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□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□

1 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/13(土) 13:20:53 ID:xxtvQbfi
 親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
 親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからでき
るだけ分かりやすく、試行的に答えてみたいと思います。
 渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立
場から答えさせていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、谷派の坊さんも
常駐しています。教派的な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂ける
と思います。
 なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、
私宛の質問は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
 宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関す
る質問に限定したいと思います。

 地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽
浄土には、どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというの
は、本当か。死んだら極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏
になるのか。お釈迦様の悟りって何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら
称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏した
ら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。極楽って何?。地獄って何?。
阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄土に行きたいとも思
わないんだが、それじゃいかんのかね?。

 今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思いま
す。本派、谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。

2 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2005/08/13(土) 13:23:37 ID:2JiDf7xc
うーん。わたしの実家は浄土真宗なんだけどなぁ。すみません。お盆まだ帰ってません。

3 :名無しさん@3周年:2005/08/13(土) 14:36:02 ID:9j+6/+Ao
ageていいの?
田舎で今日お墓まいりにいきました。
お寺の庭にお墓があるので お参りしたあとお寺に挨拶にいったら小冊子をいただきました。
そこに浄土真宗では先祖供養はしませんみたいな事が書いてありました。
えぇっーお墓参りは先祖供養じゃないの? 先祖に感謝の気持ちをあらわす行事じゃないの?
初めて知ってかなり混乱している二十代の私。
教えてくんじゃいけないけど 本には簡単にしか書いてないし回答願います。

4 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2005/08/13(土) 15:05:15 ID:2JiDf7xc
>>3 >>そこに浄土真宗では先祖供養はしませんみたいな事が書いてありました。

え?!本当?? 本当だったら、大変だ。
きっと、今日あたり、仏壇のある叔父の家にお坊さんが来て、お経あげているはずなんやけど。。。
それ、先祖供養じゃない、って聞いたら、親戚一同 はぁ?(?_?) になっちまう。
あ。ちなみに、わたし自身は、プロテスタントキリスト教なんですがね。

5 :元々ぼら夫:2005/08/13(土) 16:29:48 ID:mZhrLGgE
>>1
お〜っ、渡海さん。スレ立て乙でつ。s会スレではお世話さまでした。
記念カキコさせていただきます。ちなみに漏れは、本派の坊さんです。
ただいま、大忙しでして、また、おじゃましますね〜。ではでは、ご挨拶まで。


6 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2005/08/13(土) 17:19:11 ID:2JiDf7xc
>>5 >>ちなみに漏れは、本派の坊さんです。
ただいま、大忙しでして、

あ〜。確かに!今日は忙しい!!(T_T) 
お疲れ様です。_(_^_)_

7 :名無しさん@3周年:2005/08/13(土) 19:50:38 ID:DzxKHo7O
お墓参りに行って家人がお墓の中の骨にあつくないか聞いたから
「カルシュームだよ」と連発したら、周りが軽くシーンとした。
骨って大事なのでしょうか。

8 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/13(土) 21:11:37 ID:xxtvQbfi
>>3
 難しい問題だね。浄土真宗とは何かという問題にも絡むしね。
 浄土真宗の原点は親鸞である。こう言い切って、親鸞に帰れと叫ぶなら、葬
式はない。先祖供養もないということになるんだろう。ところが、問題はそんな
簡単な話じゃない。浄土真宗は、大衆浄土教の一つだ。大衆浄土教の起源は
何か。それは空也上人だ。
 日本で最初に民衆の中で念仏を称えたのは空也上人だ。その空也上人は、
火葬の起源だ。京都で行き倒れていた死体をゴミとして焼却し、死体の処理方
法を民衆に教えたのが空也上人だ。彼は、死者との分かれ方、心の整理方法
を民衆に教えた。その後、空也僧という人々が出現する。彼らは、念仏を称え
ながら、町に転がっている死体を処分するボランティア僧だった。人の嫌がる死
体を進んで処理し、布施を受けて生活した。親鸞・法然以前に、既に大衆の中
にこういう形で日本では浄土教が根付いていった。
 空也上人がいなければ、その後の法然・親鸞も無かったかも知れない。親鸞
に帰れと叫んで、浄土真宗から葬式・供養を排除しようとして、果たして日本人
がそれを受け入れるだろうか。浄土真宗には先祖供養はなくても、日本大衆浄
土教にはあるんだろうね。

9 :名無しさん@3周年:2005/08/13(土) 22:06:17 ID:QdQayNn4
んーっとね、死んだ人は仏様になっているの。
すでに仏様になっている人を供養してあげる、というのは、真宗ではちょっと違うの。
お盆にお墓参りをすることで、仏縁をいただく、というのが真宗の考え方だと、お婆ちゃんが言っていました。


10 :名無しさん@3周年:2005/08/13(土) 22:54:28 ID:8Cfw/5Lx
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

11 :名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 11:56:36 ID:GzETz7xZ
親鸞さんの言った「悪人」って、本当にその言葉どうりの意味なんでしょうか?
それとも「善人」なんていない、その当人が自分をかいかぶって「善人」といっている
だけだ、と思っていたのでしょうか?
資本主義社会のもと、人を倒して生き延びる(会社が発展とか・・・)ことばかり
やっていて、自分は極楽から相当遠いように感じます。
それでも、明日同じことをしますが。

12 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/14(日) 15:16:37 ID:iVTS62aN
>>9
>お婆ちゃんが言っていました。

 まあ、これも日本大衆浄土教の考え方だよね。親鸞・法然にはない考え方だ。死んだ人
は、生前の業に従い、天から地獄のどこかに輪廻していく。生前に仏道を歩まなかった人
でも仏様になれるというのは、対機説法で特別に説かれた考え方が、機を離れて一人歩
きしている大衆信仰だろう。
 死んだ人は仏様になっているというのは、いわば、死者との分かれ方、心の整理方法と
言うべきだろう。愛する人とは別れにゃならん。愛別離苦は、八苦の一つであり、何人も
避けられない。死んでいった人は、泣いてもわめいても帰ってこない。もっとあれをしてあ
げればよかった、これをしてあげればよかったと、残った人に後悔の念が次々とこみ上げ
てくる。後悔の念が次々とこみ上げてくれば、人は自縄自縛になって動けなくなる。それ
ではいけない。そう考えた心優しい高僧がいたんだろう。
 「何もしてあげられなかったかも知れないが、今はもうその必要はなくなったんだ。亡く
なった人は、あなたがしてあげられなかったものもてを満たして仏様になっている。仏様
になっていれば、いまさら何も必要はないんだ。さあ、貴方は、死んだ人のことは心配し
ないで涙を拭いて、自分の道を進んでいきなさい」。こんなふうに諭したんだろうね。

 我が所説の十二部経のごとし、あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自
他意説なり。お釈迦様の教えは十二部のお経に広がっている。その中では様々に互い
に矛盾する主張が展開している。お釈迦様が、聞き手の心ではなく、ご自分の心に忠実
に語っている教え、これが随自意説。ご自分の心でなく、聞き手の心に合わせて語って
いる教え、これが随他意説。ご自分の心に忠実にかつ、聞き手の心に忠実に語っている
教え、これが随自他意説だ。心優しい高僧の心には、僕も共鳴するものを感じる。ただ、
その考えが、語った人の心を忘れ、語られた対機を離れて一人歩きしているところに引っ
かかるものを感じます。





13 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/14(日) 15:18:17 ID:iVTS62aN
>仏様になっている人を供養してあげる、というのは、真宗ではちょっと違う 

 これも考え方だと思えばいい。心の整理方法だろう。仏になった。もう何も必要はないん
だと言われて、「はいそうですか。それならそれで万々歳ですね。肩の荷は全て降りまし
た。目出度し、目出度し。あの人は死んで本当よっかった。よかった」。
 世の中には、そんなことをいう人ばかりではない。人が死ねば、残った人は、さまざま、
さまざまに悲しさ、寂しさ、後悔の念を背負って生きていかなければならない。

 「寂しいんじゃ気が済むようにしよう」。高僧はそう言ったんだろう。「お墓を作ってあげて
お花を活け、生前大好きだったものでも置いてあげようじゃないか。それで死んだ人の心
が安まるかどうかは知らないが、生きている人の悲しい気持ちの整理がすこしでもつい
て、本来の生活に戻っていけるようなれば、これに越したことはない。」

 供養というのは、心優しいそんな高僧のカウンセリングマインドから生まれたものだろう。


14 :ワタリガラス:2005/08/14(日) 16:21:16 ID:dC0X2UUo
感謝は誰にすればいいか知ってる?

15 :名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 23:17:59 ID:Mg6rZazG
オナニーは週に何回ぐらいがベストでしょうか?

16 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/16(火) 22:07:55 ID:jEGNjPMr
>>11
> 親鸞さんの言った「悪人」って、本当にその言葉どうりの意味なんでしょうか?

 「悪人」というのは、悪人正機説の悪人について問題にされているのでしょうか。
一応そういうことで考えてみます。
 悪人正機説とは、歎異抄の第三節に出てくる言葉ですね。これは解釈が非常
に難しいんです。
 正機と言われている悪人は何かということを議論するには、悪人正機説は誰が
オリジナルとして主張したものかという、主張者を特定する必要があります。親鸞
か。法然か。善導か。唯円(歎異抄の著者)か。清沢満之(明治の仏教者)か。私
は一応この5人が候補に挙がると考えています。5人のうちの誰であるかというこ
とで、結論は大きく異なってきます。
 悪人正機説は親鸞の思想である。これまで長い間そのように言われてきました。
歎異抄が世間で盛んに読まれるようになったのは、明治の清沢満之の業績です。
清沢満之が社会に歎異抄を売り込んだ最大の売り物は、この悪人正機の主張だ
ろうと私は考えています。
 親鸞と言えば悪人正機説。悪人正機説と言えば親鸞。私が子供の頃の学校の
教科書では、親鸞は悪人正機説を説いた鎌倉時代の高僧として紹介してありまし
た。おそらくそうした親鸞観は、清沢満之に由来するものだろうと私は考えています。
 悪人正機説は法然の説である。最近はしばしばそういう主張が出ています。歎
異抄一章から九章まで、末尾は「云々」で終わっています。ところが、三章だけは
「仰せそうらいき」となっています。三章だけは特別な終わり方をしている。「このよ
うに仰せになった」と、尊敬語で終わっています。従って、三章は伝聞である。伝聞
であれば、起源は法然である。こういう主張がされています。法然説が通説になっ
たかどうかは知りませんが、非常に有力な説だと思います。ところが、法然上人の
場合には、「悪人こそ救われる」と言っている文献と、「善人こそ救われる」と言って
いる文献とがあるそうです。

17 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/16(火) 22:09:57 ID:jEGNjPMr
 悪人正機説は、本来、逆転の発想が売りになっている思想でしょう。それが、悪
人こそ救われると言ったり、善人こそ救われると言っている中の一部を偶々つま
み出したものに過ぎなければ、逆転の発想の悪人正機説はその存在を失います。
悪人正機説なるものは、親鸞の中で本当に存在していたのだろうかという疑問す
ら湧いてきます。
 悪人正機説は、歎異抄だけでなく、執持抄という書き物にも登場します。執持抄
は、覚如の書き物です。そこでは善導の玄義文を引用し、悪人正機説を紹介して
います。こうなると、悪人正機説の起源は善導ではないかということになります。
「悪人正機説はだれの教えですか」と、法然上人に聞けば、「善導大師です」と答
えるでしょう。
 ところが、善導の玄義文からは、悪人こそ救われるという結論は出てきません。
善人も悪人も、阿弥陀仏で救われるというのが善導の主張ですから、これを以て
悪人正機ということはできないでしょう。
 執持抄は、歎異抄を背景に書かれた可能性があります。歎異抄は、親鸞の直
弟の書と考えます。「善人こそ救われる」「悪人こそ救われる」。時に応じて親鸞
も、法然の主張をそのまま繰り返していた可能性があります。それを「悪人こそ
救われる」と一部だけを抜き出して編集し、これだけを強調すれば、悪人正機説
の真の主張者は歎異抄の著者、多分唯円でしょうが、唯円のオリジナル思想と
いうことになります。
 歎異抄には、偶々「悪人こそ救われる」と、親鸞先生の言葉の一部を抜き出し
たが、「善人こそ救われる」という主張を単に書かなかっただけということであり、
唯円には敢えて悪人正機説を主張する意思はなかった。もしそういうことであれ
ば、悪人正機説の真の創設者は、明治時代の清沢満之であるということになる
でしょう。
 悪人正機説のオリジナル主張者は誰かということで、悪人の意味は大きく異
なってきます。この問題は、その一つ一つを検証しながら、主張者の真意を考え
ていく必要があると思います。

18 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/16(火) 22:13:36 ID:jEGNjPMr
>自分は極楽から相当遠いように感じます。

 親鸞には「往生極楽の道(出世間道)」だけを教わりましょう。我々には、二つの大きな
問題があります。世間道と出世間道です。親鸞は出世間道の道を解決してくれました。
しかし、世間道の問題については何一つ解決策を示していません。
 世間道の問題解決は、我々一人一人が解決していくほかありません。人を倒して生き
延びることはいいことか、悪いことか。親鸞はその問題には何一つ解答を示していませ
ん。いいとも悪いとも言ってません。それが意味のあることか、無意味なことか示してい
ません。
 世間道の問題は我々一人一人が解決策を探して行かなければなりません。世間道の
問題解決は、我々の責任です。代わってくれる人はなく、解決策を示唆してくれる人もい
ません。世間道の問題の解決に責任にある貴方自身が、これは必要だと思ったことは、
必要なことだと思いましょう。それは、極楽から遠かろうが、近かろうが関係ありません。
世間道の問題は、誰も代わってくれていませんから、失敗を恐れず、貴方は貴方が
信じる道を歩むだけです。
 世間道の問題を突き詰めていく中で、失敗が恐くなり、出世間道の問題にぶつかれ
ば、そのときは失敗が恐くなった出世間道の問題を親鸞聖人にぶつければいいだけ
です。親鸞聖人は、あなたがぶつけた出世間道の問題を解決してくれるでしょう。
 世間道の問題と出世間道の問題を混同し、混同した世間道の問題が極楽から遠い
か近いかを心配することは、親鸞が全く予想していなかった愚かなことだろうと思いま
す。

19 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/16(火) 22:43:30 ID:jEGNjPMr
>>16
誤 悪人正機説とは、歎異抄の第三節に出てくる言葉
正 悪人正機説とは、歎異抄の第三節に出てくる概念

20 :名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 23:44:03 ID:8Xs0o6mV
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者

21 :名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 05:08:07 ID:/6a4yAFC
関東で本願寺派の寺院を訪ねたいのですが、いくつかここは行くべきという寺院があれば教えてもらえませんか?

22 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/18(木) 09:05:20 ID:G4hrdXk9
>>11
 親鸞の他の著作を読んで歎異抄3章を読むと、僕はいつもある種の違和感を感じます。
何で、善とか悪にこだわるんだろう、と。往生は、善人優先か悪人優先か、親鸞仏教という
のは、そんな詰まらん気の回し方をすることは、もともと止めたんじゃなかったのか。それ
とも、善だ、悪だということを引きずる宗教なんだろうか。まあ、そんな感じを持つんですね。
そう考えてくると、歎異抄3章の悪人正機説というのは、建前を外した人間親鸞のもっとも
人間くさい本音部分なんじゃないか、僕はそんな風に思えてくるんですね。
 親鸞にも、建前の話と本音の叫びとがあった。悪人正機というのは、親鸞の公式の中核
思想ではない。そう考えるべきでしょう。これは、安心して気が許せるごく少数のお弟子さ
んに、人間親鸞がいたずらっぽく見せていた非常に人間くさい裸の親鸞の叫びのようなも
のだろと僕は感じます。

 「法然先生は、善人こそ救われるということを仰ることもあったが、悪人こそ救われるとい
うことも仰っていたんだ。悪人こそ救われる。お前らより、わしの方が阿弥陀さんの、本当
の眼目なんだぞ」
 笑いながら、冗談めかし、安心できるお弟子さん達にそんなことでいたずらっぽく突っ張っ
てみせる人、親鸞とはそんな人だったんだろうと思います。そんな心の裏側には、一生消
えない深い心の傷が残っていた。親鸞はそういう人だったんでしょう。
 親鸞聖人と、その回りの人々とは、体のある一点で決定的に違っていたと思います。恐
らく親鸞の腕には、焼き印が入っていたはずです。そこには「遠流刑越後」という表示が
入っていたでしょう。これは赦免になっても消えることがなかった。親鸞はそれを、嫌でも
毎日見ていなければならなかったでしょう。
 僧籍剥奪と遠流刑に処した裁判は不当な裁判だった。親鸞は、自分に押された焼き印
を見る度にそんな悔しさがこみ上げてきていたでしょう。親鸞は、そんな悔しさを紛らわす
ため、回りの人にいたずらっぽく笑ってみせた。それがこの悪人正機ではないか。僕はそ
う思っています。

23 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/19(金) 12:23:45 ID:fEuBZBCr
 歎異抄は、親鸞の思想を正しく伝えていない。僕はそう思っています。歎異抄は、
親鸞の思想を知る上での一級の資料であることは間違いない。しかし、超一級と
いうわけではない。書いてあることは間違っていると断言していいかはどうかは分
からないが、少なくとも親鸞の真意とはずれたことが書いてあることは忘れては
けないでしょう。
 歎異抄の思想と親鸞の思想とは、思想の骨格が違う。思想構造が違う。思想
の構造が違うと言うことは忘れてはいけない。歎異抄は、教信行証という構造を
採る。親鸞は教行信証という形をとる。歎異抄は、本願を信じて念仏する。念仏
の行に信が先行する。親鸞は、「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」「教
証を敬信」する。信に先行して行があり、証がある。親鸞は、先行する行と証を
敬信する。思想のまさに心臓部分でのこの違いは非常に大きい。「本願を信じ
て念仏する」ということと、「教行証を敬信」するということの違いは、僕は繰り返
し説明しているつもりだが、分かってくれる人は少ないようだ。
 歎異抄を読む場合、親鸞と歎異抄とは思想の骨格において相異があるという
ことは十分に認識した上で読まなければいけない。「悪人」という言葉を考える場
合も、歎異抄から導くなら、そういう点も忘れてはいけないだろう。

24 :名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 15:24:35 ID:0AsTFOqv
なんかこのスレ見てると鬱になる・・・。

25 :名無しさん@3周年:2005/08/22(月) 09:44:29 ID:CPRdDi3J
>>21
>関東で本願寺派の寺院を訪ねたいのですが、いくつかここは行くべきという寺院があれば教えてもらえませんか?

 物見遊山の観光なら、いろいろ紹介がある。ご自分で探したらどうでしょうか。
 http://www.tomo-net.or.jp/cere/meguri/ 
 http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/24haijiin.html
 http://www1.ttcn.ne.jp/~sinran/map.htm


26 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/23(火) 13:34:34 ID:MFsKXznq
 歎異抄の思想と親鸞の思想とは、両者で思想の構造が違う。構造だけでなく、もう
一つ大きな違いがある。それは思想の基盤だ。思想の基盤とは何か。それは念仏で
ある。親鸞の思想と歎異抄では、念仏に対するスタンスが根本的に違う。思想の基盤
に対するスタンスの違いを見ると、歎異抄という書は、既に親鸞の思想の枠をはみ出
し、親鸞の思想とは異なる独自の世界を歩もうとしているように僕には思えてくる。

 例えば、歎異抄は言う「念仏は、無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆ
えに」、と。

 親鸞は、歎異抄のような、こんな馬鹿なことは、一言も言ってない。

 当たり前の話だろう。親鸞ほど、念仏をさまざまな角度から議論している人はいな
い。念仏を不可称不可説不可思議と言えば、教行信証が成立しなくなる。念仏を称
える意義、目的、方法、効果、社会的な位置、宗教的意義、根拠。教行信証というの
は、まさに対象を念仏一つに絞り、それをあらゆる角度から、親鸞独自の仮説的立
場に立って論じている書である。その親鸞からは、念仏が不可称不可説不可思議であ
るなどという主張は、驚天動地以外の何者でもないだろう。

 他力は、無義をもって無義とすべきなのだ。これは正しい。それは親鸞も言っている。
なぜなら、他力には論理的な飛躍がある。親鸞は、これを横超などという表現をしてい
る。しかし、念仏と他力をすり替えて、「念仏は、無義をもって義とす。不可称不可説不
可思議のゆえに」などと言い出せば、話はトンチンカンになる。

 極めて分かりやすい単純な親鸞思想を現代人が理解できないでいる。その大きな原
因の一つは、歎異抄がもっている異質思想にあると僕は考える。全く異質とも言える思
想が、親鸞の教えの一部として現代では論じられている。これでは、分かる話も分から
なくなるのは当たり前のことではないかと僕は思う。

27 :名無しさん@3周年:2005/08/26(金) 09:38:08 ID:tXPdAIC1
(´・ω・`)親鸞なんて知んらんがな

28 :名無しさん@3周年:2005/08/26(金) 10:29:27 ID:rhsD8eHs
やっぱり浄土真宗は鬱になる・・・・。

29 :名無しさん@3周年:2005/08/26(金) 12:30:55 ID:3wZg1MM5
親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか

30 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/27(土) 19:52:49 ID:DQesUjws
>親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか

 この問いに対しては、三通りの解答がある。極楽浄土に行った。やっぱり
極楽浄土にはいけなかった。行ったか行けなかったか分からない。まあ、こ
の三通りだろう。
 答えが割れる。実はここには極楽浄土とは何かという定義、あるいは概念
の違いが現れる。同じ言葉、「極楽浄土」という言葉を使っても、考えている
概念が違えば結論は変わってくる。当たり前の話だ。
 人には皆霊魂がある。死んだら霊魂が肉体から離れふわふわ遠くに飛ん
でいく。お花畑を通って三途の川を渡り、遠くの方に飛んでいく。こういう霊
魂観を前提にすれば、極楽浄土に行ったかどうかは分からない。我々には
確認すべき手段がないのだ。
 ただ、別の考え方を採れば、親鸞が極楽に行ったことは疑いようがない。
極楽浄土に往生するとはどういうことか。仏教の根本原理に立ってこれを考
えていきたい。

31 :名無しさん@3周年:2005/08/27(土) 20:05:01 ID:Aj9ytpxu
極楽浄土っていう考えが元々の仏教にはないんじゃないの?
輪廻転生を繰り返して何千億年と修行したら誰でもブッタと同じように
悟りをひらいて仏になるんでしょ???
一体いつ極楽浄土にいっているんだ???


32 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/08/28(日) 18:51:40 ID:RAEFLtzb
>>29,>>31
 非常に面白いテーマで、議論してみたいが、今は超多忙。数日後から考えてみたい。

33 :名無しさん@3周年:2005/08/28(日) 23:58:14 ID:19M4ic1I
    _____
   /::::::::::::::::::::::::::\                  _
  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\            /  ̄   ̄ \
  |:::::::::::::::::|_|_|_|_|           /、          ヽ はぁ?黙ってろデブ
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       |
  |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ      |
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)          ノ_ ー  |     |
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:::::::::::::\_____ノ:::::::::::\        /          |
        ↑
       渡海

34 :名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 12:15:31 ID:MjK9YmNy
>ただ、別の考え方を採れば、親鸞が極楽に行ったことは疑いようがない。
簡単に お答えねがえませんか?

35 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/04(日) 21:49:18 ID:tmdaOtZg
>>34
> 簡単に お答えねがえませんか?

 親鸞は念仏者だったんだ。仏道修行者だったんだ。行証久しく廃れ、戒、行と
もに無い身でありながら、念仏に出会えた者は仏道修行者の仲間に加わること
ができる。これは凄いことじゃないか。末法の世において、その末席とは言え、
仏道修行者の仲間に加われるということ。これを往生極楽という。
 作家の世界を文壇という。画家の世界を画壇という。政治家の世界を政界とい
う。経済人の集まりを経済界という。仏道修行者の世界を極楽浄土という。
 仏道修行者の世界には、伝教大師がいる。弘法大師もいる。道元禅師も、行
基菩薩もいる。みな仏道修行者だった。念仏を称える人は、その仏道修行者の
世界に加わる。
 とりわけ、浄土教の仏道を修行する人々の世界を極楽浄土という。大無量寿
経・阿弥陀経が描いている極楽浄土のモデルは祇園精舎だ。祇園精舎の仲間
に加わるということは、仏道修行者の仲間に加わるということだった。極楽浄土
に参加するということは、仏道に参加するということだ。仏道に参加するというこ
とは、念仏者になるということだ。この考えを採用すれば、親鸞は、不体失往生
で極楽浄土に往生していた。

 親鸞は、生前は念仏を称えて亡くなった方だ。親鸞は、「生前は念仏を称えて
今は亡くなった方」の一人になった。「生前は仏道を修行して今は亡くなった方」
は数多い。伝教大師がいる。弘法大師もいる。道元禅師も、行基菩薩もいる。
「生前は仏道を修行して今は亡くなった方」の鬼籍の世界、それを極楽浄土と定
義すれば、親鸞はその極楽浄土の一人になっている。なぜなら、親鸞は、「生前
、仏道を修行して今は亡くなった方」だからだ。「生前は仏道を修行して今は亡く
なった方」の鬼籍を極楽浄土と定義すれば、親鸞は、体失往生で極楽浄土に
往生した。


36 :名無しさん@3周年:2005/09/04(日) 22:19:45 ID:kB8AD8EZ
阿弥陀仏、釈迦はそれまでになんども輪廻を繰り返して
やっとこ仏陀になれたんですよね。
人が死ぬと極楽浄土か地獄へ行くんですか?
地獄よりは輪廻転生してこの世へ生まれ変わった方が良いのだろう
とはおもいますが極楽浄土へいっても少し経つとまた輪廻転生しますか???
仏陀にならない限りは輪廻を繰り返すはず。

37 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/05(月) 11:30:47 ID:hnBws8PG
>>36
>阿弥陀仏、釈迦は 〜 やっとこ仏陀になれたんですよね。
          うん。まあ。そんなことも言えるのかな。

>人が死ぬと極楽浄土か地獄へ行くんですか?

 「生前、念仏を称えていて今は無くなった方」、その全体を極楽浄土と定義すれば、生前に念仏
を称えて無くなった方は死ねば極楽浄土に行く。当たり前の話じゃないか。
 芸能人の集まりを芸能界という。音楽CD・レコードを発売し、テレビ・ラジオで盛んに歌を歌い、
ファンクラブもできれば、その人はただの人じゃない。芸能界の人だろう。
 唐の高僧、初等教育学の大成者、唐仏教の最高権威善導大師が、念仏を称える者は自分達
の仲間であると認識するぞと仰ってくれた。外の人が何と言っても、少なくとも唐仏教の最高権威
善導大師だけは、その権威をもって念仏者を仏道修行者と認めてくれる。
 仏道修行者の集合体を極楽浄土言う。これも唐仏教の最高権威善導大師の教えだ。それなら、
念仏者は極楽浄土に往生する。
 「生前、念仏を称えていて今は無くなった方」全体を極楽浄土と定義するか、「今生きていて、念
仏を称えている方も含める」と認識するかは、価値観の相違だ。今活動中の人だけを芸能界と言
うか、今は亡き往年のスターの世界を芸能界というかは、言葉の定義の問題だ。
 極楽浄土には、「今生きていて念仏を称えている方は含めない」と定義すれば、生前念仏を称え
ていて亡くなった方が極楽浄土に往生する。

38 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/05(月) 11:32:34 ID:hnBws8PG
>仏陀にならない限りは輪廻を繰り返すはず。

 価値観が変わって戒律が時代に合わなくなり、行証が廃れた末法の世、そんな時代でも、なお
念仏だけでも称える人のすばらしさは、筆舌に尽くしがたい。正法の時代、堅固に戒律を守り、知
恵と禅定を修めていた人にほとんど匹敵する。
 現代において念仏を称えている人をお釈迦様がみれば、自分の仲間だと仰って下さるだろう。祇
園精舎で一緒に勉強した舎利弗君、阿難君、目蓮君と同じじゃないかと仰ってくださるだろう。みん
な、お釈迦様の元で小乗の悟りを開いた方々ばかりだ。みんな、大乗の悟りとを求め、多くの人々
を導いた。現代でなお念仏だけでも称える人は、そんな舎利弗尊者、阿難尊者、目蓮尊者にほとん
ど匹敵するほどの素晴らしい人である。お釈迦様なら、きっとそう仰って下さるだろう。
 念仏は素晴らしい。多善根、多福徳が込められている。輪廻することは決してあり得ない。

39 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/05(月) 12:07:06 ID:hnBws8PG
>>31
>極楽浄土っていう考えが元々の仏教にはないんじゃないの?

 釈迦は、竹林精舎と祇園精舎という二つの学校を作って、古代印度で理想的な教
育活動を展開しました。制服を定め、校則を定め、学生には知恵と禅定を学ぶことを
勧めました。真理には、言語化、有形化できるものと、有形化できないものがありま
す。有形化できるものは知恵としてまとめ、人々に提示しました。有形化できないもの
はその体得方法を有形化して、提示するという間接法を採りました。
 大無量寿経とは、釈迦が建設した古代の祇園精舎の教育理念を総合的にまとめた
ものと考えます。極楽浄土とは、祇園精舎をモデルに描いた古代の印度の理想的学
校像を示していると考えます。

> 悟りをひらいて仏になるんでしょ???

 大乗仏教は、教育活動に最高の価値を認めます。
 釈迦の定めたルールを守り、有形的な真理である知恵を体得し、無形的な真理を禅
定をもって体得します。
 釈迦の定めたルールを守り続けることで人々の信頼と尊敬を獲得し、獲得した人々の
信頼と尊敬の上で、真理を公開し、それを人々と共通の価値観として共有財産化する。
真理を多くの人々と共に享受していくことに努める。そういう努力を重ねることで人々と社
会の幸せを実現する。これが大乗仏教の根本原理だと考えます。

40 :名無しさん@3周年:2005/09/05(月) 21:53:55 ID:yrF03GG+
公安調査庁
平成17年「内外情勢の回顧と展望」 御存知ですか
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1102498325/762 
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1102498325/772

41 :名無しさん@3周年:2005/09/22(木) 22:50:33 ID:LjxrGrcp
質問です。
「他力」という概念について、納得のいく理解ができません。
様々な法話を聞きいてはいますが、どうも抽象的すぎて分からないんです。

42 :名無しさん@3周年:2005/09/22(木) 23:43:36 ID:LlKG2Kk1
>>41
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

43 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 00:24:26 ID:7eOAaukG
>>42
じゃ あなた教えて下さいよ。

44 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 04:50:32 ID:ZlWjfnF7
親鸞会って集団がありますけど。

仏教じゃないんですよね?

親鸞ビデオの販売など、親鸞の教えとどう関わって来るんですか?
布教というならば、信者が無料の冊子で教えを説いた方が良いんじゃないんですか?


45 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 07:14:40 ID:2zWI2zxs
このスレは以下のスレと重複です。

☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート12
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1114700011/

速やかに移動をおながいします。
(なお、渡海 難  ◆Fe19/y1.mIは出入り禁止です)

46 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/23(金) 15:29:47 ID:3L+rmWTo
>「他力」という概念について、納得のいく理解ができません。

 他力という言葉を最初に使ったのは龍樹菩薩だろうと思います。親鸞仏教を学ぶ上では、龍樹
菩薩が最初という理解でいいと思います。龍樹菩薩に次いで使っているのは曇鸞大師です。

 親鸞仏教を理解する上で重要なことは、親鸞が引用している文章を、「親鸞フィルター」を外し
て読むということでしょう。「親鸞フィルター」を外し、オリジナルではどういう意味で主張して
いる概念かを理解し、その上で、親鸞はそれをどの様に飛躍させたかという二つの視点を持つ必
要があります。親鸞の主張と原文の主張とは違うということ、ここをしっかり抑え、多角的に検
討する必要があると思います。

 龍樹は、印度で大乗運動が発生してきたときの大乗派の論客です。当時、釈迦教団は多くの部
派に分裂し、大乗派はその中の一つでした。大乗派も様々に分裂していたようですが、共通的に
は大乗派は、教育というものに絶対的な価値観を認め、釈迦思想の中核は人間教育にあるという
主張をしていたんだと思います。
 「難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。 〜 。五つ
には、ただこれ自力にして他力の持つなし」

 上座部仏教の中に教育という概念が無いわけではない。しかし、自分が認識したことをより多
くの人々と共に共有財産とし、これを共感的に享受し、利用することに価値の中核に置く思想
が大乗仏教であろうと考えます。人間教育を、他の価値感と相対的な位置におく上座部仏教とは、
大乗派の人々は同じ釜の飯を食えないと思ったでしょう。
 上座部派と大乗派との論争、自力か他力かという論争はそのような中で起きたものでしょう。
大乗派は、真理は師の下で学ぶべきであるという説を主張し、師について学ぶ学び方を他力と呼
んだのだろうと考えます。
 「転輪王(指導者)の行くに従えば、すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところな
きがごとし(論註)」。

47 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/23(金) 15:31:05 ID:3L+rmWTo
 上座部仏教は、師につくことにこだわらない。独学でもいい。上座部派はそう考えていたと思
います。実際、三十五歳で悟った釈迦は、師なくして悟った独覚の阿羅漢でした。龍樹と曇鸞に
とって、師について学ぶことの重要性を訴えるときの重要なキーワード、それが「他力(教育指
導力)」という言葉であろうと考えます。

 親鸞に至ると、こうした伝統的な考え方が維持できなくなってきます。最大の問題は「戒律」
です。釈迦は祇園精舎を建設し、戒律を定め、戒律を守ることを誓った者に入門を許し、有形的
な真理(知恵)と無形的な真理(禅定)を教えました。
 真理を学んだ人々には、ある期待が寄せられていました。真理を学んだ人々は、進んで各地に
散り、各地に祇園精舎の分校(極楽浄土)を作り、自らが教育者(阿弥陀仏の化身)になって、
教育活動をすべきである。そのような期待があったようです。
 しかし、釈迦が定めた戒律は価値感として世間の間尺に合わなくなれば、教育者は育たなくな
ります。知恵も、釈迦の時代から下れば、次第に時代遅れになります。
 パン屋さんやおそば屋さんは、パン屋さんやおそば屋さんの社会のルールをきちんと守ればい
いのであり、それとは別個に仏教の中に守るべきルールなどは、パン屋さんやおそば屋さんには
ありません。パン屋さんやおそば屋さんは、中学、高校、専門学校、あるいは本店や経営者の指
導の中にこそ学ぶべき知恵がある。そういう知恵とは別に、用もないのに別個に仏教の中に学ぶ
べき知恵を探しても、パソコンやインターネットの知識が見つかるとは思えない。そんなことをして
もあまり生産性はないでしょう。

 それではどうなんでしょうか。パン屋さんやおそば屋さん、もちろんお巡りさんも、お医者さ
んも、不動産屋さんも同じですが、彼らには仏教に何も学ぶべきものはないのでしょうか。そん
なことはない。学ぶべきはただ一つある。それは禅定でしょう。
 禅定と言っても、朝から晩まで粗食に耐え、ほとんど不眠不休で座禅し、数十年掛けて聖者の
悟りと求めるというようなことは必要がない。五分座れば五分の仏、十分座れば十分の仏、人生
で困ったとき、時を選ばず、場所を選ばず座ってみる。師がいないなら、念仏を師匠にしようじ
ゃないか。

48 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/23(金) 15:32:36 ID:3L+rmWTo
 昨日まで何も知らなかったパン屋さんやおそば屋さんが突然座りだし、それが禅定であると言
えば、専門家から笑われます。そんなのは禅定ではない。素人に本格的な禅定などはできるわけ
がない。だからまねごとでいい。まねごとだけで素晴らしい効果がある。禅定ではない、単に称
名念仏するだけと思えばいい。親鸞は、座禅して念仏を称えることの重要性を訴えます。「他力」
はその場合のキーワードとして使っています。
 念仏は素晴らしい。親鸞は、パン屋さんやおそば屋さんにとって、そのすばらしさの表現手法
の一つとして、念仏を称えると極楽浄土に往生する。仏になるという言い方をしてきます。実は、
極楽浄土に往生することが大事なんじゃない。仏になることが大事なんじゃない。人生に困った
とき、随所随所で腹をじっくり据える習慣をつけることがすばらしいんでしょう。つまり、腹を
据えて念仏し、腹で物事を考えることを学ぶ。それが素晴らしいんでしょう。極楽浄土に往生す
るというのも、仏になるというのも、そのように念仏を称えることのすばらしさを表現するため
の表現方法と考えればいい。すばらしさを表現する上で、他力とは、念仏と成仏、念仏と往生と
を繋ぐ説明的概念と思えばいい。


49 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/23(金) 15:35:36 ID:3L+rmWTo
 パン屋さんやおそば屋さん、お巡りさんや不動産屋さんは、別に教育者になって人々に真理を
語り、真理を大衆と共有的にしなければいけないということはない。パン屋さんになりたい人は
パン屋さんになればいい。おそば屋さんになりたい人はおそば屋さんになればいい。社会にとっ
て教育活動は重要であっても、お巡りさんになりたい人は、学校の先生にならずにお巡りさんに
なればいい。そんなパン屋さん、おそば屋さん、お巡りさんが、釈迦の時代から二千年も三千年
も経た時代、雪降る北方の国ジパングで、時折座禅して念仏する姿があるのを知れば、お釈迦様
はきっと喜んでくれるだろう。仏教の裏切り者とは思わないだろう。戒律もなく、知恵もないの
に、自分たちの仲間だ、祇園精舎の目蓮君と同じだ、弥勒君と同じだと喜んでくれるだろう。二
千年も三千年も経た時代、雪降る北方のジパングで、パン屋さんやおそば屋さんやお巡りさんが、
形だけでも時折座禅して念仏すれば、まさにそれこそ大乗仏教の教育思想の原点ではないか。理
想ではないか。頂点ではないか。

 念仏する者は目蓮に同じ、弥勒に等しい。お釈迦様はきっとそのように喜ぶだろう。釈迦の尺
度で、念仏だけで目蓮の域、弥勒の域に達する。実行していることはただ念仏することだけ。そ
れだけで、釈迦が認める目蓮に同じ、弥勒に等しい。仏になるのに必要な条件は、どこに行った
のか。念仏以外は全て阿弥陀様があつらえて下さる(証の巻の主題「十地の階次論」等)。他力と
は本願力である。親鸞はそんな説明をしてきます。

 仏になるのに必要な条件は、念仏以外は全て阿弥陀様があつらえて下さる。それが親鸞の他力
です。だから、パン屋さん、おそば屋さん、お巡りさんは念仏だけでいい。念仏を称える者は、
仏の仲間である。親鸞は、善導を経由してそのような言葉を大無量寿経から引用し、念仏を称え
る者は極楽浄土に往生すると説明します。弥勒は、釈迦に次ぐ一生補処の仏、次の世の仏と言わ
れています。念仏を称える者は死んだら仏になる。親鸞はそういう概念を、他力という言葉に追
加しています。

50 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/23(金) 16:04:04 ID:3L+rmWTo
>>49
誤 他力という言葉に追加しています。
正 他力(阿弥陀の教育指導力)という言葉に追加しています。


51 :名無しさん@3周年:2005/09/23(金) 16:39:20 ID:7eOAaukG
41の者です。
ちょっとお時間をいただいて、いただいたお言葉をよく咀嚼してみます。
また必ず質問させていただくと思います。 有難うございます。

ちなみに僕は「いわゆる」真宗僧です。勉強も一通りしてきたつもりですが、
それらに何か釈然としないものを感じて、ここで質問させていただいている次第です。

52 :名無しさん@3周年:2005/09/24(土) 15:37:46 ID:2Z3IByUI
>>40
ドイツ連邦共和国
外務省
ドイツの実情
哲学
60年代初頭から、ドイツでは「フランクフルト学派」の影響が強くなってゆく。
ドイツでこの学派を代表する哲学者テオドール・W・アドルノとマックス・ホルクハイマーは、ユダヤ系でマルクス主義の流れを汲んでいたためナチス時代にドイツを離れている。
ヴァルター・ベンヤミン、ヘルベルト・マルクーゼ、エルンスト・ブロッホらも同じ運命をたどった。
彼らの思想は60年代末の学生運動に大きな影響を及ぼした。
この「批判理論」は、ドイツ実存主義に端を発する保守的・非政治的流れに対しても、また現実を所与のものとして認める実証主義の傾向に対しても、同様に鉾先を向けた。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1097379425/274

53 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/24(土) 16:35:33 ID:aq0StKd2
>>51
>ちなみに僕は「いわゆる」真宗僧です。勉強も一通りしてきたつもりですが、
>それらに何か釈然としないものを感じて、ここで質問させていただいている次第です。

お坊さんならちょっと考えてみるといいでしょう。仏になるのに必要な条件で、阿弥陀
様があつらえて下さる念仏以外ものは何か。他力のその中身は何か。
 仏になるのに必要な条件で、阿弥陀様があつらえて下さるもの、それが他力の実体です。
実体は空なんだけど、空であって宗祖はその中身を教行信証の中で明確にしています。
なんだと思いますか。頭の体操と思って考えてみるといいでしょう。それこそ、教行信証の
最大の主柱、親鸞思想の中核と言っていいでしょう。僕はそう思っています。
 



54 :41:2005/09/24(土) 22:50:36 ID:1mHZpnWP
うーん、分からない・・・
「死」ですか?

55 :41:2005/09/25(日) 13:43:59 ID:/5CExmtY
ちょっと訂正です。
「死と呼ばれる現象、または概念」
にしておきます。

56 :名無しさん@3周年:2005/09/25(日) 13:50:03 ID:zu3PHXSa
法蔵菩薩(ダルマパーラ)が生きた年代と地域を教えてください。

57 :通りがかり:2005/09/25(日) 18:18:52 ID:hNrscHY2
>>54-55

そんなに単純じゃないと思うけど。

>阿弥陀様が"あつらえて下さる"念仏以外ものは何か。
        ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
悩んだほうが身につくから悩みなさい。

58 :41:2005/09/25(日) 19:37:02 ID:/5CExmtY
では、57さんはどう思われますか?

59 :名無しさん@3周年:2005/09/26(月) 11:11:39 ID:Gf8md8iS
他力本願とは自分で悟る努力をやめることですか?

60 :名無しさん@3周年:2005/09/26(月) 15:47:41 ID:FHGP6ybq
>>41 >>51
得度の手続き言ってみろ。ニヤニヤ

61 :41:2005/09/26(月) 16:03:54 ID:YvXro3BX
小学校の入学手続きなら教えてあげましょう。


62 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 16:31:34 ID:LFDLo1cR
 阿弥陀仏が他力という形であつらえてくださるもの、それは「観察」と「還相回向」です。な
ーんだと思うでしょう。
 分かりにくいという人のために、教行信証の構造で説明しましょう。

 浄土論に曰わく、出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。
生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもってのゆ
えに。これを出第五門と名づく、と。已上
論註に曰わく、還相とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得
て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、も
しは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに回向を首として、大悲心を
成就することを得たまえるがゆえにと言えりと。


63 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 16:32:33 ID:LFDLo1cR
 証の巻からの引用です。親鸞は「観察」と「還相回向」というキーワードを証の巻きの還相段
に書いている。観察と還相回向とを還相回向してくださるという意味です。これが他力の中身で
す。
 定義の異なる中身を「還相回向」という同じ単語で表示しなければならないから親鸞仏教は分
かりにくい。「観察と還相回向」と言った場合の「還相回向」と、「還相回向してくださる」と
言った場合の「還相回向」とは、意味が違う。この違いは分かりますか。阿弥陀仏は、「観察」
と「還相回向」とを「還相回向してくださる」。これが、念仏以外で与えて下さる他力です。
 実は、もう一つある。念仏で与えて下さる他力もあるんですよ。何だと思いますか。それは
「歓喜地」と、「礼拝」・「賛嘆」・「作願」・「往相回向」です。
 「作願」・「往相回向」と並べた場合の「往相回向」は、「観察と還相回向」と並べた場合の
「還相回向」と意味の上では対を形成します。「還相回向してくださる」と言った場合の「還相
回向」とは対を形成しない。ここで言う往相回向は、「謹んで往相の回向を案ずるに」と言った
場合の往相回向とは、別の意味の往相回向です。行の巻きで引用している論註の末尾「往相は、
己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえ
るなり」と出てくる往相回向とは同じです。


64 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 16:33:06 ID:LFDLo1cR
 阿弥陀仏の他力とは何か。南無阿弥陀仏をもって、「歓喜地」と、「礼拝」・「賛嘆」・「作願」・
「往相回向」を往相回向して下さる。南無阿弥陀仏外で「観察」と「還相回向」とを「還相回向
してくださる」。これが他力です。この働きこそが、本願なんですよ。分かりますか?。だから、
他力とは本願力なりということになる。(行の巻)
 「南無阿弥陀仏をもって」、「南無阿弥陀仏外」という言い方は不正確です。正確に言うと、
南無阿弥陀仏の因によって、「歓喜地」と、「礼拝」・「賛嘆」・「作願」・「往相回向」を回向して
くださる。南無阿弥陀仏の果によって、「観察」と「還相回向」とを回向してくださる。これが
他力の本質です。

 どうですか。こう聞けば、念仏だけでいやでも立派に仏になるでしょう(笑)。


65 :名無しさん@3周年:2005/09/26(月) 16:43:53 ID:tSlQg8+H
>>59
そう、あきらめちゃったの・・・・

66 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 16:48:17 ID:LFDLo1cR
 南無阿弥陀仏の因によって、南無阿弥陀仏の果によって、という議論はどこに出てくるか。信
の巻の「欲生心成就文」のすぐ後に続く部分を紹介しましょう。

 浄土論に曰わく、云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえにとのたまえり。回向に二種の相あり。
一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願
して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢
摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共
に仏道に向かえしめたまうなり。

 同じ文章を、全く別の意味の主張で繰り返し多様に引用し、実に大胆な議論を展開しているで
しょう。親鸞という人は、驚くほど頭の回転が速く、発想が豊かな人だということが分かります
よ。

 話がちんぷんかんぷんですか(笑)。親鸞さんの頭の回転について行けない?(笑)。まあい
いでしょう。仏になるとはどういうことか。親鸞は、これでもか、これでもか、とくどいほど、
克明に議論を展開しています。坊さんなら教行信証をじっくり読むといいでしょう。頭の体操に
なります。

67 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 16:49:30 ID:LFDLo1cR
 仏になるとはどういうことか。「この経の大意は、 〜 如来の本願を説きて、経の宗致とす。
すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」

 僕なんかが大無量寿経を読むと、あの本は祇園精舎の教育原理を浄土教派の人々が開示した古
代の教育原理の書ということになるんだけど、親鸞にとってはそうじゃなかったんですね。あれ
は、仏になる原理を開示しているということになる。驚きです。経の宗致(主題)・経の体(ス
トーリー)ということから考えていく必要があると思います。

 頭の体操と思って考えてみるといいでしょう。分からなければ、分かる範囲でお知らせします。
まあ、僕の仮説的な議論と思って下さい。もう一度質問してきてくだされば、この次はもうすこ
し分かりやすく隅っこから順番に説明しましょう。念仏成仏これ真宗。宗祖は面白いことを言っ
たものです。

 一つ大事なこと。念仏で歓喜地・礼拝・賛嘆・作願・観察・往相回向・還相回向が回向されるというこ
の議論は、振り回すと壊れてしまう。親鸞は他力を限界まで議論している。他力には義なきを義とす
としるべきなり。

68 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 17:03:14 ID:LFDLo1cR
>>56
>法蔵菩薩(ダルマパーラ)が生きた年代と地域を教えてください。

 法蔵菩薩は架空の人物ですから、年代と地域という議論は意味がありません。
物語の創作上のストーリーとしてであれば、お経に書いてあります。お読み下さ
い。
 お経が手元になく、読めないということであれば、もう一度レスして下さい。そのと
きお知らせします


>>59
>他力本願とは自分で悟る努力をやめることですか?

