握りですね。
ほとんどは家を出ないために出家するというのが実態だと思います。
前者であればそもそもネットに書き込みなどできるはずがないので、
やはり私も後者のほうです。

宗派は天台宗なので円教、所謂法華経の教えが基本とされています。
しかし当宗は仏教の総合大学といわれるように、浄土三部経あり、
密教あり、禅ありと、実に様々な教えが取り入れられていて、
どれかが間違った教えであっても、
他宗と比べて成仏できる確率は一番高いわけです。
最も重要であるとされている法華経は、
一切の衆生は必ず仏になるという大乗の教えですが、
ただ煩悩を捨て悟りをひらいて仏となるのはあまり困難な道です。
どれだけ厳しい行を積んでいる行者でも、
この世で仏となろうと思っている人はまずいないのではないでしょうか。
この世で少しでも功徳を積み、来世でもまた積み、そうやって
功徳を積み重ねていつの世にか仏になろうというのが普通の考えですね。

325 :285:2006/12/08(金) 12:49:25 ID:bVp8mLqX
簡単に説明しますが、
仏教では「密教」と「顕教」とに教えを分けて位置付ける見方をします。
毘盧舎那仏という沈黙の仏がいて、
この仏は自分で説法をしない代わりに教えを説く身代わりの仏をつかわします。
これが釈迦牟尼仏、つまり釈迦ですね。
釈迦が人の姿で人の言葉を使って衆生に真理を説くのが「顕教」です。
次に大日如来という毘盧舎那仏とは逆に常に真理を説いている仏がいます。
この教えはどこにいても接することができますが、
ただ我々の言語とは違って特殊な記号のようなものをつかって
説かれている教えなので、それを解読する特殊な技術をもっていないと
秘密の教えなわけです。この大日如来が「密教」の仏ですね。
ゆえに顕教と密教とで真理に到達するまでのアプローチ法が違うわけです。

セックスの後に性欲に捕らわれないというのは、
それは捕らわれていないのではなく満たされた状態というのではないでしょうか。
爾後のコミュニケーションも大事にしてください。
私も煩悩を断ち切ることのできない凡夫なので熱情も動きます。

極楽浄土が方便かどうか、法華経ではそういう教えをしていますね。
でもそれをどう判断するのかは誰でもないあなた自身の問題です。

326 :疑問:2006/12/08(金) 18:36:25 ID:G/MOemND
叡山はなぜ女人禁制だったのでしょうか。最澄さんは中国で莫大な経典を持って帰ってきました。その大部分は
手がつけられずそのまま残ったために後の僧が、いろいろ独自な解釈をしたんだけと、かえってこれが純粋に仏教を
摘出することが出来たのかもしれませんね。天台には5時八経判があると思うけど
現実いまはお経は釈迦の没後何百年たって出来上がってきたことは歴史的に分かってますよね。中国でも随分お経が
つくられた。その中で法華経が最高の経だというけど、その理由がお経の中の言葉だったり、釈迦が晩年に解いたお経だから
最も思想が深いだのという理由は成り立たなくなりませんか。
あと法華経は大乗菩薩道をといたお経であって凡夫のためのお経ではないのじゃないですか。


327 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 00:21:15 ID:WA875/n0
渡海堅が弁理士会と 特許庁の癒着を告発する!!
http://school5.2ch.net/test/read.cgi/lic/1165575898/

328 :285:2006/12/09(土) 13:27:55 ID:JVN+y2iK
比叡山というのは欲を絶ち行に打ち込むための修行の場ですので、
女性が入り込むと修行の障りになるというのが女人禁制の最大の理由です。
阿含経の油鉢の喩えにあるように、修行とはどれだけ絶世の美女がいても
一瞥もくれないほど打ち込むべきものですが、
禁欲的生活を送る男の僧が尼僧に心を乱され、戒を破って
強引に犯してしまうという事件は釈迦の時代の仏教教団にも例があります。
そして行というのは本当に半端じゃありません。冗談抜きで命がけです。
さらに一度始めた行は途中で投げ出すことを許されず、
厳しいものになると行を始める前に短刀と縄を渡され、
最後までできないと思えばこれで死ねと言われるものもあります。
まあそうでも言わないと誰も最後までやり遂げられないからでしょうが。
だからそういうヤバイものを尼僧といっても女性にさせるわけには
いかないという配慮は今でもありますね。