 努力は必要です。
 親鸞は、往生極楽道の専門家です。出世間道を専門としています。
往生極楽の道は、ただ念仏するということです。ひたすら念じるということだ
けです。
 出世間道は親鸞さんが八百年も昔に100%解決してくれました。出世間道の問題は、親鸞
さんが道を造ってくれました。ただひたすら念仏すればいい。そういう事で、こんな問題は、
さっさと過去の問題にしましょう。

 人は、残りの問題、宿題に取りかかりましょう。世間道で大いに汗をかくべきで
しょう。世間道は、大いに努力の必要な世界だと思います。

69 :41:2005/09/26(月) 17:11:14 ID:YvXro3BX
「頭の体操」とおっしゃられたので、意外性のある答えを、と思ったのですが、
全く的外れな回答をしてしまいました。お恥ずかしい限りです。
ちょっと所用がありますので、また後日質問させていただきます。

70 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 17:18:00 ID:LFDLo1cR
>>69
> 全く的外れな回答をしてしまいました。お恥ずかしい限りです。

 とんでもない。
 こちらの言い方がおかしかったかも知れません。

71 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 17:22:00 ID:LFDLo1cR
62〜67がちんぷんかんぷんという方へ

 62〜67はさっぱりわからないという方は多いと思います。

>>62-67はかなり専門的な議論だろうと思います。分からないという方は無視して下
さい。62〜67は、>>46-49で言っていることとの繰り返しに過ぎません。全く同じ事
を、分かりにくく難しく言っただけとご理解下されば結構でしょう。

72 :職員:2005/09/26(月) 18:42:19 ID:1jZOAbf6
>>68
>ひたすら念じるということだけです。

 ↑( ̄д ̄) エー 

 仏は自然に救い取ってくれる。

 生きとし生けるものはおまかせする。

 念じるのはどうなのかな?ただ念仏するなら合点がいくけど。

 解釈むつかしいですね。

73 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/26(月) 20:03:55 ID:LFDLo1cR
>>72
>解釈むつかしいですね。

 下手な考え休むに似たり。解釈しようとするから難しい。
 腰を落とし。姿勢を正し、腹式呼吸で息を整え、ゆっくりゆっくり南無阿弥陀仏と称えれば、
何のことない。極めて簡単。

 南無阿弥陀仏が一言出れば、二回目の南無阿弥陀仏が出る。
 二回目の南無阿弥陀仏が出れば、それにもう一度南無阿弥陀仏を重ねると三回目になる。
 

74 :41:2005/09/27(火) 02:44:54 ID:D4A3V7Rz
確かに62〜67は分かりづらいですが、46〜49と平行して
読めば何か掴めると思います。


・・・しかし、思うんですが、>>60のクズは論外として、
>>57のような勘違いレスの如く、無駄な事は避けて欲しいと思いますね。
それよりも、僕はもっと話が聴きたい。

75 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/27(火) 10:57:51 ID:UcFJzAjc
 他力というのは、二つの概念を説明するための説明手法と思えばいいと思います。釈迦の戒律
が正当性を喪失し、釈迦の知恵もほとんど意味を失った時代、人々に称名念仏だけを勧めたい。
戒律無用、知恵無用、称名念仏だけ。戒・定・恵の三学を不動の基盤にする釈迦仏教の中で、釈
迦の三学を否定するこうした主張は画期的なことだと思います。

 大乗仏教の本質は教育学です。その中で、曇鸞は教員養成の高等教育学の権威、善導は初等
教育学の大成者です。両者に共通するのは、戒・定・恵の三学と、学校教育学という分類でしょう。
 これに対し、法然は学校教育学と社会教育学の両方に脚をかける。親鸞は、在野にあって完全
に社会教育に立った。社会教育では難しい話はしない。八百屋さんにとって必要な仏教、お肉屋
さんにとって有益な仏教、お巡りさんや不動産屋さんに便利な仏教、大学生から、養護老人ホー
ムのお年寄りにとっても便利な仏教、そういうものを見繕って提示する。それは、東大寺の管長
さんや、延暦寺の座主さんにとって必要でかつ有益な仏教とは異なる。なぜなら、養護老人ホー
ムのお年寄りなどには、聖者の悟りを開く必要など、全くないからです。
 東大寺の管長さんや、延暦寺の座主さんにとっては絶対に必要だが、バイクに乗ってざるそば
を出前するおそば屋さんにとっては不用な仏教はある。ざるそばを出前するおそば屋さんにとっ
て有益な仏教は、八百屋さんにとっても、不動産屋さんにとっても、お肉屋さんにとっても有益で
す。

76 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/27(火) 10:59:25 ID:UcFJzAjc
延暦寺の座主さんにとっては不可欠でも、ざるそばを出前するおそば屋さんにとって不用な仏教
は、八百屋さんにとっても、不動産屋さんにとっても、お肉屋さんにとっても不用。おそば屋さ
んや、八百屋さんの立場で仏教を用不用で切り分けする概念、それが他力です。
 大衆教育仏教、社会教育仏教という立場で、バイクのおそば屋さんに知って欲しい仏教は多く
ない。それは一つだけ、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせ
をかぶりて、信ずる」。これが全部です。「これが全部」ということを説明する手法が他力なん
です。

 >>62-67に書いたようなことは誰に向けて言っているのか。>>62-67に書いたような主張は、お
そば屋さんや八百屋さんに言っているんじゃない。社会教育の実行にはそのプロの実践者が必要
です。これは教育者です。これは坊さんだ。
 かつて、坊さんの主要な仕事は、政府高官及びその師弟の家庭教師兼ホームドクターだった。
法然・親鸞は、社会教育も坊さんの仕事だと考えた。社会教育僧の伝統は、行基菩薩に発し、空
也上人など数多い。しかし、社会教育僧は単発的に登場するだけで、ほとんど一代で終わる。連
続性がなかった。これを組織的に育てようとしたのが法然であり、そこで育ったのが親鸞だ

77 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/27(火) 11:01:55 ID:UcFJzAjc
 社会教育僧は、学校教育僧、つまり僧院僧とは異なる。僧院にあって、建物内での教育を実践
するのではなく、市街や山村にあって、土地の売買をしている不動産屋さんに直接働きかけ、あ
るいはざるそばを出前するおそば屋さんに直に話しかける。社会教育を実践するには、それなり
の知識が必要だ。バイクに乗ってざるそばを出前するおそば屋さんに話しかけるにしても、おそ
ば屋さんが知らなくてもいいことでも、社会教育僧は知らないと困ることがある。>>62-67に書いた
ようなことは、社会教育を目指す教育者に向かって、「これが全部」というその根拠を明確化したも
のです。
 「延暦寺の座主さんにとっては不可欠でも、ざるそばを出前するおそば屋さんにとって不用な仏
教がある」。こういう切り分けを合理的にするには、延暦寺の座主さんなどの考えとは異なる別の
考えをしないといけない。しかも、社会教育を実践する者には、更に独自の認識が必要になる。
小学校1年生に絵の描き方を教える場合、小学校1年生として理解する絵の描き方と、小学校1
年生に教える立場で知っていなければならない絵の描き方は異なる。小学校1年生の教室内で
飛び交う話題と、小学教員養成課程「小一科」の教室内で、教職課程の学生に向けて飛び交う話
題とは異なる。社会教育を実践する教育者(僧)として、知識として知っていなければならない他
力の概念、それが、>>62-67に書いた議論です。

 今後、しばらくカキコできません。

78 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/27(火) 11:21:52 ID:UcFJzAjc
 (ちょっと追加)

 ざるそばを出前するおそば屋さんにとって不用でも、おそば屋さんに仏教を伝える社会
教育者だけには必要な仏教はある。プロの社会教育者だけには必要な仏教とは何か。こ
れは、戒・定・恵の三学を否定する主張と戒・定・恵の三学を不動の絶対的前提とする主
張との調和点を示す主張です。
 戒・定・恵の三学を不動の絶対的前提とする主張というのは、実に重要な真理を明らか
にしている。戒・定・恵の三学を否定する主張も重要な真理を明らかにしている。真理は
一つであれば、本質的には両者は矛盾しない。戒・定・恵の三学を否定する主張は、戒・
定・恵の三学を肯定する真理に照らしても矛盾はないということ、その立証は、否定派に
要求されます。
 戒・定・恵の三学を否定する主張が、戒・定・恵の三学を不動の絶対的前提とする主張
に照らしても合理性があるということを明確化する論理、これが社会教育者だけに求めら
れる。親鸞は教行信証で、それを明らかにしています。

79 :ぬるぽ:2005/09/28(水) 01:20:12 ID:VJBS8Slt
>>73
念じるの意味合いのことですよ。
ひたすらとはの解釈が難しいと言っているわけですよ。
言葉の受け取り方が私には ひたすら念じる がこちら(機)から
お願いしているように思えてなりません。

この解釈が難しいと言った次第です。






80 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/29(木) 14:00:03 ID:7wpBidvk
 予定外の時間が少しできたので、暇を使って書きます。少し難しい議論になると思います。で
きるだけ分かりやすい議論するように努めます。
 
 この経の大意は、 〜 如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、
経の体とするなり。

 大無量寿経は、卒業後、全国に散って、各地に祇園精舎の分校を開き、人々に真理を拡散させ
ていくことが期待されている若者に、学校経営の基本理念を伝える教科書だろうと、僕は思う。し
かし、親鸞にとって、大無量寿経はそんな本ではないようです。大無量寿経は、人々に仏になる
原理を明らかにしている書物である。そう考えているようです。

 人間の心で人間の行為をする者を人間という。けだものの心でけだものの行為をする者をけだ
もの言う。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。仏だけが、仏の心で仏の行為をする。
 生きとし生けるものには、意思と行動がある。意思を「願」と言い、行動を「力」という。仏にも意
思と行動がある。仏は、意思と行動において際限がない。際限がない仏の意思を、我々の先輩
達は「本願」と名付けてきた。大無量寿経は、釈尊先生をモデルにし、仏の意思というものを明
らかにしている。仏の意思を明らかにするのが、大無量寿経の主題、つまり宗致である。
 書物にはストーリーがある。流れがある。ストーリーのない書物は存在しない。ストーリーを体
という。大無量寿経は、阿弥陀仏という一人の架空の仏を登場させている。大無量寿経は、釈迦
をモデルにした一人の架空の修行者法蔵菩薩を登場させ、それが仏になるまでの過程をストー
リーにしている。これにより、人が仏になる道を明らかにしている。
 法蔵菩薩はどの様にして阿弥陀仏になったか。法蔵菩薩は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南
無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という道を経て阿弥陀仏になっている。南無阿弥陀仏
とは仏の名号である。大無量寿経は、仏の名号をもって本のストーリーにしている。親鸞はそのよ
うに主張する。これが、教行信証を貫く根本原理である。

 他力も、念仏も、親鸞の思想は、教行信証の冒頭のこの根本原理で一貫している。親鸞の視点が
見えないと、親鸞の話は何も見えなくなる。 

81 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/29(木) 14:45:12 ID:7wpBidvk
>>79
>この解釈が難しいと言った次第です。

この解釈が難しいと言ったんでしょう。だから簡単にすればいいと、ご提案申し上げて
いるんですよ。解釈が難しければ、解釈しなければいいんじゃないですか?。
 難しく解釈するのが好きなんだという方に申し上げるつもりはありません。

 こちら(機)からお願いしているように思えてはいけませんか?。こちら(機)からお願
いしているように思えても、あちらからお願いしているように思えても、お願いしている
ように思えなくても、そんなこたぁ、気のせいだ。どうでもいいことでしょう。
 こちら(機)からお願いしてるように思えも、あちらからお願いしてるように思えても、
黒い南無阿弥陀仏と白い南無阿弥陀仏があるわけじゃない。下手な考え休むに似た
り。そんなことより、一声でも、二声でも南無阿弥陀仏と称えるといい。やがてそれは
十声、百声に成っていく。同一念仏無別道故。

 定散自力の称名でも、 〜 果遂のちかいに帰してこそ、おしえざれども自然に 真
如の門に転入す。 本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき。

 難しい解釈にとどまっていれば、宮殿の内に五百歳、空しく過ぎることもあるでしょう。


82 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/09/29(木) 19:59:43 ID:7wpBidvk
 補充しましょう。議論は分かりやすくしないといけない。>>80 は難しいでしょうね。どこが難しいか。

 「法蔵菩薩は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
いう道を経て阿弥陀仏になった」。ここが難しい。その外、>>80で難しいところはないでしょうね。
「体は名号」というところが重要で、今後議論します。
 
「この経の大意は、 〜 如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、
経の体とするなり。」
 これは、教行信証の教の巻の冒頭の一節です。興味のある方は探してみて下さい。

 「大無量寿経は、卒業後…」といのは、どういう意味か。小乗課程(基礎コース)終了後、大乗課程
(教職専門コース)に進んだ学生が、その大乗課程を卒業後という意味です。
 大無量寿経は、教職専門コースの学校論に関するテキストだろうというのが、渡海難の仮説です。


83 :元々ぼら夫:2005/09/30(金) 23:05:29 ID:3csCqL3v
記念カキコ以来です。仏教教育説(?)って言ったらいいんでしょうか。非常に興味深く
読ませてもらってます。坊さん教育も「かくありなん」って感じですね。
江戸期の学僧を目指すお坊さんって、真宗学ぶ前に、倶舎・唯識を学んで、
無明・煩悩と菩提の関係性について、一通りの理解をしていたそうです。
現在は、そういった勉強法は取らないようですが、プロとしてはそれもすべきこと
なんじゃなかろかと思っています。勿論、パン屋サンがする必要はないんです。
したけりゃすればいいんだけどw。とりとめなくてスンマセン。またお邪魔します。
ではでは。

84 :元々ぼら夫:2005/10/01(土) 09:21:09 ID:h/LHzFsI
伸びないので、ageてみますた♪
熊谷直実入道が詠んだと言われる歌をご紹介しまつ。

約束の念仏は
申して候よ、
やろうやらじは
弥陀のはからい

今日もまた精一杯働こう♪
(^-^)/マタネ〜♪


85 :名無しさん@3周年:2005/10/02(日) 01:07:19 ID:warUJHA4
「念じる」のものです。

「ひたすら念じる」の解釈のことですが、
 蓮師の「タノム」とはどう理解をすればよいのでしょうか?
 私の解釈では「タノム=まかせる」でしたが、
 仏「救うぞ」=機「まかせる」を「ひたすら念じる」との表現は
 どちらでも良いことなのでしょうか?
 質問の仕方が下手くそですが、またカキコ待ってますねw

最後に 「宮殿の内に五百年〜」 はイヤミですかね?
まぁ取り方次第なんですがね。




86 :NB ◆YIoCB90ZbI :2005/10/03(月) 00:49:57 ID:IzsqWhta
おおおおおおおおおお、しばらく見ぬ間にこんなスレがああ!!!

渡海さん。ちょっとスタンス変わったんですね。

ところで、蓮師とかは「ねてもさめても念仏すべきものなり。」
なんておっしゃるんですけど、「ただひたすら念仏する」って、
我々が寝ている時も念仏しなきゃダメ!
なんてことじゃあないですよね。我々が寝ているときでも
酔ってぐでんぐでんのときでも捨てたまわぬおはたらきのことよなあ。
の逆説的表現ですよね。

87 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/03(月) 12:44:43 ID:OEzvltWO
>>82
 大無量寿経の体は名号である。この議論には、これに先行する議論から認識していなければな
らない。大乗仏教で仏になるというのはどういうことか。ここが原点である。
 大乗仏教で、仏になる道を我々に分かる形で示したのは世親菩薩である。親鸞はそのように理
解している。小乗の学習(初等コース)を修了すると、大乗仏教の先人達は教育学の学習を勧め
る(高等コース)。高等コースでは、五つの学習が柱になる。礼拝・賛嘆・作願・観察・回向で
ある。世親菩薩は、大乗仏教の先駆者として、大乗の仏になる道をそのように示した。

 大乗仏教は教育学である。大乗仏教は師の下で学習をすることを勧める。釈迦は独覚で仏にな
った。釈迦は、そのままでは学習の教材にならない。そのため、浄土教の先人は、阿弥陀仏とい
う、別の仏を理想的な仏として創作し、大乗仏教学習者に提示したのだ。

 学習は師の下で積め。師の下で学習する場合、学習は挨拶(礼拝)から始まる。真理に感動(
賛嘆)し、目標を定め(作願)、深く研究し(観察)、その成果を実践する。これは、初等学習
でも柱になることだろう。世親菩薩は、プロの教育者になろうとする者に、生徒に先んじて礼拝
し、生徒に先んじて賛嘆し、生徒に先んじて作願し、生徒に先んじて観察し、生徒に先んじて回
向することを教育者に求めた。これを五念門という。


88 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/03(月) 12:45:41 ID:OEzvltWO
 大無量寿経の体は名号であるとはどういうことか。大無量寿経は、法蔵菩薩という一人の出家
僧が世自在王仏の下を尋ね、教えを請い、やがて阿弥陀仏になっていく話を展開している。その
中では法蔵菩薩も、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向という五念門を修行している。これが親鸞の
主張である。しかも、礼拝は南無阿弥陀仏に納まる。賛嘆も南無阿弥陀仏に納まる。作願も南無
阿弥陀仏に納まる。観察も南無阿弥陀仏に納まる。回向も南無阿弥陀仏に納まる。これが親鸞思
想の核心部分なのだ。南無阿弥陀仏は礼拝である。南無阿弥陀仏は賛嘆である。南無阿弥陀仏は
作願である。南無阿弥陀仏は観察である。南無阿弥陀仏は回向である。親鸞はそのように考えて
いる。だからこそ、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向という形で展開する大無量寿経のストーリー
は南無阿弥陀仏、すなわち名号であるという議論になる。

 念仏は礼拝ではない。念仏は賛嘆ではない。念仏は作願ではない。念仏は観察ではない。念仏
は回向ではない。しかし、念仏は礼拝である。念仏は賛嘆である。念仏は作願である。念仏は観
察である。念仏は回向である。このパラドックスはどうして成立するのか。阿弥陀様が、自然に
念仏を礼拝とし、念仏を賛嘆とし、念仏を作願とし、念仏を観察とし、念仏を回向としてくださ
る。これが阿弥陀様のお働き。お救いである。他力の本質である。阿弥陀仏とは、自然という概
念を人々に知らせるための資料、道具である。念仏は、自然に礼拝となり、自然に賛嘆となり、
自然に作願となり、自然に観察となり、自然に回向となる。自然にそうなることを知らせるため
の手段である。阿弥陀仏は創作物である。親鸞はそう主張する。体は名号というのは、そういう
意味である。
 南無阿弥陀仏がなぜ自然に礼拝となるのか。賛嘆になるのか。作願になるのか。観察になるの
か。回向になるのか。親鸞は更に詳細に議論を続けている。

89 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/03(月) 14:37:15 ID:OEzvltWO
>記念カキコ以来です。仏教教育説(?)って言ったらいいんでしょうか。

 まあ、そう、仏教教育説でしょうね。ただ、10年後にはこれが常識になっていることを期待
しますよ。微力だが、僕としてはもうこの説を20年以上まえから主張してきた。

>真宗学ぶ前に、倶舎・唯識を学んで、無明・煩悩と菩提の関係性について、一通りの理解をし
ていたそうです。

 真宗を学ぶ前だけでなく、学んだあとも勉強すべきでしょう。仏教のプロを目指すなら、仏教
学の勉強は一生続けるべきだ。
 正法の時代は教・行・証があった。像法の時代は教・行がある。末法になっても、教は消えて
いないんですからね(笑)。末法というのは、教えが無効になっている時代じゃない。

 パン屋さんやおそば屋さんには特に必要ないが、坊さんには必要だ。坊さんが仏教学を学ぶと
いうことは、おそば屋さんがおそばを作って配達するようなものだ。勉強しない坊主は、パンを
作らないパン屋、そばを作らないそば屋のようなもの。
 まあ、坊さんの仕事は多様でもいい。曹洞宗の坊さんは、東南アジアで盛んに井戸を掘ってい
るそうだ。そういうことができるのも宗教団体のいいところだと思う。パン屋さんにはパン屋さ
んの世間道がある。そば屋さんにはそば屋さんとしての世間道がある。坊さんも、きちんと自分
の世間道を確立し、そこに向けて努力すべきだろう。往生極楽の道は解決したというのに、世間
道は葬式業だけというのは、いかがなものか。

90 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/03(月) 14:38:31 ID:OEzvltWO
 真宗の坊さんが勉強をしない。理由がある。親鸞の教えと唯識や倶舎と整合してこないからだ
ろう。天台や華厳の思想と整合してこないからだろう。整合してこないのは、親鸞の考えという
看板で教わっている思想が、実はトンチンカンだからだ。特に、善導の思想との関係がぐちゃぐ
ちゃになっている。善導の思想との関係がぐちゃぐちゃになれば、分かる話も分からなくなる。

 親鸞会の会員の話を聞くと、高森さんの思想は、善導思想と親鸞思想とのおじや(雑炊である
でしょう。ご飯と肉と野菜を一緒に煮込んだ料理)になっているということが分かる。善導思想
との間の見境のないあの混乱は、一部の真宗の坊さんの典型ではないか。
 善導の思想は素晴らしい考えなんだが、親鸞仏教は、反善導、反曇鸞の思想なんですよ。親鸞
は、善導・曇鸞の正当な後継思想と思ったらとんでもない間違いだ。親鸞は、曇鸞を否定し、善
導を否定したところに切り開いている。法然・親鸞が流刑にされたのもそれが原因だ。特に親鸞
は、善導の思想を時代遅れという発想で切って捨てている。ところが、高森さんには、切って捨
てた親鸞のその切り口が見えていない。だから、高森さんなどは、親鸞が捨てたゴミを再び拾っ
てきて、これこそが親鸞聖人の教えだと言って憚らない。
 高森さんは、親鸞が切って切り離した処を、キリスト教や日蓮を接着剤に持ってきてちぐはぐ
につなぎ合わせている。ただそのつなぎ方は、自分たちの儲けになるように、そろばんを弾いて
繋いでいる。
 親鸞の浄土真宗は、現代ではほとんど見えなくなっている。坊さんは、親鸞の考えの基本構造
をきちんと学ぶことが大事だと僕は思う。

91 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/03(月) 15:05:25 ID:OEzvltWO
>>85
 ゆっくり自分でお考え下さい。
 付き合い切れません。

92 :元々ぼら夫:2005/10/04(火) 13:23:57 ID:EZm3cNJ3
お〜、渡海サンからレスが来とる〜♪乙です。
>>89
ホンと、坊サンは勉強せんとあかん。これほどおもろいものないのにね。大変だけどw。
坊サンの端くれとしての印象なんだけど、大半の人が「教行信証」を読み解くことより、
「信心正因 称名報恩」という熟語を旗印として拝んでる気がしまつ。
「信心正因 称名報恩」は、覚如さんが親鸞聖人の一代仏教を教義としたものだと
理解してるんだけど、何故そうなるのか?という問いもないまま、
ただ受け入れているだけなんじゃないか、と。って、渡海サンに愚痴言ってもしゃ〜ない罠。
(^-^)/マタ〜♪


93 :元々ぼら夫:2005/10/04(火) 13:30:07 ID:EZm3cNJ3
もう一丁♪
>>90
渡海サンの曇鸞・善導両師教学の理解って、どんなんでしょうか。
よろしければ、お教えいただきたいのですが。
(^-^)/ではでは〜♪

94 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/04(火) 20:20:27 ID:g6BpXxRv
>>93
> 渡海サンの曇鸞・善導両師教学の理解って、どんなんでしょうか。

 教学理解を教えろと正面切って来られると、見せられるほどのもの
はないが、親鸞による曇鸞・善導理解が、曇鸞・善導から見れば、神
経を逆なでされるような内容になっているかどうか、教行信証をちゃ
んとみれば一目瞭然だろう。

 親鸞の換骨奪胎手法による他力論を少し話したいと思います。

95 :85:2005/10/05(水) 13:21:07 ID:fw2HfNBm
まじめにカキコしてるのにな。

また疑問点が出たら カキコしますね。


96 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/05(水) 23:51:21 ID:JfTbtEmj
>>95
> まじめにカキコしてるのにな。

 そうでしたか。まじめにカキコしてくれていたんですか。なるほど。受け止めたこちらに
錯誤があったかもしれません。まじめにカキコしてくれていたという、その気持ちは戴き
ました。
 ものごとには、今、この瞬間の言葉では伝えられないこともあると思います。

>また疑問点が出たら カキコしますね。
        はい。


97 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/08(土) 23:52:58 ID:wmgedsrK
 仏教の根本原理は因果律である。親鸞はそう考えるようだ。仏教の理法は、因と果で説
明する。これが仏教である。親鸞は謹んで浄土真宗を案じ、因を往相の回向、果を還相の
回向と呼んだ。
 往相の回向、還相の回向とは、もともと曇鸞の言葉である。曇鸞教育論は世親教育論を
継承する。世親教育論は、教育者になっていく道として、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向
という五本柱を立てた。回向とは教育実践である。礼拝・賛嘆・作願・観察までの成果を
生徒の前で実践することである。教育者は、生徒を教え導くことで自らも学び、教育者と
して完成していくのである。

 教育実践には段階がある。新米教師とベテラン教師では目指す方向が違う。新米教師は、
教え方に間違いがないように、絶えず原理原則を自分の真正面に置き、原理原則にできる
だけ外れないように用心しながら実践する。いわば、真理を真正面に据えて行う教育手法
だ。ベテランは自分の経験が物を言う。経験を背景に、多少原理原則を外れても、もっと
も正しいと思うことを行っていく。ベテランは真理を背にして教育を実践するのだ。

 曇鸞は、真理を真正面に据えて行う教育実践を往相の回向と言う。真理に向かって行く
方向で、人々に自分の学んだ成果を生徒に振り向けていく。真理を背にして行うベテラン
の教育実践を還相の回向という。還相の回向では、真理の世界から戻ってくる方向で、往
相の回向の中で学んだ自分の成果を生徒に振り向けていく。

 往相の回向の学習があって還相の回向が可能になる。往相の回向は因、還相の回向は果
である。教育者は、往相の回向を因、還相の回向を果として教育指導を行っていく。
 謹んで浄土真宗を案じれば、南無阿弥陀仏も当然二つの相を有する。称える南無阿弥陀
仏と、称えた南無阿弥陀仏である。称える南無阿弥陀仏が因であり、称えた南無阿弥陀仏
が果である。
 南無阿弥陀仏を称えるという次元で考えよう。これは因としての南無阿弥陀仏であり、
往相の回向に属する。

98 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/08(土) 23:53:33 ID:wmgedsrK
 曇鸞先生は浄土論註で帰命尽十方無碍光如来の帰命は礼拝門であると教えてくれている。
浄土論註とは、世親先生の書かれた古典的教育書、浄土論の解説書である。浄土教の原点
である。
 浄土論は、「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」という言葉で始まる。
親鸞が浄土論註引用するのは、浄土論のこの部分の解釈である。世親先生の浄土論冒頭の
帰命尽十方無礙光如来の帰命は礼拝である。
 曇鸞先生は、世親先生の浄土論冒頭の帰命尽十方無礙光如来の帰命は礼拝であると解釈
されている。帰命とは、梵語の南無の中国語訳で使用されている訳語である。そうであれ
ば、南無は礼拝である。親鸞は曇鸞の言葉を根拠にそう主張する。
 では、賛嘆はどうか。浄土論の冒頭の帰命尽十方無碍光如来の尽十方無碍光如来は、す
なわちこれ讃嘆門なり。曇鸞先生は浄土論註でそう仰っている。尽十方無礙光如来とは、
阿弥陀仏の中国語訳である。つまり、南無阿弥陀仏の阿弥陀仏は讃嘆門である。
 何が言いたいのか。南無阿弥陀仏と称えると。それだけで五正行の内の礼拝門と賛嘆門
が満たされていく。親鸞はそういう理屈を立てているのだ。
 作願門はどうか。曇鸞先生は言う。帰命尽十方無礙光如来に続く願生安楽国、これは世
親先生の讃嘆門であると。願生安楽国が作願門であれば、南無阿弥陀仏を称えることは、
五正行の讃嘆門を満たす。つまり南無阿弥陀仏と称えると、それにより、五正行の内の礼
拝門・賛嘆門・作願門が満たされる。曇鸞先生がそう仰っている。親鸞はそういう理屈を
立ててくる。

99 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/08(土) 23:55:00 ID:wmgedsrK
 馬鹿馬鹿しくてこんな屁理屈聞いちゃいられねぇじゃねぇか。そんな声が聞こえてくる
感じである。浄土論冒頭の「帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」に世親菩薩の思いと
して礼拝・賛嘆・作願の心が籠もっているからと言って、それだけで南無阿弥陀仏に礼拝
・賛嘆・作願の意味があるなどということにならんだろう。親鸞の主張は詭弁ではないか。
そんな思いが湧いてくる。
 親鸞の主張は詭弁である。これが詭弁でなければ、何を詭弁というのか。ハッキリそう
言おうじゃないか。親鸞の主張は詭弁だ、と。
 では詭弁というそういう結論でいいのか。親鸞の理屈ほど、実に簡単に崩せる理屈は世
の中に無い。しかし、崩しても崩しても崩せないものがあるようだ。それは親鸞個人の確
信だ。南無阿弥陀仏に礼拝・賛嘆・作願があるというのは、理屈から導いた結論ではない。
存在するのは直感である。結論である。そこに導く盤石の論理などは問題ではない。
 南無阿弥陀仏には、礼拝・賛嘆・作願がある。曇鸞先生はそう言っている。そのことだ
けでもう十分。浄土論の帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国に礼拝・賛嘆・作願があれ
ば、南無阿弥陀仏に礼拝・賛嘆・作願がある。あとは、その考えを受け入れるかどうか、
一人一人の選択である。

 南無阿弥陀仏には礼拝・賛嘆・作願がないと言えば、念仏だけで仏になるという説明は
できない。礼拝・賛嘆・作願があるといえば、南無阿弥陀仏だけで仏になるという説明が
できる。
 末法の世、念仏を称える人は、目蓮君と同じだ。弥勒君と同じだ。お釈迦様はきっとそ
う仰ってくれる。弥勒菩薩は、五六億七千万年後、あと一生、一回の輪廻で仏になる。念
仏を称える者がその弥勒菩薩と並ぶなら、南無阿弥陀仏の中に礼拝・賛嘆・作願がないと
不自然である。信じる信じないは自由である。ただ、親鸞は南無阿弥陀仏をそのように受
け止めているということなのだ。



100 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/08(土) 23:57:43 ID:wmgedsrK
 五念門は、礼拝・賛嘆・作願だけではない。その外に、まだ観察と回向がある。観察と
回向がなければ、五念門は完成しない。観察と回向は、南無阿弥陀仏で説明がつくのか。
 親鸞は、念仏者の回向を、往相の回向と還相の回向に分割する。往相の回向を見てみよ
う。
 曇鸞先生の文章を引用して親鸞はいう。「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てず
して、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえ
に」とのたまえり。回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり。往相は、己
が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめた
まえるなり、と」。

 仏道修行者は、どのように回向を実践するのか。真実を知らずに苦しんでいる人々を放
置することなく、正しく導こう。そのようにいつも心に念じている。そのため、回向つま
り教育指導という行為を中心とし、自らのその思いを完遂させていくのである。教育指導
には二種類ある。それは、往相の回向と還相の回向である。
 還相の回向はしばらく保留するとして、念仏者の次元での往相の回向を説明しよう。往
相の回向とは何か。それは、阿弥陀仏が、自らが積んできたそれまでの成果をもって人々
に付与し、自らの意思によって阿弥陀如来の安楽浄土に往生させてくださるということで
ある。これはどういう事か。阿弥陀仏とは、自然という概念を人々に知らせるための資料
である。一人が念仏を称えれば、念仏を称える人が一人増えたと言うことである。多くの
人々が念仏を称え出す。自然の働きすなわち阿弥陀仏の働きで極楽浄土に往生していく。
これが往相の回向であるという。

101 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/08(土) 23:58:22 ID:wmgedsrK
 おいおい。聞いちゃいられねぇな。曇鸞はそんなこと言ってねぇだろう。回りからそん
な声が聞こえてくる感じである。

 曇鸞は、何て言っているのか。「往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施し、共に阿
弥陀如来の安楽浄土に往生せんと願を作す」。つまり、大乗の菩薩は、これまで積んでき
た自分の学習結果を生徒の前に投げだし、大無量寿経に描かれているあのような極楽浄土、
学習の世界に人々を導いていこうと決意して実行する。これが往相の回向ではないか。往
生せしめたまえる(往生させて下さる)とはどこから出てきた概念だ?。阿弥陀如来が往
生させて下さるという発想は、どこから出てくるんだい?。

 一人が念仏を称えるだすと自然に周りの人も共に念仏を称え出す。自然の働きの中に親
鸞は往相の回向があると考えているようだ。自然の働きの中に往相の回向があるというこ
とを説明するために、論註を書き換えて提示している。
 親鸞の主張は間違い。デタラメ。そう結論づけるのは難しくない。しかし、親鸞は、南
無阿弥陀仏を称える中に、礼拝・賛嘆・作願・往相回向が自然に込められている。そのよ
うに観念している。そのような主張をしている。そこに注意しておくべきだろう。

102 :名無しさん@3周年:2005/10/08(土) 23:59:15 ID:nN6TaicK
 

103 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/09(日) 00:01:31 ID:28a7R+aB
 それでは、観察と念仏修行者の次元での還相回向はどうなるのか。親鸞は、観察と還相
回向は念仏を称えるという行為(因)の中には含まれないという。これらは、称えた結果
の中に含まれるという。
 親鸞は、全く異なる別の概念を同じ言葉で表現するから分かりにくい。その典型は、往
相回向と還相回向である。
 仏教は因果である。そこで浄土真宗を因と果に分ける。因と果にわけたその因を往相回
向A、果を還相回向Bという。それとは別に、念仏者は大乗の菩薩として、礼拝・賛嘆・
作願・観察・回向abを行う。その回向abも往相回向aと還相回向bに分かれる。その
内、礼拝・賛嘆・作願・往相回向aは、因となる往相回向Aに含まれる。因は必ず果を生
むはずである。真実の因は真実の果を生む。そうであれば、因おいて真実の礼拝・賛嘆・
作願・往相回向aが満たされれば、その結果として自ずから、観察と還相回向bを果(還
相回向B)において満たす。これにより、念仏者は自ずから礼拝・賛嘆・観察・回向ab
を自然に満足するのである。

 観察と還相回向bを果(還相回向B)において満たすという議論は、証の巻きの還相回
向B段で議論している。

104 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/09(日) 00:04:36 ID:wmgedsrK
 南無阿弥陀仏で、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向の五正行が満たされるとしても、それ
だけでは念仏者は仏にならない。礼拝・賛嘆・作願・観察・回向の五正行は、小乗段階を
修了した大乗段階の菩薩の修行方法なのだ。人はいきなり大乗段階に至ることはできない。
小乗段階に入学し、小乗段階を修了するという二つの段階が必要なのだ。南無阿弥陀仏だ
けで小乗段階に入学し、小乗段階を修了するのか。
 小乗の修行者が小乗段階を修了すると阿羅漢になる。阿羅漢は、大乗段階にはいると、
そこから普通は十の階段を経ていく。最初の段階を歓喜地という。念仏だけで大乗の五正
行が南無阿弥陀仏で完成されると知ると、念仏者は歓喜を覚える。この歓喜は真実の歓喜
である。したがって、念仏者は南無阿弥陀仏で歓喜地に至る。
 理由付けはいささか乱暴な議論だが、問題は理由付けではない。南無阿弥陀仏で歓喜地
に至る。小乗の段階を越えるというこの主張に耳を傾けたい。
 南無阿弥陀仏で小乗の段階の入学になるのか。仏門の入学は戒律をもって行うのが原則
である。この条件は満たされるのか。

 親鸞は善導の言葉を引用する。また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して
捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく、と。 また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底
なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到ると。
 釈迦仏は入学に戒律を課している。受戒のない念仏者は受戒の仲間にはいることはでき
ない。しかし阿弥陀仏は、真剣に念仏を称える者は仲間に加えると言っている。その意味
で、念仏者は南無阿弥陀仏だけで阿弥陀ルートで小乗段階に加われるのだ。
 他力は、不可称、不可説、不可思議という理屈は、自然と言うことの説明困難な親鸞一流
の論理があるということを分かって欲しい。


105 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/09(日) 00:05:51 ID:28a7R+aB
 まとめよう。南無阿弥陀仏を称える者は、大無量寿経の第十八願に従って阿弥陀ルート
で仏道修行者の仲間に加わる(不体失往生)。
 南無阿弥陀仏を称える者は、それだけで大乗段階を一気に進むと教わり、歓喜を得る。
歓喜地に至る。ここは小乗を越えた大乗の世界である。
 南無阿弥陀仏は、自然の理に従って礼拝・賛嘆・作願・往相回向を満たされる。
 礼拝・賛嘆・作願・往相回向を満たされれば、これが因となり、自然に観察と還相回向
が満たされる。
 南無阿弥陀仏を称える者はそれだけで弥勒に等しい。弥勒は五十六億七千万年後、あと
一生(一回の輪廻)で仏になる。念仏者はそれに同じ。体失すれば仏になる。

 このように、人は南無阿弥陀仏だけで自然に仏になる。これが現代の仏になる道である。
念仏者は、弥勒に同じである。釈尊先生は念仏者をそのように評価してくださる。親鸞は、
釈迦の評価の内実を明らかにした。
 人は南無阿弥陀仏で仏になる。念仏成仏これ真宗。これが他力の本質である。

 念仏すれば仏になるか、ならないか。本当はそんなことは本質ではない。戒定恵が崩壊
した現代でありながら、パン屋さん、おそば屋さん、お巡りさんなどが、自分の生き方の
一部において、時折時折南無阿弥陀仏を称えてみる。そんな人生を歩んでいく。まさにそ
のことが尊いのである。

106 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/09(日) 00:33:47 ID:28a7R+aB
>>104
誤  他力は、不可称、不可説、不可思議という理屈
正  他力は、義なきを義とするという理屈

107 :名無しさん@3周年:2005/10/09(日) 01:11:25 ID:TyF+AVY3
>渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
分かった。
お前がクズ野郎だってことは十二分に分かった。
だから、もうレスしないでくれ。
この場から消えてくれ・・・。

いや・・・でも、もし・・・もしも・・・。
デブでキモオタで、真性童貞のお前が、ほんのちょっとでも、自分を変えたい変わりたい、
と思うんだったら、ググってみてはくれないか?
時間なんてかからない。
お前が普段やっているエロゲーの起動時間よりも短い時間で済むんだ。

最初に勢いに任せて酷いことを言ってしまったこと、申し訳ない。
俺は、無職でニートで、20年間引きこもり続けているお前のことが本当は心配だったんだよ。
大丈夫、IQが70以下のお前でも、簡単に出来ることなんだよ。ググるって。
分からなかったら、俺でもいい。
この場にいるみんなでもいい。
何でも聞いてくれ。

108 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/09(日) 11:43:03 ID:28a7R+aB
>>41
41 さんへ
 他力の意味はわかりましたか?。もう一度整理します。

一 他力とは、おそば屋さん、パン屋さん、お巡りさんなどが、仏教を学ぶ上
で必要な範囲と不必要な範囲とを仕切る仕切りです。
 おそば屋さん、パン屋さん、お巡りさんなどが勉強しなくていい範囲を自力、
勉強するといいお勧め範囲を他力と称して明確化しました。

 お勧め範囲は、念仏せよという教、念仏するという行、念仏したという証、こ
の教行証を大切にする(信)ということです。

二 他力とは、南無阿弥陀仏を称えるだけで、仏道世界への参加が許され
(善導)、大乗段階へ転入し(龍樹)、大乗の五念門が完成していく(世親・曇
鸞)という働きです。

 おそば屋さん、パン屋さん、お巡りさんなどの仏道修行は念仏だけで十分。
念仏だけで大乗の仏になる。他力とは、おそば屋さん、パン屋さん、お巡り
さんなどに、念仏だけで大乗の仏にしてくださる働きです。実体は全て空です。
なぜ他力はそのような働きをしてくるのか。それは自然の働きです。あれこれ
議論して詮索するようなものではありません。自然法爾です。

 そうわかれば、他力とは何かなどと考えるのは無益な事です。念仏を称え
ると、本当に仏になるのか。本当に極楽浄土に往生するのか。そんなことは、
本質ではありません。
 座禅してひたすら念仏を称えてごらん。必ず素晴らしい人生が開けてくる。
三五歳で冤罪を受け、流罪になった一人の無位無冠無名在俗の元流刑囚、
天台の元僧侶が、一生をかけて人々に語ったこと。それが、座禅してひた
すら念仏を称えてごらんということです。
 騙されたと思ってもいい。人生の節々で困ったとき、騙されたという思いで
いいから称えてみるといい。きっと何かに出会うでしょう。

109 :元々ぼら夫:2005/10/09(日) 13:53:22 ID:ZVbh3VTz
渡海サン乙です〜♪
なかなか味わい深くて面白いです。仏道を学校にたとえるトコはわかりやすくて
いいですね〜♪。曇鸞・善導両師の説を親鸞聖人がどう受け取ったのかも、
よくわかりました。H願寺は伝統的に会通という方法をとるのですが、差異を明か
にする事も今後重要になるでしょね。で、ひとつ質問があるんですが、
H願寺の教義のどこらへんに問題があると考えています?今後の参考にしたいです。
よろしくお願いしま〜す。(^-^)/でわでわ


110 :名無しさん@3周年:2005/10/10(月) 19:23:03 ID:yjy9upAM
ttp://omcc.jp/shinran/shukyo/shu2.jpg
「私たちは宗教のサークルではございません」



うそつけバーーーーーーーカwwwww

111 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/11(火) 19:38:58 ID:j98I5cog
>>109
>なかなか味わい深くて面白いです。    光栄です。

>仏道を学校にたとえるトコはわかりやすくて

 仏道とは、教え合い学び合うことを本質とするというのが僕の仏教観です。僕の認識では、
たとえ話と思っていません。

 仏道というのは、次の言葉で尽きていると思うんですよ。御本書の最末の言葉です。
 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざ
らしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。

 学校とは、祇園精舎であり、極楽浄土を意味しています。本来、寺院とは祇園精舎の分校だと
考えています。極楽浄土は祇園精舎をモデルとし、阿弥陀四十八願の原形は祇園精舎の精神であ
るというのが僕の主張です。

>H願寺は伝統的に会通という方法をとる

 弥陀の本願まこと=釈尊の説教=善導の御釈=法然のおおせ=親鸞がもうすむね
 歎異抄の言葉に振り回されれば、本物は見えてこないと思いますよ。

>差異を明かにする事も今後重要になるでしょね。

 龍樹、世親、曇鸞、善導、法然、親鸞はいずれも全く異なった思想を持っています。依って立
つ信念の基盤が違います。
 大事なことは、親鸞の思想は、親鸞フィルターを外し、オリジナルの主張を把握し、親鸞フィ
ルタがかかるとそれがどのように変わったのか、その違いを認識することから始まると思いま
す。親鸞独特の自力他力論は、釈迦に始まった三学を根こそぎ否定しているわけですから、その
分水嶺を明確にすることは親鸞から仏教を学ぼうとする者の務めだろうと思います。


112 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/11(火) 19:40:29 ID:j98I5cog
>H願寺の教義のどこらへんに問題があると考えています?

 教行信証をしっかり読むことが必要です。

 「浄土真宗では座禅を禁止しているのでしょうか?。」という質問には、「信心があやふやな
時期に座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません」というお応えをすることに
なります。

 こんなノータリンの見解はさっさとどぶに捨てないとだめ。これは大谷派のホームページだけ
ど、真宗ノータリンの程度は本派も同じだと思う。大谷派の坊主にとって、自分たちが最も尊敬
している清沢満之こそ、彼は禅の行者だったんじゃないのか。

 「座禅して念仏申せ」。これは教行信証の行の巻の言葉です。教行信証の中では、唯一、この
言葉だけが際だって具体的な議論になっている。そりゃ、念仏は歩きながらしてもいい。寝転が
ってしてもいいけど、座禅が浄土教の正式な着座スタイルです。極楽浄土では、人々は蓮の上で
結跏趺坐する。念仏は、正式な着座スタイルで称えるのが原則。鎌倉の大仏さんは阿弥陀仏。あ
れが法然流の称名念仏の正式なスタイルです。本願寺の坊さんは、念仏の正式な称え方すら知
らない。教わってない。これは、言語道断だと僕は思う。教行信証を正しく読むことが必要でしょう。

113 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/11(火) 19:46:44 ID:j98I5cog
 「浄土真宗の祖」は親鸞。しかし、「本願寺浄土真宗」には祖が二人いる。一人は出世間道を
明らかにした祖、もう一人は世間道を明らかにしている祖です。
 出世間道を明らかにした祖は、親鸞です。世間道を開いたのは空也上人です。本願寺は、浄土
真宗のお寺ではなく、本願寺浄土真宗のお寺であることをしっかり認識すべきでしょう。
 京都に戻った親鸞聖人というのは、恐らく空也聖だったんだろうというのが、僕の仮説です。
京都の親鸞に、僧として公設の寺院に属する道が許されているわけは無く、鴨川で人や荷物を運
搬したり、死んだ人を火葬してわずかな駄賃を喜捨してもらうそんな生活をしていたんだろうと
思うんですよ。そういう形でも、僧籍のない私度僧に自立の道を開いたのが空也上人です。
 空也上人が、日本の大衆仏教に残した影響は実に大きい。政府に依存しないでも、大衆に支え
られて僧が生きていける道を開いたのが空也上人だ。
 地蔵菩薩和讃を作ったのは空也上人だそうだ。地蔵菩薩和讃からは、親を失った子供を育てる
ことが僧の重要な仕事であることが見えてくる。空也聖の仕事は、現代の児童養護施設と小学校
とを兼ねている。さらに、空也上人は、都で道路に転がっている死体を火葬して焼却処分するこ
とを大衆に教えた坊さんだ。
 空也聖は、死体を焼却処分したり、子供の世話をしながら、大衆の支持を受け、喜捨を受けて
きた。空也聖が大衆浄土教の原点です。大衆浄土教は、ボランティア活動に生活の地盤を持ち、
社会から支えられてきた。その中で、本願寺は、人々が集まり念仏を称える場所(念仏道場)を
提供した。大衆は、親鸞の和讃、消息集を聞きながら、座禅して念仏を称えた。

 葬式は親鸞の教義にはない。葬式事業は本願寺の出世間道の思想ではない。葬式事業は、政府
に依存しない僧が経済的に自立していくための世間道です。それは、空也上人が開いてくれた。

114 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/11(火) 19:47:17 ID:j98I5cog
 本願寺浄土真宗が、実にわけの分からないものになっている。これは、自分たちの思想の立場
をきちんと説明できないからだと思う。自分たちの経済的な地盤を仏教の枠の中で説明できな
い。そのために後ろ暗さがある。
 本願寺は、空也上人の大衆浄土教の地盤に立ち、空也上人によって経済的に自立し、大衆に根
ざして親鸞聖人に出世間道の仏教を学んでいるというスタンスをきちんと思想的にも持てば、考
え方が非常に透明になってくるでしょう。

115 :元々ぼら夫:2005/10/13(木) 00:07:51 ID:FpPkU4td
>>渡海サン
わ〜、お答えいただきありがとうございます。ちと、s会スレでの勧誘マニュアルの件ばかり
見てましたもんで。ちと返事が長くなりそうで、あさってにでも
カキコしたいと思います。(^-^)/ではでは〜


116 :41:2005/10/13(木) 01:04:56 ID:DWfeR+Cs
>>108
また質問すると言いながら、ご無沙汰でした。
今まで頭の中でモヤモヤしていたものが、文章という形になったような気がします。
また、考え方のベクトルが見えて来たような気がします。
もちろん、「分かりました」と大きな声で言う事は出来ませんが、
おっしゃるように他力とは、究極的には論文などでは、表す事が無意味だろうとは思います。
ですが、僕は渡海さんの文章のリズムの中に、表現し難い何かを感じます。
そういったものを理解して初めて、「分かった」と言えるんだと思います。
頭ではなんとか理解出来ても、腹で分かるのは、まだ先かも知れません。

ありがとうございました。
しかし、この講義が無料なのは、もったいないくらいですね、ホントに。

117 :名無しさん@3周年:2005/10/14(金) 08:46:44 ID:mq5y/eJx
キリスト者にあっては、不運にあった際、これを神の摂理(provitation)とし
て受容します。つまり、神は私たちを愛しているゆえ、不幸の内から良きもの
を見出します。換言すれば「苦しみを喜びに変容する」のがクリスチャンなの
でしょう。
さて、他力信仰において、この点はどうなのでしょう。不運に遭遇した際、こ
れも阿弥陀如来様からの形を変えた慈悲として受け止めるのでしょうか?
多くの他力信者は、不運を「他力の風がふいていない」などと解釈しているよ
うな気がします。他力信仰における、不幸の受容について教えて下さい。

118 :名無しさん@3周年:2005/10/14(金) 15:06:20 ID:qPIwncrF
不運ね〜 そこから違うかな。


119 :名無しさん@3周年:2005/10/14(金) 20:22:21 ID:VOgNKeFt
K玉さんかT森さんにお金わたせば幸せになれるよ

120 :元々ぼら夫:2005/10/15(土) 00:44:28 ID:1Sg1TR6d
今日はお寺にお花畑を作るため、つるはし持って終日開墾作業♪。疲れて寝ちゃってました。
たぶん明日は筋肉痛w。まず、座禅について。
行巻「王いま座禅してただまさに念仏すべし」。これは『五会法事讚』法照禅師の引文。
化巻「真門釈」「〜まず余善を貶して少善根とす。いわゆる布施・持戒・立寺・
造像・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし【正信】なければ、回向願求するに
みな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経(阿弥陀経)によりて名号を執持せば、
決定して往生せん。」この文が「真門釈」にあることに留意せねばならん。〜つづく

121 :元々ぼら夫:2005/10/15(土) 01:05:37 ID:1Sg1TR6d
m(__)mごめん、続きは明日って事で〜
(^-^)/ホナ♪

122 :名無しさん@3周年:2005/10/15(土) 01:17:27 ID:7JtxWvxa
オ ネ ガ イ
  ヽ( 'A)ノ    ヽ('A`)ノ タッチ!! タッチ!!
    ( )       ( )
    / ノ       < \


     ヽ( 'A)ノ
       ( ) ('A`) ココニタッチ!!
      /ωメ ( )ヽ
          LL


     ヽ( 'A)ノ
       ( ) ('A`) アーナーターカラー!
      /ωヽ(人)
          LL


            タッチ!!
       ヽ( 'A)ノ
         ヽ ヽ
         ノωA`)
      彡   (人)
           LL



123 :名無しさん@3周年:2005/10/15(土) 15:21:10 ID:+OWkx+Gy
オ ネ ガ イ
  ヽ( 'A)ノ    ヽ('A`)ノ タッチ!! タッチ!!
    ( )       ( )
    / ノ       < \
   K玉       T森

     ヽ( 'A)ノ
       ( ) ('A`) ココニタッチ!!
      /ωメ ( )ヽ
          LL
      K玉 T森

     ヽ( 'A)ノ
       ( ) ('A`) アーナーターカラー!
      /ωヽ(人)
          LL
      K玉 T森

            タッチ!!
       ヽ( 'A)ノ
         ヽ ヽ
         ノωA`)
      彡   (人)
           LL
       K玉  T森

124 :元々ぼら夫:2005/10/15(土) 23:59:00 ID:1Sg1TR6d
こんばんわ〜♪
>>120つづき
この真門釈の引文は、元照律師の『弥陀経義疏』。スマソ、座禅の前に、
礼誦が抜けてました。まあ、意としては、執持名号と余の善の対比し、余善は
「正信」がなければ、すべて少善とする。阿弥陀経には、「不可以少善根」とあるから、
正信なき余善を回向し浄土往生を願っても不可という。布施行だろうと、
戒律をたもつことだろうと、造寺・造像の功徳だろうと、座禅をすることだろうと、
苦行に励むことだろうと「正信」が欠けたら、みな少善となし、往生の因とはならないと
元照律師は述べている。〜つづく〜


125 :元々ぼら夫:2005/10/16(日) 00:23:57 ID:824iCDVa
>>124つづき
で、以上の引文の次に、親鸞聖人は、孤山(智円)の『阿弥陀経義疏』を引き
「執持名号」とはいかなる事なのかを述べる。「執」=執受、「持」=住持。
「信力のゆえに執受心にあり、念力のゆえに住持して忘れず」
すなわち、執持とは、信力・念力の賜物と言い換えてもいいものか。
真門釈結びのご自釈に、「みづから流転輪廻をはかるに、微塵劫を超過すれども、
仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲嘆すべし。」
とあるから、信力とは、大信海のこと、念力とは、仏願力のことでしょう。〜つづく


126 :元々ぼら夫:2005/10/16(日) 00:54:20 ID:824iCDVa
わ!こんな時間になってもた〜。
>>125つづき
仏願力と言っても、大信海と言っても、すべて釈迦・弥陀二尊の善巧方便にあらざるものはない。
「本願の嘉号をもっておのれが善根とするがゆえに、信を生ずることあたはず、
仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆえに、
報土に入ることなきなり。」
とあるように、願意を明らかに受け取らないために、浄土往生は不可となる。
法蔵因位の願行は、なんのため、だれのため?南無阿弥陀仏がたった6字なのは、
なんのため、だれのため?これを聞くことこそ肝要なのでは?


127 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/16(日) 22:59:36 ID:xS20eqff
>>116
>また、考え方のベクトルが見えて来たような気がします。

 極楽浄土には道場樹がある。

 その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚を取らじ。
 また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布け
ること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。

 1里は日本の尺貫法では36町(3.9273km)だそうだ。400万里というから、高さ1571
万km、エベレストの1660倍になるという計算だろう。
 まあ、昔の人は地球を平坦だと思っていたから、これくらい高いと、世界中から見えるという
ことだろう。極楽浄土は、西の方を注意深くじっと見ると必ず見えてくる。大きな道場樹が目印にな
る。極楽浄土に行こうと思えば、はるか西の方に見える大きな大木を目印にするといい。
 西は未来を象徴するんだろう。太陽は東から昇って西に沈む。昔の人は時計を持っていなかっ
たから、太陽の位置で今の時間を知ったんだ。東は過去、西は未来を象徴する。ちなみに、南は
生産、北は休息を象徴する。
 未来に向かってじっと目をこらすと、大きな木が見てくる。旅人はその木の方向に進みなさい。
必ず何か得るものがあるだろう。
 未来に目標を置くと、その木は、誰にでも、どこからでも見える。
 「そうか、自分は何も分かっていなかったんだ。自分は未来に向かって真剣に歩んでいかなけ
ればいけない。」

128 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/16(日) 23:01:31 ID:xS20eqff
 未来に向かって進もうと思う人は、芸事でも、スポーツでも、学問でも、必ず共通的な発見を
する。「そうか、自分は何も分かっていなかったんだ」ということだろう。
 「そうか、自分は何も分かっていなかったんだ。自分は未来に向かって真剣に歩んでいかなけ
ればいけない」。くじけることはない。未来に向かってこう見えてくれば、旅人はその方向に進む
といい。そのベクトルこそが、極楽浄土への方角だ。大乗仏教の先輩達はそう教えてくれている。

 道場樹とは菩提樹とも言う。それはお釈迦様のお悟りを象徴する。
 「そうか、自分は何も分かっていなかったんだ。自分は未来に向かって真剣に歩んでいかなけ
ればいけない。」
 お釈迦様の35歳の時のお悟りは、まさにそういうことだったんだろう。釈尊先生のお弟子さ
ん達が、先生のお悟りをそのように教えてくれている。

 高木の少ないサバンナでは、唯一道場樹だけが高く大きく茂る。枝は大きく四方に広がる。目
印の少ない地区では、道場樹だけが遠くから見え、それが旅人の道案内になる。日中日差しが暑
いときは、人々はその下で座禅して瞑想する人もいれば、昼寝する人もいるんだろう。人々に、
我が身を振りかえさせる場所ともなり、安らぎを与えるところともなる。
 人々に道案内をし、我が身を振り返らせ、安らぎも与えてくれる。それこそが、お釈迦様の悟
りの世界だった。それは何だったのか。
  「そうか、自分は何も分かっていなかったんだ。自分は未来に向かって真剣に歩んでいかな
ければいけない」。
 お釈迦様は、人々に人生のベクトルを開いてくれたんだと僕は思う。

129 :41:2005/10/17(月) 01:55:19 ID:VTJ1sGU3
>>127-128
末燈しょう(携帯で変換出来ない・・)に、
「眼も見えなくなった、何事もみな忘れてしまった」
と親鸞が述べていますが、そう彼が述べるとき、
老いて痴愚になってしまった自分の姿を、そのまま知らせたかったんだと思います。
しかし読むものは、他力の思想を果てまで
歩いていった思想の恐ろしさと逆説を、こういう言葉に見てしまうのを、
どうする事も出来ません。
もし、釈迦が自分より約1700年も後に生まれた
親鸞と出会ったとすると、何と言ったんでしょうか、
想像が膨らみます。

130 :41:2005/10/17(月) 02:06:42 ID:VTJ1sGU3
↑は、渡海さんの書き込みを見てふと思った事です。
僕はといえば、分かったような気になる事が多く、
だからこそ他力の思想に惹かれるんだと思います。

131 :元々ぼら夫:2005/10/17(月) 12:38:20 ID:Gk8rLbqH
電車ん中からカキカキ♪
親鸞聖人の教えにおける「座禅」についてまとめ
親鸞聖人の著作において、座禅という言葉が出てくるのは、たったの3箇所しかない。
一箇所は渡海サンが引用される行巻『五会法事讚』のとこ。二つめは、同じく行巻。
三つめは、漏れのあげた化身土巻「真門釈」。しかも内容的に見ても、座禅を勧める
と見える箇所は、渡海サンの引用箇所のみ(しかも孫引きであって、親鸞聖人ご自身
の言葉ではない)。これをもって、座禅して念仏すべしという勧めが親鸞聖人の勧めで
あるとするのは、ちと難しいのではなかろうか?
〜つづく〜

132 :元々ぼら夫:2005/10/17(月) 13:06:48 ID:Gk8rLbqH
〜つづき〜
漏れは座禅についてやってはならん、とか言うつもりはない。しかし、親鸞聖人の仏教に
座禅(この座禅をどう捕えるのかも不明瞭。道元禅師の禅なのか、禅那の意なのか
止観行の止の意なのか?)を持ってくることは安易に受け取ることはできない。
漏れは、個人的には鈴木大拙師の大ファン。鈴木先生は、真宗の教えも、妙好人を通して、
禅の立場から語って下さった。真宗の側からどんなレスポンスができるやろか、
恩返しができるやろか、と考えてるので、安易に般若空を親鸞聖人から見い出す
ことは避けたいとの理由から、ちとカキコしました


133 :元々ぼら夫:2005/10/17(月) 13:29:09 ID:Gk8rLbqH
あと、渡海サンの言われる世間道・出世間道について。
京都にもどってからの親鸞聖人の行状ですが、貧民救済事業を行っていたという説も
にわかには信じがたい。空也聖人の事跡はいまでも京都に橋といい、お堂といい、
今に伝わるものも数多いが、親鸞聖人の手によるものというとあまり聞いたことがない。
やはり関東の門弟集団からの仕送りが大きかったのではないか。これについては
親鸞聖人のお手紙にもあるから間違いなかろう。また、この時期、和語聖教の著作が多い。
これらを関東に送るお礼として、門弟が金銭を送っていたのではないか、と

134 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:29:51 ID:y6j27vDf
>>117

>キリスト者にあっては、不運にあった際、これを神の摂理(provitation)として受容します。つ
まり、神は私たちを愛しているゆえ、不幸の内から良きものを見出します。

 大学時代、YMCAで、中高生にキリスト教教義を教えているという友人がいた。そいつの顔
が浮かんできた。あいつは今頃とうしているんだろう。神学校卒業した後、牧師になったんだろうか。

 貴方の言葉は、ミッション系の中学校か高校の授業のキリスト教教義で行われてるペーパー試
験の正解みたいな感じがするのは僕だけか?(苦笑)。中学生か高校生に頭の中に流し込むため
のペーパー試験ならこれでもいいんだろうが、世の中そんな単純なもんじゃないだろう。
 まあ、クリスチャンなら、もう少しましな牧師さんか神父さんを探すといいかも知れない。僕
の知っているクリスチャンの中でも、もっと血の通っている人はたくさんいる。

>さて、他力信仰において、この点はどうなのでしょう。

 他力信仰はあぁたら、こうたら能書き垂れても通じないだろう。貴方の回りにも、真宗人の一
人や二人いても不思議じゃない。そんなひとは、僕なんかの主張とはまっ反対の考えを述べるだ
ろ。僕なんかの主張とはまっ反対の考えを述べても、その言葉の方が、貴方の耳には快いと思う。
僕の言うような話は、不快に思う人はたくさんいるだろう。快く聞いてくれるひとは少ない。
神の摂理などと言うような人は、不快に思うタイプの一人だろうと僕は勝手に思う。



135 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:31:44 ID:y6j27vDf
 人間には様々な可能性がある。不幸になる可能性も、幸福になる可能性もある。不幸になれば、
それは、可能性の振り子が不幸の方に振っただけ、幸福になれば幸福の方に振っただけだ。可
能性の振り子が不幸の方に振ったとき、そこにたまたま自分が居合わせれば、努力の甲斐無く人
は不幸になることもあるだろう。可能性の振り子が幸の方に振ったとき、そこにたまたま自分が居
合わせれば、努力しなくても幸せになることもあるだろう。
 阿弥陀如来様からの形を変えた慈悲として受け止めることができるかできないか。可能性の振
り子は、どこに飛んでいくか、だれにも予測は不可能だ。

 人間には二つの大きな仕事がある。平常時の仕事と危機管理。パン屋さんはパンをしっかり作
り、お客さんに愛されるようにそれを売る。おそば屋さんは、しっかりおそばを作り、お客さんに愛
されるようにそれを売る。お医者さんは、病気の人を暖かく迎え入れ、体を治して社会に戻してあ
げる。これが平常時の仕事だ。しかし、可能性の振り子は予測を超えた動きをする。予測を超え
た動きをする可能性の振り子に備えるのが危機管理の問題だ。平常時の仕事をしっかりしている
だけでは危機管理にならない。

 戸締まりをしよう。火の用心をしよう。これも立派な危機管理だ。親鸞さんは、危機管理の一つ
として、座禅して念仏することを教えてくれている。親鸞さんは僕らに、危機管理を教えてくれてい
るんだ。


136 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:32:30 ID:y6j27vDf
 危機管理法にはいろんな手法がある。人生には色んなことが起こりうる。だから、人は、平常
時の仕事の枠を越えて日頃いろいろ気を配っておくと良い。キリスト教の教会に行くのもいいだ
ろう。聖書を読むのも良い。牧師さんや神父さんのお説教を聞くのも結構だ。人生の危機にあっ
て、普通なら解決がつかないことが、そういうことで解決が付くこともあるだろう。そういうこ
とで解決が付けば、これほど結構な話はない。親鸞さんもお釈迦さんも、自分の事のように喜ん
でくれるだろう。

 病気なればお医者さんに相談する。子供が行方不明になれば警察に相談に行く。相談する先が
あれば、そういう相談先を正しく頼る。これも大事な危機管理だ。
 しかし相談先がない。聖書を読んでも良い知恵が湧いてこない。そういうこともある。牧師さ
んに相談に行けば、それで解決できることもあるし、できないこともあるだろう。親が年老いて
衰弱して寝たきりになった。自分は会社が長くは休めない。区役所に相談に行ったが、ほとんど
頼りにならなかった。いっそ、親を殺して自分も死のうか。衰弱したと言っても、親の心臓にナ
イフを突き刺せば、血しぶきは天井に向かって勢いよく吹き出すだろう。手足は不自由になって
も、全身では、「生きたい、生きたい」と願っているんだ。
 このままでは、自分も失業し、親子で共倒れをしてしまう。それじゃ、いっそ自分だけ先に死
のうか。自分が死ねば、親は三日と持たないだろう。さあどうする。
 「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」。親が立てなくなった現実も、い
っそのこと不運な神の摂理(provitation)として受容してやろうじゃないか。思い切って親を殺し、
赤い血しぶきを天井まで吹き上げ、見事に心貧しい者の一人になってやろうじゃないか。この俺
様も、イエスよお前のいる天国に登って行ってやろうか。さあ、イエスよ。この現実にお前なら
どう答える。殺すべきか殺さざるべきか。お前は俺を救えるのか。天国は一体誰のものなんだ。

137 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:38:17 ID:y6j27vDf
 相談するひともいない。八方手を尽くしていい案が見つからない。そんなとき、どうせ最悪の
選択肢を選択するなら、その前に南無阿弥陀仏を称えてみなさいな。親鸞さんは、人生の危機管
理の最後の手段としてそんな方法を教えくれている。

 人生の不運は、阿弥陀様からの形を変えた慈悲として受け止めるのも、受け止めないのも、そ
んなことは一人一人の勝手だ。そんなところには何の解決もない。それよりも、常日頃、南無阿
弥陀仏と称えていてみなさいな。きっといいことがある。

 南無というのは感嘆詞だ。サンスクリット語でナーマスという。こんにちは。おはようござい
ます。やあ。これらみんな、「ナーマス」という。南無とは「ああ」という意味だ。
 阿弥陀とは、限りない命、限りない光という意味だ。阿弥陀の阿は、英語のunと語源がつながる。
印度ヨーロッパ後で、否定の意味がある。限りない命、限りない光とは、「先生」という意味だ。
 かつて釈迦は、人々から先生と呼ばれた。釈尊先生は、人生の中で身動きできず困っている人
には、その人の足下を照らす知恵を与えた。足下を照らされたお弟子さんは、自分の道を再度発
見し、再び息を吹き返し、新たに前進を開始した。そんな釈尊先生を見て、人々は、無限の光を
照らす人、無限の継続を可能にする人と呼んだ。人々はそんな釈迦を先生と呼んだんだ。限りな
い命、限りない光とは、先生という意味だ。阿弥陀とは先生と意味なんだ。
 仏とは仏陀。悟ったと人という意味だ。深い知恵を持った人という意味だ。つまり先生という
意味だ。阿弥陀仏とは、先生という意味だと思えばいい。

 南無阿弥陀仏とは、ああ先生という意味だ。座禅しながら「ああ先生」と念じてみなさいな。
古代印度からの伝統に乗り、「南無阿弥陀仏」と称えたらどうでしょうか。三五歳で冤罪の汚名
を受けた無位無冠無名無戒在俗の元天台僧の一生をかけた提案だ。

138 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:39:09 ID:y6j27vDf
 かつて釈迦の弟子達は釈迦を先生と呼んだ。先生の心は奥が深く、真意がつかめない場合もあ
ったろう。そんなとき、お弟子さん達は、みんなから別れ、木陰で腰を下ろし、座禅しながら姿
勢と呼吸を整えつつ、「先生」、「ああ先生」と念じた。そうして静かに心の深い深層の中に入って
いった。

 自分以外は一切が師。これは「宮本武蔵」や「親鸞」を書いた吉川英治の言葉だそうだ。画家
は花に美の神髄を学び、植物学者は生命の起源を学んでいる。石に美の本質を学ぶ彫刻家もいれ
ば、宇宙の起源を学ぶ物理学者もいる。包丁をもってバスに乗り込み、乗客を殺し、運転手を脅
迫した少年の舌に、検察官は事件の原因を学び、心理学者は社会の病理を学ぶ。実に一切が様々
に教えてくれている。
 なんでもいいんだ。花でも、石でも、仕事でも。勉学でも、親でも、兄弟でもいい。嘘っこで、
自分勝手に、相手に見つからないようにそっと、「先生」とあだ名をつけてごらん。嘘っこなん
だ。ほんとうは違うんだ。でもそれを承知であだ名をつけるんだ。かつて一休禅師は、蓮如上人
の元に遊びに行き、転がっている漬け物石を「阿弥陀様」と名付け、蓮如は一休に一本借りがで
きた。阿弥陀様は、漬け物石でもいいんだ。どうせ嘘っこなんだから。
 先生ああ先生。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。姿勢を整え、呼吸を整えながら、ゆっくりと称
えてごらん。横隔膜は静かに、しかし大きく動き出し、脳に向かって大量の血液と酸素を送り出
すだろう。眠っていた全身の細胞が、人生の危機に向かって目を覚ます。忘れていた大量の情報
が目を覚ましてくるだろう。

139 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 16:39:52 ID:y6j27vDf
 念仏を称えたら良い案が浮かぶのか。必ず良い案が浮かぶなんてことはないだろう。しかし、
人生の最大の危機にあって、最悪の選択肢の選択だけはかろうじて免れ、忘れていた二善、三善
の選択肢が選択できれば、それだけでも万々歳じゃないか。
後から思えば、あっちの方法の方がもっとよかったと思うことがあるかも知れないが、最悪の
選択肢だけでは選択しなかったなら、それだけでよかったと思うべきだろう。
 結局、最悪の中の最悪の選択肢しか無かったなら、それを選ぶのもやむを得ないだろう。しかし、
最悪の選択肢をどうせ選ぶなら、それが10分、15分遅れても、罰は当たるまい。

 聖書を読むのも良い。聖書は良い本だ。教会で神父さんや牧師さんの話を聞くのも良い。不運
に見舞われれば、神の摂理として受け入れるのもいい。しかし、人生の振り子はどこに向かうか、
だれにも予測できない。本当に困ったときは、なんでもいい、漬け物石でも、サンマの頭でも、
嘘っこであだ名をつけ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えてご覧。称えている内に、あだ名は
何につけたか忘れてしまい、深い深層心の中に入って行くだろう。
 五分座れば五分間の仏。十分座れば十分間の仏。そんな方法で、もし最悪の選択肢以外の選択
肢が見つかれば、ひとこと親鸞さんに「ありがとう」といっても、キリストさんは焼き餅をお焼
きになることはないだろう。僕はそう思う。

140 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/17(月) 20:14:05 ID:y6j27vDf
釈迦の悟りについて、僕の考え方を書きました。
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/237-240

141 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:05:46 ID:5DzTv6AP
>>120
>決定して往生せん。」この文が「真門釈」にあることに留意せねばならん。

 絵の入門書には、額をいくら見ても絵の勉強にはならんと書いてあるからと言って、美術館に
行って、置いてある絵から額を外せと、ガードマンさんと交渉を始めようとするのは、世界中で
元々ぼら夫さん位なもんだろう。
 地震の被害地救援基金の募金をしても(布施)、赤信号では横断歩道を渡らなくても(戒律)、
学校を作っても(立寺)、座禅しても、絵心を知らずにそんなことを一生懸命頑張っても、絵は
うまくならんのよ。

 だからと言ってなぁ、絵は額を付けて見せて貰うもんなんじゃ。花は花瓶に活けるもんなんじ
ゃ。念仏は座禅して申すのが正式だ。これが親鸞さんの教えだ。
 
>>124
> 正信なき余善を回向し浄土往生を願っても不可という。

 絵心がなければ、いくら額の勉強をしても絵は分かるようにならんのよ。
 それでもなぁ、絵を見るときには額を付けて見せて貰うのが正式なんよ。
 絵を見るんだから額を外せと言うのは、無茶な話じゃござんせんか。念仏は着座して称えるの
が正式だ。略式でも構わんが、正式には座禅して称えなさいよ。親鸞さんはそう言っておる。

> 苦行に励むことだろうと「正信」が欠けたら、みな少善となし、往生の因とはならないと

 まあ、額の勉強をするのもいいが、絵心を忘れたら絵は分からんよ。

142 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:06:48 ID:5DzTv6AP
>>126
> 法蔵因位の願行は、なんのため、だれのため?南無阿弥陀仏がたった6字なのは、
> なんのため、だれのため?これを聞くことこそ肝要なのでは?

 絵を描いてくれた人は、ただ見てくれればいいと言う。ただ見てくれる人のために描いたんだ
から、額なんかつけなくていいんだ。ただ見てくれれば描いた本人は嬉しいんだ。だから絵から
額を取り外せと、美術館でガードマンさんと交渉を始めれば、ガードマンさんは困るだろうよ。
お客さん。それはあんまりだよ、って。

 俺の絵は、ただ素直に見てくれればいい。画家はそういっても、やはり額をつけて見せて貰う
のが正式だ。念仏は座禅して称えるのが正式だ。

>>131
>あるとするのは、ちと難しいのではなかろうか?

 教行信証行の巻きは、4部構成となっています。
 最末は正信偈です。
 おおよそ往相の回向の行信について、行にすなわち一念あり(一念釈)から、正信偈の前まで
が追加的議論部です。一念釈の前、能所因縁論までが、議論の本体でしょう。

 謹んで往相の回向を案ずるに、から、能所因縁までを考えます。ここの間に循環的な繰り返し
があると僕は考えています。
 経典引用→祖師方の引用→経典引用→祖師方の引用。こういう繰り返しがあります。

143 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:07:25 ID:5DzTv6AP
 第一の経典部は、大経、如来会、平等覚経、過度人道経、悲華経です。大経〜人道経までは、
互いに異訳本関係にある兄弟経典です。異訳本の同一箇所の翻訳箇所を引用しています。悲華経
は異訳本ではありませんが、同じ主張をしています。全て阿弥陀仏の諸仏称揚の願の記述です。

 第二の経典引用部を見ます。称賛浄土教、仏本行経、阿弥陀経、般舟三昧経、真無量寿観経を
引用しています。
 祖師方の引用は楽邦文類から始まります。

 楽邦文類の前で、親鸞は重大な紹介をしています。
 「憬興師云わく、如来の広説に二あり。初めには広く如来浄土の因果、すなわち所行・所成を
説きたまえるなり。後には広く衆生往生の因果、すなわち所摂・所益を顕したまえるなり」。

 これは、述文賛という書物の引用です。述文賛は大経の解説書。それがこんな所に引用されて
いる。変とは思いませんか。親鸞は、著者憬興師の意図を離れて使っています。大経の解説とし
て引用しているんじゃないということでしょうね。大経の引用でなければ何か。親鸞は何を言っ
ているのか。

 「そもそも釈迦の教えというのは、誰が何と言おうと、大きく二つに分かれているもんじゃ。
憬興師の話を聞きなさい。一つは広く如来浄土の因果というものじゃ。もう一つは衆生往生の因
果じゃ。」

144 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:12:12 ID:5DzTv6AP
 憬興師は、大無量寿経を解説し、大無量寿経には広く如来浄土の因果がある。また、衆生往生
の因果があると言っている。親鸞はそれを拡大的に引用して紹介している。釈迦の一切の経典は、
広く如来浄土の因果を述べているか、又は、衆生往生の因果を述べているんじゃ。まあ、そうい
う主張をしているんでしょう。論証なんかはどうでもいいんでしょう。独断と偏見と云われよう
と、「そういうもんなんじゃ」と言っている。

 つまり親鸞は、釈迦の一切の経典を大きく二つに分けた。一つのグループは、大無量寿経とそ
の異訳本。もう一つはそれ以外のすべて。
 それ以外のグループの経典論を、総論と各論に分けている。称賛浄土教から、真無量寿観経ま
では各論です。述文賛云わくから楽邦文類の前までは総論にあたるわけです。

 こう考えると、経典引用→祖師方の引用→経典引用→祖師方の引用という構成を取っている行
の巻きは、大きく二つに分かれる。(経典引用→祖師方の引用)→(経典引用→祖師方の引用)
つまり、ここは、前後で「本」と「末」に分かれてくる。
 行の巻の本論は、大経の引用に始まる。行の巻きの末論は称賛浄土教から始まる。すると、五
会法事儀讃は、行の巻の本論の最後に当たります。これは何を意味すると思いますか。
 行の巻の本論の祖師方の引用部を見ます。
 龍樹は、歓喜地に至るという議論です。これは大乗段階に入るという議論です。
 世親は、大乗の菩薩は五念門を修行するという議論です。
 曇鸞は、礼拝、賛嘆、作願、往相回向を行じるという議論です。
 道綽は、念仏をせよという議論です。
 善導は、念仏で仏教に入門できるという議論です。
 つまり、念仏を称えよ(道綽)。念仏すると仏道に入門する(善導)。大乗段階に至る(龍
樹)。大乗段階では五念門を修行する(世親)。五念門は念仏で足りる(曇鸞)。こう考えると、
龍樹から善導までの議論の本質はなんだと思いますか。ここまでの議論で更に足りないものは何
ですか。

145 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:12:50 ID:5DzTv6AP
 龍樹から善導までの議論は、念仏を称える意義を主張しているんですよ。念仏を称える意義は
何か。それは、仏道に入門する。大乗段階に至る。五念門を修行する。これが称える意義なんで
す。
 称える意義を議論したら次は何が必要ですか。他人に行動を勧める場合、何を伝えますか。行
動の意義、それと行動の方法論でしょう。
 方法論を欠いて行動のすすめはないんじゃないですか。どのように行動すればいいのか。それ
が五会法事儀讃です。
 念仏は、座禅して称える。これが念仏の方法論です。

 大事なことをもう少し申し上げます。称賛浄土教、仏本行経、阿弥陀経、般舟三昧経、真無量
寿観経は、全て五会法事儀讃からの引用なんですよ。しかし、「五会法事儀讃に云わく… 」という部分には著者名がありません。
 大経などの経典は「言わく」で引用しています。龍樹・世親・曇鸞は、著者名を明かさず、
「曰く」と引用しています。三人は菩薩という扱いで、仏に準じるという意味でしょう。道綽、
善導は、「云わく」という形で引用しています。善導は特別で「光明寺の和尚」という、非常に
親しみを込めていますが、具体的な名前を挙げてないのは共通です。
 「五会法事儀讃に云わく… 」は道綽、善導と同列の扱いです。

 称賛浄土教に至ると急に雰囲気が変わります。抄録者の名前が出てきます。明らかにここで議
論が前半後半で切れる感じです。

 座禅して念仏申せという議論が、行の巻きでどういう論筋の中で出てきている議論かおわかり
いただけましたでしょうか。
 教行信証をよく読み直してご検討下さい。

146 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 00:22:57 ID:5DzTv6AP
>>132
>親鸞聖人の仏教に座禅(この座禅をどう捕えるのかも不明瞭。道元禅師の禅な
>のか、禅那の意なのか止観行の止の意なのか?)を持ってくることは安易に受
>け取ることはできない。

 好きにすればいいでしょう。絵に嵌める額は、ロココ調でも、ゴシック調でも、現
代風でもいいでしょう。親鸞さんはそんなことにこだわらん。
 結跏趺坐し、腹式呼吸で呼吸を整え、姿勢を正せばいい。

 親鸞さんの座風は、天台禅だろう。ところが、最近比叡山は、曹洞宗の坊さんを
呼んで禅を教わっているそうだ。叡山では座禅が衰退し、座禅の必要性が叫ばれ
ているらしい。

 どんな座風がいいか気になるなら、禅寺に教わりに行くのもいいだろう。そんなの
はだめとは、親鸞さんは言わんだろう。

147 :名無しさん@3周年:2005/10/18(火) 17:28:17 ID:4aq9Rhhw
   _              
  ,! / iニニニコ       く`ヽ        く`ヽ __| ̄|__   r‐―― ̄└‐――┐
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148 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 18:53:39 ID:5DzTv6AP
>>133
>貧民救済事業を行っていたという説

 これは誰の説なの?。
 橋を作ることは、貧民救済事業なの?。田中角栄さんも、亀井静香さんも地元に橋や道
路を造り、政治家としてその一角に自分の名前を彫った碑を建てさせているそうだけど、
田中角栄さんや亀井静香さんは、貧民を救済したの?。地元の人は、田中角栄さんや亀井
静香さんに貧民として救済されたの?
 空也上人は死体を焼却処分したけど、空也上人は貧民救済事業として行ったの?。日本
全国には葬儀屋さんがたくさんあるけど、葬儀屋さんは、貧民救済事業をしているの?。
 道路公団は日本中に高速道路を作って大赤字を積み上げたけど、道路公団は貧民を救済
したという話は聞かない。国民の税金を食い物にしたという悪口は聞いたことがある。突
飛な意見を他人(渡海)の意見だとは言わないで欲しいな。

>親鸞聖人の手によるものというとあまり聞いたことがない。 

 新清水トンネルに行くと、トンネルのそばに記念碑がある。建設中の難工事で亡くなっ
た方の慰霊碑だ。新清水トンネルの建設には大成建設などの大企業が名を連ねている。あ
れだけの巨大トンネルを、大成建設と殉難碑に名が残っている人だけで作ったと思う人は
いない。無名の、無数の人々が関わっている。セメントをこねた人、パイプを運んだ人も
いるだろう。東北からは、たくさんの出稼ぎがそこに集まっていた。そういう人がみんな
名前が残っているわけではない。

149 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/18(火) 19:02:23 ID:5DzTv6AP
 京都の古い施設などは親鸞聖人が、無名の土方として、自分の生活の為に木材を運び、
釘を打ちこんだものが残っているかもしれない。親鸞さんなんか、他人の貧民救済する以
前に、自分の貧民救済することの方で精一杯だったろう。名前が残らなければ関与したこ
とにならないというのは、いささか見当外れではありませんか。親鸞さんにも生活があった
はずだ。法隆寺は聖徳太子が作ったと言うけど、法隆寺だって無名の大工さんがたくさん
が関わっていることを忘れていればトンチンカンだ。無名の大工さんは、貧民救済事業と
して行ったわけではない。自分の生活ために行っていた。

>門弟が金銭を送っていた

 関東の門弟が金子を送ったという記録はある。しかし、それだけで生活が全てできたとは
思えない。日本の貨幣制度は飛鳥時代末に始まっているが、鎌倉時代の庶民はまだまだ
物々交換の時代だ。本格的な貨幣流通時代は信長の楽市楽座当たりからではないか。
 鎌倉時代、関東から京都への金の輸送ルートは金売り吉次が有名だが、その輸送機構を
支えたのは、全国の特殊な山伏集団だったらしい。強盗、追いはぎの多い街道に沿って多
額の金を庶民が運ぶことなど不可能だったろう。親鸞は、弟の寺に居候していたとしても、自
分の食い扶持は自分で稼がないといけない。関東で地盤を築いた親鸞が京都に戻ろうと決
心したのは、京都でもある程度自活できると思ったからだろう。
 親鸞は、自分のことを賀古の教信沙弥に同じだと言っていたらしい。教信沙弥は、加古川
の渡し人夫だった。親鸞は、賀茂川で同じようなことをしていたんだろう。ただ、高齢になれば
力仕事はできなくなる。空也聖として、死体処理などを行い、米や菜っ葉、魚などを駄賃とし
て貰って生活していたんだろうと思う。京都には空也聖の伝統が既に根付き、庶民の中で空
也聖と呼ばれる私度僧が生きていける地盤があったからだろうと想像する。

150 :元々ぼら夫:2005/10/18(火) 20:37:39 ID:jHlhLI0u
渡海サンお返事ありがとうございます♪
>>149
親鸞聖人が無名の大工さんとして活躍してた史実は、何が根拠なんでしょうか?
空也聖人は、高僧伝や史跡にその行状を見ることができるから、そう推察できるけど。
渡海サンの熱い思いはわかるが、史実については、できうる限り客観的に見ていかねば、
ただの空想・おとぎ話と受け取られても仕方ないでしょ。渡海サンだけが個人的信念として
思ってるだけなら別に誰の迷惑にもならんのでしょうけど。
〜つづく〜

151 :名無しさん@3周年:2005/10/18(火) 21:04:21 ID:fm59UU1v
>>元からほらふき夫

>親鸞聖人が無名の大工さんとして活躍してた史実

なんてコイツどこにも書いとれへんやん。
ごめん、オマエ文盲やった?(ゲラ

152 :元々ぼら夫:2005/10/18(火) 21:10:31 ID:jHlhLI0u
>>150
付け足し。貧民救済事業というのは、社会史的観点から述べたもの。空也聖人にとって、
道を作ったり、井戸を掘ったりする活動は、民衆に結縁するというのが目的だった
のか。自利利他円満が菩薩道という観点からすれば、当然の行いとも取れます。

あと、浄土真宗として座禅をどう受け取るか。親鸞聖人が充分に言及されてない
座禅に関して、想像をたくましくすることはできるが、真宗として、座禅して
念仏するのが正式とは認められない。ちなみに他の親鸞聖人の著作に座禅という言葉は
一切でてこない。
〜つづくカモ〜


153 :元々ぼら夫:2005/10/18(火) 21:18:49 ID:jHlhLI0u
>>151
そかな?もっかい読みなおしますわ。ともかくも、京都時代、親鸞聖人が一般的な職に
ついていた。もしくは空也聖人と同じような事をしてた、という説に取れるのだけれど、
ごめんね。元々あんまし頭よくないんで♪
(^-^)/ホナ♪


154 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/22(土) 17:42:40 ID:200FH/1Y
>>152
>座禅に関して、想像をたくましくすることはできるが、真宗として、座禅して念仏するのが正
式とは認められない。

 本願寺の坊主は、御本書の行の巻きに墨を塗ってきたというのは嘘じゃないだろう。本願寺の
坊主は、親鸞さんを腹話術の操り人形にし、勝手なことをしゃべらせる。人形には大事なことを
言わせない。親鸞会と本願寺とは、狸と狢の同族だ。

>他の親鸞聖人の著作に座禅という言葉は一切でてこない。

 本物の浄土真宗が生きている時代には議論にならんこともある。しかし、得体の知れない「正
式浄土真宗」が跋扈しだせば、議論の俎上に上げなければならなくなることはある。

唯円少年「親鸞先生。それでその念仏というのは、どうやって称えるんですか。」
親鸞先生「称え方か?。簡単だ。ほらこうするんだ」。
 親鸞は、胡座の足を結跏趺坐に変え、姿勢を正すと口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声を
発し、呼吸を整えていった。
唯円少年「あれ?そんなんでいいんですか。まるで鎌倉の大仏さんみたいだな。あはは。おいら
もやってみるね」
 唯円少年は、先生の真似をし、少年の柔らかい足で結跏趺坐を組み、親鸞のように南無阿弥陀
仏、南無阿弥陀仏と声をだした。
親鸞先生「そうじゃ。そうじゃ。それでいいんじゃ。」
唯円少年「なーんだ。簡単だな。これでいいんか」
親鸞先生「そう。時々それをしてみるといいだろう」
 初老の域に近づいていた親鸞は、きらきら輝く少年の目を楽しそうにじっと見ていた。

 念仏をどう称えるか。方法論は一度聞けば誰でも分かる。議論の余地はない。座禅して称える
んだと言われれば、「先生よ。それはおかしべな。座禅は自力だべな。自力の念仏を称えるなん
て、おかしいべな。先生は外の著作では、全然書いてないべな」などと、念仏の称え方でへ理屈
を並べる人などは、いなかったろう。


155 :名無しさん@3周年:2005/10/22(土) 23:50:59 ID:4uPT4Iyy
遂に化けの皮が剥がれた渡海難
今後は真宗叩きだな

156 :名無しさん@3周年:2005/10/24(月) 01:45:03 ID:TJoMsA8X
いままで気づきもしなかった自分のことが、ここによく照らし出されることを願ってやみません。




157 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/24(月) 18:34:40 ID:xvKlpadt
>>156
 こちらのスレッドは質問に答えるという立場で論じたいと思います。
 教行信証を、できるだけ分かりやすく説明することが私の第二の仕事と思っています。
 教行信証を読んだことのないひとにも、親鸞の考えを易しく理解してもらおうと、哲学
板で少し議論を開始しました。

 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/263


158 :名無しさん@3周年:2005/10/24(月) 19:14:44 ID:zFJtcp3o
他力とは、人智の外の事。
人の口で説明できると言う者が居るのはおかしな事。


159 :名無しさん@3周年:2005/10/24(月) 22:15:57 ID:PLgrhWMB
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/news/1130130383/
>>1のBBSを運営している「ぷ」氏はどちらの派なのでしょうか?
http://www4.plala.or.jp/planaria/sonaihonko.htm
此方等拝見すると、わかる方にはすぐわかる気もしますが、
如何せん私は宗派が違うので、浄土真宗の方なのだな、という程度にしかわかりません。

160 :元々ぼら夫:2005/10/25(火) 00:47:05 ID:uo9qu+46
渡海サン、レスありがとうございます。
>>154
@本願寺の教学が親鸞聖人を操り人形のように扱っていると言う根拠は?
A唯円少年と親鸞聖人の座禅についてのやりとりの根拠は?
B本願寺の教学が行巻に墨を塗るような事をしていると言われるが、その根拠も
お願いします。力押しでなく、明確な根拠を出して説明してもらえませんでしょうか?
よろしくお願いします。


161 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/25(火) 20:46:08 ID:C39Qz/Lb
>>160
> 明確な根拠を出して説明してもらえませんでしょうか?

 僕は、貴方の家庭教師でも乳母でもないよ。
 「操り人形のように扱っていると言う根拠はない。唯円少年と親鸞聖人の根拠はない。
行巻に墨を塗るような事をしている根拠なんかない」。あなたは僕にそう言うんでしょうか
(苦笑)。まあ、根拠はないとあなたが言うなら、根拠は無いんだろう。付き合い切れん話
だ。在野の僕の考え方に反対するのも賛成するのも、それは貴方の自由。「元々あんま
し頭よくないんで♪(>>153)」などと、自分から煙幕を張ってくる坊主を相手に、家庭教師
を請け負った覚えはないよ。

 分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく 〜 蓮華座に坐す(大勢至
菩薩観)。自ら身を見れば、金蓮華に坐す。(上品上生)

 極楽浄土の着座スタイルは蓮華座(結跏趺坐)が原則だ。根拠を知りたければ、貴方が
勝手に探しなさいな。付き合い切れん。

 外道の坊主は座禅が嫌い。座禅は嫌じゃという坊主に、座禅しなさいよなどと誰も勧めや
しない。嫌ならしなけりゃいいだけ。「座禅は嫌じゃ」という坊主に、「念仏を称えなさいよ」と
も親鸞さんは言ってはいない。嫌なら勝手にすればいい。面々の御計らいだ。
 目障りなら、教行信証の行の巻の一部はホワイト修正液で消しておくといい。消すのは一
箇所だから楽だろう。教行信証なんか読んだこともない。教行信証など読んでもちんぷん
かんぷん、キチガイの呪文みたいなもんだ。そんな風に思うなら、修正液も不要だろう。聖
教などは、ひなたぼっこの昼寝の枕。

 自分は浄土真宗の僧侶だと言うなら、自分達の宗祖の腹はどこに据わっているのか、ち
ったぁ真剣に考えようとしても罰は当たるまい。まあ、好きにしなさいな。

162 :名無しさん@3周年:2005/10/25(火) 23:21:32 ID:6CQPEA+w
     ______       スンスンスーン♪ 
      |  |.| ∧_∧
   ======( ・∀・)○=
     |  |..(    ノ
       ̄  人  Y
        (__)_)


    _____________
  ./
  |  最近、糞スレがよく立つよね〜
  |  ギコもここまで手が回らない見たいだな・・・ 
   \   ___________  
    `V´    
    ∧_∧∧_∧ ___
   ∩・∀・ ≡ ・∀・) |.|
    `ゝ    ノ====
      |  |  | . .|.  |.|
     (___)__)    ̄


      _________
     / 
    | と言うことで僕が代わりに・・
     \   _______   
      `V´ 
      ∧_∧      ___   ドスッ!
     (    )┌─┴┴─┐
     (    つ 糸冬 了 .|
     /  /) )└─┬┬─┘
      (_)(_)   ||  -3
            `"´゛""`

163 :名無しさん@3周年:2005/10/26(水) 18:00:27 ID:Dtu+p4cg
私のことは一番私がよく知っているといいますけれども、
その私がどんな姿をしているのかは自分も知らないのです。
まぁ白昼の闇というべきかな?
狭さ、厚かましさ、ずるさに気づくこともなく、その私を認め、私を守り、
私を肯定することのためなら、どんなことでも人間は考えます。
蛇のようなものですね。しいていえば...
つかみ所のないものとでもいいませうか?
実にうさんくさい、そんな生き方をしているのにもかかわらず、
「おれを誰だと思っているのか?」と言っているように聞こえてなりません。
それがいかに恥ずかしいことか?気がつかない。
そういう自分を決してみることの出来ない白昼の闇を仏様は照らし出して下さる。
闇は夜にあるのではなく、深い闇は昼にあると言うことを教えて下さるのが仏様ではなかろうか?



164 :名無しさん@3周年:2005/10/27(木) 14:31:14 ID:DJ9a+Fgu
>>163
> その私がどんな姿をしているのかは自分も知らないのです。
    自分も知らないんだということを、私は知っている。

> まぁ白昼の闇というべきかな?
    白昼の闇というべきだろうと私は思っている。

> 蛇のようなものですね。しいていえば...
    しいていえば蛇のようなものだと私は認識している。

> 「おれを誰だと思っているのか?」と言っているように聞こえてなりません。
「おれを誰だと思っているのか?」と言っているように聞こえてならない私です。

>気がつかない。
   気が付かないということに、私は気が付いている。

>白昼の闇を仏様は照らし出して下さる。
     白昼の闇を仏様は照らし出して下さるということを私は知っている。

>深い闇は昼にあると言うことを教えて下さるのが仏様ではなかろうか?
     「深い闇は昼にある」と私は言います。私って仏様のようでしょう。

165 :元々ぼら夫:2005/10/27(木) 17:29:26 ID:+KnSkaZv
ご無沙汰〜♪
>>161
根拠なしでゴリ押しスタイルが、渡海サン流って事ですか。渡海サンのH願寺批判が
受け入れられないで、他のスレでは荒し扱いされちゃうのも、そのゴリ押しスタイルに
要因があるのかもね。ま、それはさておき、渡海サンの自己流座禅体験談など見てみますと、
なるほど納得する所もある。知り合いにヨーガの先生がいるんだけど、呼吸法の基本は
共通点があると思うし、その効果も実際にあることと思う。人生の困難に出会って、
にっちもさっちもいかなくなった時、心を平常に保とうと座してみるのも、方法の一つやろね。
〜つづく〜


166 :元々ぼら夫:2005/10/27(木) 18:48:02 ID:+KnSkaZv
>>165
〜つづき〜
でも、念仏する時に座禅するのが正式とは言えません。一撃でいうのであれば、
「座禅は本願ではないから」。「行住座臥不問時節久近」。正式と言われたら、
これが正式と言えるでしょう。また、御消息や愚禿鈔には、仏心宗(=禅宗)に関して
親鸞聖人独自の教判が示されています。そこでは聖道門の位置付けです。
ま、複合的に見てみても、真宗では座禅して念仏が正式というのは難しい也。
上品上生の方は、それでもいいんだろうけど。追伸、漏れは個人的には渡海サンの説
「あぁ先生」wとか、好きなトコも多いですよ。(^-^)/ホナ


167 :名無しさん@3周年:2005/10/27(木) 19:52:28 ID:ZnAaglwB
    /\
   /   \
   \ 終 \
    \   \
    /\ 了 \
バキャ / /\  /
  (⌒(/  \/
    ∧∧   (⌒
  ⊂(゚Д゚)≡≡(⌒;
⊆⊂ ̄⊂ソ (⌒(⌒;
____∧_____
再開だゴルァァァァァァァァァ!!