釈迦が直接説いた教え以外は認めないというのは小乗仏教の考え方です。
実際は小乗仏教の経典の中にもそうでないものがありますが、
一応はそういった建て前です。
それに対して大乗仏教は、長い年月を経て生まれた沢山の経典も、
釈迦が時代を超えて啓示している真理だと受け取ります。
その数多くの経典の中でどれが最も優れているかと問われれば、
代々宗論が行われてきたテーマですので
私としても五時八教を示す以上の手段をもちません。

純粋に凡夫のためといえるような教えは浄土門くらいでしょう。
禅宗や密教などは煩悩をはらんだまま仏になる教えだと
いう捉え方もできるかもしれませんが、
厳しい行を要求される点では同じなので凡夫には険しい道です。

329 :疑問:2006/12/09(土) 14:51:01 ID:lD6tCXYD
釈迦は苦行修行を放棄したのではないですか。その方向に悟りはないと、至らないという
ことで、なのにどうして苦行修行をするのですか。これって根本的に釈迦を追体験して悟りを
得ようということですか。

330 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 17:47:16 ID:zpT0hvjY
>>329
これを最後まで熟読なさい 疑問が全部解けるでしょう

http://www.j-theravada.net/kogi/index.html

331 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 17:59:21 ID:PIIDgsCE
テーラワーダ協会はテーラワーダ協会で問題があるらしいがな

332 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 18:05:16 ID:PIIDgsCE
>>328
>純粋に凡夫のためといえるような教えは浄土門くらいでしょう。
>禅宗や密教などは煩悩をはらんだまま仏になる教えだと
>いう捉え方もできるかもしれませんが、
>厳しい行を要求される点では同じなので凡夫には険しい道です。

天台本覚法門はどうですか?
平安末期の天台本覚法門は、修行なしでも煩悩即菩提を主張したと聞きますけど

333 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/09(土) 18:25:16 ID:0nHhJwD1
 ここのスレッドは、親鸞仏教に限定したいと思うがどう?。
 天台宗など、その他の宗派についての議論は、どこで終わる
かその終期を見据えてほしい。

334 :疑問:2006/12/09(土) 19:11:13 ID:lD6tCXYD
そうですね。真宗に戻しましょう。ところで親鸞さんはいつから愚禿という字を
自ら名のられたのでしょうか。あと浄土に往生してすぐ仏になれるのか、それとも浄土で
修行のようなものがあって仏になるのですか。

335 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/09(土) 21:59:06 ID:0nHhJwD1
 "o(-_-;*) ウゥム…貴方の質問に答えるのは簡単なんだが、どうも脈絡無く矢継ぎ早に質問が出
てくる感じがする。モザイクのような知識の切り刻みでいいんだろうか。本当は何を聞きたいの
か、一番聞きたいところどこなんでしょうね。

336 :疑問:2006/12/11(月) 11:07:08 ID:HZBkBSlW
えっ仏教は問いから始まるんじゃないの。だってお経でも問いがあって釈迦が
答える形式だと思いますが。無問自説のアミダ経もありますけど。

337 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/11(月) 19:59:15 ID:O6emdQDy
>>336
>>だってお経でも問いがあって釈迦が答える形式だと思いますが。

 (゜口゜;)うっ!??・・・・・ まあ
(;^_^A アセアセ・・・。そう。なるほどね。

 そうだな。ただ、仮初めにも、間違いでも、渡海難と釈迦とを同じテーブルで議論するなよ。
冗談でもそんなこと考えたら、とんでもないことになるからな。

 この点はこどもでも分かる常識で考えろよ。お釈迦様なら的確に応えられることでも、僕には
手も足も出ないことはざらにある。僕なんかが得意満面になって長時間、滔々と説明していたこ
とが、お釈迦様から見ればとんでもないデタラメで、お釈迦様なら一瞬の微笑だけで真意を完璧
に相手に伝えていくということもあるかも知れん。相手の器量の違いを絶対に間違えるなよ。