168 :名無しさん@3周年:2005/10/28(金) 17:01:14 ID:HAgO3Nxq
┌──────────────────────―─―┐
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│おすすめ   | >>1は不正な処理を行いました。    ...┌───┐   |
│モナー    | 残念ですが>>1の人生を            .| 終了 |   |
│        | 終了させてあげて下さい。(推奨)       └───┘   |
│        |                                  |
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│特別企画        ├┤                      ├┤
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├┴──────┴┴┴┴──┬─┬─┬─────┴┴┤
│□ エラーが発生しました    |  |  |●インターネット |
└─────────────┴─┴─┴───────┘

169 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 17:40:58 ID:dvOHXWMB
>>165
>根拠なしでゴリ押しスタイルが、渡海サン流って事ですか。
  当てつけだな。教行信証に墨を塗ってる相手とは話が合わんよ。

>渡海サンのH願寺批判が受け入れられないで、他のスレでは荒し扱いされちゃうのも、そのゴリ押
しスタイルに要因があるのかもね。

 念仏の称え方も知らんで教行信証に墨を塗ってる坊主から「荒し」扱いされれば、これは勲章
を貰ったようなものだ。勲章なんか貰っても嬉しくないけどね。

>渡海サンの自己流座禅体験談など見てみますと、なるほど納得する所もある。

 僕の仏法は親鸞聖人直伝の仏法だ。念仏の称え方すら知らん坊主から「自己流」と言われれば、
それこそ親鸞聖人直伝の仏法の何よりの証拠とも言うべきか(苦笑)。

>心を平常に保とうと座してみるのも、方法の一つやろね。

 「心を平常に保とうと座してみるのも方法の一つ」と思うなら、それは貴方の見識だ。心を平
常に保とうと、僕はそんなことは一度も言ってはいない。自分の主張と相手の主張とを混同しな
いでね。

>念仏する時に座禅するのが正式とは言えません
   仏法のイロハも知らん人には、正式も略式も無いだろう。

170 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 17:45:01 ID:dvOHXWMB
>「座禅は本願ではないから」。

 太陽は、あらゆる生命に命を与えてくれる。猿にも、熊にも、羊にも、人間にも、様々な実り
をもたらしてくる。自由に食べて活動してくれ。それが太陽の本願だ。柿を枝からいきなりもぎ
取って食べても、土の中に根を張っているサツマイモをいきなり掘り起こして食べても、太陽は
文句を言わない。猿も熊も、いきなりもぎ取って食べている。
 でも、人間はそんな作物でも、水で洗ったり、皮を剥いたり、薄く切ったり、お皿に盛ったり
している。感謝の念を込めて手を合わせる人もいる。お茶の飲み方一つにも、茶人達は芸術性
を込めた厳格な作法を定めている。それが文明だ。

 出入り口の扉は、足で開けてもいい、あごの先で開けても、口先で開けてもいい。座敷で飼って
いる犬や猫は、部屋の扉を足で開けたりあごで開けたりする。買い主はそれでも文句を言わない。

 同じようなものだ。念仏はどのように称えてもいい。誰も文句を言わん。それでも、念仏は仏様か
らの預かり物だ。粗末にはできない。丁寧に扱おう。そう考えるのが文明社会の仏教だ。念仏は座
禅して称えよう。後善導と言われ、唐の大宗皇帝の前で五会法事儀讃を披露した法照禅師は、現
代に向かってそのように提案している。親鸞さんはその法照禅師の提案に賛同したんだろう。念仏
は丁寧に扱おう、と。
 本願になくても、ここは文明社会だ。念仏は座禅して称えよう。犬や猿じゃない我々は、人間らしく
念仏を称えよう。親鸞さんが賛同している提案に僕は共鳴するだけだ。座禅がいやならしなけりゃい
いだろう。座禅して称えようと言うのは本願ではないよ。感謝の念のない犬や猿同然の野蛮人坊主
に座禅を勧めているんじゃないわいな。

171 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/28(金) 17:45:46 ID:dvOHXWMB
>「行住座臥不問時節久近」

 教行信証は、先人の言葉を切り貼りしてつなげているんだ。その配列、議論の配置箇所、文脈
こそが教行信証では重要な意味を持つ。
 ひなたぼっこの昼寝の枕に教行信証を敷いていれば、それだけで教行信証があたかも分かった
ような錯覚を持てばお笑いだ。

>御消息や愚禿鈔には、仏心宗(=禅宗)に関して親鸞聖人独自の教判が示されています。

 芸術を知ろうと思えば絵画を学べ。絵画を学ぶと言うことは、額縁の研究をすることじゃない。
でもな、絵画をみるときは額縁を使おうな。
 仏教を学ぼうと思えば念仏を学べ。念仏を学ぶと言うことは、念仏を学ぶんであり、座禅を学
ぶことじゃない。でもな、念仏を称えるときは、人間としてできるだけ座禅して称えよう。
 親鸞さんはそう言っている。

>上品上生の方は、それでもいいんだろうけど

 誰もあなたに座禅なんかは勧めてはいない。外道の坊主は座禅が嫌い。座禅して称えてみよう
かと思う人だけが座禅をすればいい。座禅して称えてみようと思う人だけが座禅して称えれば、
親鸞さんはそれだけでも喜んで下さるだろう。
 座禅は嫌じゃという山猿が、無理して座禅を組んでも、親鸞さんは喜ばん。

>「あぁ先生」wとか、

 ‘w’は何?。相手の考えに賛同すると言いながら、余計な記号がついてくる。
 一言突っ込まれると「元々あんまし頭よくないんで♪(>>153)」などと、自分から煙幕を張
る。いらん記号もくっついてくる。
 文明人の作法も知らん気位の高い山猿坊主ほど鼻持ちならんものはない。

172 :名無しさん@3周年:2005/10/28(金) 22:51:25 ID:DklVhZYS
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
>>1の立てたスレッドは、痴呆老人とシルバー介護士によるやりとりです。
キーボードを叩くことによって脳を活性化するトレーニングなので
一般の方の書き込みはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

173 :元々ぼら夫:2005/10/29(土) 14:30:33 ID:inqbdldk
>>171
もうちと、穏やかにカキコできんもんかね。ま、漏れはあんまし性格的に気にせんタイプ
やけど、恨む人もなかにはいるかもよ。気をつけた方がよいと思うよ。
ま、それはさておき、おっしゃる通り『教行信証』は、引文の数珠つなぎ、要所要所に
ご自釈が入る構成や。経ー論ー釈の体裁を守りつつも、前の引文を次の引文で説明
したり、論註を註論と名付けて、論に位置付けるなどなど、トリッキーwな箇所
も数多い罠。で、それを踏まえた上で、件の『五会法事讚』の後に引かれる法照師の
偈文を見てみる。座禅のことについて言及されてますね。


174 :元々ぼら夫:2005/10/29(土) 15:07:35 ID:inqbdldk
字数足んなくなっちった。>>173のつづき〜♪
中国浄土教では宋代以降、座禅念仏とも言える流れができた。和朝親鸞聖人に限定するなら、
座禅の扱いはいかなるものだったのか。言及されてる箇所が極めて少ないし、仏心宗
としては「聖道門」としての扱いというのは、残された文書からみて動かせない。
もし、渡海サンが外儀として座禅し念仏するのが正式とする義を立てたいのなら、
わざわざ論拠に乏しい親鸞聖人の書を元とするのではなく、中国の念仏禅を究められた方が
よろしいのではないかと普通に考えてみても、思えるですが。
(^-^)/ホナナ〜


175 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 19:16:50 ID:pogWsxrx
>>171
>もうちと、穏やかにカキコできんもんかね。

 ごり押し(>>165)、荒らし(>>165)などの当てつけ、言いがかり。明確な根拠を出して説明してもら
えませんでしょうか(>>160)、などの要求。「貧民救済事業を行っていたという説(>>133)」、「親鸞聖
人が無名の大工さんとして活躍してた史実(>>150)」など、主張の曲解、歪曲。

 言いがかり、歪曲など不愉快ですね。あなたに根拠を要求される覚えはない。僕は、必要な範囲
で自分の主張の根拠は、自分から示してきているつもりです。貴方による議論の歪曲は不愉快で
す。もうちと、穏やかにカキコできんもんか。自分から話し相手をひっぱたいて、「漏れはあんまし性格
的に気にせんタイプ」などと言われれば、言われた方はいい感じがしないものです。インターネットは
相手が見えないだけに、気をつけた方がいい。貴方は、2chの真宗坊主に多い典型的な粘着タイプ
の一人のようだ。もう少し頭冷やして考えたらどう?。
 だれも貴方に座禅しろとは言ってないんです。「座禅して念仏申すべし」は、貴方に向けた言葉で
はない。でもね、教行信証に墨を塗るのはやめたらどうよ?。教行信証に墨を塗って、真宗坊主とし
て恥ずかしくないのか?。

>中国浄土教では宋代以降、座禅念仏とも言える流れができた。

 法然の選択本願念仏宗(1175)が、宋(960〜1279)の仏教と全く無関係に主張されて発生したと考
えるのでしょうか?。
 そのとき聖人「求法とはいずれの法をもとむるぞや」と。修行者申していわく、「念仏の法をもとむ」と。
聖人のたまわく「念仏は唐土の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滯す。しかれども、きと
案じて、「唐土の念仏をもとむるなり」と云々 (口伝抄)

 親鸞は、九条兼実を「禅定博陸月輪殿兼実」と呼称する。このことからも、法然教団では「禅定」が重
視されていたということが言える。

176 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 19:17:34 ID:pogWsxrx
>座禅の扱いはいかなるものだったのか。言及されてる箇所が極めて少ない

 教行信証をきちんと読めば、宗祖の意思は、全く矛盾なく、極めて明瞭に現れているんです。
100%言い尽くされ、そこには一点の曇りもない。疑問の余地などどこにもない。
 教行信証などはちんぷんかんぷんで全く読めないくせに、自分勝手に我流の意地を張るという
人には、僕も説明のしようがない。手が付けられない。お手上げだ(苦笑)。「教行信証が読めな
いなら、坊主やめちまえ!」。「頭を丸めて坊主になれ!」とも言いたくなる(苦笑)。

177 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 19:19:29 ID:pogWsxrx
>仏心宗としては「聖道門」としての扱いというのは、残された文書からみて動かせない。

 宗祖は、選択本願念仏宗以外は全て聖道門という立場です。従って、禅宗は聖道門という扱
いをしています。
 額(座禅)の研究は、絵画(選択本願念仏宗)を勉強する上で必要はないという扱いをしてい
るわけです。極めて自然な主張です。パン屋さんやうどん屋さんをしながら芸術(仏道)も勉強
したいというなら、絵画(念仏)だけやったらどうですか。絵画(念仏)だけするというなら、額(禅
宗)の勉強はいりませんよ。パン屋さんやうどん屋さんには、そんな時間はないでしょう。

 パン屋さんやうどん屋さんにとって、額(座禅)の勉強は絵画(選択本願念仏宗)を勉強する
上で必要はないということと、絵画(念仏)には額(座禅)が必要がないということとは、別の話
です。
 額(座禅)を嵌めてある絵画(念仏)を見て、あれは額(禅宗聖道門)であるというのは間違いで
す。そんなことを言うのは、意地っ張りで引っ込みがつかなくなった粘着質の真宗の坊さんだけ
だ。本願を信じて座禅して念仏すればそれは禅宗であるという主張は、白を黒と言い、カラスを
鷺という主張とどこか違いますか。額が嵌めてあっても、嵌めて無くても、絵画は絵画なんです
よ。座禅して称えようが、座禅なしで称えようが、念仏は念仏なんです。
 浄土真宗では、阿弥陀仏の本願を教わり(教)、パン屋さん、おそば屋さん、お巡りさんなどが、
時々思い出した時に座禅して念仏する(行)。こうして座禅して念仏すること(証)を尊く思う(敬
信)。教行証を敬信しようという教えです。アマチュアの仏教を求めています。
 禅宗の人は、教外別伝、不立文字を教わって出家して、念仏しながら坐禅する(只管打坐)。
禅宗の本質は、プロの道を究めることにあるようです。それは、パン屋さんやおそば屋さんのた
めの仏道に照準をあてている教えではない。禅宗と浄土真宗とは、互いに求める道は違っても、
両者いずれも仏の世界。どこにも不思議はないでしょう。

178 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 19:24:00 ID:pogWsxrx
>外儀として座禅し念仏するのが正式とする義を立てたい

 主張の歪曲はとても不愉快です。貴方は粘着タイプの一人のようだ。自分の主張で引っ込みが
つかなくなっている。だれも貴方に座禅しろとは言ってないんだ。自分は真宗坊主だと言うなら、念
仏の称え方ぐらい、きちんと理解したらどうよ。これは真宗のイロハだろう。

>わざわざ論拠に乏しい親鸞聖人の書を元とす

 教行信証がまともに読めるようになりなさいよ。教行信証が読めないことは、真宗の坊主として
恥ずかしいことではないのか?。
 「座禅は本願ではない」、「行住座臥不問時節久近」、だから、念仏する時に座禅するのが正式
とは言えない。あなたはそんな説を立てる。僕に言わせれば、そんな説は、まさに片腹痛い。仏教
の「ぶ」の字も知らず、教行信証が全く読めていない何よりの証拠だ。
 教行信証を初めとする宗祖の書をきちんと読めば論拠は百%明白です。教行信証なんかろく
すっぽが読めないくせに、白を黒と主張し、カラスを鷺と言いくるめようとするのはやめたらどうよ?。

>普通に考えてみても、思えるですが。

 豆腐の角に頭でもぶつけて休んでいたらどうですか?。教行信証が読めないことを恥ずかしく思
い、まず先にきちんと教行信証を読めるようになりなさいよ。それから反論してきなさい。

179 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 19:39:31 ID:pogWsxrx
>>175

誤 あなたに根拠を要求される覚えはない。

正 あなたに根拠を要求される覚えはない。自分の腹に回答を持っていて、それを相手の口から
回答させようなどという、高見から相手を見下すそんな無礼な誘導尋問などは、僕は受ける必要
はないんだ。

180 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/29(土) 23:30:31 ID:pogWsxrx
 一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨て
ざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。もし礼誦等に依らば、
すなわち名づけて「助業」とす。

 行住座臥不問時節久近という言葉は、善導大師の言葉です。親鸞は、教行信証の信の
巻と化身土の巻とに引用しています。それぞれにおいて議論の論筋があります。行住座臥
不問時節久近とは、親鸞の中でどういう議論なのか、時間ある中で、今後、信の巻と化身
土の巻の議論からその意味を探っていきたいと思います。

181 :元々ぼら夫:2005/10/30(日) 00:14:51 ID:2c1HAmN3
なんで、渡海サンは喧嘩腰なの?過去になにがあったか知らんが、私はあなたに教行信証
読んでいないなんて言われる筋合いはない。略典はお読みになられたの?和語聖教は?座禅についての論及は
一切ないでしょ。もし、他者に説明するつもりがあるのならば、すべて踏まえた上で論述すべき。
それが道理でしょ。質問者がだれであれ、反論・賛同に関係なく、ちゃんと論述するのが
このスレタイでスレ立てした以上、必要最低限のマナーだと思う。テンプレに「私の読み方に
賛同する人のみ入ってよっすぅぃ〜♪」ってうたっておいてよ。そしたら、来ないからw


182 :名無しさん@3周年:2005/10/30(日) 00:24:41 ID:oNBqMVc6
>>181
何が原因なのかは分かりませんが、渡海さんには
何らかの過剰な被害者意識があるように見えます。
相手を忌避するようなものではなく、落ち着いた論述を伺いたいものですね。

183 :元々ぼら夫:2005/10/30(日) 00:47:23 ID:2c1HAmN3
あと、法然聖人は、行状によれば、戒・定・恵の三学を「私はその一つさえも完成
できない器である」と言う嘆きから、観経疏の文句に出遇われたといわれている。
十分に踏まえるべき点。たとえ『行状』が後代の作としても、真宗の存覚さんの
『法華問答』や、宗祖聖人の『化巻』「よく己が分を思量せよ」は、その意思を
引き継いでおられる。禅定に酔いしれている方にとっては痛烈な言葉なんじゃ
なかったのかな?真宗の僧侶の堕落論を私なりに考えているんだけど、信因称報っていう
固定化した概念に囚われて、いつ何時も活動している名号を


184 :元々ぼら夫:2005/10/30(日) 00:56:17 ID:2c1HAmN3
>>183つづき
携帯からだと、う〜w。
南無阿弥陀仏を生き物ととらえずに、寺に生まれたんだから往生間違いなしと
勝手に思っている人も多いんじゃないかと。それが堕落だと、私は思ってます。
思えば、三業惑乱はそうした意味で起こるべくして起こった事だと最近考える
ようになりました。とりとめなくてスマソ。(^-^)/ホナナ〜


185 :名無しさん@3周年:2005/10/30(日) 16:37:06 ID:5g1763sx
渡海さんは哲学板にもカキコしているが
あのスレとこのスレではテンション違い杉

186 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 18:47:39 ID:fej/lu4H
>>181
>なんで、渡海サンは喧嘩腰なの

 気のせいじゃないの?。
 まあ、人は相手の鏡になることがあるらしい。一方が笑えば相手も笑う。相手方が怒れば、そ
れに顔合わせしている相手も怒る。
 人間は感情の動物だ。僕が喧嘩腰に映っていれば、僕の方にも自制すべき感情があるのか
もしれませんね。

>私はあなたに教行信証読んでいないなんて言われる筋合いはない。

 それじゃ、五会法事儀讃の文章は、貴方はどのように読みましたか?。言及されてる箇所が極
めて少ない。仏心宗としては「聖道門」としての扱いというのは、残された文書からみて動かせな
い(>>174)などと言っているんじゃ、読んだ内には入らんと思いますよ。言及されてる箇所が極め
て少ないなら、その理由もよく考えたらどうですか?。仏心宗は聖道門というのが動かせないなら、
座禅して念仏申せはどういう意味か、考えないんですか。
 五会法事儀讃の文章は、親鸞の間違い、書き損ない。勘違いとでもいうなら、話は別だ。「聖教
をば読めども、真実に読みもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり」。俺は読んでいる
と胸を張るなら、嘘はったりでなく、人に笑われないようにしたいものですね。

>略典はお読みになられたの?和語聖教は?

 「聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごとなり」。まあ、
そんなところでしょう。

187 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 18:50:30 ID:fej/lu4H
>座禅についての論及は一切ないでしょ。

 昔の人にとっては当たり前すぎて、議論の余地がなく、論争の種になるようなことではなかっ
たということだ。
 鎌倉時代は、胡座が通常の着座スタイルだった。車座の中で親鸞が、「念仏はこうやって称え
る」といって、結跏趺坐か半跏趺坐に組み換え、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と一回でも称
えて見せれば、それでは分からんとか可笑しいという人など、いるわけない。議論になるなんて
ことは絶対になかったろう。

 歩くとき、人は右足と左足を交互に前に出しながら歩く。世界中の小説、週刊誌、新聞紙を探
してごらん。「登場人物は、右足と左足を交互に前に出しながら歩いていました」などと書いて
ある記事があると思うか。そんな記事は限りなくゼロ%に近い。それじゃ、人は右足と左足を交
互に前に出しながらは歩かないのか?。そんな疑問を持つ馬鹿はおらんのよ。

 誰も不思議に思わない。議論にもならない。そんなことは現代でも誰も書かない。まして、紙
一枚でも貴重な鎌倉時代に、饒舌に無駄なことまで書くなんてことはなかったろう。書くという
のは、書く必要があったということだ。
 ただ、教行信証は浄土真宗の体系書なんだ。体系書は議論の余地があることも無いことも書
く。人間の体には心臓があるなんてことは常識で、議論の余地がない。それでも、人間の体を体
系的に図示する人体解剖図では、心臓を欠落することはできない。当たり前すぎて議論になら
んと言ってそれを欠落すれば、解剖図(体系書)を書いたことにはならないんだ。

 浄土真宗の完璧な体系書は、宗祖親鸞が書いた教行信証一巻しかない。だから、座禅して念
仏すると言うことは、教行信証にしか書いてない。浄土真宗の体系は、この教行信証による。教
行信証以外の書は全て部分書だ。体系書と部分書とを同列に扱ったら、本質を間違える。部分
書には、世間で議論にならんことは書いてない。だから、部分書では体系的に全容を知ることは
できない。


188 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 18:52:22 ID:fej/lu4H
 選択本願念仏集は、禅定博陸月輪殿兼実・法名円照の教命に依って撰集せしむるところなり。
真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し。誠にこれ、希有最勝の華文、無上
甚深の宝典なり。

 真宗の簡要と念仏の奥義は選択本願念仏集に全て書いてある。全て選択本願念仏集に書い
てあるなら、教行信証なんかいらんじゃないか。どうして屋上屋を重ねるような書物が必要なの
か。
 選択本願念仏集では現れてないことがある。選択本願念仏集には当たり前なことは書いてな
い。体系立てて書いてない書にはそういう問題がある。法然は、浄土真宗をひらき、それに基づ
いて選択本願を述べられた。親鸞は、法然の選択本願の背景にある真理の体系をもれなく明らか
にしている。それが教行信証なんです。

 教行信証は、浄土真宗の全容を余すことなく網羅している。体系書と部分的議論書とを同列に
扱い、言及されてる箇所が極めて少ないなどというのは、理由にならない。言及されてる箇所が
極めて少ないというなら、その理由も考えなさいよ。当時は議論にもならなかったんだろうとい
うのは、いの一番に考えることだ。当時現代とは時代が違う。時代が変われば、議論の中身は変
わってくる。親鸞在世中に議論になったことだけが書いてある部分書だけを読んでいれば、大事
なことを見落とすだろう。全体を網羅している体系書をきちんと読まなけりゃ本質を見失う。一
言一句を疎かにすれば、正しい理解なんかできるわけない。

 禅宗は聖道の教えだから必要はないと言いながら、親鸞が座禅して念仏してみせれば「おかし
いや、それは念仏じゃない。それは座禅だ」などという人はいなかったろう。額縁の嵌っている
絵を見て、「それは絵じゃない。額縁だ」などという非常識人は、元々ぼら夫サン以外にはいない
というのと同じ理屈だ。

189 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 18:55:02 ID:fej/lu4H
>ちゃんと論述するのがこのスレタイでスレ立てした以上、必要最低限のマナーだと思う。

 ちゃんと論述しているつもりだが、こちらも感情の動物だ。貴方に聞く耳がなく、突拍子もな
いことを言い出せば、僕は貴方の鏡になるだろう。貴方も感情の動物なら、こっちも感情の動物
であることを忘れられても困る。感情はある程度抑制も必要ということは認めます。

>>182
>渡海さんには何らかの過剰な被害者意識があるように見えます。
 渡海にも見えてないことがあるかも知れんが、182は自分の姿を渡海に投影して見えている
んだろう(苦笑)。

>相手を忌避するようなものではなく、落ち着いた論述を伺いたいものですね。

 落ち着いた論述も必要だが、感情を離れた論述などは存在しない。議論には、熱く燃える感情
も必要だ。

>>183
>法然聖人は、 〜 と言う嘆きから、観経疏の文句に出遇われたといわれている。
     知らんな。聞いたこともない。まあ、貴方の錯覚だろう。

>その意思を引き継いでおられる。
     <知らんな。聞いたこともない。夢でも見てるんじゃないか?>


190 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 18:56:45 ID:fej/lu4H
>禅定に酔いしれている方にとっては痛烈な言葉なんじゃなかったのかな
     座禅が嫌いな人には、だれも座禅なんかは勧めてないよ。

>いつ何時も活動している名号     <夢でも見ているんだろう。目を覚ましたらどう?>

>南無阿弥陀仏を生き物ととらえ

 刺身にでもして食うつもりか?。「私の読み方に賛同する人のみ入ってよっすぅぃ〜♪」なん
て言うつもりはないが、幼児趣味の夢物語、お伽噺が聞きたくてスレを立てたつもりはないです
よ。幼児のお伽噺に酔いしれている方にとって、僕の言葉は痛烈かもしれません。

>三業惑乱はそうした意味で起こるべくして起こった事だと最近考えるようになりました。

 寺から浄土真宗が消えたのは、百年、二百年昔なんてスケールじゃなく、数百年も昔に遡ると
いうことだろう。

191 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/30(日) 19:01:32 ID:fej/lu4H
 念仏道場が念仏道場の看板を外して寺になったとき、座禅して念仏するという原則が浄土真宗か
ら消えた。昔の人は、念仏は座禅して行うのが原則なんてことは、当たり前すぎて議論もしなかった
ろう。朝起きたら顔を洗う。夜寝る前には小便を済ませる。そんな程度の当たり前のことだったろうと
思う。
 念仏道場では座禅して念仏していた民衆も、家に帰ったり、田畑に出れば歩きながらでも、寝転が
りながらでも念仏を称えていた。座禅して称えている人は、歩きながらでも、寝転がりながらでも念
仏は自然に称えられるものだ。経験すれば分かるだろう。彼らにとって、座禅して念仏することも当
たり前のことだったが、座禅しないで念仏することも、議論の余地のないほど当たり前すぎるほど自
然なことだったと思う。

 信長の鉄砲隊でも崩せなかった一向宗は、キリシタンと同じように、徳川家にとっても脅威だった
はずだ。幕府はキリシタンに対しては弾圧政策をとった。一向宗については懐柔策をとった。こうし
た巧妙な策略を立てることができるような人物は、数多くない。歴史にも名が残るような天才的な大
物に違いない。歴史にも名が残る天才宗教政治家と言えば、僕は天海僧正以外知らない。
 一向宗の解体に鉄砲はいらない。念仏を禁止する必要はない。念仏道場での寄り合いさえなく
せばいい。多くの人々が、自由に一度に集合することを禁止すれば、一向宗は魂が抜ける。天海
はそう思ったんだろう。
 念仏道場では座禅して念仏を称えていた人々も、寄り合いが禁止されれば座禅からは自然に縁
遠くなる。念仏そのものを禁止するものではないので抵抗もない。座禅して念仏することの重要性
に気が付いていたのは、蓮如亡き後の時代、本願寺の坊さんでなく、幕府の重臣、天海僧正一人
だったかもしれない。一向宗のエネルギーの源泉は、座禅して念仏を称える念仏行とその直後の
談合にある。天海ならそう直感しても不思議はない。座禅して称えることを忘れた本願寺教団は、
天海僧正の目論見が当たり、音もなく、急速に魂が抜けて瓦解していった。

浄土真宗などは、徳川時代初期に事実上魂が抜けて崩壊した。仕掛け人は鉄砲でなく、天海僧正
一人の知恵だったというのが僕の仮説だ。可笑しければ笑ってもいいよ。

192 :元々ぼら夫:2005/10/30(日) 20:46:43 ID:2c1HAmN3
>>191
渡海サン、いろいろレススマソ♪ちなみに私はちぃとも怒ってませんから、しっかりとした
議論をしましょ。もしかしたら、お互いに発見があるやもしれませぬ。あと、禅は
嫌いではありません。私の場合は、鈴木大拙師の禅思想しか知らんので、これから、
おベンキョしなければならない重要項目に入ってます。でも、あくまで「部外者の立場として」
が前提での話ですが。で、本題なんですが、座禅(結跏趺座)をして念仏をとなえるのが
当時の常識だった、というのは、何故そう言えるのか?できれば、史料を教えて
いただきたいのですが。
(^-^)/デワ

193 :名無しさん@3周年:2005/10/30(日) 23:15:49 ID:IhCQRokC
>>192
元々ぼら太さんはえらいねえ。感心する。
実際、「真宗僧侶の堕落論」という問題意識を抱えて生きるのは大変だと思う。
まだ若そうだけど、マジメな人なんだろうね。
渡海もマジメなだけが取り柄だから、なにか得るものがあるのかもしれない。
もっともオレは渡海あぼーんしてるんで、何書いてるかわからんけど(w
あなたのレス読むだけで大体想像がつくから何も言わない。
それじゃ、頑張ってレスしてくださいね、楽しみにしてます。


194 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/10/31(月) 20:19:34 ID:ydWFqsCE
>>192
元々ぼら夫サン、こちらも私はちぃとも怒ってませんから安心してください。

>史料を教えていただきたいのですが。 

 座禅の件については、以上をもってこちらは終わりとします。これ以上書いてもこれまでの繰
り返しになるだけです。私が貴方に言うべき事は、もう言い尽くしました。これ以上、貴方の質問
に答えても、砂漠に水をまいてるだけのことです。貴方の問いには、僕はこれまで既に、十分す
ぎる程に答えました。既に書いてあるカキコを読み返して下さい。
 貴方の場合、「史料を教えていただきたい」と相手に頼むことより、目掃除、耳掃除、心掃除が
必要なようです。貴方は、高い気位が、目詰まり、耳詰まり、心詰まりを惹き起こしている。目掃
除、耳掃除、心掃除をすれば、糞詰まり現象を起こしている「鈴木大拙師禅思想」も排泄されて
いくでしょう。水洗便所で流れていくでしょう。「私はあなたに教行信証を読んでいないなんて言
われる筋合いはない」などという、こんな意識も綺麗に洗い流せると思います。「行住座臥不問
時節久近」のあんな読み方で意地を張られれば、こっちとはまともな話などできるはずもない。

 虚心坦懐になって目掃除、耳掃除、心掃除を行い、身を清めてから百回でも二百回でも教行
信証を読んでみなさいよ。全文を書き写してみなさい。それでも分からなかったら、他人に質問
するのもいい。自分がろくに努力もしないで、一方的に教えろ、教えろでは、付き合い切れん。
前にも書いたが、僕は貴方の家庭教師じゃないんだ。

 それでも教えろ、教えろと言うんなら、教えて欲しいと頼む相手に、自分はどこに住んでいるナ
ニノタレベエだか、きちんと自分の氏素性を明らかにする気はあるのか?。プロにはプロとしての
質問の作法がある。自分は真宗の僧侶だというなら、作法を守ったプロなりの質問の仕方をした
らどう?。
 質問の作法も知らんで、気位だけがお山の大将で高くなっていれば、山猿坊主と言われても仕
方あるまい。
 まあ、それよりも、まず、目掃除、耳掃除、心掃除をしなさい。全てはその後にするといい。

195 :元々ぼら夫:2005/10/31(月) 21:17:50 ID:Vy/7/zVE
>>194
いくら渡海サンが、当時、座禅して念仏するのが常識だったと何度おっしゃっても、
証拠がなければ、仮説にもならない。渡海サンは平安末期〜鎌倉時代にかけて生まれた人?
私は、昭和生まれ。そうゆう私たちが仮説を建てるためには、当時の史料によって、
客観的にみていかなければならない。そうゆう基礎が必要だということ。私の未だ
見てない史料が、渡海サンから提出されるかも〜、とワクワクしてたんですが、
ちょっぴり残念でした。時代小説書くためにも、膨大な史料と取材が不可欠。
それを怠れば、空想小説と言われても仕方ない。


196 :元々ぼら夫:2005/10/31(月) 22:44:47 ID:Vy/7/zVE
>>渡海サン
もう、この件については終了だそうなので(もちっとじっくりやりたいトコですがw)、
あくまで仮説ではありますが、私なりの結論をカキコしまつ。【お釈迦さまが、父王に対し
「座禅して念仏すべし」と言われた】文を宗祖が引かれた意図について。
まず、教行信証は、引用の流れが重要と渡海サンもおっしゃるように、この文句は、
すぐ後に続く同じく法照師の引文ともあわせて解釈すべきでありましょう。
すなわち、仏本行経に依るとする偈文がそれです。ここでは、
持戒・座禅と念仏成仏を明らかに対比されています。字数足りん〜つづく〜


197 :元々ぼら夫:2005/10/31(月) 23:08:11 ID:Vy/7/zVE
>>196
その偈文中には「禅律は如何んぞ是れ正法ならん。念仏三昧是れ真宗なり」
とあります。上の引用だけ取れば、座禅して念仏するのをお釈迦様が勧めているように
見えるが、後に引かれるこの偈文では、「なんで、禅律が正法といえるのだろうか
、念仏三昧こそ真の宗(むね)である」と言う。踵を返される感がある罠w。ま、
それが親鸞聖人の文書の魅力でもあるんですけど。私は現時点では、次のように
解釈したらよい鴨〜と考えております。あくまで仮説ですので反論ある方は、
ただし、しっかりした論拠で、おながいしまつ♪
〜つづく〜


198 :元々ぼら夫:2005/10/31(月) 23:30:38 ID:Vy/7/zVE
>>197つづき
まず、お釈迦様が父王に座禅して念仏するのを勧められたのは、いつの話か?
正像末の三時から言えば、正法花盛りの時期。修行法の疑問に関しても、
お釈迦様先生に尋ねて判断を仰ぐことができた。禅定という極めて微妙で深遠な、
しかし間違うととんでもない結果におちいる(『大乗起信論』等参照)ものでも、
お釈迦様に間違いないか聞く事が可能だった。しかし、お釈迦様滅後から時代遠く離れた
私にとって、尋ねたくても答える人なく、答える人がいても、その人が正しい事を
言っているのかさえ判断できない。
〜つづく〜


199 :元々ぼら夫:2005/10/31(月) 23:50:09 ID:+DU6tFAg
長くてスマソ。
>>198
座禅も如実に修行すれば、仏果を証することができようが、今現在無仏の時代において、
如何すべきか。で、法照師は偈文中で「好悪今の時すべからく決択すべし」と言って、
禅律に選んで、念仏三昧を真宗とされた。と、流れで読めば、そう読めるんではないかと。
ま、正像末の三時によって解釈してみた仮説です。たぶん穴も多いと、自分自身
思うので、志有る方は、チェックよろしゅうお願いしまつ。
追伸
>>193
サンキュー♪でも、えらい事じゃなくて、私にとっては、たのしく有りがたい事です。
m(__)mデワデワ。


200 :名無しさん@3周年:2005/11/01(火) 01:10:05 ID:h42SdSGs
    ____
  /::::::::::::::::::::\ 
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|:::::::::::|_|_|_|_|_|    ←渡海 難
|_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ   
|::( 6  ー─◎─◎ )   この顔に ピーンときたら 削除依頼
|ノ  (∵∴∪( o o)∴)
|   <  ∵   3 ∵>
\           ノ
(´            )
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┃   □■□■□    心と宗教板自治条例     □■□■□    ┃
┃                                          ┃
┃       第1条   2005年11月1日公布                ┃
┃               2005年11月1日施行                ┃
┃                                          ┃
┃  渡海難及び渡海難と思しき書き込みは、やむを得ない     ┃
┃   事情がある場合を除き、これにレスをつけることを禁ずる。   ┃
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┃  同様にこれを禁ずる。                         ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

201 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 13:48:22 ID:Pf+8YnpS
>>180
 行住座臥不問時節久近という言葉は、親鸞の中で信の巻と化身土の巻とに登場します。行住座
臥不問時節久近とは、念仏の心を表しています。
 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望
む」。岩波茂雄の言葉である。岩波文庫の巻末に記載してある。岩波茂雄の思想は、僕は親鸞の
思想に一脈通じるものがあると思っている。親鸞は、真理を人格的に捉えて擬人化し、これを釈
迦とは別異の阿弥陀仏と呼ぶ。真理と芸術には独自の意思がある。岩波茂雄も真理を人格として
捉えているようだ。
 画家は花を先生と仰ぎ、花に美の神髄を学ぶ。生命学者は花を先生と仰ぎ、花に生命の起源を
学ぶ。真理は花に宿り、画家を奮い立たせ、勇気を起こさせ、様々な苦難を克服させ、やがて画
家に美の神髄を覚らせ、画家に絵画の巨匠、偉大な絵画の創作者としての地位を付与してくる。
また、真理は生命学者を奮い立たせ、勇気を起こさせ、様々な苦難を克服させ、やがて生命の本
質を覚らせ、真理の偉大な発見者としての地位を付与してくる。

202 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/06(日) 13:50:15 ID:Pf+8YnpS
 かつて釈尊先生は、自分を先生と呼ぶ者に全身全霊をもって真理を明らかにしようと決意して
いた。釈尊先生は、誰でも彼でも救いあげようとするものではない。釈迦に向かって釈迦を、ア
ホ、バカ、オオバカヤローなどと罵ってくる者に向かって限りない真理を伝えようとする意思はな
かったろう。花が嫌いな人は、花から学ぶことはできない。石が嫌いな人は、石から学ぶことは
できない。
 釈迦は、釈迦を先生と呼ぶ者に真理を明らかにしようと決めていた。釈尊先生は、釈尊先生に
背中を向けても、口だけは「先生」と呼んでくる者、下を向いて「先生」と呼ぶ者、蚊の鳴くような小
さな声で「先生」と言ってくる者、相手の姿勢は問題にしなかった。姿勢は問題にしない釈尊先生
のそんな姿に弟子達は感動し、弟子達は感嘆詞を重ね、ああ先生と仰いだ。先生をああ先生と
仰ぐ弟子達に、先生は全力で真理を教えた。
 阿弥陀仏とは先生という意味である。真理は姿勢を問題にしない。自分を先生と呼ぶ者に知恵
の光を与え、継続の命を与えてくる。「先生」なんてのは、相手にお尻を向けて言ってもいいんだ。
俯き加減で蚊の鳴くような小さな声で言ってもいい。こんな気楽な話はない。なんでもいいんだ。
本願寺の坊さんの話はここで終わる。

 行の巻きは、念仏を称える意義と方法を論じている。親鸞は、元々ぼら夫さん以外の人に向か
って説いている。
 先生の深い心が分かれば、座禅して念仏申したらいかがでしょうか。親鸞さん、法照さんは、人
に対する礼儀を知らない山猿坊主以外にはそう教えている。

 行住座臥不問時節久近とは、先生の心を明らかにしています。リクエストがあれば、信の巻の
議論をしてみます。無ければ、しばらく静観します。

203 :名無しさん@3周年:2005/11/15(火) 21:44:36 ID:TKgv+zZf
yata〜 静観da〜

204 :名無しさん@3周年:2005/11/18(金) 15:21:15 ID:IZyF6KwY
age

205 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/11/24(木) 21:34:45 ID:gNEsl1W7
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/
 徐々にですが、教行信証論を進められそうです。

206 :名無しさん@3周年:2005/11/25(金) 01:16:40 ID:5PrjZFH3
>>205
宣伝するな、キチガイ

207 :名無しさん@3周年:2005/11/26(土) 20:14:34 ID:G9gOGL5d
    _____
   /二二ヽ
   ||・ω・|| <ティン!!!!!
   |σ |σ
    >  >

208 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/04(日) 23:17:48 ID:iBJJ3dGK
 お待たせしております。多忙で先に進めません。
 それでもすこし書き足しをしました。
 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/

209 :某大谷高卒:2005/12/07(水) 20:06:30 ID:dUGz81vp
某大谷高卒の低学歴のものですが・・。
親戚が急逝し、正信掲を念じてあげたいと思います。
もちろん宗派は同じ大谷派なので問題はありません。
どうやって独学したらいいでしょうか?
テープは買ってきたけど活用法がわかりません・・。
開経掲→正信掲、順番はどうしたら?
生きるものにも、死んだものにも、輪廻を説くお経はひつようですね。

210 :名無しさん@3周年:2005/12/08(木) 22:10:56 ID:9W6JJ2yw
>>209
> どうやって独学したらいいでしょうか?

 こっちで質問するといいでしょう。↓
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1133164138/


211 :名無しさん@3周年:2005/12/09(金) 00:33:31 ID:l0hk1U0C
>>209
あのスレで質問する場合はちゃんと誘導元を書いた方がいいよ。
釣りと勘違いされる。

212 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/17(土) 08:28:08 ID:f/6Be4/m
すこし書き足しました。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/


213 :名無しさん@3周年:2005/12/18(日) 01:44:34 ID:hkfYLW88
>>212
向こうのスレでやるんだったら、このスレ削除ね

214 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/19(月) 00:48:22 ID:Vv8M3A1w
>>213
> 向こうのスレでやるんだったら、このスレ削除ね

 もっと書けという催促か(苦笑)。
 こっちのスレでやろうと思ったらいくらでもネタはあるんだよ。

 問題提起しよう。
 阿弥陀仏実在説、極楽浄土実在説、霊魂実在説、地獄実在説は誤りか。
 なぜ誤りか(理由)。
 阿弥陀仏非実在説、極楽浄土非実在説、霊魂非実在説、地獄非実在説
は正しいか。
 なぜ正しいのか(理由)。
 往生極楽とはどういうことか。往の主体は何か。生の主体は何か。
 往と生とは同じか、違うか。
到達先はどこか。

 この問題については、よく分からない人も多そうだ。説明できるという人も
いそうなので、この際そういう人にハッキリと説明してもらいたいものだ。
 
 


215 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/26(月) 08:40:03 ID:7oJ78xoX
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1129021608/613
>浄土真宗では、仏性を否定する立場ですか?肯定する立場ですか?
>否定も肯定も出来ない立場ですか?

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1129021608/647
>では、皆さんお浄土でお会い出来ます、という浄土真宗の坊さんの、
>法事のお話は、親鸞聖人の教えからも、浄土宗祖師の教えからも、
>反した表現なのですね。
>しかし、そのような説き方しか浄土真宗の坊さんは話をしません。
>真実をありのままに説くべきではないのか。浄土などなく、阿弥陀仏
>など存在しないのだと。
>となれば、本願とはなんだ。念仏とは?門徒からお布施を巻き上げ
>るためのウソなのか。

 スレは違うんですが、面白い視点からの問題提起だろうと思うので、
これらの問題も考えて行ってみたいと思います。

216 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/26(月) 17:05:19 ID:7oJ78xoX
 最近、面白い問題が続々と出ているので書き留めておこう。

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1133596497/564
「自分には前世と来世があることと、それらを通じての
自因自果・善因善果・悪因悪果が、絶対に真実である」

 このような考え方は、仏教が言う因果の法則に照らして正しいか。


http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1134535336/228
輪廻が説かれて、その後その主体は何なのか


http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1134535336/157
辺際がないなら、西方も含まれますよ。
質問するだけでなく、こちらの質問にも答えていただけませんか?
宗祖が西方不可思議尊と使われた意図をどう解釈しますか?

 時間が許せば、一つ一つ考えて行きたいと思います。

217 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/28(水) 10:04:41 ID:13KUE3lS
>>216
> 「自分には前世と来世があることと、それらを通じての
> 自因自果・善因善果・悪因悪果が、絶対に真実である」
>  このような考え方は、仏教が言う因果の法則に照らして正しいか。

 因果の道理を考える。
 鈴木太郎君は、人一倍努力して東京大学医学部に入学した。(善因善果)
 山田花子さんは、ほとんど勉強しなかったので高等学校を卒業できなかった(悪因悪果)。
 高橋次郎君は、ほとんど勉強しないで遊んでばかりいたけど、東京大学医学部に入学した(悪
因善果)。
 斉藤洋子さんは、人一倍努力して勉強したが、全ての大学に落ちて2浪中である(善因悪果)。

 善因を積んで、善果を得ることもあれば悪果となることもある。悪因を積んでも善果を得るこ
ともあれば、悪果を得ることもある。善果を得るか、悪果を得るかは縁が大きく左右する。高橋
次郎君は1986年生まれだった。高橋次郎君は、1986年以前、つまり生まれる前の1984年、
1983年頃、必死に微分積分や漢文の勉強をしていたから、つまり生前に宿善を積んでいたか
ら今生で試験に受かったなどと考えることは、外道の思想だ。
 山田花子さんは、1986年生まれだった。山田花子さんは、1986年以前、つまり生まれ
る前の1984年、1983年頃、他人が勉強しているときに、盛んに他人の勉強を邪魔したか
ら、つまり宿悪を積んでいたから、今生で試験に落ちたなどと考えることは、外道の思想だ。
 鈴木太郎君は1986年生まれだった。1986年生まれは、2076年頃は生きてないだろう。
鈴木太郎君はガンバリ屋だから、死後の2079年頃は今生の宿善が功を奏して幸せを得て
いるだろうなどと考えることは、外道の思想だ。

218 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/28(水) 10:08:10 ID:13KUE3lS
 因果には二つある。真実の因果と迷いの因果である。善因を積めば必ず善果を得られる因果を
真実の因果という。善因を積んで、善果を得ることもあれば悪果を得ることもある因果を迷いの
因果という。迷いの因果では、果は因と縁とが和合して生じる。縁は様々な可能性を包含する。
 新潟を目指し、秋田駅から羽越線に乗れば(因)、ほとんどの人は新潟に到着できる(果)。
しかし、列車が突風にあおられれば(縁)、果は因と縁が和合して生じる。列車が突風にあおら
れなかったという縁と和合すれば、乗客は新潟に到着できるという果を得る。列車が突風にあお
られたという縁と和合すれば、新潟に到着できないという果を得る。

 真実の因果は、物事の本質に着目する。迷いの因果は、現実の表象に着目する。水は上から下
に流れる。流路の上流に水を置けば、水は必ず下流に流れる。これは真実の因果である。しかし、
銚子沖に地震が発生し、津波がおきれば海水は利根川を遡上する。この場合、水は下から上に向
かう。津波で利根川を遡上するということがあるなら、「水は上から下に流れる」という提言は間違い
か。「水は上から下に流れる」という提言は間違いであるという人はいないだろう。「水は上から下に
流れる」という提言は、水の本質に着目している。津波で利根川を遡上したということは、表象の現
象に過ぎない。水が下流から上流に向かったと言うことは、水の本質ではない。地震津波という縁に
出会ったに過ぎない。

 鈴木太郎君は、人一倍努力して東京大学医学部に入学した。斉藤洋子さんは、人一倍努力して
勉強したが、全ての大学に落ちて2浪中である。こんなことは、実は物事の本質ではない。合格・不
合格はものの本質ではない。努力するということ、これが大事。努力すれば(善因)、努力したという
善果が得られる。これが大事なことだ。その結果、試験に受かったか、受からなかったかは、表象
の問題である。物事の本質ではない。表象は様々な可能性を孕む縁が絡む。縁は何人にも計り知
れない。

219 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/28(水) 10:09:10 ID:13KUE3lS
 「鈴木太郎君は、人一倍努力して東京大学医学部に入学した」。これを善因善果と言ってはい
けない。「斉藤洋子さんは、人一倍努力して勉強したが、全ての大学に落ちて2浪中である」。
これを善因悪果と言ってはいけない。鈴木太郎君は人一倍努力したから(因)、人一倍努力した
という果を得た。斉藤洋子さんも人一倍努力したから(因)、人一倍努力したという果を得た。
これが真実の因果則である。鈴木太郎君と斉藤洋子さんとでは、縁に相違あり、表象には縁の相
違が現れたが、本質は同じ因果に立っている。

 「山田花子さんは、ほとんど勉強しなかったので高等学校を卒業できなかった」。これを悪因
悪果と言ってはいけない。「高橋次郎君は、ほとんど勉強しないで遊んでばかりいたけど、東京
大学医学部に入学した」。これを悪因善果と言ってはいけない。山田花子さんも高橋次郎君も、
ほとんど勉強しないという因により、ほとんど勉強しなかったという果を得た。二人は縁に相違
があり、表象にはその縁の相違が現れた。しかし、本質は同じ因果に立っている。
 
 因果則は十二因縁が原点である。続く

220 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/29(木) 09:12:30 ID:7xj5plSX
<十二因縁>
 仏教の因果則は、十二因縁の法則が原点である。十二因縁の法則は、「迷いの原因は無
明にある」という原理である。
 挫折(死)・再起(生)・彷徨(病)・疲弊(老)・挫折(死)・再起(生)。人は限りなく、限りなく迷
いを繰り返す。けだものの心でけだものの行為をする者をけだものという。鬼の心で鬼の行為
をする者を鬼という。人は、鬼となり、けだものとなり、有頂天になったかと思えば、地獄の底
に墜ちていくこともある(輪廻)。そのたびに、古い自分が死に、新しい自分が誕生する(転生)。
けだものが人に変わっても、けだものの時(過去世)の自分の行為が、人になったとき(現在
世)で消えているわけではない。今(現在世)、有頂天になっていれば、やがて(未来世)それ
が地獄の苦しみの引き金にならないとも限らない(三世両重の因果)。

 <悪因悪果>
 再起・挫折・再起・挫折の原因は、実に、我々自身の愚かさにある。無知にある。その愚かさ、
無知は、私の誕生で始まったものでなく、私の死で終わるものでもない。現在の私の再起・挫
折・再起・挫折は、過去の無数の人々が繰り返し、繰り返し重ねてきた再起・挫折・再起・挫折
といささかの違いもない。現在の私の再起・挫折・再起・挫折は、将来の無数の人々が繰り返
し、繰り返し重ねていくであろう再起・挫折・再起・挫折といささかの違いもない。今の私の愚か
さは、無限の過去から無限の未来に向けて連鎖している無限の愚かさの中の一瞬である。そ
の一瞬の再起・挫折・再起・挫折において私は生まれ、病み、老い、死んでいく。


221 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2005/12/29(木) 09:15:48 ID:7xj5plSX
 <善因善果>
 無明を断てば(因)、輪廻が切れる(果)。一度切れれば、迷いは尾を引かない。さあ、互い
に学びあおう。互いに教えあおう(大乗)。正しい認識(知恵)を、互いの共有財産として利用
し、享受しあおう(布施)。正しい認識(知恵)を得るように努力しあおう(持戒・精進・禅定)。多
少の苦しみは我慢しあおう(忍辱)。そうすれば、必ず輪廻が切れる。迷わなくて済むように
なる(断四流)。 

 1980年に生まれた人が、1960年頃(前世)に行った行為で、2005年に信心を得られる
かどうかが決まってくるなどと考えることは愚かなことだ。これは因果の法則ではない。
 2005年に生活していた人が、宗教団体に100万円をお布施すると、2070年頃に死に、
その後の2080年(来世)に信心を得るなどと考えることは愚かなことだ。インチキ宗教の騙
しのテクニックだ。こんな説を流布する阿呆は、詐欺師だろう。

<念仏成仏>
 釈迦は、無明を断つ手法として、三学を建てた。戒律・禅定・知恵である。釈迦が決めた規
則を守ることを誓った者に、禅定と知恵を明らかにした。有形の真理は知恵として直接開示
し、無形の真理は禅定という形で間接的に明らかにした。
 二千年も三千年も昔の価値観は、現代に合わない。釈迦の戒律は時代遅れだ。知恵も古
くなった。パン屋さん、おそば屋さんには、仏教の戒律はいらない。知恵もいらない。気を楽
しに、好きなときに、困ったときに、気楽な気分で座禅して念仏してごらん(因)。大きな悟りは
得られなくても、小さな気づきはあるだろう(果)。小さな気づきを重ねて行けば、きっとすばら
しい人生が開けてくるだろう。親鸞はそう教えてくれている。

222 :名無しさん@3周年:2005/12/30(金) 19:42:59 ID:iS08lBbz

             -=-::.
         /       \:\
         .|          ミ:::|
        ミ|_≡=、´ `, ≡=_、 |;/
 ,、i`ヽ   .. ||..● .| ̄|. ● |─/ヽ      ,r‐'ァ 
 `ヽ::    .|ヽ二/  \二/  ∂>    ::´
   ヽ ヽ   /.  ハ - −ハ   |_/    / /
    ヽ \ |  ヽ/ヽ/\_ノ  / |  _ / /  ┌────────────────────
     ヽ  ヽ\、 ヽ二二/ヽ  / / ,,/  , '  <親鸞フォーーーーーー!!
      ヽ  ` \i ___ /_/,    r'     └────────────────────
        ` 、_ /::: `山':::::    /
         ヽ:::::::::::|::::::::"",r‐'
          〉::::::::|::::::::::¨/
         /;;;;;;;/;;;;;;;;;;/
        /;;;;;;;/:::::::::::《
        <;;;;;;;《:::::::::::::ヽ
      /   ヽI,r''"""^~ヽ
     /   ,/ ヽ    ヽ


223 :質問です。:2006/01/05(木) 15:49:12 ID:kv+M/HCF
修善モ雑毒ナルユヘニ虚仮ノ行トゾナヅケタルの修善とは懺悔や感謝をも否定してしまうのですか?

224 :名無しさん@3周年:2006/01/06(金) 02:02:55 ID:vcymWfI2
>>223
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」

煩悩の混じらない、至心の善(ここでは無漏善とします)であれば懺悔や感謝も立派に、
成仏のための善となるかも知れません。
しかし凡夫には、煩悩を離れた無漏善は積めないのです。(積めれば凡夫ではないですね)
凡夫に積めるのは雑毒の混じった善(ここでは有漏善とします)というわけです。
そして有漏善では往生することも、まして成仏することもできないわけです。

無漏善や有漏善自体を否定するわけではありません。
無漏善は凡夫に積みがたく、凡夫の有漏善では往生できないということです。

真宗では阿弥陀仏の万行諸善が込められた名号を領受するだけで往生成仏するといいます。

225 :有難うございます:2006/01/06(金) 12:37:42 ID:c6CiQfJy
なるほど勘違いしてました。感謝や懺悔する事自体を否定している訳ではなく、修善自体が往生の手段でないと教えてくれてると理解しました。4首目5首目の下2行が重要なのだと理解しました。有難うございました、これからも拝見します。

226 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/06(金) 12:47:15 ID:cvIbXemY
>>223
> 修善モ雑毒ナルユヘニ虚仮ノ行トゾナヅケタルの修善とは懺悔や感謝
をも否定してしまうのですか?

 結論から先にいいましょう。その通りです。懺悔や感謝をも否定してしま
います。懺悔や感謝をも否定するのはおかしいと思うでしょう。
 懺悔というと仰々しいけど、懺悔というのは、反省、謝罪などそれに近い
ものでしょうね。そう考えてもいいですよね。反省、謝罪、感謝は、人間に
とって絶対に大事なことですよね。人はだれでも間違いを冒す。間違いを
冒さない人はいない。間違いを冒しても反省や謝罪の無い人いれば、僕
は犬畜生に劣ると思いますよ。懺悔や感謝なんかあっても往生できない、
まして成仏なんかできないなんて、そんな屁理屈で懺悔や感謝を否定す
るなら、そんな奴は、絶対犬畜生にも劣ると僕は思います。
 (しばらく多忙です。続く。)

227 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/06(金) 12:49:30 ID:cvIbXemY
>>225
 カキコが行き違いになりました。話は終わりましたか?。当方の今後のカキコは数日後です。

228 :名無しさん@3周年:2006/01/06(金) 13:01:38 ID:8E11irrC
帰命無量寿如来・南無不可思議光・法蔵菩薩因位時・在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因・国土人天之善悪・建立無上殊勝願・超発稀有大弘誓
五劫思唯之摂受・重誓名声聞十方・普放無量無辺光・無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光・不断難思無称光・超日月光照塵刹・一切群生蒙光照
本願名号正定業・至心信楽願為因・成等覚証大涅槃・死滅度願成就
如来所以興出世・唯説弥陀本願海・五濁悪時群生海・応信如来如実言
能発一念喜愛心・不断煩悩得涅槃・凡聖逆謗斉回入・如衆水入海一味
摂取心光常照護・已能雖破無明闇・貪愛瞋憎之雲霧・常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧・雲霧之下明無闇・獲信見敬大慶喜・即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人・聞信如来弘誓願・仏言広大勝解者・是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏・邪見僑慢悪衆生・信楽受持甚以難・難中之難無過斯
印度西天之論家・中夏日域之高僧・顕大聖興世正意・明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山・為衆告命南天竺・龍樹大士出於世・悉能摧破有無見
宣説大乗無上法・証歓喜地生安楽・顕示難行陸路苦・信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願・自然即時入必定・唯能常称如来号・応報大悲弘誓恩
天親菩薩造論説・帰命無碍光如来・依修多羅顕真実・光闡横超大誓願
広由本願力回向・為度群生彰一心・帰入功徳大宝海・必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界・即証真如法性身・遊煩悩林現神通・入生死園示応化


229 :名無しさん@3周年:2006/01/06(金) 22:07:07 ID:8E11irrC
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。


230 :225です:2006/01/06(金) 23:47:06 ID:c6CiQfJy
皆さん有難うございました。胸の支えがとれました。今後も楽しみにしてます。

231 :名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 10:40:51 ID:ZpFuDooS
帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩囚位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪事群生海 応信如来如実言
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 巳能雖破無明闇 貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 問信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏 邪見■慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力廻向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大B衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
本師曇A梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦
天@菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号歓専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋堤等獲三忍 即証法性之常楽
源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大非無倦常照我
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

232 :名無しさん@3周年:2006/01/09(月) 15:07:51 ID:fwNO2RHe
ガン末期患者などに対しての安楽死は真宗から見て認められるような事でしょうか?
安楽死は許されることなのですか?

233 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/09(月) 18:54:14 ID:E4ttpN47
>>230
> 皆さん有難うございました。胸の支えがとれました。今後も楽しみにしてます。

 当方も、>>224の意見にさらに蛇足的に加えることもありませんので、この件には触れません。

>>232
>安楽死は許されることなのですか?

 許したり許さなかったりすることはないと思いますよ。
 安楽死は許すべきか、許すべきでないかは、国家機関、医療機関、医師、看護師、倫理・哲学
の専門家、法曹関係者などが、国民の意見を聞きながら専門的に議論する問題でしょう。真宗の
問題ではなく、真宗の議論にはなじまないと思います。
 坊さんが、一個人として意見を持つのは、無論自由ですよ。一社会的存在である人間集団とし
ての教団が、民主主義のルールの中で発言するのも、ある面では民主主義の構成員として無論、
大事なことかも知れません。しかし、世の中は真宗の教義で動くものじゃない。真宗の教義が全
てではないでしょう。真宗教義は、所詮、緊急時に備えた消火器だと思います。消火器には消火
器の領分がある。
 「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。」
 真宗教義の議論には、なじむものとなじまないものとがある。真宗教義からは、この問題の回答
など何も導けないと思います。

234 :232:2006/01/09(月) 20:35:17 ID:v4DybOET
別に国民の意見とか世の中を動かそうとかそんな事は考えていませんが・・
許されるとか言った私の言い方が悪かったですね。すんません。

真宗教義的には安楽死についての考えはなじまないから何も出ない。
と考えておきます。どうもありがとうございました。

235 :名無しさん@3周年:2006/01/09(月) 21:52:38 ID:KaabzGkd
浄土真宗では「般若心経」を説かないと聞きましたが、本当ですか。
だとしたら理由はなぜですか。「自力」で「空」に至ろうとするのは誤り、と
いうより無理ということなのかなあ。

236 :名無しさん@3周年:2006/01/09(月) 22:00:32 ID:KaabzGkd
あと、因果律を過剰に強調するのは差別につながるのでやばいということで、
最近は仏教界(特に真宗)でも言わないそうですが、本当ですか。
不幸な人に因果を持ち出したら、落ち込むだろうなあ。この辺はデリケートな
ところなので、坊さんも口にしないわな。連続カキコすみませんでした。

237 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/11(水) 18:11:48 ID:EV0AYI90
>>235
 想像で書かせて貰います。
 普通、僕は「仮説」という扱いで意見を述べているんだけど、これは仮説と自分で言えるほど
まで自信がない。想像です。
 念仏を称える人でも、般若心経を読んではいかんということはない。誰もいかんなどと言って
ない。しかし、他宗派のように般若心経を儀式で読む伝統的はないようだ。二つ理由があると考
える。親鸞には、般若心経について言及している言葉がない。親鸞が般若心経を知らなかったは
ずはない。その親鸞が触れてないから、儀式などで読む伝統がない。これは、法華経も同じ。親
鸞は、天台宗出身だ。天台宗は法華経を重んじる。浄土系の宗派でも法華経を重視する宗派はあ
る。法華経にも阿弥陀仏が登場する。しかし、これには親鸞が触れてないから真宗は法華経を読
まない。
 親鸞にとって、般若心経も法華経も役に立たない経典なんだろう。親鸞にとって役に立つとは、
時代遅れの釈迦の三学を崩して称名念仏だけが唯一の行であるという説明に役立つ経典が良い経
典であり、その外はどうでもいい経典だ。そういうことけで、少なくとも法華経は扱わない。
 般若心経は、真正面から空を扱っている。空以外のことはほとんど扱っていない。仏教には二
つの説明方法がある。実体有を空という論理で説明する手法と、実体空を有という論理で説明す
る手法だ。両者は同じ事を言っているんだが、プロセスが違う。実体有を、空という論理で説明
するのが般若心経だ。これに対し、実体空を有という論理で説明する手法が輪廻論だ。輪廻と空
とは同じ事を言っている。しかし、一方は有という表現をとる。他方は空という手法を取る。浄
土教は、輪廻、つまり有という論拠からアプローチし、空を語る。有という論拠からアプローチ
する以上、空以外のことはほとんど扱っていない般若心経は、議論の俎上に上がらない。だから
親鸞は 般若心経を扱っていない。そういうことだろうと思う。

>>236
>仏教界(特に真宗)でも言わないそうですが、本当ですか。
    僕は知らない。

238 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/11(水) 18:21:45 ID:EV0AYI90
>>http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1135657426/461
>ちなみに先生は、「一念帰命の種がおりたあと、雑行の草があるはずがない。
>雑行の草がある間は、(阿弥陀仏は)一念帰命の種はおろせない」と言われていました。

>あと、「このアニメが出てから相当たつのに、『あの歌詞は間違っている』と言ってくれる親
>切な人はいない。何かワナがあるとでも思っているのかね・・・」と言われていました。

 面白い考えだね。高森さんらしい考えだと思うよ。
 親切な人になれるかどうか知らないが、近いうちに考えよう。

239 :225です。:2006/01/13(金) 00:52:14 ID:LJt5Xt9D
哲板の、我が名の件、とても疑問に思います。最初に南無阿弥陀佛って言ったのは誰ですか?

240 :名無しさん@3周年:2006/01/13(金) 19:33:03 ID:J141R+An
釈尊じゃないの?

241 :225です。:2006/01/13(金) 23:45:43 ID:LJt5Xt9D
無量寿経には南無を付けよとは書かれてないですよね。観無量寿経には南無阿弥陀佛って在りますけど、観無量寿経は中国で成立した新しいお経だと本で読みました。でも仏説観無量寿経だから釈尊が言ったと考えるんですね!何か変な質問しちゃいました。スミマセン。

242 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/13(金) 23:51:49 ID:FP1kggtg
>>239
>>241
 哲学板の議論は哲学板で考えましょう。

243 :225です。:2006/01/14(土) 00:55:06 ID:oqA9XoA4
スミマセン。

244 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/14(土) 14:50:50 ID:Ab0jjV/Z
 問題提起ばかりで、回答が追いつかない。一つ一つ考えていこう。
>>214   >阿弥陀仏実在説は誤りか。

 まあ、誤りというべきだろうね。阿弥陀仏に類似したものがどこかに存在しても、それは阿弥
陀仏ではない。まあ、それは化け物だろう。化け物は存在するかどうか、僕は知らない。
 阿弥陀仏は、基本的には人間の精神活動の真相を表す金剛界曼荼羅の一角だ。その概念を僕な
りに仮説的に明らかにしたい。
 印度には古くから四方を大事にする信仰があったようだ。恐らく、釈迦以前のバラモンの考え
の中にあったものだろう。万物は太陽を中心に動く。太陽は東から西に進行する。東は過去、西
は未来を象徴する。太陽が南にあるとき、人々は田畑を耕し、生産に従事する。だから南は生産
を象徴する。太陽が北にあるとき、人も休む。北は休息を象徴する。

245 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/14(土) 14:51:55 ID:Ab0jjV/Z
 人間には四種類の価値観がある。四種類の価値観をバランスを取ったとき、政治は安定する。
第一は、未来を大事にする価値観だ。彼らは未来こそ大事だと主張する。年金財源が破綻したら
どうするんだ。大変なことになる。彼らは未来を大事するため、その他の事は多少犠牲になって
もいいという。未来志向の主張は、現代でも政治的に重要は立場を占める。
 第二は、過去を大事する価値観だ。過去のあり方を大事する。日本は、過去を忘れてはいけな
い。歴史を大事してほしい。中国・韓国・北朝鮮からは盛んに注文が出る。社民党や朝日新聞な
どは、中国・韓国・北朝鮮の立場を盛んに代弁する。過去を大事するためには、その他は多少犠
牲になってもいいという。こういう主張は、現代でも政治的に重要は立場を占める。
 第三は、生産を大事にする価値観だ。生産こそ国の基盤。生産こそ第一。高度成長時代、日本
はこの考えで国力を増強してきた。今の中国は、かつての日本の姿に近い。生産を大事にするた
め、その他の事は犠牲になってもいいという。こういう主張は、現代でも政治的に重要は立場を
占める。
 第四は、休息を大事にする価値観だ。休息がなければ、人は生きていけない。もっと休もう。
過去も未来も生産も大事だろうが、休んでこそ生き甲斐だ。休息こそ全ての命の源泉だ。夏休み
を長くし、休日を増やし、土曜日を休みにする。こういう主張は、現代でも政治的に重要は立場
を占める。
 政争・戦争はこの四つの価値観のぶつかり合いで起きる。政治的な道義性は、この四つの、少
なくとも一つ以上に関係していなければならない。四つの価値観は、それぞれ武装し、相手に対
する攻撃・防備に怠らない。世界の頂点にある梵天の下で帝釈天は政治を司る。帝釈天は、東方
に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天を配する。これを四天王という。

246 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/14(土) 14:52:32 ID:Ab0jjV/Z
 バラモン教のこうした考えが仏教に影響した。かつて釈迦は、世界の光、全ての根元、まさに
太陽だった。登場した釈迦は教育者だった。多くの仏弟子を育てた。登場した釈迦は、医師だっ
た。王宮に伝わっていた医学を大衆に開放し、多くの病人を治療した。登場した釈迦はエンジニ
ヤだった。王宮に伝わっていた産業技術を大衆に開放し、生産力の拡大をもたらした。登場した
釈迦は休息所だった。人生に疲れ、行き場の失った人々に安らぎの場を与えた。このように、釈
迦には四つの大きな働きがあった。
 真理の中心は太陽である。金剛界曼荼羅は、中心に太陽を象徴する大日如来を配置する。教育
者は、未来を信じて未来に向かう。医師は、原因を過去に求めて過去を追求する。西に阿弥陀仏、
東には薬師如来とも言われる阿閃(しゅく)如来、南に宝生如来、北に不空成就如来を配置する。
 教育者としての釈迦の働きは、阿弥陀仏という概念で独立した。医師としての釈迦の働きは、
阿閃(しゅく)如来という概念で独立した。エンジニヤの働きは、宝生如来という概念で独立し
た。休息所の働きは、不空成就如来という概念で独立した。
 阿弥陀仏は、こうした宇宙観を背景にして生まれている。真理の理解には二つの道がある。抽
象化と象徴化である。ギリシャは思索に抽象化という手法を取った。印度は象徴化という手法を
取る。ものごとを、象徴化して捉え、象徴化して説明する。阿弥陀仏は、そのような象徴化手法
の一ツールである。何か、実体的に存在するものを呼称するものではないのだ。

(注 阿閃如来=薬師如来という説には反対も意見もあるようだ。この点は将来の検討課題であ
る。)

247 :名無しさん@3周年:2006/01/17(火) 17:36:22 ID:M+THBei9
親鸞会って大谷派?本願寺派?
真宗十派の一つなのですか?


248 :名無しさん@3周年:2006/01/19(木) 01:43:51 ID:6QL/Ecv9
なわけない。
とんでもないことを聞くな。

249 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/22(日) 00:03:38 ID:tveiZ3fs
>>215
>>では、皆さんお浄土でお会い出来ます、という浄土真宗の坊さんの、
>>法事のお話は、親鸞聖人の教えからも、浄土宗祖師の教えからも、
>>反した表現なのですね。

「皆さんお浄土でお会い出来ます」という考えの原点は何か。僕の想像だが、原点を紹介してみよ
う。そこからは何か見えてくるものがあるだろう。末灯抄の一部である。

 尋ね仰せられ候念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とて嫌われ候らんこと、
大方心得難く候。その故は、弥陀の本願と申すは、名号を称えん者をば極楽へ迎えんと誓わせ給
いたるを深く信じて、称うるが目出度き事にて候なり。信心ありとも、名号を称えざらんは、詮なく候。
また、一向、名号を称うとも、信心浅くは、往生し難く候。されば、念仏往生と深く信じて、しかも名号
を称えんずるは、疑いなき報土の往生にてあるべく候なり。詮ずる所、名号を称うというとも、他力本
願を信ぜざらんは、辺地に生まるべし。この身は今は年極まりて候えば、定めて先立ちて往生し候
わんずれば、浄土にて必ず必ず待ち参らせ候うべし。穴賢、穴賢。

250 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/22(日) 00:05:15 ID:Ha0eoD1Y
 念仏して極楽浄土に往生するんだと信じている人は、極楽浄土の辺地に往生する。そこは極楽
浄土の中心ではない。だからそれではいけないという考えがあるようです。その考えは、どうも賛
成できません。
 阿弥陀仏の本願は、南無阿弥陀仏を称える者を極楽浄土に迎えようという誓いであります。そ
れだけを深く信じて南無阿弥陀仏をお称えになれば、私はそれで十分だろうと思います。
 信心があっても、念仏を称えないなら残念なことです。ひたすら念仏を称えても、信心が浅け
れば極楽浄土に往生することは難しいでしょう。念仏して極楽浄土に往生するんだと深く信じ、念
仏を称える人は、必ず極楽浄土の中心に往生します。名号を称えていても、他力本願を信じるこ
とのない人は辺地に往生するでしょう。
 私は、もう余命が長くはありません。貴方が、他力本願を信じることができるようになり、極楽浄
土の中心に往生するときまで、私はもう生きていることはできないでしょう。私は、あなたより一足
お先に極楽浄土の中心に、既に確定的に往き生まれております。他力本願の信を得て極楽浄土
の中心に至った者は、鬼籍に入っても変わることはありません。極楽浄土の中心に留まります。
あなたも、いつか必ず正しい信心を得るときがくると確信しております。私は、貴方が極楽浄土の
中心に至るときを見守りつつ、鬼籍にあって極楽浄土の中心に往生される時をお待ちしています。

251 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/22(日) 00:06:06 ID:tveiZ3fs
 「この身は今は年極まりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待
ち参らせ候うべし」。

 この身は老齢となり、まもなく死を迎えます。私はあなたより先に死んで極楽浄土に参ります。
極楽浄土では貴方をお待ちしておりますので、あなたも死んでどうぞ極楽浄土に来て下さい。極
楽浄土でまたお会いしましょう。

 人間には霊魂があり、死んだら霊魂は極楽浄土に飛んでいくという、おどろおどろしい神秘的
な教義は、親鸞の手紙のとんでもない誤解から生まれているようだ。「定めて先立ちて往生し候
わんずれば、」を、本願寺の坊さんは将来の話として読んでいる。親鸞は現在完了の事柄として
語っている。それを、未来形で読めばとんでもない間違いを冒すだろう。

252 :名無しさん@3周年:2006/01/22(日) 00:57:49 ID:/jhJkmKk
     /∵∴∵∴\
    /∵∴∵∴∵∴\             /::::::::::::::::::::::::::\ ←渡海
   /∵∴∴,(・)(・)∴|     \\\  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\  ◎
   |∵∵/   ○ \|      \\\||:::::::::::::::::|_|_|_|_| /
   |∵ /.  ミ  | 彡 | _    \\ \;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ
   |∵.|  \___|_/|.  \    \\\( 6     *)─◎ ),・∵
    \|   \__ノ /__  \     彡\ノ\  )))∴( o o)∴),∴ ・ゝ¨
      \___/    \  \     |\    )))∵  3 ∵>;、・∵ '
  / _ ` ー一'´ ̄ /   _{   ヽ;;_ \  ヽ        ノ
  (___)     /   .| ゝ〉 〉 〉ノ_   \__ ∵::__ノ ; 
                |  |消えろ蛆虫   | __|;、・∵:: ;

253 :名無しさん@3周年:2006/01/22(日) 17:23:16 ID:3ASkEGql
一般人ですが
本願寺派の僧侶にどうやったらなれますか?


254 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/22(日) 17:24:44 ID:tveiZ3fs
>>249-250
 「既に確定的に往き生まれている」というのは、不体失往生の考え方を全面に出したものです。

 今回の主張は、従来の渡海 難の主張と趣が変わっています。
 過去のレスを読んで下さった方で、趣が変わったと思って下さった方は、渡海は思想を変えた
と思って下さい。
 従来の主張の一部は、今回の考え方をもって一部変更しました。


255 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/22(日) 17:28:18 ID:tveiZ3fs
>>253
> 本願寺派の僧侶にどうやったらなれますか?

 宗派のことは、↓こちらで伺うといいでしょう。

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1129021608/
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1128746591/


256 :名無しさん@3周年:2006/01/22(日) 20:09:34 ID:vF9eTL4N
おききしたいのですが、宗教が神と人との関係とすると、仏教と禅宗はどのように考えられますか?

257 :名無しさん@3周年:2006/01/22(日) 21:25:15 ID:FImMb4Xv
質問の意味がよくわからんのだが・・

258 :名無しさん@3周年:2006/01/22(日) 23:30:00 ID:OQ3fgGsP
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

259 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/01/23(月) 00:33:35 ID:7gD3R8pg
 親鸞会スレで問題になっている「後生の一大事」とは何か。いずれはこれを問題にしたいと思います。

260 :名無しさん@3周年:2006/01/23(月) 01:13:53 ID:09Wb0l8S
その前に三業惑乱の意義について語っておくれよ

261 :名無しさん@3周年:2006/01/29(日) 18:16:28 ID:OEHC2Erd
親…すみませんなんて読むのですか?

262 :■■お願いです助けてください■■:2006/01/30(月) 12:58:32 ID:UEla96Jp
大学の課題で、

「次の親鸞の思想の特徴の中から3つを選択し、それぞれ親鸞の言葉を必ず引用しつつ詳しく説明せよ」

1.人間の尊厳性の回復
2.進行における個人の尊重
3.出会い(値遇)の宗教
4.ヒューマニズムを超える
5.血の論理を超える

というのが出題されました。
僕は授業はちゃんと聞いていたのですがいまいち理解できていなくて困っています。
どなたか手助けしてくれませんか?

263 :名無しさん@3周年:2006/01/30(月) 14:15:25 ID:LbfRHjOP
どこの大学?
龍大じゃないなこりゃ。

264 :名無しさん@3周年:2006/01/30(月) 17:46:49 ID:31x+4tXn
念仏道場では座禅(結跏趺座)をして念仏をとなえるのが
常識だった、という史料を渡海さんは一個も出せなかったんですよね?



265 :262:2006/01/31(火) 01:42:35 ID:YSETkbrT
>>263
龍大です・・・
一瞬なんで分かったんやろって焦ったけど、
仏教系の大学なんて限られてますよね・・・

266 :名無しさん@3周年:2006/01/31(火) 10:22:34 ID:0Yfao//e
龍大でそんなの出るんだ?
真宗系では見たこと無いな。
2は「信仰における」じゃなくて?
授業聞いてないと絶対わからないようにしてあるのかね。

267 :名無しさん@3周年:2006/01/31(火) 11:40:37 ID:iU6qCy90
たしかに授業の進行は、個人の尊重と大いに関係があるよな。

268 :名無しさん@3周年:2006/01/31(火) 13:50:27 ID:YWRmZrMD
むかしむかし、法蔵菩薩という修行中の高僧がおりました。
ある時、法蔵菩薩は考えました。
修行の成果なく、悟りを開けずに死んでいく者のなんと多いことかと。
そこで法蔵菩薩はある誓いを立てました。
もし私が悟りを開いた暁には、悟りを開くことなく死んでいった人達でも、
私を念じさえすれば輪廻転生しないで済むよう、私が面倒見てあげよう、と。
この誓いを「本願」といいます。
この本願のもと、法蔵菩薩は修行を続け、ついに悟りを開くことができました。
悟りを開いたのを機に、名を法蔵菩薩から阿弥陀如来に改めました。
そして、本願を実行に移すべく、須弥山の西方に極楽という名の浄土を作り、
悟れずに死んだ人たちの救済を一手に引き受けるようになったのです。
こうして、阿弥陀仏を念じた者はみな、死後輪廻転生することなく、
極楽浄土に往生して、阿弥陀如来の指導のもと、悟りを得るための修行を
続けることができるようになったのです。

269 :名無しさん@3周年:2006/01/31(火) 14:05:58 ID:YWRmZrMD
親鸞上人は言いました。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」と。
これは通常、次のように解釈されています。
「善人は自力で往生する事ができるが、悪人はそうは行かない。
であれば、慈悲深い阿弥陀如来が悪人を放っておくはずがないから、
悪人であっても阿弥陀如来の力で往生できるに違いない」と。

ここで問題なのは、「善人」「悪人」とは何かということです。
実は、善人・悪人とは、善い行いをする人・悪い行いをする人という意味ではありません。
善人とは、「自力で悟りを開こうと修行に励む人」のことです。
悪人とは、「己の限界を認め、ひたすら阿弥陀如来の力にすがる人」のことです。
前者を自力本願、後者を他力本願といいます。
浄土真宗とは、己の力の限界を素直に認め、ただひたすら阿弥陀如来による
救済を願う絶対他力を根幹に置いています。

真宗が般若心経を扱わないのは、般若心経は悟りのためのガイドブックだからです。
つまり、ものごとの本質は「空」であると知ることが悟りにつながる、と般若心経は説いている訳ですが、
真宗の絶対他力の立場からすれば、ガイドブックに頼って自力で努力するひまがあったら、
ただひたすらに阿弥陀如来の力にすがるよう念仏すべきだ、という事なのです。

270 :名無しさん@3周年:2006/01/31(火) 21:52:32 ID:0Yfao//e
ってことは浄土真宗なのに空の勉強をするってことはちと異端な感があるの?

271 :やぎ太:2006/02/01(水) 03:55:55 ID:8hxqGGK+
私は、あんまり浄土真宗は詳しくないのですが。質問よろしいでしょうか。

親鸞聖人は、「私、親鸞」が見ている阿弥陀仏または、その教えが信徒にも
全く同じように心に伝わり信心して下さると考えていたのでしょうか?

人は、個人の思想の中でしか物事を認識して理解して信心することしか
出来ませんよね。親鸞さんの言葉を聞いたとしても、信徒側が親鸞さんが
こう伝えたいだろうなと勝手な思想を抱いて教えを処理してしまう。
その信徒が、処理した教えが全く親鸞さんと同じ思想なのか違うのか・・
心は確認できませんし。
同じ言葉を聞いても、感じることは十人十色のような気がします。
どんなに言葉や行動を尽くして説いたとしても。

簡単に言うと、個人の煩悩(思考のクセ)が親鸞さんの言葉を聞く時に
多少意味合いを歪めて受け取っているのではと。
なので、皆がみんな見ている阿弥陀仏の姿は違ってくるんじゃないかなとか。
親鸞聖人は、布教しておられてこれらの事をどうお考えになったのでしょうか?
変な質問かもしれませんが、宜しくお願いします。


272 :名無しさん@3周年:2006/02/01(水) 13:20:56 ID:yTvMRowF
>>270
あなたのご質問には、歴史上のある事実をもって回答に代えようと思います。

第一次大戦の直後、当時の日本政府は、多くの戦没者を弔うために
国主導にて盛大な仏式の慰霊祭を執り行うことを決定しました。
そこで宗旨宗派を問わず、国内の高僧を呼び集め、慰霊祭についての
打ち合わせを始めたのですが、いきなり頓挫しました。
慰霊祭にて唱えるお経を何にするか、どうしても決められなかったのです。
般若心経なら、軽重の別はあっても、ほとんどの宗旨宗派において読んでいるので
般若心経でいこう、と決まりかけたのですが、浄土真宗系の僧侶たちが
強硬に反対したからです。反対した理由は>>269にある通りです。
慰霊祭にて唱えるお経が決まらないのでは、慰霊祭の成功はおぼつきません。
結局、仏式の慰霊祭自体が取りやめとなってしまいました。

273 :名無しさん@3周年:2006/02/01(水) 17:16:06 ID:eQQexKzb
なるほど、よくわかりました。
でも、曇鸞とか道綽、善導などの七高僧は空を否定してはいませんよね?
それは親鸞独自の考え方なのでしょうか?

274 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/01(水) 23:52:13 ID:e/CrMAfe
>親鸞聖人は、布教しておられてこれらの事をどうお考えになったのでしょうか?

 親鸞は、自分の言葉を聞いただけでものを理解しても貰おうとは思っていなかったと僕は思う
んですよ。いやいや、親鸞は、自分の言葉を聞いただけでものごとを理解しても貰おうと思って
いたかも知れないじゃないか。真意は分からないだろと言われれば、僕は、何も言うことはあり
ません。
 自分の言葉を聞いただけでものを理解しても貰おうとは思っていなかったなら、何をもって分
かってもらおうと考えていたでしょうね。僕は、念仏体験と合理的論理性だと思うんですよ。
 坊さんがたくさん常駐している別のスレをみると、念仏を称えない自称哲学者が書いたアヤシ
ゲナ親鸞告白解説書を、入門者に薦めようなんていう、親鸞が聞いたらびっくりするような書き
込みがありますが(苦笑)、念仏を称えない人に自分の考えが正確に伝わるとは、少なくとも親
鸞は考えてなかったと僕は思うんですよ。現代では、外にもいますね。念仏なんか称えてないく
せに、分かった振りして「念仏を称えることは物憂いことだ」などと言っている自称評論家にも、
分かりましたなどと、親鸞は言って欲しくないでしょう。念仏を称えると言うことは念仏を聞くとい
うこと、念仏を聞くと言うことは念仏を称えると言うことだと僕は思っています。

 合理的論理性というのも、理解の3本柱の1本だと考えます。ものごとの道理を無視したハチ
ャメチャな支離滅裂な論理で解釈されることは、親鸞は予定していなかったと思いますよ。例え
ば、親鸞の理屈など、常人には理解不能な異常な論理だったという人には、僕はもう何も言う言
葉がないんです。
 現代でも死後の世界などはあるかないか分かってないのに、700年も800年も昔の人が、
死後の世界の存否を知っていたなどと主張しているカルト教祖もいれば、カルト坊主も少なくな
いようです。念仏を称えない自称哲学者もそんなことを言っているようですね(苦笑)。そんな
教義などは、合理的論理性基準で除外すべきでしょう。「聞思して遅慮することなかれ」とは、
合理的論理的理性的に考えろよという意味でしょう。「思」とは考えるということです。

275 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/01(水) 23:55:33 ID:e/CrMAfe
 親鸞の文書には、既に消失しているものも相当あると思います。親鸞在世中でさえ、親鸞は自
分が折角書き残してきた文書がなくなっていることを嘆いています(血脈文集)。現代でも同じ
ですが、その時代、当たり前すぎて議論の対象にもならないようなことは、文書として書かれる
こともなく、そのようなものは後の世に伝わることもありませんでした。それでも、親鸞は、相当
多くの遺文を残してくれています。

 遺文と念仏体験と論理の合理性という三つの手段を正しく使って理解して欲しい。親鸞はそう
思っていたと僕は思う。また、そのようにすれば真意が伝わるように文書を書いてくれている。
僕はそう思っています。
 親鸞の思想を考える場合、まず、相手と同じ基盤に立つべきでしょう。親鸞の基盤は念仏です。
同じ基盤に立つと言うことは、自分も念仏者になるということです。念仏を称え、そこで経験され
てくることは、確実に親鸞にも生じていたことであると考えます。我々は心臓を一つもっています。
親鸞も心臓は一つだったはずです。手は二本、足も二本だったでしょう。体の機能は、親鸞も我々
も同じだったと思います。念仏を称え、生理的に自分に生じることは親鸞にも生じ、親鸞は自分の
体に体験できた事実を下に思索をしているはずですから、我々は自分の体に生じたことを下に彼
の文書を読めば、彼の世界が見えてくる。自分の体に生じたことを下に彼の遺文を読み、そこで
理解できたことは、理屈として客観的にも合理的であれば、自分の認識は彼の認識界と共通する。
僕は自信をもってそう考えています。

276 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/02(木) 00:05:27 ID:e/CrMAfe
>>260
> その前に三業惑乱の意義について語っておくれよ
     全く興味がありません。
>>261
> 親…すみませんなんて読むのですか?

 さんごうわくらん
 http://www.pure.ne.jp/~pages/uemon/3gou.html


>>262
>僕は授業はちゃんと聞いていたのですがいまいち理解できていなくて困っています。

 いい先生みたいだね。大学生向きには実にいい問題だと思うよ。
 少し苦労して考えるといいだろう。

277 :やぎ太:2006/02/02(木) 05:59:05 ID:5ywLMtsh
>>274-275
なるほど。念仏から親鸞聖人の思想をみるというのは考えてませんでした。
憶測だけでは、語れない部分ですね。まずは、念仏生活をしないと理解
できない事もあるのですね。3つの手段。勉強になりました。
そして、渡海さんの迅速で親切なご回答ありがとうございました。

278 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/03(金) 08:40:02 ID:I7w2ok4F
>>277
>渡海さんの迅速で親切なご回答ありがとうございました。

 貴方は誠実な方なようですね。仏教の関係で回答して、いままで礼を言われたことはほとんど
なかった。びっくりした(微笑)。まあ、質問して相手が回答してくれたら、一言ありがとうと書くの
は、常識的礼儀だろうね。貴方は、2茶では少し珍しい常識的な礼儀のある人のようだ。

 ところで、「念仏から親鸞聖人の思想をみる」という表現で言葉としては的を射ているんだけど、
言うは易く行うは難しだろう。具体的なイメージは湧きますか?。
 念仏から親鸞聖人の思想をみている人が余所にいれば、「あああの人は『念仏から親鸞聖人
の思想を見ている人』」だ、と感じられるかも知れないけど、じゃあ自分もそうしてみようと思うと、
何をどうしていいか、皆目ちんぷんかんぷんになる。全く具体性がない。多分、今はそういう状況
じゃないかと思うんですよ。違いますか?。

 まあ、何を言いたいかと言うと、「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということは、「念仏からは親
鸞聖人の思想をみないことだ」ということなんです。「念仏からは親鸞聖人の思想をみないこと」
が、「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということなんですよ。
 ますます分からなくなっちゃったですか?。まあ、いいや。話は一応ここで止めておきます。やぎ
太さんが今後もこの話に食いついてきて僕を返答不能のところにまで困らせることができるかどう
か、ちょっと様子を見てみたいと思います。

279 :名無しさん@3周年:2006/02/04(土) 00:13:35 ID:dDJKyxtP
>>277-278
自作自演乙。

280 :やぎ太:2006/02/04(土) 03:05:54 ID:1zvuSy/0
>>278
お返事のレスありがとうございます。
私は、誠実な人ではないですよ。でも、そう感じてもらえたのはとても
嬉しかったです。私も感謝の心の大切さを渡海さんの言葉で学ばせて
頂きました。

>「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということは、「念仏からは親鸞聖人
の思想をみないことだ。」

念仏から親鸞聖人の思想をみようと意識するとその意識が邪魔をして
逆にみえなくなる・・・という事なのかな?
聖人への意識(執着の心?)から解放された時に、親鸞聖人の思いが
伝わってくるのかな。
探し物も探すのを諦めた時に見つかることがあるってよく言いますものね。
そう考えると念仏って難しいですね。

>今後ともこの話に食いついてきて僕を返答不能のところにまで困らせる
ことができるかどうか、ちょっと様子を見てみたいと思います。

仏教の話に食いつくのは、大好きです。渡海さんに
「やぎ太は理解力なさすぎ。これ以上簡単な言葉で説明できません。」
という意味で返答不能(絶句状態?)にさせることは出来るかもしれませんw
そんな困ったさんですが、色々聞きたいので宜しくお願いします。


281 :名無しさん@3周年:2006/02/08(水) 21:01:02 ID:7oY1vyMC
素朴な疑問。
絵像本尊、木像本尊は単に「阿弥陀仏」をあらわしているのに、
何故名号本尊になると「南無」がつくのであろうか。
絵像本尊、木像本尊、名号本尊、これら共に同じものを表現しているのであれば、
名号本尊は「阿弥陀仏」として、
「南無」を書かなくてもいいような気がするのだが、、、

282 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/09(木) 13:10:19 ID:qnydbxCV
>>280
>念仏から親鸞聖人の思想をみようと意識するとその意識が邪魔をして逆にみえなくなる・・・
という事なのかな?

 まあ、言葉で言えばそういうことでしょうね。
 ちょっと長いけど、教行信証に注目すべき言葉がある。紹介しましょう。

月蔵経巻第八忍辱品第十六に言わく、仏の言わく、かくのごとし、かくのごとし、汝が言うと
ころのごとし。もし己が苦を厭い楽を求むるを愛することあらん、当に諸仏の正法を護持すべし。
これより当に無量の福報を得べし。もし衆生ありて、我がために出家し鬚髪を剃除して袈裟を被
服せん。たとい戒を持たざらん、彼等ことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり。もし
また出家して戒を持たざらん者、非法をもってして悩乱を作し、罵辱し毀呰せん、手をもって刀
杖打縛し斫截することあらん。もし衣鉢を奪い、および種種の資生の具を奪わん者、この人、す
なわち三世の諸仏の真実の報身を壊するなり。すなわち一切天人の眼目を排うなり。この人、諸
仏所有の正法三宝種を隠没せんと欲うがためのゆえに、もろもろの天人をして利益を得ざらしむ。
地獄に堕せんゆえに、三悪道増長し盈満をなすなり、と。已上
また言わく、その時にまた一切天・龍、乃至一切迦た富単那・人非人等ありて、みなことごと
く合掌して、かくのごときの言を作さく、「我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざ
れども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者において、師長の想を作さん。護持養育してもろもろの所
須を与えて乏少なからしめん。もし余の天・龍、乃至迦た富単那等、それ悩乱を作し、乃至悪心
をして眼をもってこれを視ば、我等ことごとく共に、かの天・龍・富単那等、所有の諸相欠減し
醜陋ならしめん。彼をしてまた、彼等と共に住し共に食を与うることを得ざらしめん。また同処
にして、戯笑を得じ。かくのごとく擯罰せん」と。已上

283 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/09(木) 13:13:13 ID:qnydbxCV
 親鸞は流罪以後、愚禿と名乗った。この名乗りにはさまざまな意味を込めてあるようだ。自分
は平家時代の若者暴走族グループ「禿」の残党だという意味。在俗だが、心は出家だという意味。
最澄の末弟であるという意味。そして無戒の僧であるという意味。実に様々なメッセージを込め
ている。

 教行信証のこの引用は、念仏を軸に読んで行くと、彼が体験から絞り出し叫びが時代を超えて
聞こえてくる。


>>281
> 何故名号本尊になると「南無」がつくのであろうか。

 以前、Nbさんに質問されて以来、この理由は、これまでも繰り返し書いてきたような気がし
ています。近いうちにまたもう一度、きちんと書きましょう。

284 :名無しさん@3周年:2006/02/09(木) 17:55:25 ID:qIq2MSwb
親鸞仏教において自殺はどう考えられていますか

285 :名無しさん@3周年:2006/02/10(金) 00:13:00 ID:FgiR6e5k
   |/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・
   | . : )'e'( : . | ←渡海難
   ` ‐-=-‐  
   /    \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\.          \      ∧_∧
||. .\\          \    ( ;´Д`) (オイ、なんか変なのがいるぞ)
.    \\          \ /    ヽ.  
.      \\         / .|   | |
.        \∧_∧   (⌒\|__./ ./
         ( ´,_・・`)目合わせるなって ∧_∧ 
.         _/   ヽ          \  (     ) うわー、こっち見てるよ

286 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/14(火) 20:03:07 ID:iTjZxv9w
>>281
>「南無」を書かなくてもいいような気がするのだが、、、

 これは、蓮如上人が非常に分かりやすく解説してくれています。
蓮如上人御一代記聞書 (二十三)

 のたまわく、「「南无」の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。」南無阿弥陀仏を泥にて
写させられて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、「不可思議光仏・無碍光仏も、この
南無阿弥陀仏を誉めたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべし」と、仰せ候なり。

 蓮如上人は次のように仰った。「南无の字は親鸞聖人を敬慕する人々だけが使っているんで
すよ」、と。「南無阿弥陀仏」という文字を、金泥で書写されると、その文字を御座敷にお掛けに
なった。その時次のようなことを言われた。
 親鸞聖人を知らない人々は、「阿弥陀仏」と書いたり、「不可思議光仏」「無碍光仏」などと書い
たりしてこれを仏間に掛ける。しかし、親鸞聖人を敬慕する人々だけは、「南無阿弥陀仏」とい
う文字を書いてこれを仏間に掛ける。

 「不可思議光仏」も「無碍光仏」も、その本質は、南無阿弥陀仏は尊いのだということを教え
てくれている名号に過ぎない。「不可思議光仏」が尊いのではなく、「無碍光仏」が尊いのでも
ない。尊いのは「南無阿弥陀仏」である。だからこそ、我々は名号を「南無阿弥陀仏」と書き、
これを仏間に掛けてきた。
 善導大師は立派な方だった。法然上人も立派な方だった。善導大師や法然上人は、なぜ立派
だったのか。それは、「南無阿弥陀仏」は尊いんだぞと教えて下さった方だから立派な方だった
のだ。「不可思議光仏」も「無碍光仏」も尊い。それは、「南無阿弥陀仏」は尊いんだぞと教え
てくれている名号だから尊い。
 お釈迦様が尊いのも、善導大師が立派なのも、法然上人が偉大なのも、元は「南無阿弥陀仏」
が尊いことによる。だからこそ、我々は、全ての価値観の根元である「南無阿弥陀仏」を本尊に
する。
 蓮如上人は、そのように仰った。


287 :名無しさん@3周年:2006/02/15(水) 22:11:12 ID:8YCQQUTa
前に某浄土真宗を掲げる団体で浄土真宗は一神教だと聞いたのですが
それで正しいですか?

288 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/16(木) 09:11:07 ID:pilVmYs6
>>282
>教行信証に注目すべき言葉がある。 〜 月蔵経巻第八忍辱品第十六に言わく、仏の言わく、
かくのごとし、かくのごとし、 〜 

 親鸞という人物が現代に生きており、現代において教行信証を書けば、恐らく化身土巻こそが
念仏論の中心になるだろうと思う。特に月蔵経巻第八忍辱品第十六がその中核になるのでは
ないかと僕は思う。そういう意味で、ここは、現代の我々には極めて重要な記述だと思う。現代
は実証主義を重んじる。鎌倉時代は、形式主義が重視されていたようだ。形式主義とは形骸主
義という意味ではない。実体を形式化して包装することが要求されていたようだ。

 流罪となって北陸に向かう親鸞を勇気づけたものは何だったのか。大無量寿経でも、観無量
寿経でもない。この月蔵経巻ではなかったのか。藤井善信という名を返上し、愚禿と名乗ったそ
の名乗りから伺われてくる。
 破戒でもいい。無戒でもいい。頭をそっただけの形ばかりの僧であっても、僧であれば多くの
人々が守ってくれる。困ったときには多くの人々が味方になってくれる。月蔵経巻はそう教えて
くれている。また事実、北陸ではその通りだったんだろう。月蔵経巻の引用から、僕にはそのよ
うに聞こえてくる。

 比叡山を下り、法然門下に入って数年、青年期の親鸞は京都と奈良以外はほとんど行ったこ
とはなかったんじゃないか。小説「坊っちゃん」では、乳母の清が主人公の坊っちゃんに聞く。「今
度行かれる松山というところは、箱根の向こうですか、手前側ですか」、と。江戸を出たことがな
い女には、箱根の先は別世界だった。小説「坊っちゃん」は笑い話かも知れないが、京都以外を
知らない親鸞には笑い話では済まなかったろう。琵琶湖の東は鬼けだものが居住する暗黒の世
界だったのではないか。親鸞はそこに「禿」という一字に全てを委ねて赴く決心をした。  (続く)

289 :渡海難:2006/02/20(月) 14:48:10 ID:EN2h/MdC
ある一部のカキコによってこのレスとても不愉快です。残念です。

290 :名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 16:37:47 ID:M7GjAmgk
法然上人の書簡集の現代語訳、浄土宗出版以外に出てませんか?
本願寺出版に比べて、浄土宗出版高いよ。

291 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/02/28(火) 13:22:59 ID:6cxw5bZ/
>>289
 掲示板にカキコするのは勝手だが、僕の名前を騙るのは止めてほしい。不愉快です。

>>288
 念仏を称えると、何がどうなるのか。念仏を称えない場合に比べ、どこが変わってくるのか。
人生の危機に立ったとき、念仏者にはこれが極めて重要な問題になる。親鸞は何を見たのか。何
を経験したのか。それは、この自分にも同じように生じるのか。それとも、親鸞だけの特殊の事
情だったのか。これが問題になる。

 鎌倉時代、越後配流は死罪に次ぐ重罪である。配流の刑には、近流、中流、遠流という三段階
がある。越後配流は遠流に当たる。一年分の雑穀を与えられるが、来年の食料は自分で採取しな
ければならない。蓄えのない流人は、不作ならば翌年は餓死する。親鸞は、罪人として越後に向
かう。現地としては、数年か十数年に一度の厄介者だろう。逃亡されれば、中央政府から咎めを
受ける。一日も早く死んでくれれば、重責から解放される。都しか知らない親鸞は、そんな場所
に居住を強いられる。
 越後とはどんな場所か。鬼が住んでいるのか、大蛇が住んでいるのか。化け物が生息している
地区か。そんな場所で、どうやって生きていくのか。
 「我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟を片に着ん者に
おいて、師長の想を作さん。護持養育してもろもろの所須を与えて乏少なからしめん。」親鸞を
勇気づけたのは、恐らくこの言葉ではなかったか。親鸞は、僧籍を剥奪されても、心だけは僧と
して生きよう。流刑地に向かう親鸞はそのように決心したようだ。そして彼は越後で、意外な経
験をしたようだ。                                      続く

292 :名無しさん@3周年:2006/02/28(火) 13:31:08 ID:S1o2SfXQ
>>291
あなたが掲示板にカキコするのも勝手だけど不愉快だという人がいるんだから止めたら?
無意味な長文が大杉

293 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/03(金) 09:18:02 ID:/A3pOZDb
 越後に赴くにあたり、親鸞は何を考えていたか。「禿」という一字には、思いの全てが込めら
れているように思う。それでは、越後で親鸞は何を見、何を体験したのか。教行信証化身土巻こ
そ、親鸞が越後で体験した事実を我々に送ってきた報告書だろうと僕は考える。

 「禿」いうのは、平家時代、頭を丸坊主にした清盛配下の無頼漢集団だったようだ。天草本平
家物語はいう。清盛子飼いの「禿」であると言えば、道を通り過ぎる馬、車もよけて通ったと。
 平家時代の「禿」は、世代的には親鸞より十歳位上の年齢だろう。しかし、平家滅亡後も、
「禿」という文字は、京都では独特の響きがあったろうと考える。親鸞はその響きを背景に、自
らを「禿」と名乗っている。親鸞は、表向きの意味に隠し、独自のメッセージをこの中に秘めて
いると考える。それは、これから赴く越後の人へのメッセージである。

 自分は生涯僧でありたい。しかし、僧儀を改め、俗名を賜った(歎異抄)親鸞には僧に戻る道
はない。親鸞には、僧を名乗ることは許されない。親鸞は、禿と名乗った。禿とは髪の無い者と
いう意味である。禿とは、当時の親鸞の立場で、僧というアイデンティティを保持できる限界で
はなかったか。剃髪者と名乗れば、これは認められなかったろう。しかし、清盛配下の無頼漢の
残党と名乗れば、政府はこれを笑って認めたのだろう。既に義経を殺害した鎌倉政権に対し、京
都政権内には倦怠感、反発感があったかもしれない。平家に対しては、反感は薄れ、逆に懐かし
さすらあったかもしれない。

294 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/03(金) 09:18:52 ID:/A3pOZDb
 僧とは何か。国家認証の僧籍を持ち、僧として受戒し、受戒した戒律を堅固に保つ者である。
しかし、僧籍を奪われれば、僧として得た受戒そのものが意味を失う。京都では、僧籍を持って
いればこそ、持戒・持律の生活が可能となる。未開の地で僧として持戒・持律の生活が可能とな
る保証はない。まして、僧ではなく、犯罪者、流刑者がそのような生活を維持するなど、不可能
な話だろう。それでは何をもって僧としてのアイデンティティを保つのか。結局、髪を剃るとい
うだけである。戒律を守っていなくても、髪と髭を剃り、袈裟を肩から引っかけていれば、それ
だけで生活を守ってやろう。経典はそう教えている。
 親鸞の場合、僧衣を着ることは許されなかったろう。しかし、流人でも、髪を剃る自由はあっ
たのかも知れない。親鸞は、僧としてのアイデンティティを、髪を剃るという一点に賭けた。そ
の上で、親鸞は善導の言葉を信じた。十声、一声でも念仏を称える者は、仏弟子である。極楽浄
土に往生する。僧ではないが、決して俗でもない。僧籍は無くても、自分はできる限り僧であり
たい。親鸞は、未知の北陸に向かうに当たり、非僧非俗の思いを胸に、決死の覚悟を固めていた。
                                   続く

295 :西本願寺:2006/03/03(金) 13:39:03 ID:U2gtxTi2
漏れの家が浄土真宗、自宅に神棚置いてある椰子って馬鹿?仏教なのに神棚置いてる椰子等、間違えてないか?