 まあ、質問するのはいいだろう。しかし、お釈迦様ほどの先生は世の中にもう出ないぞ。それ
なら、相手に聞くということも大事だろうが、話し手の器の大きさを少しは考え、それを自分の
思索で補っていかないといかん。自分で考えるということは、とても大事なことだ。

338 :名無しさん@3周年:2006/12/13(水) 00:52:52 ID:hWomHx0A
↑あんたが顔文字使うと気持ち悪い。煽りではなくマジ。

339 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/15(金) 22:27:46 ID:lkUooE85
 キリスト教の地獄について書きました。
http://members2.jcom.home.ne.jp/cgi-bin/board.cgi?ID=k-toumi&MSO=jcom

340 :南無大師遍照金剛:2006/12/17(日) 13:59:41 ID:ZNnvT0g8
(*^_^*)お久しぶりりんこ
だれが始めたか分からない
一レス一文字で般若心経を完成させるスレ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1165590617/


お願いします(^人^;)

341 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/22(金) 18:31:00 ID:kuEp4pik
 話題提供をしておきたい。「無上真妙の禅門」親鸞は、五会念仏法事儀讃略抄で浄土真宗をそ
のように規定している。
 親鸞の禅門とは何か。これは、伝教大師が日本にもたらしてきた禅門であると考えるべきだろ
う。

 禅門は、インドから中国に達磨大師が伝えた。中国禅は達磨大師を一祖とし、達磨→慧可→鑑
智僧粲→道信→大満弘忍へと法灯が継承されていく。
 大満弘忍の弟子に、玉泉神秀と大鑑慧能とがいる。大鑑慧能は南宗禅の祖となる。玉泉神秀は
北宗禅の祖となる。曹洞宗・臨済宗は全て南宗禅の流れである。
 北宗禅は、中国では消滅したと言われているが、伝教大師はこの北宗禅を学んで日本に持って
きた。北宗禅は、中国では社会の貴族階級に伝わり、南宗禅は大衆に広がっていったらしい。親
鸞も法然も、比叡山ではこの北宗禅を学んでいる。
 北宗禅については、インターネットで勉強させて貰った。興味深いことがいろいろ書いてある。

北宗禅の神秀と、南宗禅の慧能との悟りの境地の違いが偈文に現れているそうだ。
 神秀の偈
 身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし 時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること怱れ
 (汚れなき心の垢を取りのぞき本来空の身をば保たん)
 慧能の偈
 苦提もと樹なし明鏡また台にあらず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん
 (汚れなき心と身をば尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと)

 神秀は、座禅を継続する中で、徐々に徐々に悟りを開いていくという考えを採ったらしい。南
宗禅は、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切空であり、絶対無という主張をしたようだ。

 浄土真宗では、信心を得ることはあるが、自分は悟ったとは言わない。曹洞宗・臨済宗のなど
の日本の禅宗では悟りを強調する。浄土真宗で、悟りは極楽浄土で開く。今生で悟りを開くこと
はない。ただし、極楽浄土には即往生する。
 浄土真宗は、曹洞宗・臨済宗とは異なる北宗禅の系統を思想的に継承していることが見えてく
る。

342 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/22(金) 18:43:26 ID:kuEp4pik
 追加
 なお、五会念仏は、法照が唐の代宗皇帝に披露してから中国全土に広がったようだ。
その意味で、法照は中国では貴族階級と親密で、恐らく北宗禅の高僧だったんだろうと
考える。
 中国の北宗禅は、朝廷の交代とともに衰微していったんだろう。その点、大衆に根を
張った南宗禅は、朝廷の交代に影響を受けなかったのかもしれない。

343 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 01:29:41 ID:qsQ886n5
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ;
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

344 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:07:01 ID:Fh+h4RBG
達磨 382年?-532年 曇鸞 476年-542年 慧可 487年-593年 僧粲 不明年-606年
道綽 562年-645年 道信 580年-651年 弘忍 601年-674年 神秀 606年-706年
善導 613年-681年

 達磨大師から神秀禅師までの禅者の生没年と、浄土教七高僧の内、曇鸞大師・道綽禅師・善導
禅師を組み合わせてみた。
 曇鸞大師は達磨大師より若く、達磨大師が中国にいた時代、曇鸞は同時代に中国で生存してい
た。しかし、達磨大師は、慧可禅師を唯一の弟子としていたから、曇鸞大師は達磨大師から禅を
学んでいないと思う。慧可禅師が大成したころは、曇鸞大師も既に大成したと思われるから、慧
可禅師からも学んでいないと思う。曇鸞大師は、座禅を学ぶことなく、おそらくヨーガ行者とい
う部類に入るだろう。

345 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:09:07 ID:Fh+h4RBG
 道綽禅師は、僧粲禅師、道信禅師などと同時代であり、達磨流の禅を修行していたと推定でき
る。善導禅師は、道信禅師、弘忍禅師、神秀禅師などと同時代である。弘忍禅師、神秀禅師など
から達磨流の座禅を学んでいたのではないか。
 北宗禅の祖の神秀は、95歳で則天武后に招かれているようだ(ウィキペディア)。北宗禅は
唐朝廷に深く入る。唐の代宗皇帝の前で五会念仏を披露した法照禅師などは、当然この北宗禅の
流れに入ると思う。北宗禅は唐朝廷と運命を共にした。唐が滅びると中国では排仏運動が起きる。
北宗禅は、中国で多分このとき消滅したのだろう。
 北宗禅は、中国で消滅しても日本では命脈を保った。遣唐使留学僧は国費留学生であり、中国
朝廷の下で学習する。最澄は中国で国分寺行表禅師から北宗禅を学んで日本に持ち帰る。以後、
日本では天台宗がこの北宗禅を継承する。しかし、比叡山は信長の焼き討ちによりその勢力を喪
失し、天台宗からも北宗禅の系統はほとんど消滅した。
 鎌倉時代の法然・親鸞は、最澄が持ち帰ったこの北宗禅を大衆に教え、その考え方は蓮如まで
続いた。しかし、浄土真宗は、禅は自力であるという邪道の理屈が幅を利かすようになり、徳川
幕府の操縦によって変質し、浄土真宗は禅を捨てた。このとき、北宗禅は日本でもその命脈が尽
きた。
 鎌倉時代、日本天台宗の北宗禅に飽き足りなさを感じた僧がいた。栄西と道元である。彼らは
中国に私費留学し、中国で全盛を誇っていた南宗禅を学んで帰国し、現代ではそれが世界中に広
がっている。

346 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 10:14:48 ID:Fh+h4RBG
追加
 教行信証には、禅定博陸という言葉が出てくる。禅定博陸とは、関白九条兼実のことである。
法然は、上は関白太政大臣から下は遊女まで幅広い支持を受けている。関白太政大臣に教えてい
た禅定は北宗禅流の禅定であることは間違いない。

347 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/23(土) 16:09:56 ID:Fh+h4RBG
>>345
訂正(インターネットのにわか勉強で申し訳ない) 
誤 最澄は中国で国分寺行表禅師から北宗禅を学んで日本に持ち帰る。
正 最澄は、中国で北宗禅を学んで日本に帰国した国分寺行表の下で
 得度している。

348 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:51:31 ID:n1YTQ8Hc
 話が止まらなくなってきた(笑)。<仮説です>

 「念仏三昧は、これ真の無上真妙の禅門なり」。親鸞が力を尽くして関東の門弟達に書き残し
てきた五会念仏法事儀讃は、ほとんどこの言葉から始まる。
 法然、親鸞、蓮如と継承された禅門は北宗禅だろう。南宗禅は栄西が南宋に留学し、日本に持
ち帰った臨済宗が最初だ。延暦寺を中心とする既存の日本仏教教団は栄西を危険視し、その排斥
に動いている。親鸞は末燈鈔で、「仏心宗というは、この世にひろまる禅宗これなり」と呼んで
いる。これは栄西の臨済宗のことだ。このころ栄西の臨済宗は大衆の共感を受けている。法然・
親鸞が栄西に南宗禅を学んだという事実はない。
 法然・親鸞が学んできた禅は日本天台に伝わっていた禅宗だ。これは、臨済宗などの南宗禅と
は考え方が対立する北宗禅であると考えて間違いないだろう。栄西以前、日本には南宗禅は入っ
ていなかったと考える。北宗禅の立場では、南宗禅は危険思想なのだ。