296 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/04(土) 09:32:09 ID:Rql2mMCC
 教行信証化身土巻は、流罪の地に行く前の思いと流罪の地での実際の経験とその落差への驚嘆
が基本的なベースになっている。
 北陸の地には何がいたのか。そこに魔物はいなかった。化け物もいなかったのだ。いたのは、都も
都の文化も知らない善男善女である。
 笑う人も、怒る人も、無視する人も、迎えてくれる人もいる。それは全て人だった。魔物ではなかっ
た。人々に囲まれ、親鸞は、晴れれば田を耕し、海に貝を漁り、山でウサギを追う。雨が降れば粗
末なあばら屋でひたすら念仏を称える。そんな毎日が待っていた。

 越後の地で親鸞を最初に迎えたのは、地元の子供達だったのではないか。僧の最大の仕事は、
次の時代を担う子供達を教え育てることだ。親の無い子を引き取り、衣食住を提供し、読み書きそろ
ばんを教え、成長すればそれを社会に戻す。越後時代の親鸞には子が多い。親鸞の子供達には、
栗沢信蓮房、益方入道、高野禅尼など越後の地名が付いている。座禅してひたすら念仏している
親鸞に好奇心を持ち、何のわだかまりも無く集まってきたのは、親のないそんな地元の子供達で
はなかった。親鸞はそんな子供達に、やがて文字を教え、そろばんを教え始めたのだろう。
その時の子供達とは、生涯、親密な関係が生まれている
 子供が寄ってくれば、子供につられて大人もやって来る。若い娘もやって来る。恵信尼公など
はそんな一人だったのだろう。恵信尼などは、地元豪族の家に出入りしていた奉公人だったのか
も知れない。既に僧籍が無く、流人として居住制限を受ける親鸞にとって、心許せる若い女性と
恋仲になることは、心理的にも経済的にも自然なことだっただろう。当時の婚姻関係は通い婚で
ある。一夜一夜に男性が女性の家を訪れる。越後での親鸞と恵信尼の関係は恐らくそのような関
係だったのだろう。女性が男性の家に入り込んで一緒に生活するのは上流階級の話だ。流罪の地
で一住人として完全に溶け込み、僧として遇されるようになるには、親鸞には長い時間は必要な
かったようだ。 続く

297 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/04(土) 09:57:28 ID:Rql2mMCC
>>296
誤 地元の子供達ではなかった。
正 地元の子供達ではなかったか。

298 :名無しさん@3周年:2006/03/05(日) 13:02:51 ID:OYPc4HJo
如来の大慈悲の素晴らしさは、宗教による差別が無い所。
余計なお世話かも知れんが、例えば、あなたがクリスチャンでも無条件で救いましょうという事。


299 :名無しさん@3周年:2006/03/06(月) 20:51:37 ID:jCzCXrce
原始仏教から密教まで・・・

http://miyashita1.hp.infoseek.co.jp/qqq/hakusan.htmより一部引用

「事事無碍円満」とは「華厳経」に説かれ、あらゆる存在は相互に一身でありな
がら同時に宇宙全体(海印三昧)であるということを悟ることを示しています。
特に「入法界観」と呼ぶこともあり、すなわち釈迦は瞑想によって自分が「在り
とし在らゆるもの」(絶待妙法身)であることを悟ったのです。すなわち一切衆
生は悉く釈迦如来の普遍的な意識に包含されていると言う事です。

300 :渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2006/03/06(月) 23:52:26 ID:QDGFIguf
      。ρ。      
         ρ      
         mドピュッ
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) ) 300ゲットぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
    /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
   (__/

301 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/07(火) 09:17:55 ID:QFe1fnOs
 越後は居住が楽な地だったのだろうか。そんなはずは無いとおもう。例えば、今年など、新潟は
驚異的な豪雪に見舞われている。鎌倉時代の越後がどのような気候だったか知らないが、電気
ガス水道などの存在は夢に考えられないような時代、彼らはどのような生活をしていたのか、想
像するだけで身震いがしてくる。
 念仏で、何がどう変わったのか。教行信証に聞こう。

 国家社会の責任者である梵天は、釈迦に言う。
 「大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆえに、また皆かくのごとき分布安
置せしむ」。釈尊先生、過去の偉大な先人達は、東西南北の四方の世界に幸せが実現するよう、
様々な優れた社会構造を作りました。星を配置し、季節を分け、地域を分け、それぞれそれぞれ
に司つかさを配置し、優れた社会を作りました。

 「後において、その国土・城邑村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至、海
中宝洲・天祠に随いて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの龍・夜叉・羅刹・餓鬼・毘
舎遮・富単那・迦 富単那等、かの中に生じて、かの処に還住して、繋属するところなし」。しかし、
現代ではそれが形骸化しています。国家、村落、公共施設、田畑、樹木、霊園、僻地、原野、河川、
防波堤、神社仏閣には、様々な精神達、才能達が乱雑・無秩序に居住し、行き場を失って彷徨して
います。



302 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/07(火) 09:21:19 ID:QFe1fnOs
 「他の教を受けず」。なぜ、そのようになったのでしょうか。ものごとの道理が失われたからではない
でしょうか。

 「このゆえは願わくは、仏、この閻浮提の一切国土において、かの諸鬼神、分布安置して、護持のた
めのゆえ、一切もろもろの衆生を護らんがためのゆえに、我等、この説において随喜せんと欲う、と」。
釈尊先生、この社会において、様々な精神達を、それぞれの持ち味を十分に生かせるように正しく配置
したいと思います。社会に幸福を実現したいからです。わたしは、先生の教えによって真の喜びを得た
いと思います。

 法然は讃岐に流され、親鸞は越後に配流となる。死罪となった仲間も多く、その外にも多くの仲間達が、
正当な理由無く無惨な処罰を受けている。社会から道理が忘れられれば、様々な悲劇が生まれる。能力
のない者が社会の上位に立てば、能力のある者は排斥される。仏法が正しく守られれば、そうした悲劇
がなくなる。
 親鸞は、非道な裁きによって越後に配流となった。しかし、越後では流刑者という立場でありながら、自ら
の居場所が見つけられたようだ。それは念仏によって開かれてきたものでだ。少なくとも親鸞はそう確信し
ていたと思う。
 念仏によってなぜ開かれてくるのか。確信の根拠は何か。教行信証の中で読んでいきたい。

303 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/07(火) 20:11:24 ID:QFe1fnOs
「いかんが回向する」。教育実践はどのようにして行うのか。

 「一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就すること
を得たまえるがゆえに」とのたまえり。
 阿弥陀仏は、迷い苦しんでいる全ての人々を、一人も漏らすまいと常時願って下さっている。
なぜなら、阿弥陀仏は、教育実践を中心にして、自らの意思の実現を完成なさってくださったか
らであると仰った。

 「回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり」。
 教育実践には二つの段階がある。原理原則に忠実に行っていく教育手法段階と、原理原則を
背景にしながら、自由自在に行っていく教育手法段階である。

 「往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生
せしめたまえるなり、と」。
 原理原則に忠実に行っていく教育手法段階では、阿弥陀仏が、阿弥陀仏自身の能力と実行力
をもってあらゆる人々に働きかけ、阿弥陀仏自らが意思を固め、阿弥陀仏と共に極楽浄土に往生
させてくださることを言う。
 
 親鸞の思想は越後流罪で大きく変貌し、非常に深い思索を行っている。親鸞が越後でみたもの
は、まさにこうした事実ではなかった。この点を、以後、もう少し詳しく説明していく。

304 :名無しさん@3周年:2006/03/09(木) 21:52:00 ID:zPC7ja/K
age

305 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/10(金) 20:57:24 ID:TypI8cvW
 僧とは教育者である。釈迦は、人類最古の本格的な組織的学校制度を創設し、多くの賢人、哲
人を世に送り出した。人々を教え育てることが最大の職務である。

 古代中国の高僧曇鸞は言う。教育には二つの手法段階がある。原理原則に忠実に行っていく教
育手法段階と、原理原則を背景にしながら、原理原則に縛られずに自由自在に行っていく教育手
法段階である。原理原則に忠実に行っていく教育手法について曇鸞は言う。

「いかんが回向する」。人々を教育指導しようとする者は、どのように教育実践を行うのか。

「一切苦悩の衆生を捨てずして心に常に作願する」。正しく物事を判断できず、多くの苦悩を背負
う人々を忘れることなく。常に心の中で決意していなければならない。

 「回向を首として大悲心を成就す」。教育実践こそ、物事の中心である。教育実践をもって、自らの
意思を実現する。

 「往相は、己が功徳を一切衆生に回施す」。原理原則に忠実に行っていく教育手法では、自ら
が蓄積してきた能力、実力を全ての人々に公開する。

 「共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願す。」自らが、釈尊先生をモデルとして描いた
阿弥陀如来の化身となり、釈尊先生の祇園精舎をモデルとして観念される理想の学舎すなわち安
楽浄土を、人々共に具現し、人々と共にそこに到達する。

306 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/10(金) 20:58:01 ID:TypI8cvW
 本来、僧とは、自らが阿弥陀仏の化身となり、祇園精舎をモデルとした安楽浄土を具現し、人
々と共にそこで教え学び合うことを実現する者である。しかし、人々を僧籍を奪われ、流刑囚と
なった親鸞には、教育者となる資格はない。親鸞は、ひたすら念仏を称えるだけ。頭を丸坊主に
しただけのただの凡夫である。しかし、念仏を称えるだけの流刑囚の親鸞のもとに人々が集まり
だしてきた。 

 親鸞は言う。念仏を称える者は多くの人々に助けられる(冥衆護持の益)。最高の人徳が備わ
る(至徳具足の益)。悪いこともいい方に転じる(転悪成善の益)。陰ひなたに様々な力で助け
られる(諸仏護念の益)。優れた人々から賞賛を受ける(諸仏称讃の益)。常に進むべき道が見
えている(心光常護の益)。常に喜びに満ちる(心多歓喜の益)。過去の幸せを知る(知恩報徳
の益)。常に幸せをもたらす行動がなされてくる(常行大悲の益)。必ず仏になる身に定まる
(正定聚)。

 念仏とは一体何か。念仏を称えると何が生じるのか。普遍的な事象と特異的な事象を考察す
る。

307 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/10(金) 21:01:43 ID:TypI8cvW
>>303
誤 まさにこうした事実ではなかった。
正 まさにこうした事実ではなかったか。

>>306
誤 人々を僧籍を奪われ、
正 僧籍を奪われ、

308 :名無しさん@3周年:2006/03/11(土) 02:56:06 ID:P933iV8n
http://miyashita1.hp.infoseek.co.jp/qqq/shugyou%20.htmより以下の引用

「潜在意識の浄化法」・・・人間は自分ではほとんど気がついてないけれども「
思いのクセ」のようなものがあります。たとえば心配性の人、取り越し苦労の人、
悲観的な人、楽観的な人、情に脆い人、理性的な人・・・ それが実は「潜在意
識」の働きなのです。そしてそれが本当に合理的な感情かどうかは考えたことが
ないと思います。場合によっては非常に非合理的な感情を爆発的に発散していた
りすることもあります。そこで仏教には「呼吸(アナパーナ)の観察(サティ)」
を通じて心の観察をしてゆく修行方法が伝わっています。

何故、「呼吸の観察」をするのかというと、本当は「心の観察」をしたいのです
が、日常生活の中で自分の心に意識を向けて生活することは極めて難しいのです。
呼吸というのは心と深い関連があります。リラックスしている時は深い呼吸にな
っていますし、激怒したり緊張したりしている時は浅い呼吸になっています。そ
こで瞑想時に呼吸を観察する習慣を身につけておくと、日常生活においても色ん
な場面において精神をコントロールしやすくなるのです。

309 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/12(日) 10:20:34 ID:ll35D0dG
 親鸞の仏教を考える場合、二つの重要な部分が欠落していることを忘れてはならない。一つは
生理学的な観点である。生理学はヨーロッパで近代になって始まった学問である。鎌倉時代の我
が国にそのような発想があるはずもない。念仏を称えたら、自分の体にどういう現象が生じてき
たか。念仏を生理学的に考えることは、現代では不可欠の議論だろうと思う。生理学的な観点は、
現代の我々自身が補充していく必要がある。
 もう一つ大事な部分がある。親鸞の時代、誰もが当然の事として誤解なく受け止めていたこと
はほとんど記録がない。当時、見解が分かれて議論になったことは様々に記録され、現代にも伝
わっている。親鸞の時代には問題にならなくても、現代であれば問題にしなければならないこと
は少なくない。この点は、現代の我々はきちんと掘り起こしていく必要がある。

 父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と(行の巻)。親鸞の念仏は
座禅して行うのが原則である。親鸞が念仏の方法論を明らかにしているのは、教行信証の行の巻
だけである。

 「蓮華の中において結跏趺座し、蓮華の合する想いを作し、蓮華の開くる想いを作すべし(観
無量寿経)」。「また行者、もし坐せんと欲せば、先づすべからく結跏趺坐すべし。左の足、右の
上に安きてほかと斉しくし、右の足、左の上に安きてほかと斉しくせよ。右の手、左の手掌のな
かに安きて、二大指の面あひ合せよ。次に身を端し正坐して、口を合し、眼を閉ぢよ。開くに似
て開かず、合するに似て合せざれ(観念法門 善導)」。
 経典、あるいは親鸞以前の哲人の記述を読めば、結跏趺坐が浄土教では正式の着座スタイルで
あることが分かる。親鸞も、着座して念仏を称えるときは結跏趺坐して称えていたはずである。
結跏趺坐が正式の着座スタイルであれば、念仏は座禅して行うことは言うまでもない当然のこと
であり、このことには誰一人疑いを持たなかったろう。

310 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/12(日) 10:23:30 ID:ll35D0dG
 自分は座禅は嫌いだという人は多いようだ。座禅は自力だからいやだという人は、特に真宗の
坊さんに多い。自力と他力の意味も知らない人なんだが、座禅は自力だからいやだという人にま
で、親鸞は座禅を勧めているわけではない。しかし、先人達が行っていた正式の着座スタイルで
念仏を称えようと思えば、教行信証が言うように、結跏趺坐すなわち座禅して行うべきだろう。
ただ、座禅と言えば、半跏趺坐、あるいは椅子禅も含むと考える。親鸞が結跏趺坐と言わず、敢
えて座禅と言っているところは、半跏趺坐でも椅子禅でもいいと言う趣旨と解する。パン屋さん
やおそば屋さんにまで結跏趺坐でなければいけませんと言っているわけではないだろう。
 正座ではいけないのか。僕はそんなことを聞かれたことがある。この問題については、僕には
答える資格はない。

 座禅して念仏を称えていくと体に変化が起きる。僕は心臓が一つ、肺が二つ。体中に血管が延
びていて血液が循環している。この構造は親鸞も同じだったろう。座禅して念仏を称え、その体
に生じた変化は親鸞にも起きていたはずである。生理学的現象について親鸞は書き残してないが、
それは僕らは自分の体で追体験できる。自分の体に生じた追体験を見ると、親鸞の体験が体験で
きる。そこから親鸞の主張が見えてくる。

311 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/14(火) 09:17:36 ID:tvLLSF5Z
 座禅して念仏を称えていると何が起きるのか。念仏を止めて座禅だけしている場合はどうか。
座禅しないで念仏だけ称えたらどうか。生理的な作用を報告する。

 念仏なしで座禅だけしようとすると、僕の場合はどうも落ち着かない。僕は禅寺の座禅会に参
加していたことがある。禅堂でみんなと一緒に座るときは念仏はいらない。しかし、自分の家で
一人で実行しようとすると、精神を集中する対象がない。一人で座るときは、南無阿弥陀仏でも、
南無観世音菩薩でも、何か称えようとするといいようだ。
 以前、総持寺の坊さんも同じようなことを言っていた。曹洞宗ではただ座れというが、そうい
われてもなかなか腰を落ち着けて座れるものじゃない。臨済宗では公案を使うが、公案を考える
という形なら座りやすくなる。座禅に当たり、特に公案はなくてもいい。そんな場合は南無阿弥
陀仏でも、南無観世音菩薩でも称えるといい。念仏を称えると座りやすくなる。その坊さんは、
自分は南無観世音菩薩と称えながら座禅する、と言っていた。僕もこの考えに賛成だ。念仏がな
いと、座禅そのものに入りにくい。座禅は念仏して行うといい。念仏は座禅して称えよう。念仏
と座禅とはそもそも一体のものだろう。僕はそう思う。
 座禅して念仏を称えると、体に何が生じるか。僕の場合、脳全体が脈動を開始する。脈動は明
らかに感じられるし、しばしば痛いほど感じられてくる。医学関係の本を見ると、脳の解剖図が
載っている。あの図を見ると、なるほどその通りだと思う。解剖図には、右脳、左脳、前頭葉、後頭
葉などの解説がある。脈動は脳全体で起きることもあるが、右脳、左脳などのブロック単位で、特
定の部分だけが局部的に生じることもある。右脳にしようか、左脳にしようかなどと、引き起こす箇
所を自分でコントロールすることはできない。自然に起きる。ここに何かの法則でもあるような気も
するが、僕には分からない。

312 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/14(火) 09:18:42 ID:tvLLSF5Z
 念仏は、背筋を伸ばし、座禅の姿勢で称える。僕は、腹式呼吸の出入りを南無阿弥陀仏という
リズムに乗せる。南無阿弥陀仏は自分に聞かせるつもりで声に出す。非常にかすれて息だけの声
になる。体は、意識しなく、自然に前後に揺れる。ときどき、背中の大動脈にこん棒のような水
柱が突き上げてくることがある。背筋が曲がっていると、そういう現象が起きる。その瞬間、背
筋が伸びる。脳は非常に激しく、大きく脈動を始める。
 座禅して念仏を称えていると、横隔膜が非常に大きく上下する。横隔膜の活動は、半ば意識的
に行う。これによって大量の空気が体内に侵入する。体中で大量の血液が循環する。結跏趺坐、
半跏趺坐をしているときは足には血が通わないから、大量の血液の循環が上半身だけで生じる。
椅子で座禅しているときも、横隔膜は上半身の中で大量の血液を循環させているようだ。
 大量の血液の循環は、とりわけ脳に変化を起こす。脳の中で大量の血流が生じる。脳が激しく
脈動を開始するというのは、この血液の流れに起因するものだ。脳は頭蓋骨の中にあるから、手
で外から触ることができない。しかし、脳に大量の血流を送り込むと、脳は内側からマッサージ
を開始する。これが脳をクリーニングし、劇的に活性化する。

313 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/16(木) 09:49:52 ID:TteN7r0L
 念仏というのは、人生が暗礁に乗り上げた場合に威力を発揮するようだ。人生が暗礁に乗り上
げてから急いで称えだしても間に合わないことはあるだろうが、普段から時折称えていると、人
生が暗礁に乗り上げたとき見えてくるものがある。
 人は、暗礁に乗り上げると、通常は、最初あわてふためいて過剰に動き回る。やがて動くのも
嫌になり必要な動きもできなくなる。頭脳も、過敏に反応したり、異常に鈍感になったりする。
 本来は持っているはずの頭脳の危機管理思考回路が、現実の変化に対応できず、逆に混乱を
起こしてマイナス作用に働くことがある。危機管理思考回路には、たくさんの区割りがあるようだ。
危機に臨んだ場合、普段は眠っているある部分は直ちに覚醒するが、同時に覚醒しなければなら
ない別の部分が相変わらず惰眠を貪っているという時期がある。頭では分かるが、腹が現実に追
いついていかない。腹では分かっているが、頭が現実に追いついていかない。そういう事態というの
がある。
 前輪はアクセル全開でエンジンを吹かしているのに、後輪はギヤが入っていない。前輪がやた
らアクセルをふかすものだから、後輪は混乱して突然バックギヤが入ってしまう。後輪にバック
ギヤが入れば、前進ギヤの前輪は混乱する。右前輪は右折を開始、左前輪は左折を開始する。慌
てた左後輪が全力稼動し、車体が破損するのも構わず全体を後ろに下げ始める。右後輪は右折を
開始する。結局疲れ果てて、動けなくなる。様々な機能が備わっていても、これでは車は壊れて
しまう。
 さるべき業縁が催せば、人はいかなる振る舞いもするものだ(歎異抄)。車庫では車のエンジンを
かけっぱなしでいつでも出られるようにしながら、左手では青酸カリのビンを握りしめ、右手では血眼
になってインターネットの検索エンジンで情報を求め、必死の形相になっているということもあるだろ
う。

314 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/16(木) 09:50:53 ID:TteN7r0L
 座禅して念仏を称えていると呼吸量は最大となり、それに連れて大量の酸素が脳の中に流れ込
む。人間の機能の中で、酸素を最も消費する器官は脳だそうだ。脳に血液と共に大量の酸素が流
入すると、眠っていた脳細胞は一気に新陳代謝が始まる。同時に僕の場合、目の奥の筋肉が収
縮を開始し、目が開けられなくなる。視神経は外部から大量の情報を受け入れそれを処理する。視
神経の活動は、脳の活動にとって非常に大きな部分を占める。座禅して念仏を称えていると、外
部情報の処理に作用する脳活動は停止する。普段は外部情報の処理に当たっている部分も全て
脳内の活動に専念するようになる。
 座禅して念仏すれば、専念する時間、三十分、1時間の間は新しい情報が入らない。しかし、
脳の中にあってもしばらく忘れていた情報は思い出されてくる。忘れていた情報が思い出されて
くると、これまでつながらなかった情報相互がリンクを開始し、混乱して真っ暗になっていた現
実が透明に見えてくる。前輪はどっちに向いているのか。後輪はどうなっているのかが見えてく
る。青酸カリを握っている左手が、検索エンジンで情報を求めている右手の動きを理解し、右手
は左手のおかしな動きに気がつくということもある。エンジンをかけっぱなしで忘れていた車の
ことも思い出されてくる。
 座禅して念仏しても新しい情報が入ってくるわけではないので、最善の方策が見つかるという
保証は存在しない。しかし、既に脳の中にあった情報をつなぎ合わせることで、最善ではなくて
も、今できる二善、三善の策が見つかるということはある。青酸カリからはひとまず手を離そう。
車のエンジンは切ってこよう。それから、ゆっくりと検索エンジンを探そう。そんな判断ができて
くる。

315 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/16(木) 09:52:17 ID:TteN7r0L
 後から考えると、あっちの方法の方がもっとよかったということはある。隣に住むおじいさん
は苦労人で物知りで、その人に聞けば直ちに分かったはずだ。隣に住むおじいさんに相談するの
が最善の策だったということは、後から知ることはあるだろう。しかし、隣に住むおじいさんは物知
りだったという情報が、一度も入ってなければ、隣に相談に行くという選択肢はなかった。最善の
選択肢の選択はできなくてもやむを得ない。しかし、少なくとも今すべき最悪の選択肢の選択だ
けは免れられるということは多い。
 最悪の選択肢以外に選択の余地がないということも、長い人生の中であるかもしれない。しか
し、人生にとって最悪の選択を選ぶ機会が最小限になれば、閉じかかっていた人生も開けてくる
だろう。
 念仏には大きな働きがあることは、既に太古の昔から人々は気づいていたようだ。観無量寿経
を見てみよう。

316 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 09:37:29 ID:cOm3a5MT
<観無量寿経は言う>

「仏、阿難および韋提希に告げたまわく」、 釈迦は阿難尊者と韋提希に語った。

「下品下生というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る」、人として最も愚か
な人は、五逆罪や十悪を犯す人である。

「もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし」、そう
いうことをする人は、やがて必ず人生で行き詰まるときが来る。けだものの心でけだものの行為
をする。鬼の心で鬼の行為をする。欲望だけは紅蓮の炎のように一面に燃え広がりながら、身は
微動もできなくなることもある。地獄・餓鬼・畜生の三悪道に転落していくだろう。

「多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん」、長い長い期間苦しみにあえぎ、そこから
の脱出の道が見つかることもなくなる。

「命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇
わん」。やがて、これまでと同じやり方では身動き一つできなくなる。意思を変え、行動を変え
なければならなくなるときがくる。古い人生に終わりをつげなければならなくなるときがくる。
そんなとき、たまたま親切な人に出会うということもあるだろう。「それじゃ観相念仏(註 称
名念仏ではない)をしてごらん」と言われる。

「かくのごときの愚人、この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず」、とこ
ろが、これまでの悪業が祟(たた)って観相念仏するどころじゃない。

317 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 09:38:03 ID:cOm3a5MT
「善友告げて言わく、汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと」、すると親切な人はこ
う教えてくれた。観相念仏ができないなら、口で「無量寿仏」と称えてごらんと言ってくれる。

「かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せし
む」、そこで、一生懸命繰り返し繰り返し、十念の間、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と称え
だす。
 (註 十念は十回という意味であるという主張がある。しかし、僕は、1日を1単位として十
日、あるいは半日を1単位とした五日程度と考える。阿弥陀経は、念仏を称えるのに七日間とい
う数字を出しているから、経の本来の意味では十念もその程度と考える)

「仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く」、称名念仏を続けたこ
とで八十億劫の生死の罪を除く。一日一日ごとに非常に長い期間の罪を消していく。劫とは、非
常に長い期間を示す時間単位である。八十億劫とは、過去に向けての時間を指すのか、未来に向
けて指すのか分からないが、再起(生)挫折(死)再起(生)挫折(死)を繰り返していかなけ
ればならない長い苦しみから解放されるという。あるいは、再起(生)挫折(死)再起(生)挫
折(死)を繰り返してきた過去の苦しみから解放されるという。
 悪業は決して長くは続かない。かならず挫折が来る。五逆罪や十悪を犯してくれば必ず挫折が
来る。しかし、十念の間、つまり五日又は十日間、必死に称名念仏をすると、もつれていた糸が
ほどけてくる。見えなかった物が見えてくる。忘れていた物が思い出されてくる。五逆罪や十悪
で挫折が来れば、やがてそんな人生は続けられなくなる。しかし、念仏を称えるということを知
ると、大きく人生が変わってくるだろう。

318 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/17(金) 09:38:34 ID:cOm3a5MT
「命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す」、人生に困ったとき、本
当は実に多くの人々が様々に教えてくれている。しかし、その言葉が耳に届かずに苦しんでいる。
真剣に真剣に称名念仏をしてみると、必死になって何かを教えようとしてくれているそんな人に
出会うだろう。

「一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん」、その翌日は、多くの人々が
共に真実を学ぼうとしている学習の世界に到達するだろう。

「蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く」、しばらく念仏すれば、これで全て何も
かもすぐに解決するということは決してありえない。最終的な真の解決にはまだまだ非常に長い
時間がかかる。しかし事態はきっといい方に向かうだろう。

「観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き
已りて歓喜す」、阿弥陀仏には観音菩薩と勢至菩薩という二人の従者がいる。目が開けたとき、
自分のことを必死に心配し、真実を必死に教えようとしてくれているその働きの中に、観音菩薩
と勢至菩薩の存在を見つけるといいだろう。

「時に応じてすなわち菩提の心を発す」やがて、悟りを求める心も芽生えてくる。

319 :名無しさん@3周年:2006/03/17(金) 20:08:06 ID:gdDSiShJ
浄土真宗において「南無阿弥陀仏」というのは極楽往生するための言葉、と考えてよいのでしょうか?困ったときに「南無阿弥陀仏」と唱えれば報われるということはないんですか?

320 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/19(日) 08:37:44 ID:MhXz/4XE
>>319
 「念仏から親鸞聖人の思想をみる」ということはどういうことか」、
 No282 以降でこの問題を考えています。1,2日多忙です。

 なお、259,284,319に対するレスは、「念仏から親鸞聖人の思想をみる」
という議論が終わったら、可能な範囲で記載します。



321 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/22(水) 09:43:00 ID:3ALiXV/I
 阿弥陀経は言う。
 「舎利弗、 〜 阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、
 〜 六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろ
もろの聖衆と、現じてその前にましまさん」。
 舎利弗よ。阿弥陀仏の話を聞き、一日、二日、あるいは六日、七日と一心不乱にその名を称え
てご覧、きっと何かが変わってくるだろう。これまでの意思、これまでの行動がもう続けられな
くなり、これまでの古い自分の命脈が尽き、新たな意思と行動を模索して新たな自分が動き始め
なければならなくなったとき、実に多くの精神達、命達が貴方に関わり、貴方の新たな出発を祝
福するだろう。

 「この人、終わらん時、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得
ん」。
 過去、既に多くの人々がこの称名念仏によって道を開いてきている。貴方も念仏を称えてご覧。
念仏を称えれば、貴方も過去のそのような人々の一人に加わることになる。過去の偉大な精神達、
命達の世界に加わることになるだろう。

 「舎利弗、我この利を見るがゆえに、この言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かん者は、応
当に願を発しかの国土に生ずべし」。
 舎利弗よ。釈迦がなぜ称名念仏を勧めると思うか。理由がある。それは、称名念仏には、その
ような素晴らしい利益、効果があるからだ。釈迦の勧めを聞いた者は、速やかに決断し、念仏を
称え、念仏者の世界の一人に加わっていくといいだろう。

322 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/22(水) 09:44:20 ID:3ALiXV/I
 念仏を称えていくと、もつれていた糸の端緒が見えてくる。どこでボタンを掛け間違えたのか
が見えてくる。ボタンのかけ忘れがあれば、端緒に戻るのもいいだろう。戻れないものなら新た
なボタンを探すのもいい。
 おそば屋さんやパン屋さんが、商売の合間に念仏を称えても、お釈迦様やお大師様のような大
きな悟りは得られないけど、忘れていた情報が思い出されてくる。情報がリンクしてくるだろう。
古い情報同士がリンクすれば、新たな発見もあるだろう。最善の道が発見できなくても、二善、
三善の道も見つけやすくなる。最悪の選択肢を選んでしまう危険は少なくなるだろう。おそば屋
さんやパン屋さんが自分の人生を生きていく上では、それだけでほとんど十分なはずだ。

 ボタンの掛け間違えや、かけ忘れが見え、二善、三善の道が見えてくれば、物事が直ちに解決
するというものではない。しかし、心に余裕が見えてくれば、自ずから人々がやって来る。親鸞
の下には、恐らく最初は小さな子供達がやってきたのだろう。
 雨が降れば小雨でも雨漏りがする掘っ立て小屋に住み、雨の日には一日中座禅して念仏を称え
ている妙な人がいれば、節穴をくりぬいた小穴から悪戯小僧が覗きにくる。そんな子供を迎え入
れ、やがて都の子供達が遊んでいる遊びを教えれば大喜びされる。良寛は、子供とのかくれんぼ
し、子供が良寛のことを忘れて家に帰ってしまった後も、じっと納屋に隠れて子供が見つけに来て
くれるのを待っていたという。親鸞にもそのようなことがあったろうと思う。やがて、そんな子供達
に文字を教え、そろばんを教えてやれば、大人達もやってくる。親鸞はそのようにして流刑の地
で自らの精神的な居場所を確保して行ったのだろうと思う。

323 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/22(水) 09:46:03 ID:3ALiXV/I
 「往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生
せしめたまえるなり、と」。
 原理原則に忠実に行っていく教育手法段階では、阿弥陀仏が、阿弥陀仏自身の能力と実行力を
もってあらゆる人々に働きかけ、阿弥陀仏自らが意思を固め、阿弥陀仏と共に極楽浄土に往生さ
せてくださることを言う。
 
 阿弥陀仏とは、「自然」という概念を示すための資料である。念仏を称えていくと、周りの人
々は自然にその念仏の世界に引き込まれていく。親鸞は念仏というもののすごさをそのように理
解していたのではないか。
 念仏を中核として親鸞に起きた現象は、親鸞一人の特異的な現象だったのか。親鸞という人の
人格を離れては生じ得なかった現象もあるだろう。鎌倉時代だったから起きた固有の現象もある
だろう。しかし、その底流には、僕は普遍的なものを感じるのである。

 現代では多くの精神達が彷徨っている。国家、村落、公共施設、田畑、樹木、霊園、僻地、原
野、河川、防波堤、神社仏閣には、様々な精神達、才能達が乱雑・無秩序に居住し、行き場を失
って彷徨しているではないか。才能のある人々がその才能を生かすことができず、自らの居場所
を見失っている。
 どこにボタンの掛け違いがあったのか。かけ忘れがあったのか。念仏は、それを見つけ出すた
めの有効な一手段を提供するだろう。都では仏道が崩れ、親鸞は越後に流された。しかし、越後
で親鸞はみずからの居場所を発見したようだ。
 称名念仏をするという次元から親鸞の浄土真宗の教え考えたとき、親鸞思想の中核は、親鸞の
そのような体験と確信に立っている。僕はそのように思うのである。


324 :愉然:2006/03/25(土) 02:30:35 ID:WxRB7QtG
はじめまして
私は西本願寺のすぐ近くに住んでいるだけの、仏教無学者です。

そこで坐禅して念仏する方法で質問があります。
坐禅の足の形は理解できたんですが、手の形はどうすればいいでしょうか。
また、念珠などを購入した方がよろしいでしょうか。

あと、念仏する方法をもっと具体的に教えていただけないでしょうか。
ちゃんと続けられるように、型などを教えていただければ嬉しいのですが。

どうかよろしくお願いいたします



325 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/25(土) 13:12:09 ID:HRHmNJog
     大事なことと思いますので、先に回答しておきます。
>>324
>坐禅の足の形は理解できたんですが、手の形はどうすればいいでしょうか。

また行者、もし坐せんと欲せば、 〜 右の手、左の手掌のなかに安きて、二大指の面あひ合
せよ。次に身を端し正坐して、口を合し、眼を閉ぢよ。開くに似て開かず、合するに似て合せざれ
(観念法門 善導)

これが善導流の正式な着座スタイルです。鎌倉の大仏は阿弥陀仏です。法然・親鸞の時代、
法然一門では、天台流のオーソドックスな座り方をし、多分、鎌倉の大仏の形で念仏を称えて
いたのだろうと思います。
 なお、参考ですが、仏像は左右反対に作るのが正式のようです。仏像は鏡像を形成するとい
う意味があると聞きました。

>また、念珠などを購入した方がよろしいでしょうか。

 念珠は、親鸞は触れていません。念珠は念仏の回数を数えるカウンタですから、回数を数え
て称えようと思えば、使ってもいいんじゃないでしょうか。僕は持っていますが、念仏の時にこれ
を使ったことはありません。坂東の門弟達も使ってなかったと思います。 

>続けられるように、型などを教えていただければ嬉しいのですが。

 しっかりした禅寺に行って、座り方、姿勢などは一度教わってくるといいでしょう。
 比叡山では、天台坐禅の復活のため、曹洞宗の坊さんを招いたという話を聞いたことがありま
す。参禅会には、一週間でも、十日でも行くといいでしょう。禅宗の座禅会には、真宗の坊さんが
黒衣を着て、在家の人と一緒に座りに来るという、勇気ある人もいます。

326 :愉然:2006/03/26(日) 01:13:17 ID:v2rA/9i+
回答ありがとうございます。

今まで、何度か念仏を唱えたことがあります。
確か十分ぐらいでした。横になりながら、念仏を心の中で唱えていました。
そうすると、瞑想したときのような気持ちいい変成意識状態が訪れました。
けれど、その時の感想は率直に言って、念仏じゃなくても別にこの状態は
味わえるし、念仏を唱えたからと行って何か変わったと実感もしませんでした。

今度はしっかりちゃんとした形でやろうと思うのですが、また質問させて下さい。
「南無阿弥陀仏」と唱えるときは、実際に声に出すのでしょうか?それとも
心の中で唱えるだけでもいいのでしょうか。禅寺などで、声に出すのは
まずいような気がしまして、、、

それと「南無阿弥陀仏」は、ああ先生という意味だということですが、念仏を
唱えるとき「ああ先生」と唱えるのは駄目なのでしょうか。
なんというか、南無阿弥陀仏だといかにも形式っぽいというか、感情的になれず
集中できないんです。けれど、ああ先生だと親しみを持てるし、なんだか大いなる
ものに生かされている私って思えて唱えやすい。それにあまり宗教っぽくなくて
唱えるのに抵抗がないというか。
以上なのですがよろしくお願いいたします。


327 :名無しさん@3周年:2006/03/26(日) 01:25:53 ID:FK9VOghB
海渡さん法名授けますよ。外道院釈濁海です無料で結構ですよ

328 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:13:35 ID:m3GE3QS2
>>326
>念仏を唱えたからと行って何か変わったと実感もしませんでした。

 念仏を称えて何が変わったか。変わらなかったか。何を感じたか。感じなかったか。こういう
ことをできるだけ自分の中で明らかにしていくことは大事だと思います。

 禅定の中で意識を追っかけていろいろと考えようとするのはよくない。何か一つのことが浮か
び上がったら、次から次にそれを追ってはいけない。座禅して称えていくと、確かに不思議なこ
とが起きます。信じられないようなことがたびたび起こります。座禅して念仏を称えていくこと
は、自分の潜在意識のパンドラの箱をいきなり開くようなものですから、何が出てくるか分かり
ません。潜在意識の中には、化け物のような自分の分身が入っているようです。それが姿を現し
てきます。
 化け物を押し込めてあるということは、化け物が顕在意識に出てこれないようにしていたとい
うことです。そうしておくことが、実は安全に生きていく上で必要だったからです。押し込めた
のは、恐らく小さいときの自分の親であり、教師であり、友人でしょう。長い過去のそういう人
との接触の中で、生きていく上の知恵として、周囲が封印したものです。防衛本能の一つでしょ
う。禅定にはいると、防衛本能の一つか二つがほどけ、パンドラの箱がふたを開きます。
 潜在意識の中にどんなものが入っていたのか、小さいときに無理矢理に押し込めたものを、成
長した大人の目でそれを見直すことはいいことでしょう。しかし、パンドラから出てきた化け物
に引きずられるとやけどします。僕は、自分の体験で申し上げている。
 禅の坊さんは、二心を追うなと教えてくれました。それは、僕自身がやけどしたずっと後のこ
とでした。何かが出てきても、出てくることはやむを得ない。極めて自然のことなんです。むし
ろ健康的なことなんです。出てきたものは、そのままに放置すればいい。出てきたものを更に探
求しようと思ったら危険です。


329 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:17:39 ID:m3GE3QS2
 何かが出てきても、それは所詮自分の幻影です。幻影はやがて消えます。放っておけば消えま
す。消えれば消えるにまかせればいい。蓮如上人は、物を言え、物を言えと言っています。もの
を言えというのは、念仏者がその幻影を知らず知らずに追っかけていることがあるからだと思い
ます。物を言ってくれば、幻影を見た状態かそうでない状態か、他人にも分かります。幻影を追
っているのか、追っていないのかも、他人の目で分かると思います。物を言ってくれば、必要な
ときに注意を促すこともできるでしょう。多分、蓮如は安全管理上のそういう意味で言っている
ということもあるんだろうと思います。
 僕が禅寺に行くことを勧めるのも、安全管理上の意味があります。禅寺に通うと、そういうこ
とはよく分かっていますから、先達がその安全管理面を比較的しっかり守ってくれます。

 南無阿弥陀仏は声に出した方がいい。善導大師も言っている。目は開けた方がいい。これは、
潜在意識の中からパンドラから出てきた幻影を追いかけないようにするための安全管理上では必
要なことだろうと思います。ただ、仕事や生活で大きな問題を抱えて座禅していると、じきに南
無阿弥陀仏が出なくなります。意識は、称えることを忘れて自分にとって重大事象に集中してい
きます。目も開けられなくなります。その場合には、それはそれで自然なことでしょうから、僕
は自分の意識が自然に赴くままに放置することにしています。
 いま、自分はこの問題を抱えているから念仏を称えようと、そう思って称え出すことがありま
す。しかし、禅定の中に入るとその思いが霧散霧消することがあります。大きな問題と思ってい
たのは表面的なことで、実は取るに足りないことの様なものであった場合、問題視していた意識
が消えていきます。その時は、それはそれで自然なことであり、僕はそれでいいんだろうと思っ
ています。


330 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/27(月) 09:18:46 ID:m3GE3QS2
 念仏を称えていくと、禅定の中で意識は自然な流れを始めます。その流れに逆らわないこと。
妄想が出てくれば出てくるに任せる。気づきがあれば、気づきに任せる。そうすると、得るもの
も大きいんだろうと思います。
 特に、パン屋さんや魚屋さんは、忙しい日々の中で時間を作って座るわけです。座って自分が
儲かるわけでもない。短い時間で最大の効果を出すには、意識の自然な流れに任せるのがいいで
しょう。

>「南無阿弥陀仏」と唱えるときは、実際に声に出すのでしょうか?

 声が出る限りは出すべきでしょう。一人で座る場合の安全管理だと思っています。僕の場合に
は、非常に小さな声になります。かすれたような声になっています。日蓮宗のように、太鼓を叩
いて大きな声を出すということはありません。1mも離れたら、僕の声は聞こえないでしょう。

>禅寺などで、声に出すのはまずいような気がしまして、、、
    そういう場所には、そういう場所のルールがあります。それを守りましょう。

>念仏を唱えるとき「ああ先生」と唱えるのは駄目なのでしょうか。
    お好きになさったらよろしいでしょう。

331 :愉然:2006/03/27(月) 19:13:12 ID:Dp6NJb8a
いろいろと教えてくださりありがとうございます。
とにかく、坐禅を教えてもらうところからはじめます。
私は京都に住んでいますので、いろいろな場所の参禅会を体験したいと思います。
その中でこれはと思うところで、しばらく続けていきたいです。今日、下見にある有名
なお寺に行きました。経験豊かな師と素晴らしい環境で座れればそれだけで嬉しいです。

このスレは私にとって有意義でありがたいです。また、いろいろな質問がでてくると思います。
どうかその時もよろしくお願いします。

332 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 20:08:28 ID:ftirnCUj
>>331
>とにかく、坐禅を教えてもらうところからはじめます。

 それはいいことだ。現代の浄土真宗教団には、本当の親鸞の教えを教
えられる人がいなくなった。親鸞の教えが完全に途絶えてもう400年が
経過している。その点、禅宗には途絶えたはずの参考になる教えが残っ
ているようだ。
 禅寺に行って浄土真宗親鸞聖人の教えを伺いに来ましたというと、相
手はビックリするかも知れないけど、事情を話せば歓迎してくれるだろう。
 座禅は、仏教での普遍的な着座法だ。当然、極楽浄土でもその方法
で着座する。浄土真宗の坊さんは、極楽浄土の着座法さえ知らない。浄
土教を学ぼうと思えば、まずそこでの座り方から教わるのが順序だろう。

333 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/28(火) 20:14:44 ID:ftirnCUj
>>332
  2,3日多忙。カキコできません。

334 :名無しさん@3周年:2006/03/30(木) 23:30:19 ID:rBUAhwm/
南無阿弥陀仏の読み方は「ナンマンダブ」とか、「ナマンダブ」など略される
ことが多いが、どの言い方が適当なのですか?

禅定において、丹田に意識を集中しながら数息観のごとく、「ナーン」で鼻か
ら行きを吸い、「マンダブ」で口から息を吐くというやり方でよろしいでしょ
うか?

初歩的すぎて誰にも聞けないので、よろしく。


335 :名無しさん@3周年:2006/03/31(金) 00:17:54 ID:pS8QNvyw
帰命無量寿如来
南無不可思議光
法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因
国土人天之善悪
建立無上殊勝願
超発稀有大弘誓


336 :キリスト信者:2006/03/31(金) 00:56:29 ID:TvxVDALa
龍が彫ってある。
龍はすなわちサタン!!
仏教の歴史は浅い。
全ては聖書からである。

337 :名無しさん@3周年:2006/03/31(金) 01:02:56 ID:ok/rj8kb
>334
形式に意味は無い

全ては報恩感謝の気持ち

338 :名無しさん@3周年:2006/03/31(金) 01:09:32 ID:O7es9sIw
>>336
聖書?あんな生け贄礼賛のどこがいいのよ。
生け贄捧げて喜ぶ暇があったら、己の業でも顧みてな。

339 :キリスト信者:2006/03/31(金) 16:14:39 ID:TvxVDALa
子羊を捧げること全て旧約である、二千年前、イエスキリストが十字架で地球全体
罪人を購いそして、赦したことを知らないのですか?それで新約に変わったから子羊で捧げることは無い。
龍はすなわち悪魔でありサタンである。黙示録に書かれてある。

悔い改めよ!悔い改めよ!


340 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 09:50:30 ID:V99TTYoe
>>284
>親鸞仏教において自殺はどう考えられていますか

 さるべき業縁が催せばいかなる振る舞いもすべし。
 人間にはさまざまな可能性があります。可能性があると言えば、幸福になる可能性も、不幸に
なる可能性もある。自分の自由で統制できる範囲は極めてわずかだろうと思います。その中で、
自殺に追い込まれると言うことが決して無いとは言えないでしょう。

 聖人の仰せには、善悪の二つ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心によしと
思し召すほどに知り通したらばこそ、良きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほど
に知り通したらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
万ずのこと、みなもって、空言戯言、誠あることなきに、ただ念仏のみぞ真にておわします。
 親鸞聖人は言っていた。自分は善と悪の二つの関しては、一切知らない。如来の心に照らして
善であると言えるほどに善を知り通していれば、善を知っていると言ってもいいだろう。如来の
心に照らして悪であると言えるほどに悪を知り通していれば、悪を知っていると言ってもいいだ
ろう。煩いと悩みにまみれ、一瞬の間も留まることのない世界では、念仏以外に何一つ真実はな
い。そのように仰っていた。

 もし人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、悉く皆断滅すと。 〜
もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難なし。
〜 もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、諸々の
処処に随いてよく遮障することなきなり。
 もし、真剣に念仏を称えたなら、あらゆる煩い、悩み、諸々の災難、全て断ち切れていくだろ
う。もし、真剣に念仏を称えたなら、全ての悪魔、災難は無事に通り過ぎていくだろう。もし、
真剣に念仏を称えたなら、悪神も災難もその人に襲いかかることなく、どんな場所にあっても苦
しいことは決して起こらないだろう。


341 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 09:51:53 ID:V99TTYoe
 必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、
三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、
七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益
なり。
 念仏を称えると十の利益を得る。多くの人々に助け守られる利益、素晴らしい人徳が備わる利
益、悪が善に変わる利益、優れた人々に守られる利益、素晴らしい人々から賞賛を受ける利益、
常に光に照らされる利益、常に喜びに満ちる利益、過去の幸せに知る利益、常に苦しみが抜けて
楽が与えられてくる利益、やがて必ず仏になる利益。このような利益を得るだろう。

 その時にまた一切天・龍、乃至一切迦タ富単那・人非人等ありて、みな悉く合掌して、かくの
如きの言を作さく、我等、仏一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども鬚髪を剃除し袈裟
を片に着ん者において、師長の想を作(な)さん。護持養育してもろもろの所須を与えて乏少な
からしめん。
 多くの精神達、命達は、釈迦の前で誓った。大乗の仏・小乗の仏に限らず、仮に戒律は守っていな
いくても頭を剃り、法衣を着るだけの形だけの者に対してでも、自分たちはその者に「先生」という尊
敬の念を抱こう。必ず守り育て、経済的にも様々なものを与え、経済的に追い込まれないようにして
やろう。

342 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 09:54:15 ID:V99TTYoe
 念仏さえ称えていれば、自殺に追い込まれるようなことは絶対にないか?絶対にないとは言えない
だろうと僕は思う。人は様々なリスクを抱えて生きている。自殺以外に選択の余地がないという人生が
無いとは限らない。残された道は自殺あるのみ。そういう人生もあると思う。自殺を善とか悪とか言って
もしょうがないだろう。
 しかし、念仏には脱出の可能性を切り開くさまざま知恵が凝縮しているようだ。どんな境遇に落ちて
も、どこかに脱出の可能性が少しでも残っていれば、それを見つけることができる道を得ようじゃない
か。親鸞仏教は、善悪とは別に、そう言って念仏を我々に提示してくれているんだろうと思います。

343 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:18:18 ID:V99TTYoe
>>299
>すなわち一切衆生は悉く釈迦如来の普遍的な意識に包含されていると言う事です。

 仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん、この千五百年の後、釈迦の法滅尽せん
 千五百年の後、戒・定・慧あることなきなり。

 釈迦如来の普遍的な意識に包含されているんでしょうね。それでも、釈迦入滅から千五百も過
ぎれば、その教えも古くなる。戒律も、知恵も、禅定も、パン屋さんおそば屋さん警備員さんに
はもう時代遅れ。親鸞は、釈迦の教えの根元に戻り普遍的な真理を阿弥陀仏という独自の仏に化
体させて説いてくれている。そういう理解でいるんです。

344 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:19:36 ID:V99TTYoe
>>319
>浄土真宗において「南無阿弥陀仏」というのは極楽往生するための言葉、と考えてよいのでし
ょうか?

 本願はもとより仏の御約束とこころえ(末灯抄)
 この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束ある(歎異抄) 

 僕らは約束の言葉だと理解してきました。
 小学校1年生になると、教室で先生は子供達にいいます。「私が先生です。私を先生と呼んで
ください」と。ここで、子供達は始めて「先生」というものの存在を知ります。
 先生は、自分を「先生」と呼ぶ子供に対し、一生懸命に教えようとしてくれます。先生という
のは、自分を「先生」と呼ぶ相手に一生懸命に真理を教えようと決心をしているものです。「先
公」「糞じじい」「糞親父」「ババァ」などと言ってくる相手に、本当のことを教えようとは思っ
ていません。
 先生を「先生」と呼ぶことは、先生の学習の世界に入るための礼儀であり、そのキーワードで
す。釈迦を先生と呼ぶことは、釈迦が開いた祇園精舎に入学する最低限の約束のキーワードでし
た。人々は、祇園精舎を開いた釈尊先生には、感嘆詞がつけ、「ああ先生」と呼んだのでしょう。
 阿弥陀仏とは、先生という意味です。南無は感嘆詞です。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の開い
た極楽浄土祇園精舎に入学するキーワード、入学の約束の言葉であると思えばいいでしょう。

345 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:21:15 ID:V99TTYoe
>困ったときに「南無阿弥陀仏」と唱えれば報われるということはないんですか?

 報われるでしょう。
 「南無阿弥陀仏」座禅して称えてみてください。続けてみてください。横隔膜は脳に大量の酸
素を送り込み始めるでしょう。やがて、眠っていた脳細胞を活性化させるでしょう。忘れていた
情報が呼び戻され、それがリンクを開始するでしょう。
 人生の困難にぶつかれば、人の判断力、決断力、気力が五分の一、十分の一に落ちることはよ
くあることだろうと思います。心臓は高鳴り、夜も寝られなくなります。そんな状態から、判断
力、決断力、気力などが通常の四割、五割に回復すれば、人の能力は二倍から五倍に増大したこ
とになります。
 二倍から五倍に能力が増大すれば、人生の全ての問題が解決するか。それは分かりません。二
倍から五倍に増大しても解決しないことはあるでしょう。しかし、判断力、決断力、気力が二倍
から五倍に増大すれば、それまで解決しなかった問題も解決の糸口が見つかることもあるでしょ
う。
 念仏で報われるかどうか。まず続けてやってみることが大事だろうと思います。

>>334
 座禅して念仏しても、腰が落ち着かないのでしょう。「ナンマンダブ」でも「ナマンダブ」で
も構いません。腰が落ち着かない内はなんでも構いません。その内、一日の内に数回ぐらい、五
分でも十分でもとなえないと、何となく間が抜けている感じがしてくるようにもなるでしょう。
そのときは、「ナンマンダブ」でも「ナマンダブ」でも「なむあみだぶつ」でも、なんでもよく
なってくるでしょう。

>>337
>全ては報恩感謝の気持ち

 まあ、そんなデカイ事は貴方の中で、そのような思いが出てきてから言っても遅くないでしょ
う。報恩感謝の気持ちなど、なかなか出るものじゃない。自分の胸に手を当ててみなさいな。


346 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:27:18 ID:V99TTYoe
>>337
>イエスキリストが十字架で地球全体罪人を購いそして、赦したことを知らないのですか?