 日本が遣唐使を廃止したのは894年。以後、日中貿易は継続していたと思うが、中国に仏教
を学びに行ったのは、恐らく栄西が最初ではなかったか。遣唐使は、国費留学生であり、唐王朝
に派遣する。当然、唐王朝の公式の学問を学んでくる。南宗禅はいわば草の根の大衆仏教であり、
唐王朝が採用する仏教ではなかった。唐と言えば中国仏教の全盛期である。全盛の中国仏教を支
えていたのは北宗禅であり、遣唐使を通じて日本にはこの北宗禅が入っていた。

349 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:52:12 ID:n1YTQ8Hc
 南宗禅は型破りな考え方をとるのに対し、北宗禅は非常にスタンダードな考え方を採る。親鸞
が傾倒していた法照は、そのような北宗禅の人だろう。親鸞の五会法事儀讃略称を読む限り、法
照は禅だけでは悟りに至らないと考えているようだ。釈迦は、戒律と禅定と知恵の三学を説いた。
禅定が仏教の全てではない。やはり戒律を守り、知恵も学んで併せて禅定を修め、それによって
悟りを開くという考えだ。知恵を学んで行くには時間がかかる。北宗禅は徐々に悟りに近づくと
いう考えを採るようだ。その立場は非常に倫理的であり、儒教的な考え方にも近いのだろう。こ
れは、学問をする余裕と時間のある為政者向きの考えだと思う。北宗禅は、日本政府が、遭難の
危険を冒し、莫大な国費を使ってでも優秀な貴族・僧侶達に学びに行かせるのに値する十分な内
容のある考え方を提供していたのだろう。これに対し、南宗禅は、不立文字、教外別伝、只管打
坐を主張する。これは仏教のアウトローであり、三学にとらわれる考え方がない。ゆっくり本を
読んで学問を積んでいく余裕のない在野の人々に受け入れやすい考え方を取っていると言うべき
だろう。

350 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/24(日) 18:54:34 ID:n1YTQ8Hc
 面白いことに、南宗禅・北宗禅の立場が日本に入ってくると逆転する。道元は南宗禅の一派で
ある曹洞宗を移入してきた。南宗禅の別の一派である臨済宗は、非常に多くの留学僧を中国に送
り、また中国から高僧を招いて多くの派ができる。南宗禅は、公家に対抗して新興勢力を延ばす大
名に共感を受けた。一方、北宗禅は、法然・親鸞・蓮如によって大衆に拡散し、やがて一向一揆
のエネルギーを生み出していく。
 大名達に好まれた南宗禅は、不立文字といいながら日本では膨大な量の書籍を生産する。一方、
親鸞の北宗禅は、戒律を末法という概念で抽象化する。知恵の学習は極楽浄土の問題として棚上
げし、事実上、不立文字、教外別伝、只管打坐と同等の境地を大衆の中に開いていく。

 かつて、中国の北宗禅は、唐王朝の公式学として栄え、唐王朝の滅亡と共に消滅した。この北
宗禅が、日本では在野に拡散する。これは、やがて一向一揆という形で為政者と衝突し、徳川幕
府の開幕によって事実上息の根を止められた。
 中国では在野に拡散した南宗禅は、日本では武家政権で為政者に好まれ、武家時代が終わった
後、在野に教線を拡大しつつ、今は世界に広まっている。

351 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:07:07 ID:Jc0oP3tw
 全く話が止まらなくなってきた(笑)。
 念仏無間、禅天魔。日蓮聖人はそう言って念仏宗と禅宗を批判する。法然の念仏宗は末法とい
う概念で戒律を抽象化した。このため、法然の教義を曲解した人々の中には造悪無碍を繰り返し
た人がいたようだ。禅天魔とはなにか。これは、恐らく北宗禅の立場から南宗禅を批判するとき
のキーワードではなかったか。教外別伝・只管打坐。座っているだけで俺はこんなに悟ったぞと
言えば、それは悟りではない。単に天魔になったに過ぎない。北宗禅は南宗禅をそのように批判
していたのだろう。
 北宗禅は、仏教本来の立場に立った非常にスタンダードな考えをする。非常にスタンダードな
考えをするということは、穏やかで温厚であるということを意味しない。南宗禅は、型破りな考
えをする。しかし、それは必ずしもラジカルであるということを意味しない。北宗禅は、少なく
とも日本では人々に非常にラジカルな行動を焚きつけ、歴史を動かし、そのラジカル性の故に滅
んだように考える。一方、少なくとも過去二千年近い歴史の中で、南宗禅が歴史の表舞台に立っ
て歴史を動かしたいう事実を、僕は思い当たらない。

352 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:08:26 ID:Jc0oP3tw
 北宗禅は、日本には天台宗延暦寺に伝わったと考える。北宗禅は南宗禅と違ってそれだけで単
独の宗派を作ることがない。戒律と知恵の修学とともにあくまで三学の一つという立場を採るか
らである。南宗禅は、以心伝心・不立文字という主張を行うことから、単独で一派を形成できる
のとおおきな違いである。
 平安時代から戦国時代まで、天台宗延暦寺は日本の政治に大きな発言力をもち、政治に対し責
任を負ってきた。武装集団を擁し、武力で自らの主張を実現してきた。武力集団を僧兵という。
 僧兵は高位の僧ではない。人数は多いが階位は低い。天台宗で高僧になるには、千日回峰行と
か常行三昧とか、命を賭けた非常に激しい修行を非常に長期間行う。そういう修行を、人数も多
い僧兵達がやっていたとは考えにくい。僧兵達は、武闘訓練と共に、平時は経典読誦と、おそら
く北宗禅の座禅をしていたことだろう。少林寺拳法は北宗禅から生まれ、北宗禅をその思想的バ
ックボーンとしている。命知らずの延暦寺の武闘派の僧兵の熱情も、そうした北宗禅から生まれ
るものだろう。僧兵は、しばしば歴史を動かしてきた。だからこそ、信長の鉄砲軍団に敗北した
延暦寺が、その後、禅を失っていったことは自然のことではなかったか。
 武闘派の北宗禅は浄土真宗が継承し、浄土真宗はこれを大衆に拡散し、為政者と激しく衝突し
た。日本の北宗禅を最終的に滅ぼしたのは誰か。それは一人の天台僧ではなかったか。僕は天海
という名を挙げる。天海は天台宗の大僧正である。中国で消滅した北宗禅を日本で守り続けたの
は日本天台宗である。しかし、その北宗禅に、世界で最後のとどめを刺したのも、日本天台宗だ
ったとすれば、これはまた大きな歴史の皮肉のように感じる。

353 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/25(月) 19:09:31 ID:Jc0oP3tw
 大衆に拡散した北宗禅は、武田騎馬隊を粉砕した信長の鉄砲隊でも破ることはできなかった。
しかし、北宗禅を打倒することは、北宗禅を知り尽くした者には難しいことではなかったのかも
知れない。単純な話だ。座禅する場所を奪えばいいのだ。そうすれば北宗禅は壊滅する。
 浄土真宗の門徒は、二六時中座禅をしているわけではない。通常時は、家事を行い、畑仕事を
している。座禅は、人々が寄り集まったところで行う。5人10人という人が寄り集まることを
禁止すれば、人々は禅から遠ざかる。キリシタンについては徹底的な弾圧政策を採り、浄土真宗
については懐柔策を採りながら、徳川幕府は人々の寄り合いを禁止した。浄土真宗は、この政策
で音もなく崩壊していった。
 このような知恵のある者は、決して数多くはないだろう。歴史の中で必ずや名を残しているに
違いない。徳川時代初期、歴史的な宗教政治家と言えば、僕は天海以外に知らない。天海は、明
智光秀の血縁であるという説がある。徳川家康に権現の名を送り、東照宮を建設し、上野に寛永
寺を建設した傑僧である。謎の童謡「かごめかごめ」を作って大衆に広めたのも、天海ではない
か。天海は、天台宗大僧正の立場で、初期徳川幕府の宗教政策の基礎を築いた。浄土真宗は、こ
の天海の知恵によって事実上息の根を止められ、北宗禅はこの事実上地上から消滅した。

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