 視よ、われ汝らの前にて訊したれど、其の訴ふる所に就きて、この人に咎あるを見ず。jヘロ
デも亦然り、彼を我らに返したり、視よ、彼は死に当るべき業を為さざりき。さらば懲しめて之
を赦さん ルカ23/15

 一人のおっちょこちょいが、大衆のリンチにあい、懲らしめが行きすぎてショック死(事故
死)しただけでしょう。人々には、彼を殺すつもりはなかったようですね。地球全体罪人を購っ
たというのは、買いかぶりの妄想ではないでしょうか。

347 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:28:57 ID:V99TTYoe
>悔い改めよ!悔い改めよ!
 イエスは悔い改める必要はなかったのでしょうか?。

 イエス宮に入り(住居不法侵入−3年以下の懲役10万円以下の罰金)、その内なる凡ての売
買する者を逐ひだし、(威力業務妨害−3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)、両替する者
の台・鳩を売る者の腰掛けを倒して(器物損壊−3年以下の懲役又は30万円以下の罰金)言ひ
給ふ、「わが家は祈りの家と称へらるべし」と録されたるに汝らは之を強盗の巣となす(礼拝所
不敬−6月以下の懲役若しくは禁固、10万円以下の罰金)。マタイ伝21/12〜13

 爰(ここ)にイエス群集と弟子達とに語りて言ひ給ふ、禍害なるかな、偽善なる学者、パリサ
イ人よ、なんじらは人の前に天国を閉して、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。
禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、 〜 。禍害なるかな、盲目なる手引きよ 〜 。
禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、 〜 。禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ
人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れど内は貪欲、放縦とに満つるなり。 〜 禍害なる
かな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども内
は死人の骨とさまざまの穢れとに満つ。 〜 。(名誉毀損 3年以下の懲役若しくは禁固又は
50万円以下の罰金)。マタイ伝23

 イエス、総督の前に立ち給ひしに、総督、問ひて言ふ「なんぢはユダヤの王なるか」イエス言
ひ給ふ。「なんぢの言ふが如し」祭司長・長老ら訴ふれども、何も答へ給はず。マタイ伝27/
11〜13

 イエスには、悔い改める意思はなかっようですよ。

348 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/03/32(土) 19:31:15 ID:V99TTYoe
>>346  リンク先
誤  >> 337
正  >>339


349 :名無しさん@3周年:2006/03/32(土) 23:31:09 ID:qrn543b5
イエスは、本来、「悪人正機」ではないのでしょうか。
「すべての罪はゆるされる」、「私が来たのは罪人のためだ」(マタイ)とい
う有名な箇所がありますね。にもかかわらず原始キリスト教団(?)や、後の
神学形成過程で変容していったような気がしないでもない。結果として、現在
の教会では、信者は「罪人」意識におびえながら信仰しているように思える。
他方で阿弥陀様は、私たちのすべてを煩悩を持ったまま、というより煩悩具足
の者を真っ先に救済してくれる。
質問というより感想になってしまったが、イエスという人は、西方において、
真宗の理念を体現していた人ではなかろうか。間違っていたら批判して下さいね。

350 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/02(日) 00:07:05 ID:+OeGwP/S
>>349
     ノーコメント

351 :\____________________/:2006/04/02(日) 23:32:06 ID:jEb4vJy2
         |/
    ______
   /       \〜プーン
  /:::::: ○。 .二二二\〜プーン
  |::::::::::....    ̄ ̄ ̄ ヽ〜プーン
  |;;;;;;;;;ノ ∪  / ' "\ }〜
  |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜  
  |ノ  (∵∴/( o o)ヽ.)〜  
  | ∪< ∵    .3 ∵>    
  \        ⌒ ノ_____
    \_____/ |  | ̄ ̄\ \
___/      \   |  |    | ̄ ̄|
|:::::::/  \___ | \|  |    |__|
|:::::::| \____|つ⊂|__|__/ /

352 :名無しさん@3周年:2006/04/03(月) 00:43:43 ID:2EWmSTu1
>>349
仏教では到底、アダムとイブの原罪なんて認められんと思うよ。

353 :名無しさん@3周年:2006/04/03(月) 03:07:02 ID:f4y42z6L
そもそも鎌倉時代の「悪人」概念は、猟師や、武士といった
殺生を生業とする人のことを指すのであって。
鎌倉仏教以前このような「悪人」の為の救いが無いからこそ
当時は「善人」と呼ばれていた聖道門、貴族に対しての狭義な「悪人正機」
現在では 広義の「悪人正機」=「すべての罪はゆるされる」、「私が来たのは罪人のためだ」 
こういった感じにすり替えているんじゃないの?真宗学はどうもこじつけ、いいとこどりな所があるような…



354 :名無しさん@3周年:2006/04/03(月) 06:55:52 ID:qV45a5oh
>>353
「悪人」という概念は難しいですね。殺生を生業とせざるを得ない一般大衆を
指す場合と、<倫理>上の「悪人」を示す場合と二通りで用いられているのは
多くの先行研究で明らかにされている通りだ。さて、問題は、毎日メディアに
報道される犯罪者が救われるか否か。梅原氏などは、死刑囚なども南無阿弥陀
仏を唱えれば極楽往生できると言っている。某文芸評論家が麻原をも包括でき
るのが親鸞の思想の深さだといって論争になったのは記憶に新しい。

355 :名無しさん@3周年:2006/04/03(月) 12:33:54 ID:36VqRdhQ
親鸞の言う「悪人」は、宗教的な自覚の問題でしょ。
特定の職業や社会的な立場と結びつけるのは社会問題とからめる意図があるが、
歎異抄を読んでわかるように、自分を悪人と自覚するかの問題で、
他人のことや客観的な判断で悪人とすることじゃない。

356 :名無しさん@3周年:2006/04/03(月) 16:05:17 ID:qV45a5oh
他人を救うのが宗教なわけだ。

357 :名無しさん@3周年:2006/04/05(水) 00:46:13 ID:QSgMOK4z
根本的に仏教を誤解してる人が多すぎ
まぁ2ちゃんでこんなこと言ってもしょうがないけど

だいたい困った時に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで報われるなんて
教えは仏教にはない

358 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 08:41:47 ID:WG8PAh5o
>>357
>だいたい困った時に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで報われるなんて
教えは仏教にはない

 汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと。かくのごとく心を至して、声をして
絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念
の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくし
てその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。
                             観無量寿経


359 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/05(水) 08:43:09 ID:WG8PAh5o
阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 説きおき給えるみ法なり
山家の伝教大師は 国土人民を哀れみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏を称うべし
一切の功徳に優れたる 南無阿弥陀仏を称うれば 三世の重障皆ながら 必ず転じて軽微なり
南無阿弥陀仏を称うれば この世の利益極もなし 流転輪回の罪消えて 定業中夭除こりぬ
南無阿弥陀仏を称うれば 梵王帝釈帰敬す 諸天善神悉く 夜昼常に護るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 四天大王諸共に 夜昼常に護りつつ 万の悪鬼を近か付けず
南無阿弥陀仏を称うれば 堅牢地祇は尊敬す 影と形との如くにて 夜昼常に護るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 難陀跋難大龍等 無量の龍神尊敬し 夜昼常に護るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官皆共に 夜昼つねに護るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 他化天の大魔王 釈迦牟尼仏の御前にて 護らんとこそ誓いしか
天神地祇は悉く 善鬼神と名付けたり これらの善神皆共に 念仏の人を護るなり
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地に満てる悪鬼神 みな悉く恐るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 観音勢至は諸共に 恒沙塵数の菩薩と 影の如くに身に添えり
無碍光仏の光には 無数の阿弥陀ましまして 化仏各々悉く 真実信心を護るなり
南無阿弥陀仏を称うれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して 喜び護り給うなり

 357さんと僕とは、仏道の体験が違うのでしょう。

 真に、この理に迷えらん人は、いかにもいかにも学問して、本願の旨を知るべきなり。
                      歎異抄

 間違いのない、本物の仏教を教わることを勧めます。

360 :名無しさん@3周年:2006/04/05(水) 20:29:26 ID:vUm+Nfh9
大谷門主が「世襲」であることは、仏法並びに親鸞聖人の理にかなっているの
でありませうか。また、巨大な東西本願寺は、小さな「庵」のみでよしとした
聖人の意志に反してはいませんでしょうか。タブーの問題でしたらスルーして
結構です。

361 :名無しさん@3周年:2006/04/05(水) 21:31:49 ID:XqFZIQMR
>>360
釈尊と、釈尊の死後に釈尊の墓を作り釈尊を敬うようになった仏教教団が別なように、
親鸞と、親鸞の死後に親鸞の墓を作り親鸞を敬うなかに成立した本願寺教団は別だと考えるべきでしょうね。


362 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/06(木) 16:59:13 ID:3AU3FFrI
>>360
>大谷門主が「世襲」であることは、仏法並びに親鸞聖人の理にかなっているの
>でありませうか。

 まあ、理にかなっているかどうかは分かりませんが、名利の大山に迷惑してい
た親鸞聖人への強烈な皮肉にはなっていると思いますよ。
 親鸞が見れば、全身冷や汗のシャワー状態になるでしょうね。

>聖人の意志に反してはいませんでしょうか。

 意思に反しているかどうかは分かりません。ただ、浄土の着座法も、念仏方法
も教わっていない坊さんが、その中でふんぞり返って闊歩し、敵味方に分かれて
糞ションベンの引っかけ合い、投げつけ合いみたいなケンカをしているてわけです
から、驚くべきパロディーにはなっていると思います。

 穴があったら入りたいと思うでしょう。

363 :名無しさん@3周年:2006/04/07(金) 09:18:43 ID:WwRdUgh0
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1143284945/

宗教家の力を貸してくれ!!!
奴等に説教を

364 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 15:47:26 ID:FVYbygRB
>>354
>梅原氏などは、死刑囚なども南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できると言っている。

 南無阿弥陀仏を唱えて極楽往生できた死刑囚と、南無阿弥陀仏を唱えないで極楽往
生できなかった死刑囚とは、梅原氏の中では、どこがどう違うんでしょうね。
 自称哲学者は、南無阿弥陀仏を唱えて死刑囚と一緒に極楽往生するんでしょうか。南
無阿弥陀仏を唱えないで極楽往生するんでしょうか。南無阿弥陀仏を唱えて地獄に堕ち
るんでしょうか。南無阿弥陀仏を唱えないで地獄に堕ちるんでしょうか。どう考えている
んでしょうね。
 梅原氏に言わせると、南無阿弥陀仏を唱える人は馬鹿正直だそうですから、極楽往
生するというのも、どうせ、小手先、筆先で人を馬鹿にしている話でしょう。

>某文芸評論家が麻原をも包括できるのが親鸞の思想の深さだといって論争になった
のは記憶に新しい。

 親鸞思想に包括されると、麻原はどうなるんでしょうね。日本という国も麻原を国民の
一人として包括しているんですが、これは日本という国の深さでしょうかね?。関係な
いと僕は思うんですよ。


365 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/08(土) 16:17:49 ID:FVYbygRB
哲学板である議論がほぼ終結に近づいてきたと思います。
 親鸞思想の枠組みに関する議論だと思っています。興味ある方は覗いてみてください。

 http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1091795513/412-614
 渡海 難の主張は485以降です。

366 :名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 18:37:19 ID:EPy7TXGD
我が家は大谷派なんですが、
先日周忌が4人重なった為(3,13,17,50)まとめてやってきました。(これで個人特定されたらヤだな・・・)
その時、後列にいた御坊様が鈴と共に拍子木みたいなのお経にあわせて打ってたのですが
アレは一体何なのでしょうか?
今まで参列した葬式や法事にはなかった仏具だったので物凄く気になります…

367 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/09(日) 08:39:17 ID:42i6JDES
>>366
 大谷派の専用スレで質問するといいでしょう。
 仏具屋のブログもあるようですから、そちらで質問するのもいいかも知れません。
 http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1140790027/

368 :名無しさん@3周年:2006/04/10(月) 07:15:56 ID:VLLM31Cj
L

369 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/04/11(火) 23:05:37 ID:wv3E7aIZ
宗教板のみなさんへ
 本当は、もっと続けたいのですが、残念ながら、昨今の諸般の多忙な事情がそれを許してくれ
ないようです。宗教は私の専門ではありません。
 突然ですが、しばらく、2ちゃんねるから距離を置きます。1か月程度、数ヶ月、半年又は、1年以上に
なるかは分かりません。ご了解ください。

 メールは tkatasi@mail.goo.ne.jpへ送って下さい

370 :太刀山型の土俵入り:2006/04/13(木) 17:38:42 ID:bQJvGUyR
日本には仏教徒はいないそうです。

646 名前:名無しさん@3周年 :2006/04/13(木) 10:52:19 ID:6h0Ehrjg
また同じ過ちを繰り返すね・・・
日本に仏教徒はイネーって言ってるだろ?

わざと仏教徒って曖昧にして逃げてるだろ?
具体的に教団名を挙げてみな12サン


371 :名無しさん@3周年:2006/04/15(土) 10:35:18 ID:aJj3x2C/
法事のとき浄土真宗とかの寺だったんだけどここの坊さんすげーな
合コンとか普通にしてんだってwwww生臭wwww

372 :名無しさん@3周年:2006/04/17(月) 15:25:10 ID:SddYqYOj
新約聖書を読んで素晴らしさを知った。仏教は捨てキリスト信者になるよ!

373 :名無しさん@3周年:2006/04/28(金) 19:10:20 ID:b9e3L3de
ちくま新書の「親鸞入門」ってどうでしょうか?
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480057765/

ネットで調べてもレビューらしきものを見つけられなかったので・・・

374 :名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 13:46:17 ID:FIkIn9X6
浄土真宗の住職さんが園長をしてらっしゃった保育園にいた者です。
園児だった当時に毎日歌ってた、変わった歌があるんですが
詳細を知りたく歌詞を検索してもぜんぜんヒットしませんでした。
何の歌か知ってる方がいらっしゃれば情報ほしいんですが
そういう質問ってスレ違いですか?

375 :名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 18:20:36 ID:RgJ3QFZi
>>374
歌詞は?

たとえば
真宗宗歌
ttp://www.shin.gr.jp/sanka/602.html
ttp://www.shin.gr.jp/sanka/images/sinsyu000.aiff

376 :名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 09:36:27 ID:cIWxOvjg
家の近くに浄土真宗の小さなお寺あるんだけど、そこの若い住職は真っ赤なフェラーリに乗ってるよ。

377 :名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 10:48:18 ID:Kmrr7Q0G
>>376
ネタでない証拠に、おおまかな住所をどうぞ。

378 :名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 11:06:50 ID:cIWxOvjg
大阪市大正区

379 :名無しさん@3周年:2006/05/03(水) 19:20:11 ID:Kmrr7Q0G
>>378
小さな寺に、何でそんなカネがあるの?

380 :名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 16:41:10 ID:X6DI6dmT
上からずっと読んできて思ったんですけど、
後30分で私が交通事故かなんかで死ぬとして、
後生の一大事を解決するために何かできることはあるのですか?

自分がいつ死ぬかわからないという現実がある以上、
時間はかけてられない。

381 :名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 22:04:46 ID:VbNE8z5O
渡海のスレに親鸞会。
なにかにたかるなにかのようだ。

382 :名無しさん@3周年:2006/05/05(金) 17:45:08 ID:gFBE93en
死肉にたかるジャッカル

383 :名無しさん@3周年:2006/05/07(日) 09:01:46 ID:gYNn3U1W
肉便器に群がる野獣共

384 :374:2006/05/11(木) 01:42:42 ID:cK2U+B3r
>>375
遅くなってすみません。
例を貼っていただいてありがとうございます。
ヒットするのはやはり大人向けの歌が多いのですが
私たちが教わったのは、いかにも幼児向けっていう感じのでした。
歌詞はこのようなものです。

**(ゆき?)の降る日も・風の日もー・
********(すみません失念しました)・*****ー(同じく失念)・
黙ってお独り・お坊様ー・
あれは、、、あれは、・親鸞様!
 ※4/4拍子で、「・」で区切ったところで1小節です。

音階は、以下です。ほとんど8分音符ばかりですが
うしろに「4」の付いたのは4分音符、「2」の付いたのは2分音符と思ってください。

* * の ふ る ひ も  ・ か ぜ の ひ もー・
レ #ファ ラ ソ #ファ ミ レ4  #ファ ミ レ #ファ ミ2

* * ** ** ** ・ ** ** *ー・
#ファ ラ ラ ラ ソ シ シ シ  ラ シ ラ ソ #ファ2

だま っ て お ひ  と  り ・ お ぼ う さ まー・
??? ソ #ファ #ファ #ファ レ  ミ ソ #ファ ミ レ2

あれは、、、以降の部分は音階はなく、セリフみたいな感じで言います(伴奏は続いてました)。


81年に生まれた者の幼児期の歌なので、もうないのかもしれないですね。。。
なんだかスレの流れに沿わないレスですみませんでしたm(__)m

385 :名無しさん@3周年:2006/05/15(月) 17:37:03 ID:lVnRStLc
法然親鸞日本の二大悪!!
この者達の邪義を信じ、一心に念仏を唱えていれば
必ずや、死後に無間地獄に堕ちるであろう。
今からでも改心せよ…

386 :名無しさん@3周年:2006/05/15(月) 17:47:06 ID:46eR1QcU
>>385
創価はそう言うね。
自分が欺されているとは知らずに。


387 :名無しさん@3周年:2006/05/17(水) 00:20:34 ID:m5j4nnKC
質問です。

真宗の念珠で「蓮如結び」というのがありますよね。
http://www.nenjudo.co.jp/page/sinsyu.html
紐のみで構成されている側の房をそう呼ぶのだと
書かれています。
その説明として「数取りができないように」と書かれているページも
あるのですが、なぜこうなっていると数取りができないのかという
説明が聞きたいのです。
どなたかお答えいただけるでしょうか。

388 :名無しさん@3周年:2006/05/17(水) 00:35:25 ID:plN/jRzb
親鸞なんて普通にマタイ伝読んで終了。


389 :名無しさん@3周年:2006/05/17(水) 00:38:22 ID:gmZRE3No
>>380
本願他力にまかせよ。
おまえに出来ることは何もない。

390 :異教徒2ターン:2006/05/21(日) 10:17:40 ID:K6f5aH++
南無阿弥陀仏の至福、念仏以外すべてどうでもよい、しかし、教理外の三昧を味わえるのはなぜだ、天台宗の阿弥陀仏の常行三昧の世界を感じるのはなぜだ。瑠璃地の三昧を味わう。真宗のお坊さん答えててくださいな

391 :名無しさん@3周年:2006/05/21(日) 21:37:13 ID:tBczblJx
後生の一大事を30分で片付けられるとは素晴らしい事ですね。往生を遂げる事とは「素懐を遂げる」事なのです。日頃より念仏し往生を願う者こそ一大事に叶うものではありませんか。


392 :名無しさん@3周年:2006/05/21(日) 23:44:42 ID:aq1qAFxe
坊さんじゃない(その他新興団体系でもない)けどとりあえず>>390
天台の常行三昧知らないからよく分からんです。

>>391
己の30分如きで片のつくものではない。
日頃の念仏も往生を願う心も、それが自力なら生涯勤めても間に会わない。
偏に阿弥陀様が、五劫もの思惟と修行を為されて我々に往生を約束して下さってのこと。
「素懐を遂げる」とは、誰の「素懐」であるかを案じてみれば、それは阿弥陀様の御心にほかならない。
偏に他力のお計らいによって往生を遂げさせていただく。
こんな、凡そ仏道を修するには力及ばぬ凡夫の私をこそ
仏様の世界に引き入れて下さるから阿弥陀仏のご本願は素晴らしいのです。
素晴らしいからこそ、自然にお念仏申すより他に如何ともしがたくなるのです。
如何に日頃から熱心に念仏をも唱え、往生したいと願っていても、
そういう自分の力や行いを頼みとする間は、報土の往生は不定とされます。
「日頃これだけ唱えていれば、これだけ願っていれば」で他力の御心を計らう心を自力の執心と言われるのだ。
計らっているのは、口先で念仏を唱え頭で往生するぞと思っていても
腹底では、阿弥陀様が「そのまま来いよ」との大慈悲心を
我が身に働きかけて下さっていることを未だ信じられないからではないですか。

いかなる善をもまともに為すことの出来ない私達が、自分の行いを頼みとするうちは、
往生するかどうかがあやふやで不安の種にもなる。
だから自力の心を翻して一心に他力を頼みとせよと言われるのです。
弥陀の本願力まことと、弥陀の呼び声に後生の大事をおまかせしてこそ、
揺らぎない安心が頂けるのです。
今生で安心を頂き、後生にて往生を頂く現当二益。
ご本願のお言われを、よくよく受け止めて
他力の安心を喜ばせていただきましょう。

393 :名無しさん@3周年:2006/05/22(月) 17:04:34 ID:iUG5elTx
最近聖書を読んで信仰ってものに興味が沸いた
しかし私は日本人だ。家は浄土真宗だ。
あらためて、仏教について学びたい
聖書のような本はどれにあたるのか教えてくれ

394 :名無しさん@3周年:2006/05/28(日) 13:18:58 ID:ibwbNX+j
教行信証

難しいと感じたなら歎異抄からどうぞ。

395 :名無しさん@3周年:2006/05/28(日) 23:03:01 ID:dp0TeioK
「素懐を遂げる」とは弥陀の本願とは意味が異なると思います。阿弥陀佛に後生を委ね今を生きている今生の「人」の姿を表しているのではと思います。「素懐を遂げて往生に至る」とは今を生きてきて人生が終わる時に生き様を表す表現だと思います。

396 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/05/30(火) 20:43:57 ID:S2a2WAYh
36 名前:名無しさん@3周年 :2006/05/30(火) 18:16:22 ID:e0RfBB6O
CCjpzoj+ さんは、後生の一大事についてはどのように考えていますか?

 親鸞会系のスレで質問があったので、いずれこの問題を議論します。
 しばらく多忙。

397 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/01(木) 20:15:27 ID:hn5m+3c8
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1147353970/363

> 先輩、いい人ばかりでした。人間的に尊敬できる人、いっぱいいました。

 家庭でも職場でも、虫一匹殺したところを見たことがないと言われた人が、一度、軍人
として命令を受け、戦地に向かえば、鬼畜となって無差別大量殺人を行う。広島長崎原爆
投下、南京事件(第二次世界大戦)、ソンミ事件(ベトナム戦争)などは、人類史では氷
山の一角だ。

 いい人、尊敬できる人が、組織の一員になると人格が変わる。親鸞会スレに常駐してい
る○○人さんも、裸で付き合えば、本当は嘘が嫌いな、尊敬できる人なんでしょう。

 親鸞会は人格を変えるようだ。親鸞会に入ると、人は本来の自分を失って嘘つきに鈍感
になるようだ。親鸞会は悪魔の組織か。2ちゃんねるには、親鸞会から給与を貰い、言い
つけ通りのカキコをしている連中がいる。これは組織の被害者と言うべきか。

 後生の一大事とは何か。親鸞会の人はいい人ばかり、人間的に尊敬できる人ばかり。そ
んな人が簡単に嘘つきになる。後生の一大事に関する議論は、肉体が死んだ後の話じゃな
い。もっと恐ろしい事実がある。後生の一大事とは、人間のこの恐ろしさを教えてくれる
ものだろうと考えてます。

398 :名無しさん@お久しぶり:2006/06/02(金) 10:36:10 ID:nx3JEQnD
渡海 難<----究極の自己マインドコントロール犠牲者
この人は確かに親鸞に関する文献を誰よりも多く読んだのだと推測できます。
しかしながら肝心要のところで思い込みという落とし穴にハマッテいる可哀想な人です。
右からでも左からでもどこから責められても「独自の理論武装」を武器に自己以外を攻撃する姿は彼自身が常に否定する親鸞会や彼が言う坊主ドモと詰まるところ同じ穴のムジナであることに気が付かないのです。
親鸞思想は確かに魅力的です。魅力的なるがゆえに渡海 難氏のような思想の持ち主が現れるのは必然なのかも知れません。
渡海 難氏自信が「私は究極の自己マインドコントロールの犠牲者?」と気が付くまで彼の戦いと心の平安は訪れることはないでしょう!
渡海 難氏を拝見するたびに以前の私自信を思い出してしまいます。
そういう今の私は「究極」が取れたと感じている「自己マインドコントロールの犠牲者」です。
結果として、ほんの少しですが心の平安を楽しんでいます。

399 :名無しさん@3周年:2006/06/02(金) 16:54:56 ID:nGl9w3bY
>>397
言いたいことは、
因と縁が揃えばそれに見合った果が出てくるって事なのか?
因と縁が過去、華が現在、果が未来で、
後生の一大事は因と縁を整える事で、
華と果が悪い方向に向かない事か?
ナチスの幹部みたいに真面目な人が、仕事に忠実であろうとした歴史みたいに・・・・

400 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/02(金) 20:29:54 ID:np1S6QU5
 仏教は決して難しい話はしていない。誰にでもわかる話をしている。生死の一大事を結論から
いう。
 我々は、実に様々な可能性を秘めて存在している。昨日まで有頂天でいた者が、今日は地獄で
塗炭の苦しみを味わうこともある。馬鹿だった、馬鹿だったと、あれほど涙を流して後悔してい
た者が、舌の根も乾かない内に、相変わらす再び鬼畜の後を追っていくということもある。
 あんなに心やさしく、高校時代は曲がったことが大嫌いだった子が、大学に入ったら宗教団体
に誘われ、嘘つきの先兵となり、挙げ句の果ては嘘つきの立案者になったということもあるだろ
う。

 生きるということは、一寸先が闇の中を、人は様々なリスクを孕んで進むことだ。リスクを孕
んでいるというこの現実をしっかり見据えようじゃないか。さまざまなリスクを孕んで存在して
いるという現実に腹を括ろう。そのためには危機管理をしっかり持とう。人生の危機にできるだ
け陥らないような生き方をしよう。人生の危機に陥っても、そこからの脱出の最後の切り札を持
とう。
 戸締まり用心、火の用心。生死の一大事とは、戸締まり用心、火の用心である。親鸞は、戸締
まり用心、火の用心として「座禅して念仏申せ」と教えている。生死の一大事とは、人生の火事
・泥棒に備えることだ。戸締まり用心、火の用心として座禅して念仏申せ。親鸞、蓮如はそれを
教えている。
 生死の一大事とは何か。以後、この結論に至る議論を展開します。

401 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/03(土) 00:31:56 ID:4oRiHeHP
誤 生死の一大事
正 後生の一大事

402 :名無しさん@3周年:2006/06/03(土) 02:07:51 ID:ur0ulKLq
肝心の阿弥陀仏が何処にいるか実体がないんなら信じるの無理じゃない?銀河団のどこかとか誤魔化すあたり嘘くさい。やっぱ宗教って金儲けでしょ?

403 :>>399:2006/06/03(土) 18:14:54 ID:Jr4HlkAl
仏陀がされた「火宅から逃れるお話」と関連付けて話された方が、
私は納得する気がするのですが・・・
>>402さんのおっしゃる事ももっともですけど、
世の中には言語化したくても言語化できない物事ってあると思うのですよ。
因みに観経の中に其の回答があります。
「あきらかに聴き、あきらかに聴け。善くこれを思念せよ。
佛とは、当に汝らの為の(分別を解く説が苦悩を除く)法である。
汝等はひろく大衆のために、分別を解く説を憶持せよ。」
注・書き下しでは無く中国語の語順!
これを裏付ける文章って教行信証の中にありますか?




404 :名無しさん@3周年:2006/06/03(土) 22:52:36 ID:pm6TDi/J
>>403
>分別を解く説
教行信証のどこからかとかは確認してないけど、
真宗ではフツーに「自力計度(けたく)の心を離れて」「計らいなく」
弥陀の本願力回向をそのまま受け止めよ、みたいに言われてるんじゃ中武。

今、ちょっと唯識の勉強をしてるんだけど、やっぱりそこでも
最終的に問題に上がるのは「分別」ということなんですよ。
やっぱ、仏教は面白いわ。
…て、まあこれも「分別」なんですけどね…

405 :名無しさん@3周年:2006/06/06(火) 15:32:54 ID:ISjlwJph
上げるです

406 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/07(水) 00:18:30 ID:QL8q7ScL
>>402
>肝心の阿弥陀仏が何処にいるか実体がないんなら信じるの無理じゃない?銀
河団のどこかとか誤魔化すあたり嘘くさい。やっぱ宗教って金儲けでしょ?


 面白いこと言うね。何?勤勉に働かないと駄目だって?キリギリスが、蟻の
家に物乞いに行った?キリギリスが蟻と会話するのは無理なんじゃないのか?。
キリギリスが楽器を使うなんて誤魔化すあたりも嘘くさい。やっぱ、イソップ
って金儲けでしょ?。

 キリギリスも蟻も、勤勉が大事だと教えてくれている比喩なんですよ。阿弥
陀仏というのは、南無阿弥陀仏こそ尊いんだと教えてくれている名前である
(蓮如)。架空の阿弥陀を持ち出すのは、イソップと一脈通じる昔の人の知恵
でしょう。

>>403
>仏陀がされた「火宅から逃れるお話」と関連付けて話された方が、私は納得
する気がするのですが・・・

 それは、貴方がおやりなさいな。

407 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/08(木) 13:43:08 ID:LFOzPSpD
 我々に大事なのは、戸締まり用心、火の用心である。戸締まり用心、火の用心として「座禅し
て念仏申せ」。話の議論をこの結論に持って行くに当たり、我々には二つの論証ルートを持って
いる。一つは、ギリシャルートである。もう一つはインドルートである。
 ギリシャ文明は、ヨーロッパに近代文明をもたらした。ヨーロッパの近代文明は、ギリシャ的
論証方法が生み出したものだ。ギリシャルートとは、そのヨーロッパ的合理主義的な論証方法で
ある。これは、しばしば話を結論から始める。戸締まり用心、火の用心として「座禅して念仏
申せ」、これが後生の一大事である。このように最初に結論を持ってきたのは、いわばこのヨー
ロッパ合理主義的論証方法を踏襲したものだ。これに対し、インドルートは別の方法を採る。こ
れは権威に依存する。仏教では最高の権威は釈迦である。従って、釈迦の権威に依存して真実を
明らかにする。これがインドルートの論証方法だ。教行信証は、インドルートのこの論証方法を
採用している。ギリシャ的な分類手法を使用すれば、ギリシャ手法は客観的な論証、インド手法
は、特に最高権威者である釈迦の主観に依存する主観的手法と言えるのはないか。
 インドルートで論証するなら、釈迦の悟りを明らかにし、その悟りに至る方法、いわば苦集滅道
を明らかにする。ギリシャルートで論証するなら、結論の次にその客観的な理由を述べなければ
ならない。
 戸締まり用心、火の用心がなぜ大事なのか。座禅して念仏した場合のその効果はどのようであ
るのか。いわば、現代の我々にもっとも親しみやすい論証順序、それがギリシャルートである。

408 :名無しさん@3周年:2006/06/11(日) 14:25:34 ID:b2hABNV1
質問なのですが自分の宗派を知るにはどうしたらいいのでしょうか?
母は小さい時に死に、父は連絡も取れず親戚もいないので
身近な人に聞いたりも出来ず、確かめようがありません。
母のお墓はあるのですが、お墓に何か分かりやすい
宗派の目印みたいな物は無いのでしょうか?

409 :名無しさん@3周年:2006/06/11(日) 18:38:58 ID:5zcaWfDj
>>408
残念ながらない。
浄土真宗は「××家」と彫らずに「南無阿弥陀仏」と
彫る事が推奨されているが、必ずしもそうなっているとは限らない。
他のお墓と比較して特徴的なものがあるなら晒してみたら?

410 :408:2006/06/11(日) 21:01:48 ID:Xa0rOAuM
>>409さん、ありがとうございます。
今、携帯からなのでIDは違いますが>>408です。
今月はまだ墓参りに行ってないので、
今月中に墓参りした時に写真を撮って来たいと思います。

もしもそれで何か分かる事があれば、またよろしくお願いします。

411 :名無しさん@3周年:2006/06/11(日) 22:43:39 ID:Krnm0OjT
2茶は、各宗派の人が出入りしているから、各宗派のスレを巡れば、先祖の
法名・戒名からある程度で先祖の宗旨が分かる場合もあるかも知れない。た
だし、昔の法名・戒名からは、本人も知らなかったような氏素性に関わる重大
なプライバシーが露見する場合がある。
 確か、曹洞宗だったと思うが、宗門を挙げて大問題になっていた。そうい
う危険性もきちんと知っておくといいだろう。 

412 :名無しさん@3周年:2006/06/12(月) 00:31:03 ID:JO/4teh9
>>411=渡海難

お前はしょっちゅう名無しでカキコしてるな。
どこかで自作自演でもしてるの?

413 :名無しさん@3周年:2006/06/12(月) 01:03:29 ID:/E8QfiHo
>>411
コテつけてレスしてもいい内容だと思うが、
そういうキャラ作りではないのかな。

本派で火がついた(つけられた)のはスルーして
いまいちな盛り上がりで終った曹洞宗ですか。。。

別に露見してもかまわないのでは?
いまさら現代人がそういった氏素性を嫌がるとも思えないし、
被差別側なら事実上強者の側だから現代では困ることもない。
この人に状況を指摘しても意味が分からず(こちらが思う以上に知識のない人は多い)
歴史から説明しないといけないかもしれない。
それとも「寝た子は起こすな」理論を否定するグループの方なのかな。

いろんな意味で一言多かったような気ガス。
レスしにくくなったかな。スマンな。

414 :名無しさん@3周年:2006/06/12(月) 01:41:48 ID:oNnVuJ21
童貞の為の宗教って在りませんか?

415 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/12(月) 18:50:13 ID:tYVnI8dq
>>412
 用もなくつまらんことで呼ぶなよな。2茶が気になると、仕事に集中しないんだ。

>>411=渡海難         それがどうかしたか?。

>お前はしょっちゅう名無しでカキコしてるな。

 知らんな。僕が名無しでカキコすると都合が悪いか?。> 411は理由があって
名無しにしたが、そんなことの理由が聞きたいのか?。
 隠すほどの理由ではないが、聞いても面白い話じゃないぞ。つまらん話が聞きた
いのか?。

>どこかで自作自演でもしてるの?

 ノーコメントだ。それより、おぬしが、匿名じゃなく、自分が何処野誰兵衛か、
正体を明かして書いたらどう?。まあ、名乗るほどの人物でないことは百も承知
だがな。



416 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/12(月) 18:51:27 ID:tYVnI8dq
>>413
>本派で火がついた(つけられた)のはスルーして

 本派で火がついた?知らんな。聞いたこともない。
 自分たちを買いかぶりすぎじゃないのか?本派の中でノータリン坊主が糞ショ
ンベンの引っ掛け合いをしていても、所詮はコップの中の泥仕合だろう。世間は
何にも知らんわい。
 自分たちが世界の中心にあって注目を浴びていると思っていたら、大間違いだ。
 曹洞宗は、偶々開いた新聞の片隅から偶然目の中に入って来たから分かったの
さ。丁度、座禅会によく行ってたころだったからね。
 本派で火がついた?。聞いたこともない。本派など、地上からあっさり消えて
も、誰も気がつかんだろう。

>>414
>童貞の為の宗教って在りませんか?
   親鸞会に行くといい。最近聞いた話だが、あそこは男女交際禁止だそうだ。
   まあ、骨の随まで、布施を搾り取られても、責任は持たんぞ。

       2,3日カキコ不能

417 :名無しさん@3周年:2006/06/13(火) 17:53:37 ID:dGxk4HeN
>>416
あちこちのスレや出版物に書かれていたのに聞いたことないと言い切るのか。
追い詰める気はないのでこれでやめておく。
あんたのキャラは嫌いではなかったし。
同じ活動をしている人でも気に入らなければ罠を仕掛ける人達だから
口や行動には気をつけなさいよ。

418 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/17(土) 21:03:28 ID:/wlfLZiz
 ギリシャとインドとに、ほとんど同時期に、人類は二人の偉大な先達を得た。インドは釈迦、ギ
リシャではソクラテスだ。二人は、非常に似通った発見をそれぞれ互いを知ることなく、独立に行
ない、それぞれは非常に興味深い展開をしていく。
 釈迦は、全ての迷いの原因が無明にあったと知る。釈迦はまさに、自らを含む全ての人に普遍
する愚かさに気づいた。だからこそ釈迦は、人々に、互いに教え合い、学び会うことを提案した。
人類最古の、全寮制の学校を建設し、最古の学則を定め、最古の制服を定めた。祇園精舎である。
祇園精舎には世界中から若者が集まり、そこからは、多くの賢人・哲人が輩出した。世界中の仏
教寺院は、まさにその祇園精舎の分校である。
 ソクラテスは、無知の知に気づく。多くの人々と討論を行い、全ての人が自らの無知を知らない
ことに気づく。やがてソクラテスは、人々から疎んじられれ、弾劾を受け、死刑を宣告されて毒酒
を飲む。しかし、ソクラテスの弟子であるプラトンは、やがて人類最古の最古の学校、アカデミヤ
を建設する。古代ギリシャにあって、アカデミヤからも多くの賢人・哲人が輩出し、ローマ文明、
ヨーロッパ文明の母体となる。
 全ての迷いの原因は無明にあった。釈迦のこの認識は、十二因縁法と言う。仏教における因果の
法則そのものを意味する。釈迦の三十五歳の時の悟りとは、この十二因縁法を認識したことにあっ
た。十二因縁法を肯定する考えを内道、十二因縁法を否定する考えを外道という。
 十二因縁法とは何か。法華経化城諭品第七は言う。無明行に縁たり。行は識に縁たり。識は名色
に縁たり。名色は六入に縁たり。六入は触に縁たり。触は受に縁たり。受は愛に縁たり。愛は取に
縁たり。取は有に縁たり。有は生に縁たり。生は老死に縁たり。憂い悲しみ、苦悩す。後生の一大
事とは、仏教の原点であるまさにこの十二因縁法そのものの理解を指すと考える。

419 :>>403:2006/06/17(土) 22:22:39 ID:bvQjZYD/
聖典P388「外道の所有の三味は、
みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貧着するゆえなり」
つまり、自分の外側に求めていくのを外道と名づく。
化身土・末にP368「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、
外教邪偽の異執を教誡せば、」から外道の説明がある。
十二因縁法は聖典P354に
「もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。
一つには貧欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。
貧欲の病には教えて骨相を観ぜしむ。
瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。
愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。
この義をもってゆえに、諸仏・菩薩を「善知識」と名づく。」
愚痴とは無明の事であるから、無明がどういうものか?何故無明が発生するか?
を説明するのが十二因縁法であるといえる。無明の詳しい説明求む!


420 :愉然:2006/06/19(月) 19:57:44 ID:K85v8Y7J
以前に念仏の仕方について質問させていただいたものです。
禅寺に行ったり、禅のやり方について書かれた本などを読んで
坐禅しながら念仏を唱えることを実践しています。

実践しながら思っているのですが、本当に何かが良くなっているの
かが全くわからずモチベーションが上がりにくいということです。
たまに念仏しているととても気持ちよくなったり、高揚感(浮遊感みたいなもの)
があったりして、おっこれは!と思ったりするのですがそんなものはたまにしかなく
例えば、ヨーガの瞑想などとどう違うのかわからなくなります。

これは、どこで聞いたか全く忘れてしまったのですが、念仏を唱えるにも
阿弥陀如来の救いを信じていることが大事で、信じるためには聴聞するしかない
とかなんとか聞いたことがあります。←かなり曖昧な記憶です

いったいどうすればいいでしょうか。

421 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/21(水) 09:39:44 ID:ibiZwvjo
>>419-420
 しばらく多忙。カキコ不能。いずれレスします。

422 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/23(金) 00:54:38 ID:a5KY0dHS
>>420
>坐禅しながら念仏を唱えることを実践しています。

 一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてそ
の前にましまさん。

 もう駄目だ。今までと同じやり方ではどうしようもない。そんなふうに人生で壁にぶつかった
とき、きっと役に立つことがあるだろう。
 人生の危機にもきっと対処できると思えば、自ら大胆な生き方を求めることにも恐れを抱かな
くなることを期待します。
 
>モチベーションが上がりにくいということです。

 心配することはない。可能な範囲でやればいい。

 念仏申し候えども、踊躍歓喜の心疎かに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、如何
にと候べきことにて候やらんと、申し入れて候いしかば、

 消火器を買い、こまめに点検しているのですが、ちっとも嬉しい気持ちが湧いてきません。防
火管理をしっかりしている人と言われるような人の一人になりたいという気持ちも湧いてきませ
ん。これはどうしたことでしょう。そんなふうにお尋ねしました。

423 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/23(金) 00:55:22 ID:a5KY0dHS
 親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり。

 実は親鸞も同じように思っているんです。消火器一つ揃えて点検もしっかりしているんですが、
ちっとも嬉しさが湧いてこない。唯円房さん。私も貴方と同じ思いです。

 よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを、喜ばぬにて、いよいよ往
生は一定と思い給うべきなり。

 よくよく考えてみれば、いったん火災となれば、これは大変なことです。すぐに消防署からポ
ンプ車が駆けつけてきてくれるというものではありません。目の前が火の海になれば、もう命が
危なくなります。それまでなら、時間になれば勤めに出たり、友人から電話がかかってくればす
ぐに電話に応答するというような、そんな生き方、仕草はできなくなります。全てを切り替えて
目の前の火をなんとかしなければならなくなるわけです。
 消火器はそんなときに役に立ちます。消火器があると言うことは、天にも踊り地にも躍る程に
嬉しいはずです。多くの人々は、その消火器一本がないために死んでいます。それにもかかわら
ずこれを喜ばないというのは、実に私たちの危機感のなさに起因するものでしょう。消火器は、
そのような危機感の無い私たちを心配し、消火器屋さんが作ってくれました。そのような消火器
があるのですから、私たちは、防火管理をしっかりしている人のお仲間に加われることに自信を
持ちましょう。

424 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/23(金) 00:56:30 ID:a5KY0dHS
 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろ
しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがた
めなりけりと知られて、いよいよ頼もしくおぼゆるなり。

 本来は、嬉しくなって喜べてくる心を抑え、喜べないのは、まさに私たちの危機感のなさです。
しかし、そんな私たちを心配し、危機感のなさもよく分かった上で、消火器屋さんは消火器を作
ってくれました。危機感のない人ですねと消火器屋さんは仰っています。消火器屋さんの心はそ
んな私達のことを心配してくれているんだと思えば、心なしか消火器屋さんが頼もしく思えてく
るものです。

 また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやら
んとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

 防火管理に一生を邁進した立派な人々と言われる方々の一人にすぐにでもなりたいという思い
が無く、またそのことを心配したり、このまますぐに死んでしまうのだろうかと心細くなるのも、
みんな危機感のなさの表れです。

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいし
からずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。

 危機感などは簡単に得られるものではありません。防火管理に一生を邁進した立派な人々のお
仲間に早く入りたいという思いが湧いてこないのも、実は危機感のなさです。

425 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/23(金) 01:02:12 ID:a5KY0dHS
 名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終わるときに、かの土へはまいるべきなり。

 危機感が無くても、消火器を持ち、こまめに点検をし、いつでも使えるようにしていれば、や
がて生きる寿命が尽きたとき、防火管理に一生邁進したといわれる立派な人の仲間に加わること
でしょう。

 急ぎ参りたき心なきものを、殊に哀れみ給うなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた
のもしく、往生は決定と存じそうらえ。

 消火器屋さんは、防火管理に一生を邁進した立派な人のお仲間に加わりたいという思いが無い
ことを特に心配してくれています。だからこそ、消火器屋さんの心は頼もしく思えてきます。防
火管理に一生を邁進した立派な人の仲間に加わるということは、決して夢幻ではありません。

 踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、怪しく候いな
まし

 消火器を持っていることが、嬉しくて嬉しくてたまらなくなったり、防火管理に一生を邁進し
た立派な人の仲間に一日でも早くなりたいと思えてくれば、「あれ?危機感のないはずの本当の
自分はどこに行ってしまったのかな」と変に思うようになるでしょう。

>念仏を唱えるにも阿弥陀如来の救いを信じていることが大事で、信じるためには聴聞するしか
ないとかなんとか聞いたことがあります。

 消火器は、ただあればいいというものではありません。どうやって使うのか。火事に備えてど
ういうところに置いておくのか。どのくらいの間隔で点検をするのか。そういうことをしっかり
聞いておかなければなりません。しっかり聞いておかないとちゃんと使えない。先人はそのよう
に教えてくれています。
 消火器は、ただ持っているだけでなく、消火器屋さんの本当の心を理解して持っていたいもの
です。

426 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/23(金) 19:56:36 ID:a5KY0dHS
>>422
<誤> 人生の危機にもきっと対処できると思えば、自ら大胆な生き方を求めることにも恐れを
抱かなくなることを期待します。

<正> 人生の危機にもきっと対処できると思えば、積極的に可能性を信じ、失敗を恐れずに進
みたい。細部にも目の行き届いた大胆な生き方をしてみたい。そんなふうに思います。


>>424
<誤> 危機感のない人ですねと消火器屋さんは仰っています。消火器屋さんの心はそんな私達
のことを心配してくれているんだと思えば、心なしか消火器屋さんが頼もしく思えてくるものです。

<正> 危機感のない人ですねと消火器屋さんは仰っています。昔の人は大変でした。防火管理
に一生邁進した立派な人になろうと思えば、毎日毎日、一瞬たりとも火の元に注意をし、片時も
忘れることは許されませんでした。いったん火が出てしまえば、これを自分で消す方法がなかっ
たからです。
 消火器屋さんは、そんな私たちを哀れみ、消火器を作ってくれました。これさえ置いてれば、
私たちでもそれだけで防火管理に一生邁進した人になれるようになりました。消火器屋さんのお
力です。私たちは、火災の危機から救ってやろうという消火器屋さんの願が成就し、防火管理に
一生邁進した人になれるようになりました。まさに他力です。そう思えば、私達のことを心配し
てくれている消火器屋さんの心は、頼もしく思えてくるものですね。

427 :>>419:2006/06/23(金) 20:20:13 ID:1ZuqKY7s
貴方の文章で消火器で消す「火」に当たるモノが分かりません。
この世の中は普通に生きてるだけでも「火に当たるモノ」が発生するのですよね。
だから、南無阿弥陀仏が必要になるのですよね。
貴方が壮大な釣り師や荒しに思えてきているのですがそれも火のうちですか?


428 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/24(土) 09:54:09 ID:Qrw+V/rV
>>427
>それも火のうちですか?

 質問したいんですか?
 質問は、相手が釣り師や荒しではないと思えたときにしなさい。
 質問は、相手を尊敬できていることが前提だ。尊敬できない相手に質問すれば、互いに傷つくこ
とはあっても、得るものはない。
 真剣に仏法と取り組んでいる人だと思えるようになったとき、相手に質問しなさい。そのとき始
めて、得るものがある。仏法とはそういうものだ。

429 :http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/419:2006/06/24(土) 11:34:43 ID:xHMMy61N
最後の一行は冗談です。
火災や火に当たるモノは何でしょうか?

430 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/27(火) 09:18:43 ID:L+PG2LN7
 仏教が考える悟りとは、釈迦が三五歳の時、尼蓮禅河で気づいた十二因縁の法理を指す。仏教
は、因果の道理を重視する。仏教が言う因果の道理とはこの十二因縁の法理を言う。十二因縁の
法理を肯定する考えが仏教、十二因縁の法理を否定する考えが外道である。
 後生の一大事に気づくことは、二千数百年昔、釈迦が尼蓮禅河で気づいたあの十二因縁の法理
に気づくことである。十二因縁の法理に気づくことは、後生の一大事に気づくことである。
 十二因縁の法理は、無明という単語から生、老死まで12個の単語が並ぶ。無明・行・識・名
色・六処・触・受・愛執・有・生・老病・死。別の経典では、無明・行・識・名色・六処・触・
受・愛・取・有・生・老死である。無明から死までの間で、「愛執・有」と解するか、「愛・取
・有」と解するかで議論が分かれているようだ。
 中国語で、執と取とは同じ音なんだろう。書写の途中で入れ替わって執が取なり、途中が愛取
となった。「愛執」なら一語だが、「愛取」は「愛・取」となる。愛・取では、「生・老病・
死」と続くと13語になる。計算が合わなくなるので、「愛・取」とする場合には「生・老死」
とまとめて12語にした。途中に多少の混乱はあっても、「愛執・有」も「愛・取・有」も、本
質的な違いはないと思う。
 12因縁の法理で大事なことは、「生・老死」又は「生・老病・死」の原因は無明にあると言
うことだ。「生・老病・死」つまり、人間の迷いの根本は無明にあるというこの結論が大事なん
だろう。後生の一大事とは、人間の迷いの根本は無明にあったということに気づくことだ。それ
は、二千数百年昔、ギリシャのソクラテスが、命を賭けて人々に語り、やがてヨーロッパ文明の
礎となった「無知の知」に気づくことでもある。

431 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/27(火) 09:20:54 ID:L+PG2LN7
 人は、ある時は獣となり、鬼となり有頂天になったかと思ったら地獄にも堕ちる。獣の心で獣
の行為をする者を獣という。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。獣から鬼となり、鬼から有
頂天になれば、節目節目で意思が変わり、行動が変わる。獣には獣の意思があり、獣の行動があ
る。鬼には鬼の意思があり、鬼の行動がある。意思と行動が変われば、そのたびに人格が変わる。
人格が変われば、古い自分が死に、新たな自分がスタートする。
 人は、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。そのたびに意思と行動が変わる。もうだめだ。も
うこれ以上続かない。人は古い自分が挫折すれば、新たな自分を再起させねばならない。再起し
ても再起しても(生)、やがて彷徨い(老)、疲弊し(病)、また挫折(死)する。生死・生死
を果てしなく続ける。これを迷いという。人はなぜ迷うのか。彷徨(老)、疲弊(病)、挫折
(死)、再起(生)がなぜ避けられないのか。この悪循環を断ち切る方法は無いのか。

 自分は全くの愚か者だった。本当のことが分かっていなかった(無明)。だからこそあんなこ
とをしてしまった(行)のだ。<過去>釈迦はそう気づいた。
 愚かな行為をきっかけに、さまざまな思いが湧いてくる(識)。あれがこうだった、これがあ
あっだった。これはよかったのかも知れないが、あれが悪かった。あれよりこっちのほうが悪か
ったのか。様々な独断的な区別が起きてくる(名色)。これがどうだ、あれがどうだと始まると、
目・耳・鼻・舌・肌・意(六処)は、全開する。これは悪かったと思えば、そう思えてくる。こ
れはこうだと思えば、そう見えてくる。独断と思いこみに従って、見るもの聞くものに感知作用
が全開する(触)。独断と思いこみに従って感知したものは、独断と思いこみのまま受け入れ
(受)、とらわれる(愛執)、それがそのまま思い固まる(有)。そんな状態に陥っていく。
<現在>

432 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/27(火) 09:21:35 ID:L+PG2LN7
 これがどうだ、あれがどうだという思いが始まれば、その先<未来>は見えてくる。再起・疲
弊・彷徨・挫折が繰り返されていくんだろう。再起(生)・挫折(死)・再起(生)・挫折
(死)が繰り返される。
 過去の過ちは現在の苦しみとなり、現在の過ちは未来に禍根を残す。<三世両重の因果>。
「無明を断とう」。後生の一大事とは、釈迦が人々に提案したこの問題を提起しているものと考
える。

433 : ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2006/06/27(火) 09:42:20 ID:Bz1BQvKn
   _____
   /::::::::::::::::::::::::::\                  _
  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\            /  ̄   ̄ \
  |:::::::::::::::::|_|_|_|_|           /、          ヽ はぁ?黙ってろ中年引き篭もりデブニート
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       |
  |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ      |
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)          ノ_ ー  |     |
/|   <  ∵   3 ∵>          \. ̄`  |      /
::::::\  ヽ        ノ\           O===== |
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::\        /          |

434 :名無しさん@3周年:2006/06/27(火) 10:04:38 ID:/mD/7fSg
なもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだ
ぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあ
みだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつな
みあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶ
つなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみ
だぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなも
あみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつ
なみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだ
ぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあ
みだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつな
もあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶ
つなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみ
だぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなも
あみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつ
なもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだ
ぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあ
みだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつな
もあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶ
つなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみ
だぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなも
あみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつ
なもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあみだぶつなもあみだ
ぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなみあみだぶつなみあ
みだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつな
みあみだぶつなみあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつなもあみだぶつ




435 :名無しさん@3周年:2006/06/27(火) 13:58:55 ID:YUaNcu4J
このスレの形式はこれ↓と同じ。
http://game10.2ch.net/test/read.cgi/ff/1144144406/

436 :>>403:2006/06/29(木) 20:06:37 ID:ovW7duTH
渡海 難  ◆Fe19/y1.mIさん>>419に答えてくれたのですか?
そうだとしたら有難うございます。
しかし、こちら側の読解力が無いのか無明についてあまり解りませんでした。
あと>>430の最後の段で
それは、(中略)「無知の知」に気づくことでもある。
と書き込まれているのですが「それ」に当たるのは何でしょうか?





437 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/06/29(木) 20:35:31 ID:x7ut7M40
>>436
>答えてくれたのですか?
あくまで、仮設のつもりで発言しています。これは絶対に正しいと力説するつもりは毛頭ありま
せん。
 正しいか間違っているかは、今日読んで下さった方が、今後の自分の生き様の中で、思い当たって
いただければ幸いです。

>「それ」に当たるのは何でしょうか?
 「人間の迷いの根本は無明にあったということに気づくこと」を指しています。

 僕はソクラテスを出しましたが、ソクラテスの思想は実は余りハッキリしないようです。ソクラテ
スの思想は、クセノフォンとプラトンが残しているようですが、両者では矛盾があるそうです(バー
トランドラッセル「西洋哲学史」)
 無知の知は、「ソクラテスの弁明」でプラトンが書いている。「ソクラテスの弁明」は、大昔に読
んだんだが、今はほとんど忘れてしまった。今回は少し、昔読んだバートランドラッセルの「西洋
哲学史」を参照しました。
ソクラテスと釈迦の類似性は、僕のオリジナルではありません。昔読んだヤスパースの一部受け
売りです。ヤスパースは、プラトンと釈迦とイザヤとの共通性を述べています。ただ、十二因縁と
無知の知との関係は僕のオリジナルと思っています。十二因縁と無知の知は、もっと研究されてい
いテーマだと思っています。 

438 :聞法:2006/06/29(木) 21:05:22 ID:ovW7duTH
なるほど、そしたらば後生の一大事は無知の知に気づくことでもあるわけだ。
無知の知は、物事を知れば知るほど知らない事を知るという感覚しかないので、
専門的な知識を教えていただけると有難いのですが・・・・・・

439 :名無しさん@3周年:2006/06/30(金) 11:26:29 ID:pofIfMAz
「有無同然」の概念の破り方を見つけました。

440 :名無しさん@3周年:2006/06/30(金) 21:53:39 ID:LG3AJFRE
渡海 難さん
あなたの法名です
難破院釈濁海



441 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/01(土) 00:34:22 ID:HIkmSJ/z
>>438
>専門的な知識を教えて

 専門的な知識ですか?。それは、自分で調べるか、あるいはもっと専門家にお聞きになった方が
いいでしょう。
 私は、理屈の結論を聞いて欲しいとは思っていません。結論はお一人お一人の頭の中、心の中で
発酵させて欲しいと思います。
 渡海 難の言っていることは、結論だけを追えば99%、あるいは99.9%嘘っぱちである可能
性が高い思ってください。
 ただ、ここで書いてあるこういう思いが渡海 難の中ではわき起こったんだということ、これだけ
は事実として認識して欲しい。
 僕は、自分の主張をあくまで仮説として提示しているに止まります。仮説が気に入ってくれれば、
それが本当に真理か否かは、その人の自分自身の生き様の中で照合して欲しい。そうしてくれれば
大変嬉しいと思っています。

442 :名無しさん@3周年:2006/07/03(月) 22:41:35 ID:l8IT4/ym
あげあげ↑↑

443 :名無しさん@3周年:2006/07/05(水) 00:49:16 ID:2q+e3iWz
海渡 難さんの法名です

濁海院釈屑塵

444 :名無しさん@3周年:2006/07/07(金) 15:53:35 ID:/JN8IS3C
http://rurioex.web.fc2.com/after.html

↑祭りまとめサイト
いま2ちゃんで祭りになってる夫婦は浄土真宗大谷派の坊主
婚前交渉のうp写真までブログに晒して痛すぎですよw

445 :道草:2006/07/09(日) 22:14:46 ID:T8GcRUJQ
海渡難さんに質問です。
どうして仏教は、葬式を始めたんですか?
仏陀の教えとひどく距離を感じるのですが。

446 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/10(月) 00:23:14 ID:hHUrpMny
>>445
 これって大きい問題なんだよね。日本の仏教は、大きく二つに分かれる。一つは支配層仏教、
もう一つは大衆仏教だ。それぞれの仏教は互いに異なる側面で葬式と接触を持った。奈良仏教
を別にすれば、日本の仏教は葬式を除外しては考えられない。支配層仏教と大衆仏教のそれぞ
れで葬式を考えてみよう。
 少し待って下さい。

447 :名無しさん@3周年:2006/07/11(火) 18:16:02 ID:vno3ijh4
私たちが、己を悪人であると自覚し、お念仏によって救済されるプロセスと、
耶蘇教徒が己を罪人だと自覚し、十字架の贖いによって「救済」される心理
的過程は、多くの比較宗教学者が指摘しているように酷似しているように思
える。とすると真宗の相対的優位性はどこにあるのだろうか。私にはわから
ない。

448 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/12(水) 00:32:29 ID:/Io2bOfW
 仏教の本質は人間教育である。僧は教育者である。僧の仕事は、天皇や公家達に、文字を教え、
算術を教え、仏典や四書五経を教えることが重要な仕事だった。
 飛鳥、奈良時代、寺院(学校)は都の市中に建設した。東大寺も法隆寺も、貴族達は牛車に乗り、
あるいは徒歩で、一日の内で往復したことだろう。僧と貴族達は分かれて生活していた。しかし最
澄は比叡山の山奥に専門道場を建設し、空海は吉野に専門道場を建設した。都に住む貴族達が専門
道場に出向くとなると、おそらくそれだけで一日がかりの大仕事だったろう。特に子供などは簡単
には通えない。大貴族は、天台・真言の高僧を家庭教師として邸宅に招き、招かれた僧はしばしば
貴族の邸宅に居住し、あるいはその近くに庵を組んで居住するようになった。
 僧は、教育者であると共に、医師でもあった。弘法大師は中国から膨大な数の薬草を日本に持っ
てきている。家庭教師先でクライエントが病気になれば、専属の家庭教師はホームドクターとなり、
薬師如来の代理として薬草を選び、それを煎じ、投薬するのも、釈迦以来の重要な仕事だった。奈
良仏教の僧に比べれば、平安仏教の天台・真言の僧達が臨終に立ち会う機会は多かったろうと思う。

 僧の役目は、クライエント先の家族、特にそこの師弟に学問を教えることだった。しかし、家族
が死んで心が塞いでいれば、学問を教えることよりも先に、教え子の塞いだ心を解放することの方
がより大きな仕事だったろう。

 家族を亡くした者の心を癒すこと。さらには、不治の病で死を目前にした者のターミナルケアを
することこそ、天台・真言の僧にとって、最大の仕事と認識されるようになっていったのは不思議
なことではなかったろう。
 「死んでいく者を救え」。平安時代の中期にもなるとターミナルケアを専門とする僧も現れる。
源信である。 続く

449 :道草:2006/07/12(水) 21:30:16 ID:JOyjIzNc
葬式について調べたり、穢れの問題を考えると頭が痛くなるんですが、
海渡難さんのように、仏教側から問題に取り組むのはとても面白いと思います。
続きを楽しみにしています。

450 :名無しさん@3周年:2006/07/12(水) 22:59:41 ID:mtzAILyX
三願転入とはなんですか?

451 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/13(木) 00:31:29 ID:dyVSszXs
 専属住み込みの家庭教師兼ホームドクターにとって、クライエント先の家族が倒れれば、治療に
専念する。助かる見込みがなければ、ターミナルケアが重要な仕事となる。不幸にして死ねば、
家族には一日も早く気持ちの整理を付けさせる。僧にはカウンセラーの仕事が待っている。僧は、
カウンセラーの仕事をしながら、師弟達には引き続き学問を教えていく。そんな仕事が任されてい
た。
 治せる薬がない。そんな時でも僧は何もしないで放っておくことは許されなかった。彼らは加持
祈祷を行った。加持祈祷は空を演出する。あれがしたい。これがしたい。人間が持っているさまざ
まな願いを紙や木に書き、真言を唱えながらそれを火で燃やす。人の様々な願いを灰燼化し、空を
演出してみせるのだろう。生きることも空、死ぬことも空、出会いも空、別れも空。空だ、空だ。
加持祈祷とは、治る見込みの無くなった者に空を演出して見せ、すこしでも気持ちが休まるように
導こうとするターミナルケアパフォーマンスだろう。僕はそんな風に思っている。
 家庭教師、ホームドクターは、葬儀も執行する。葬儀は、残された人の心の整理に標的を合わる。
しかし、家庭教師ホームドクターができることは限られている。彼らは、自分たちが学んできたこ
とを凝縮し、象徴化し、それを演じることで釈迦の権威を援用し、クライエントの要望に応えよう
としたのだろうと思う。  続く

452 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/13(木) 00:37:27 ID:dyVSszXs
>>450
 三願転入とは、確か曾我量深さんが昭和初期頃に提案した考え方だった
と思う。
 曾我量深さんの本は、昔一度は全て読んだはずだが、内容は覚えていない。
 曾我さんの考えに縛られず、いずれ僕なりの考えを書いてみます。

453 :名無しさん@3周年:2006/07/13(木) 23:20:02 ID:hcpm2tyB
水戸は大洗に東の願入寺というお寺さんがある。落ちぶれていたのを光圀が再興
したと聞いた。願入というのは、三願転入のつづめたものだと思っていたが
違うのかな。
当時は300石を貰い、豪勢だったらしい。今は普通の寺だが、宝物館には親鸞
さんの遺品や覚兵衛さんの手紙が展示されていて、さっきまで皆さんがおられた
ような気分になる。もう何年も前にお邪魔したのだが、今はどうなっているんだ
ろうか。気さくな住職がおられた。

454 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/14(金) 00:22:47 ID:+tKgMoxb
 なんだ、そんなことが聞きたかったのか。願入寺というほとんど無名?の寺のいわれを聞きたかっ
たのか?。三願転入の本質に関する問題ではなかったの?。僕は水戸の願入寺など、聞いたこと
も、行ったこともない。掲示板で聞くような話ではないな。
 その寺は、ここ?→<http://www.ozora-net.co.jp/odecal/ibaraki/0253.html
 電話番号も書いてあるじゃないか。電話で聞けば、一発で分かるだろう。

 まあ、真宗系の寺で願入寺という名前なら、「弥陀界に願入して、 帰依し合掌し礼したてまつ
れ」から採ったものと考えるのが常識だろう。
 三願転入などと言う概念は、昔は無かった。

455 :名無しさん@3周年:2006/07/14(金) 00:42:05 ID:w8LPpmxv
“親鸞聖人の特徴は” と問われて、なんと、答えるだろう。
山上の仏教を、山下の仏教に、貴族の仏教を、庶民の仏教に、僧侶の仏教を、
在家の仏教に、禁欲主義の仏教を、肉食妻帯の仏教に、したことか。
いずれも、当っている。が、しかし、なんといっても、特徴の中の特徴は、
真仮の区別を、ハッキリさせ、自力の臭みを断切って、他力不思議を、発揮さ
れたことが第一であろう。
親鸞聖人、畢生の大著、浄土真宗の根本聖典 『教行信証』 六巻をみれば、そ
れは、明白だ。
「教・行・信・証・真仏土」 の五巻に真実 (真) の仏教、後の 「化土」 巻に方
便 (仮) の仏教を開顕し、 “仮より真に入れよ” が、親鸞聖人の、生命になっ
ている。
二つ三つ、その、文証をあげておこう。
中でも、鮮やかで、有名なのは、聖人の告白である、三願転入のご文であろ
う。「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく、
万行諸善の仮門 (十九願) を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本徳本の
真門に廻入して、偏に、難思往生の心を発しき。
然るに今、特に、方便の真門 (二十願) を出でて、選択の願海 (十八願) に
転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の
誓、良に由あるかな。
ここに久しく願海 (十八願) に入りて、深く仏恩を知れり。
至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を?うて、つねに不可思議の徳海を称
念す。いよいよ斯を喜愛し、特に斯を頂戴するなり」 (教行信証)
要旨をいうと、こうなる。
“幸いにも、親鸞は、善知識方のお導きによって、十九願から二十願に入り、
今、それらの方便から、十八願、真実へ転入した。
方便から真実に入って、はじめて、阿弥陀仏の大恩が、知らされたのである”

456 :名無しさん@3周年:2006/07/14(金) 02:52:04 ID:HLnrPiJJ
>>454
> 三願転入などと言う概念は、昔は無かった。

江戸宗学の百論題に入ってるよ

>>455
後序には
「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」
御伝鈔には
「真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、
 教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、
 あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。」
と、こちらには親鸞聖人の廻心は雑行から弘願への直入であったことが書かれている。
そして、三願転入の文は自力の行に固執する浄土門の人々のために、仮に自己の身に寄せて示された説である。
とする説もある。

457 :453:2006/07/14(金) 08:56:14 ID:IIoyNwWE
>>453
自分はお寺の宣伝をしたわけではない。似た言葉がもっと古くからあるように思った
から紹介したまで。諸兄が説明してくれて間違ってなかったのが確認できた。

自分は願入寺とはなんの利害もないが、テレビの水戸黄門を見ていて、西山荘が出たり
して、ああまだ在るんだと思って本を読んだりして、この寺を知った。で、見に行った。

那珂川の河口を挟んで向かいに御殿があって、両方で海岸警備の拠点にもしていたようだ。
仏教の話からずれるが、当時のお寺の多機能性あるいは偽装箱ものというのが面白いと
思った。光圀も300石を恩着せがましく出したわけではない。今なら税金の横流しと
と反対派からいちゃもんがつくような話だ。

458 :457:2006/07/14(金) 17:28:08 ID:NvZqeLis
× >>453
>>454


459 :名無しさん@3周年:2006/07/16(日) 16:39:06 ID:8RRNOZit
三願転入なんてゆう、
親鸞聖人は意識して書いていない、
ノチの世の人の下らない分類分けより
葬式の話が聞きたいお!
釈尊が自分の死を大初涅槃と称して、
死を聖なる事にした瞬間から
どの様に変質していったのか?
ロムってる人の観点です。

460 :名無しさん@3周年:2006/07/16(日) 20:23:30 ID:KpC1ZDM8
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。
善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。
しかるにいま、ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。

万行諸善の仮門=十九願
善本徳本の真門=二十願
選択の願海=十八願

十九願から二十願は回入
二十願からから十八願は転入

名称は後世だが、三願転入は教行信証にある

461 :名無しさん@3周年:2006/07/16(日) 20:41:56 ID:KpC1ZDM8
十九願の発菩提心、修諸功徳。
二十願の植諸徳本、至心回向
諸行を言う、これらの願をどう位置づけるか?

本願他力をいう浄土宗系列はみんなこれを意識していた
親鸞聖人は三願を真実と方便に分け、十八願への転入で答えた。

三願を意識していないはずがない。

462 :名無しさん@3周年:2006/07/16(日) 20:48:05 ID:KpC1ZDM8
>>459
>釈尊が自分の死を大初涅槃と称して、
>死を聖なる事にした瞬間から
>どの様に変質していったのか?

何がどう変質したと考えているのかわからない。
バラモン教の死生観と原始仏教の死生観の比較をしたいの?

そういう質問なら原始仏教のスレで聞いた方がいいと思う。

それとも日本の死生観に、渡来した仏教が与えた影響を知りたい?
それも難しいテーマだね。

463 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/17(月) 00:17:55 ID:zVRUesoy
 近親者が死ぬと、残された者の中には様々な思いが爆発的にわき起こってくる。カウンセラー
には、クライエントのそのような感情の全てを引き受けることなどできるはずがない。しかし複
雑に絡んだたくさんの感情の中で、百に一つ、千に一つでも仮に慰みになるものがあれば、クラ
イエントはそこから立ち直るきっかけを見つけてくれるかも知れない。葬儀を執行した僧の中に
去来したものは、そんな思いではなかったか。
 あれをしてあげればよかった。これもしてあげるんだった。遺族の悲しみはしばしばそのよう
な形で爆発する。子が早世した親などは、そんな悲嘆にくれる。
 もし生きていてくれれば、こんなことも教えてくれた。あんなことも教えてくれただろ。親を
早くに亡くした子は、早すぎる親の死にそのような悲しみを寄せる。天台・真言の僧による葬儀
とは、この種の悲しみの感情に果敢に挑戦した行為ではなかっただろうか。

 人は死ねば仏になる。こんなことは経論釈のどこにも書いてない。しかし、死ねば仏になった
んだ。このように説いた高僧が、必ずいたはずである。それは、藤原道長の死に立ち会った僧か
もしれない。藤原頼通の死に立ち会った僧かも知れない。後白河法皇の死に立ち会った僧かも知
れない。歴史の闇に埋もれた貴族の死に立ち会った僧かも知れない。しかし、そのように言った
僧、特に位の高い僧が確実にいたはずである。この考えはやがて日本仏教のなかで大衆の支持を
受けていく。

464 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/17(月) 00:20:21 ID:zVRUesoy
 あれもしてあげられなかった。これもしてあげられなかった。こうしてあげればよかった。あ
あしてあげればよかた。今となってはこれもできない。あれもしてあげられない。遺族には、様
々な悔いが去来する。
 仏教では、人々は悟りを求めて修行する。悟りを開いて仏になる。既に仏になったとは、あれ
もしてあげなければならなかった、これもしてあげなければならなっかったという、その必要性
が、今はもうなくなったということだろう。生きているときは仏ではなかったから、様々な助け
が必要だった。しかし、仏になったと言うことは、全てそれが充足したということだ。全て充足
したならば、「あれもしてあげられなかった。これもしてあげられなかった」と思い煩う必要は
ない。天台・真言の僧は、悲しみにうちひしがれる遺族に、そのように優しい言葉を贈ったので
はないだろうか。
 仏は、あらゆる人に向かって法を説き、真理を明らかにする。涙を拭いて真剣に生きていこう
とすれば、亡くなった人が、姿形を変え、思いがけないところできっと道を示してくれるだろう。
天台・真言の僧は、悲しみにうちひしがれる遺族に、そのように優しい言葉を贈ったのではない
だろうか。
 人は死ねば仏になる。この思想の背景には、死という現実を前に、カウンセラーとしてクライ
エントと必死にもがき苦しんだ真言・天台の僧達の優しさが籠もっているように僕は思う。

 しかし、死んで仏様になったと言って、クライエントがすぐに立ち直るわけではない。真言・
天台の僧達は、家庭教師先で、死者が仏になったことを示すパフォーマンスを提示した。人は死
ねばどうすれば仏になるのか。真言・天台の僧達は、クライエントの館で、葬儀という形で死者
が仏になるパフォーマンスを演じることにした。

465 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/17(月) 00:23:40 ID:zVRUesoy
>>459
>釈尊が自分の死を
 釈迦の死とはなにか。大衆仏教の葬儀の意味を考えた後で考えよう。

466 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/18(火) 00:45:15 ID:4X544u6c
 奈良仏教のお寺では、そこの管長さんなどが亡くなった場合、どんなお葬式をするんだろうか。
僕は知らない。恐らく質素なものだろう。真言を称えながら亡骸に献花し、お棺を閉めて終わり
ではないか。死は特別なものではない。ありふれたものなのだ。特別なことをする必要はない。
本来は、自分たちの気持ちの整理だけつけばいいはずだ。

 住み込みで専属の家庭教師兼ホームドクタを委嘱されていた僧にとって、クライエントの葬儀
はこれらと全く意味が異なる。葬儀は見せ物である。観客は遺族である。僧は、死者が仏になる
手続きを演出する。

 死んでしまった人は、本当はどこに行こうがどうでもいい話なんだろう。地獄に行こうが、極
楽に行こうが、本来はそんなことは生きている人の操作で変わるものではないだろう。しかし、
生き残った近親者には、早く心の整理をつけさせなければいけない。僧はそのそのための見せ物
を挙行する。それが仏式葬儀の意味だろうと思うのである。

 日本は、善導仏教を非常に早期から輸入したようだ。遣隋使、遣唐使達は、留学時、中国で流
行していた文化を真っ先に持ってきた。善導仏教は、善導在世中から中国で大きく脚光を浴びて
いた。善導仏教は、善導在世中から日本は既に輸入していたようだ。

 善導仏教は初等教育学を専攻している。中国に対して文化的に大きく遅れていた日本は、貴族
達に初等教育を施すことが急務だった。その意味で、善導仏教は奈良、平安時代を通じ、我が国
では盛んに学習されていた。
 善導は、読誦、観察、礼仏、称名、専讃嘆供養を学習項目として人々に勧めた。善導は、読誦、
観察、礼仏、称名、専讃嘆供養を行えば極楽浄土に往生すると説いた。葬儀では、僧は、経を読
誦する。仏像を近くに置いて観察する。その仏像礼拝する。仏の名を称える。花を飾り、食べ物
などを供えて専讃嘆供養する。葬儀は、善導の五正行を凝縮し、僧が代行する。参列者にも同時
に善導の五正行に参加させる。葬儀とは、善導の五正行をもって死者を極楽浄土に導くパフォー
マンスを行い、生き残った人々の心の整理を促す行為だろうと考える。特に、後善導と呼ばれた
法照が定めた方式が、日本では葬儀の式次第の中心になっているはずである。  続く

467 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/18(火) 08:39:08 ID:fsZMiPyA
>>466
誤 専讃嘆供養
正 讃嘆供養

468 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/19(水) 00:29:50 ID:eOj3J9vh
 死んだ人は空のお星になって我々を見守ってくれている。死ねば人は仏になるという話の本質
は、空の星になるというこの話と本質は同じだと考えればいい。

 「貴方のお父さんは、仏様になったんですよ」。「ああ、そうですか。それは、大変よかった。
死んでよかったですね。死んで仏様になるんなら、どうしてもっと早く死ななかったんでしょう
ね。まあ、それにしても、あの人は死んで良かったよかった。仏様になった。万々歳ですね」。
 こんなことを言って人の死を喜ぶ遺族は多くはないものだ。愛する人の死に直面し、そのまま
通常の生活を維持できるという人は多くない。僧が、いくら盛大に五正行の葬式を行っても、人
の心はそう簡単に変わるものではないだろう。

 葬儀が終わっても、天台・真言の僧の格闘は続いていく。どうしたら早く普通の生活に戻れる
か。彼らは、教育を任されていた子供達の心に常に照準を合わせていたようだ。
 「お釈迦様はね、六道を越えて七道に進まれたんだ。お父さんが亡くなったんだから、6日間
は少し休もう。それで7日目にはすこし勉強しようか。そして、また休もうか。もう一回7日目
が来たら、また少し勉強しようか」。家庭教師達は、初七日、ふた七日、み七日に徐々に勉強を
開始し、徐々に徐々にもとの精神状態に戻していったようだ。

 僧「お父さんは、仏様になったんだ」。
 子供「もう帰ってきてくれないの?」
 こんな会話があったんだろう。相手は、藤原良房の子供だったかもしれない。藤原敏行の孫で
あったかもしれない。僧は、天皇家・公家達の幼児教育・少年時教育・青年期教育の全てを任さ
れていた。盆提灯の工作をしたり、七夕の笹を川に流すような遊びは、そのような家庭教師の僧
が発明したものだろう。
 道を歩いていると、なすやキュウリに四つ足棒を刺しただけの人形が呪いのように玄関に置い
てある。塩を山盛りにして積み上げている習慣もある。すべて、中世の僧達が子供達との遊び
の中で、子供の気を引くために発明したものだろう。僧は、そこに意味づけをし、工作を通じ、
仏典や四書五経の背景にある考え方を伝えていた。    (続く)

469 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/19(水) 00:30:30 ID:eOj3J9vh
あげ

470 :名無しさん@3周年:2006/07/19(水) 20:36:02 ID:dkRTI62C
本願寺に言って、釈の法名貰うには、
どっかの寺院のハンコが必要なんですか?
それとも、とびこみで本願寺に行っても1万円払えば法名もらえますノン?


471 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/20(木) 00:23:21 ID:BazL50ov
 平安貴族の館で、天台宗・真言宗の僧が築いた知恵は、やがて全国に広がっていく。南北朝時代、
吉野は南朝政府の中心部となる。戦乱ともなれば、吉野の山奥でも僧は安閑としていられない。真
言僧は吉野を出て全国に散った。応仁の乱では京都市街が炎上し、多くの貴族達が逃げ出した。そ
の中には多くの天台・真言僧もおり、彼らも全国に散った。戦国時代にはいると、信長は比叡山を
焼き討ちする。このときにも、多くの僧が全国に散ったろう。
 全国に散った天台宗・真言宗の僧達は、各地で大名・上級武士に抱え込まれた。大名達は、城下
に天台宗・真言宗の寺を建築し、高僧達を住まわせ、自分たちの師弟の教育に当たらせた。
 京の公家との間で生まれた様々なアイデアが、各地にそのまま伝搬し、やがてそれが上級武士か
ら下級武士に伝搬していく。しかし、伝搬していく中で、天台・真言の僧達が、様々な所作の背後
に忍ばせた四書五経・経典などに基づく深い意味合いは忘れられ、形骸化し、迷信化して下級武士、
農民の中などに浸透し、迷信化した中でさらに変容していった。

472 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/20(木) 00:25:24 ID:BazL50ov
>>470
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1146647616/
  ↑
  ここで聞くといいでしょう。 

473 :名無しさん@3周年:2006/07/20(木) 05:41:25 ID:OCRK2pNv
真宗の声明作法とは、教義的にどんな位置づけなのでしょうか?御教授ください

474 :道草:2006/07/20(木) 22:32:42 ID:q4QgjoZ7
つまり、葬式とは僧侶が貴族の死に対する恐怖や不安を取り除くために、
死者が仏になるパフォーマンスを行うこと。
それも100%デタラメと言う訳ではなく、中国から伝わってきた
善導の讃嘆供養を参考に、僧侶がアレンジして貴族を納得させていた。
また、それでも残された人々にとってはまだ不十分で、彼らの心を癒すために、
日本独自の仏事供養が生まれ、その習慣が僧侶たちと共に全国に広がった。
仏教は葬式を通して、人々の救済をしていたのですね。
それならば、まんざら仏陀の教えと違う事もないかも知れません。
私の認識はどうでしょうか?
ご回答ありがとうございました。


475 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/21(金) 00:24:37 ID:LQQTXaVz
>つまり、葬式とは僧侶が貴族の死に対する恐怖や不安を取り除くために、

 「死に対する恐怖や不安を取り除くため」とは、まだ病人は死んでないという状況でしょうか。
死ぬ前にでも葬式を行うとお考えですか?
 葬式は、人が死んでから行うものであり、死ぬ前に葬式を行うことはありません。クライエント
が病気になれば、まず投薬を行います。投薬を諦めた場合、あるいは投薬と平行して加持祈祷を行
います。加持祈祷の効果は、死に対する恐怖や不安を取り除くというか、和らげるという程度だと
思います。しかしこの時点ではまだ葬式はしません。

 葬式は、人が死んでから行います。これは、家族の死という非常時を体験して動揺している遺族
の心を、平常に戻すことを目的とするものでしょう。葬式は、死んだ人のために行うものではなく、
生きている人のために行います。

>善導の讃嘆供養を参考に、僧侶がアレンジし

 具体的には法照の五会法事讃によるものですが、本質は善導の五正行そのものだと思います。讃
嘆供養だけではありません。読・観・礼・称・讃嘆供養です。

>貴族を納得させていた。
    納得していたと思います。

>日本独自の仏事供養が生まれ、
    児童教育の中で生まれたと思っています。

>まんざら仏陀の教えと違う事もないかも知れません。
    対機説法の中から生まれたものでしょう。

476 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/21(金) 00:27:06 ID:LQQTXaVz
>ご回答ありがとうございました。

 議論はまだ終わっていません。ここまでが支配者階級の葬式の意味です。現代では仏教は99.
9%が、あるいは99.99%以上が大衆仏教です。支配者階級の仏教は、徳川時代の終焉で命脈
が尽きたと思っています。
 大衆仏教は支配者階級仏教の影響を背景にした独自の葬式観を持っていると考えます。支配者階
級仏教にとっては葬式は付属物でしょう。葬式が無くても存在可能です。しかし、大衆仏教にとっ
て葬式は仏教成立上不可欠の構成要素となっていると考えます。

 浄土真宗は、典型的な大衆仏教です。大衆仏教の葬式の意味の議論をしてみます。ここからが私
のもっとも言いたい本論です。

 明日以降に書きます。

>>473
 いずれ議論してみましょう。
 なお、何かを教授するということはありません。
 仮説的な議論を提示してみます。正しいか否かは、自分の中で発酵させてください。
 使い物にならないとおもったら、忘れて下さい。その程度のものです。

477 :>>403>>419:2006/07/21(金) 20:56:01 ID:palHhBMb
これからスレタイの流れを汲む話になるのか?
期待してるよ。
>>473は俺だったら答えない・・・・・

 いずれ議論してみましょう。
 なお、何かを教授するということはありません。
 仮説的な議論を提示してみます。正しいか否かは、自分の中で発酵させてください。
 使い物にならないとおもったら、忘れて下さい。その程度のものです。

「議論」だから「自分の中で発酵させてください。」はズルイ!
なんらかのやり取りは必要だと思われる。
どこかで問い尋ねる姿勢も大切だと思う。
まぁ!2chでこんな事言ってたら基地外ですけどwww
渡海 難さん、悪い使徒ではないが一方的で、
ロムってる方からすると無視されてる気がする。
時々、口挟むけど邪魔する気はないから。
このレス無視で続きどんどんいっちゃって。






478 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/22(土) 00:30:54 ID:dZe/ZxqT
>>477
>これからスレタイの流れを汲む話になるのか?
  何を期待しているのかわからない。どうなるか保証はしない。約束もしない。

>俺だったら答えない・・・・・
   基本的にはどんな問題にも挑戦しようと考えています

>ズルイ!

   そんなことはない。
 例えば、僕の考え方に間違いがあっても、聞いてくれている人は、その間違いにすぐに気が付かない
でしょう。
 まあ、気が付くかも知れないけど、2茶の住民を見たとき、親鸞仏教に関しては、僕の方がほとんど
の人よりも、四半分か半歩か先んじているようだ。僕の先を進んでいるような人は、2茶には出入りし
ないんだろう。僕の先を進むようになると、2茶などはばからしくなるのかも知れない。
 「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、」
 自分は後に生まれる人物だと思えば、先に生まれている人にどんどん聞いていい。自分は先に生まれ
ている者と思えば、後から聞いてくる人にはどんどん回答する。これが仏道界なんだ。
 ところが、後から生まれる者には、その回答の間違いがすぐに分からない。だから、正しいと思って
も、すぐに鵜呑みにしないで、真偽をペンディングして発酵させてみてほしいんだ。

>なんらかのやり取りは必要だと思われる。

 それができる人は大いにやって欲しい。やって欲しいから僕は「議論」と言っている。間違いだと思
えばどんどん突っ込んでくればいい。突っ込まれればこっちも勉強になる。ただ、おかしいとは思わな
ければ突っ込めないだろう。おかしくても突っ込めないとき、言葉尻の結果だけをすぐに鵜呑みにしな
いで欲しいということなんだ。

479 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/22(土) 00:31:37 ID:dZe/ZxqT
>一方的で、ロムってる方からすると無視されてる気がする。

 力の差なんだろう。理解力がついてくれば、僕の主張のおかしいところも見えてくる。腹ではおかし
いと感じながら、頭でそれが整理できない。理解力がついてくれば、腹が感じていることを頭で整理で
きてくる。そうなれば、おかしいところはおかしいとはっきり言えるようになる。それができないから
一方的と感じているんだろう。
 だから、僕のいうことを鵜呑みにしないで欲しいと言うことなんだ。言葉にはならなくてもおかしい
と感じている腹は、一体何をおかしいと思っているのか、それを自分の中で見届けて欲しい。それには
時間がかかる。結論を急ぐな。

>このレス無視で続きどんどんいっちゃって。
    まあ、少し休ませてよ。
    しばらく多忙。2,3日カキコ不能。

 419は忘れていました。
 無明とは何か。難しい問題とは思わないけど、今すぐに書くと「葬儀論」と錯綜しそうなんで、これ
が終わってから議論します。

480 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/24(月) 00:58:01 ID:3RNRiY+e
 日本における大衆仏教は、行基菩薩が最初だろうと思うが、行基菩薩の伝統は行基一人でいった
ん終わったようだ。事実上の大衆仏教の祖は、僕は空也上人だろうと思う。現代の大衆仏教は、空
也上人に始まるというのが僕の仮説だ。現代の日本の坊さんが、国家からの援助なしに生活できる
というのは、僕は、空也上人の力だろうと考える。
 空也上人は、全国で道路を改修し、井戸を掘り、仏像や経論を背負って遊行している。空也上人
の原点は何だったのか。道路を改修し、井戸を掘るとなると、人一人でできることではない。そう
とう多数の人を動員しなければできない相談だ。彼は、多数の人を集めて念仏を称えさせている。
かれの力の原因は何だったろうか。いわば、彼は現代で言う便利屋だったんだろうと思う。人の嫌
がる死体を処理し、それにより人々の信望を集めたんだろうと推測する。
 空也上人以後、空也聖と名乗る集団ができてくる。彼らは町の便利屋であり、特に火葬を扱って
いく。その意味で、日本の大衆仏教は、葬儀を不可欠の基盤にして社会に根を張ってきたのだう。
恐らく、行基菩薩が人々の信頼を得たのも、最初は空也上人と同じように、死体処理を行ったこと
にあったのかも知れない。
 彼らはどのようにして火葬を開始し、人々の信頼を得ていったのか。大胆に推測してみたい。
        (続く)

481 :名無しさん@3周年:2006/07/24(月) 03:24:53 ID:FwYIu0ez
昨日、西本願寺にお参りをして来ました。
阿弥陀様から何かお知恵をと思い。
人生の選択・岐路とでもいうのでしょうか。
やはり、このまま一人で生きるべきなのか。
悩んでおります。

482 :名無しさん@3周年:2006/07/24(月) 18:07:34 ID:MS88uwc8
>このまま一人で生きるべき
「べき」という思いに至ったのはどうしてですか?


483 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/24(月) 20:29:38 ID:E9sdWu0a
>>481
 悩んでいて西本願寺にお参りに行ったのね。阿弥陀様は何か言ってましたか?
 何も言ってくれないか、あるいは言ってくれても、そんなことは自分で考えなさいといわれるの
が関の山でしょう。

 そういうことは、阿弥陀様に聞きに行くよりもっといい方法がある。エンカウンタグループとい
うのを知っていますか。非指示的療法によるカウンセリング技法を提唱したカール・ロージャーズ
博士が、カウンセリングの発展形として提唱したグループ力による問題解決法です。
 僕も、30年以上前には必死でカウンセリングの勉強をしていたし、その一貫でエンカウンタグ
ループに何回も参加させて貰った。
 貴方のような問題にはエンカウンタグループが最適だろうと思う。今では、エンカウンタグルー
プは各地でやってると思う。探してみるといいだろう。大学の社会心理学関係から探してみるのも
いいかもしれない。

 2茶のような掲示板にいきなり貴方のような問題をカキコすると、興味本位の野次馬的ノータリ
ンが突っ込みを入れてきて不愉快な思いをするかもしれない。真面目に相談に乗ってくれるところ
を探しなさい。

 カウンセリングやエンカウンタグループを勉強している人は、本派の坊さんでもたくさんいる。
本派は、結構、大谷派よりカウンセリングが盛んだという印象がある。最近はどうか分からない。
貴方の知り合いでそういう人がいれば、その人に紹介して貰うのもいいだろう。いまこのスレを見
ている人から早速アクションがあるかも知れない。まあ、どっか探してみるといいだろう。

484 :名無しさん@3周年:2006/07/25(火) 00:45:44 ID:SR9q9kaW
渡海さんへ

あなたはいつも2chのことばかり考えていて、
一生懸命このスレを考えたのでしょう。
このスレがたった瞬間に書き込みが殺到して、「キター」とか
「渡海難は神」とか言われるのを夢見ていたのでしょう。
自分でギャハハと大笑いして俺って天才とか思いながら書き込み
ボタンを押したのでしょう。

でも、このスレははっきり言って全然おもしろくありません。
クズです。失格です。0点です。株で言えば上場即整理ポスト行きです。
わずかな知能をふりしぼって一生懸命考えた努力は評価しますが、
無駄な努力に終わったようです。

あなたを憐れんでこのスレに書き込みをしてくれたわずかな人に
深く深く感謝してください。

最後に、あまりにも悲惨な渡海に深々と合掌。

485 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/26(水) 00:15:43 ID:ulvm9xSb
空也というと、踊り念仏と地蔵菩薩和讃が有名だ。踊り念仏は、人集めという目的を感じる。盆
踊りがあると、鉦の音だけで家を飛び出して駆けつける人がいる。ただ、何もないところで、ただ
一人だけが踊っていれば、回りの人はキチガイだと思うだろう。踊るには、最初でもやはり数人の
人が集まらないと様にならない。
 踊り念仏はいつ始まったか。踊り念仏は、支持者がある程度集まった時点から始めたものだろう。
空也が最初から一人で踊り念仏を始めたとは考えにくい。支持者がある程度集まった時点から始め
たものだろう。

 空也は、西暦903年に生まれ、972年に死んでいる。同時代人としては、平将門がいる。将
門の乱は940年、空也が37歳の時である。この時代、日本中、ほとんど毎年のように疫病が流
行している。

486 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/26(水) 00:16:46 ID:ulvm9xSb
 大家族の中で一人が死ねば、残りの者が葬儀と埋葬を行っただろう。しかし、数日の内に相次い
で家族全員が死んだり、地域全体が一瞬に疫病で消滅すれば、死体は放置される。人の住まなくな
った空き家などに行けば、足の踏み場もない程死体はごろごろ転がっていただろう。そこにはカラ
スが住み着き、狐と狸が出入りし、町中、猛烈な腐敗臭が漂っていたと想像する。
 死体を見ることなどは、誰でも嫌だろう。ましてそれが鬼のような形相で腐敗し、猛烈な臭みを
発して蚊、ハエがたかっていれば、近づくのもおぞましい。それが一体だけでなく、十体、二十体
と山になっていれば、想像するだけで背中が寒くなる。そういう場所は、決まって祟りの噂が広が
る。これは何かしなければいけない。空也はそう思ったんだろう。この時代、既に高位の僧侶など
は火葬する例があったようだ。人間の死体など、所詮ゴミに過ぎない。燃やして灰にしてしまえば
無害になる。空也が考えたことは極めて合理的で、単純明快なことだったと思う。

 小さな子供の死体なら、空也一人で処分できたかも知れない。しかし大人の死体はそうはいかな
い。人手が必要だ。どうやって人を集めるか。彼は、一計を案じたはずである。勝手な想像をして
みたい。
 当時、天台・真言の寺では、参詣人集めに護摩焚きをしていた。貴族の家では、一人が病気にな
ると平癒祈願の護摩焚きが始まる。護摩焚きをすれば、人は興味本位で集まって来る。野外で木々
を組み立て、火を付け、その前で真言を称えながら派手な動きをすれば、人々は物見遊山で集まっ
てくる。最初は子供でも、そのうち、大人もやって来る。空也はそう考えたはずだ。手頃の人数が
集まってくれば、その時点で人々に呼びかけよう。
 「手を貸して欲しい。あそこの死体をここまで運んで欲しい。この火で燃やしてしまおう」。
 そんな呼びかけに、最初は、嫌々ながらでも、空也の提案に従う人も一人、二人と増えてきただ
ろう。空也の事業は、そんな風にして始まったものだろうと思う。
                               (続く)

487 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/30(日) 21:28:36 ID:vfj4StBA
 「あそこに散乱している死体を手分けしてここまで運び、燃やしてしまおう」
 現代でこそ空也とは、皇室の一員だったことを我々は知っている。しかし、彼が最初に大衆に呼びか
けたとき、人々は空也がどこの誰とも知らなかったろう。見たこともない男が、いきなり、死体を運ぶ
から手を貸して欲しいと言って、それにすぐに乗る人は、少なかったろう。
 「死体?。そんなのは嫌じゃ。死体に触れば祟られる。やりたければお前一人でやればいい。そんな
ものは陰陽師に頼んで拝んで貰えばいいんじゃ」。
 「祟りはない。心配するな。いまこの護摩段で真言を唱え、不動明王様をお招きした。いまこの火の
中には、不動明王様がいらしゃっておる。不動明王様がお守り下さるから、心配いらない。みんなが死
体を運んでこなければ、その不動明王様も帰ってしまわれる。さあ、死体をここで燃やそう。そうすれ
ば町もさっぱりするだろう」。
 火葬場に行くと、よく、不動明王が祀ってある。焼き場で不動明王を祀る習慣は、このころから、そ
んな理由で生まれてきたのではないだろうか。
 転がっている死体を運んでくると言っても、その腐敗臭は通常、相当なものだったろう。鬼のような
形相で腐敗が進んでいれば、見るのも嫌だろう。そんな声に空也はなんと言ったか。南無阿弥陀仏を称
えよと教えたんだろうと思う。
 「死体は、臭くて嫌じゃ。見るのも気持ち悪い。吐き気がする。どうしたらいいんじゃ」
 「南無阿弥陀仏を唱えろ。繰り返し繰り返し唱えろ。臭いのも、気持ち悪いのも、忘れるほど唱えろ。
運んでいるとき唱え続けろ。そうすれば臭いのも、気持ちが悪いのも忘れるだろう」。

 歎異抄は言う。「父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだ候わず」。親鸞の
時代、既に死者に向かって念仏を称えるという習慣があったようだ。死者に向かって念仏を称えるとい
う習慣があれば、それば、空也から始まるものだろう。しかし、念仏を称えれば、死者も極楽浄土に行
くと空也が説いたとは考えにくい。死体を運ぶとき、気をそらす目的で唱えることを空也は教えたので
はないだろうか。

488 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/07/30(日) 21:31:24 ID:vfj4StBA
 死体を火に投じればその間、火の側を離れることはできない。祟りへの人々の恐怖感は大きかったろ
う。空也は燃やしている間、そんな恐怖感に応えるため、真言を唱えながら護摩焚きを続けただろう。
不動明王は阿弥陀仏の化身であるという話がある。念仏を唱えることを教えた空也が、恐らく一番大事
にしたのが火炎の仏の不動明王だろう。不動明王と阿弥陀仏のつながりは、空也を介して結びついたの
ではないだろうか。
 今でも、火葬場には僧が付き添い、焼いているときには経文を唱えるという習慣がある。それはこの
ときの空也以来の伝統ではないだろうか。

 空也は、日本の仏教史上、決定的な役割を果たしている。日本における大衆仏教は、死体処理、公害
処理のボランティア活動と共に、このようにして社会の中に足を下ろし始めたと思うのである。 (続く)

489 :谷大生:2006/07/31(月) 02:14:32 ID:2/a2wwWQ
渡海さんは本当凄いです
かなりの専門家ですね
勉強になりました。。





490 :名無しさん@3周年:2006/07/31(月) 09:27:53 ID:lKSeVaHL
>>487
歎異抄の表現は亡くなった父母のために念仏はしないということで、
「死体」に向かって念仏という話とは違うでしょ。

491 :日本大百科全書(馬鹿の勝手な妄想を信じないこと):2006/07/31(月) 11:25:16 ID:7UZDPv66
火葬(かそう)
 死体を火で焼くことによって処理する葬法である。
 火葬の背景には、火で死体を破壊することによって霊魂が肉体からできるだけ早く離れ
ていくことを可能にし、霊魂が新しいすみかを得て生まれ変わってくるきっかけをつくろ
うとする観念が存在していると考えられる。
 火葬を行う民族は世界中でも数多い。ユーラシア大陸ではインドを中心として、この系
統を引く火葬が、日本も含めた東アジア、東南アジアの広い地域に分布している。
 インドではインダス文明以来土葬、風葬と並んで火葬が行われてきたが、これが仏教と
結び付いたことが、仏舎利{ぶっしゃり}崇拝に関連した遺骨祀祭{しさい}の風習とともに
、ミャンマー(ビルマ)、カンボジアなどの周辺地域に及んでいく一つの大きな動因にな
ったのである。
 しかし、中心地インドから遠ざかるにつれて、火葬は一般民衆にまでは及ばなくなり、
チベットやインドネシア、メラネシアなどでは、首長や祭司、シャーマンなどの特権的人
物に限られてくる。
 ヨーロッパでは、新石器時代にはブルターニュから南ロシアにかけての広い地域の所々
で火葬が行われ、とくに後期青銅器時代の骨壺{こつつぼ}墓地文化で盛んであったが、ロ
ーマ帝政期になると、遺体浄化と復活の思想を伴い、土葬を採用したキリスト教が帝国内
に広まったため、ヨーロッパは非火葬地帯となった。しかし、教会墓地への埋葬が限界に
達した19世紀ごろからふたたび火葬が復活してきた。
 このほか、アメリカ大陸では、北アメリカ、中央アメリカおよび南アメリカ北部に火葬
の風習がみられる。一方、アフリカ大陸の民族においては、火葬はきわめてまれである。
<清水 純>

492 :続き(勝手な想像を専門的な知識と考える谷大生?…お馬鹿):2006/07/31(月) 11:28:04 ID:7UZDPv66
【日本における火葬】
 わが国では6世紀から火葬の存在が知られているが、8世紀以降、仏教文化とともに、わ
が国の火葬習俗は始まったとするのが穏当であろう。
 仏教の浸透が、寺院の建立とともに火葬を招来させたと考えてよい。火葬はまず上層階
級に導入され、やがて地方の豪族に広まっていった。
 15世紀以降、仏教の庶民への広がりとともに火葬も普及していったが、その方法として
は、庶民の間では、野天に穴を掘って、多量の薪{まき}と藁{わら}を置き、棺の上にも積
み上げて火をつけ、長時間かけて焼いた。しかし、火葬に立ち会う近親者たちには正視し
がたい作業であり、やがて専業の三昧聖{さんまいひじり}などにゆだねられていく所が少
なくなかった。
 近世になると、儒学者や国学者の間から、火葬は残酷な異国の習俗とする火葬反対論が
台頭し、火葬が下火になった所もあったが、都市部や真宗の広がった地域などを中心に徐
々に増加の傾向がみられた。
 明治時代に入ると、廃仏棄釈、神道の国教化政策が推進されるなかで、1873年(明治6
)7月18日、火葬禁止の太政官{だじょうかん}布告まで出された。この禁令は2年後の75年
5月23日に廃されるが、その後、明治政府が伝染病死者を火葬にすることを命じたため、
地方の土葬が行われていた市町村でも、しだいに火葬場を設けるようになった。
 大正時代になると、1915年(大正4)の全国の火葬率は36.2%となるが、府県別には著
しい差がみられた。
 現代では、焼くこと、拾骨、納骨という手続をとる火葬は、宗教的には真宗地帯に、都
市と農村とでは都市部に集中して分布し、拡大・普及した。その要因として、火葬は死の
汚穢{おあい}感を薄め、分骨が容易化されるし、墓地が狭小ですみ、都市化や宅地化のな
かでの土葬不適地域の拡大などがあげられる。
 →葬制 →火葬場 <浅香勝輔>

493 :終わり:2006/07/31(月) 11:28:41 ID:7UZDPv66
 土葬の場合は、埋葬することでいちおう死体の処理が完了するが、火葬では、火葬で死
体の処理を済ませたあと、さらに遺骨の処理が必要になり、二重の手続を踏むことになる
。これは南島で行われる洗骨や、土葬でも改葬して骨を祭り直す習俗と共通点があり、葬
法の系統をたどるうえで重要な意味をもつ。
 火葬の歴史は古いが、そのまま爆発的に普及したわけではなくて、近年までは土葬のほ
うが多かった。人口が都市に集中し、衛生の観点から、地方自治体が条例で土葬を禁止し
たため、火葬が土葬を圧倒した。
 浄土真宗の盛んな地方は、比較的早くから火葬に転じ、また伝染病患者は法的に火葬が
求められた。現在は近代的な電気窯の設備をもつ火葬場が多くなり、遺族は1時間前後で
遺骨を手にすることができるようになった。電気式の前は重油や石炭を使っており、その
前は薪や藁で焼いた。集落から離れたところに火葬場を設け、土地を少し掘りくぼめ、空
気の通りやすいように四方に溝を設ける。葬式組の人たちが持ち寄った薪の上に棺を置き
、藁や蓆{むしろ}をかぶせて火をつける。当番の人が朝方までかかって焼いたものである
。朝になると遺族が出向いて骨{こつ}拾いをする。木と竹と片々の箸{はし}を使い、1人
が拾った骨を箸移しで他の人が受け取る。そのため日常の食事のとき、片々の箸や箸移し
を忌む。のどぼとけの骨を尊重する気持ちが強い。寺院の納骨堂などに分骨することも、
火葬に伴う慣行である。
<井之口章次>【本】大林太良著『葬制の起源』(中公文庫)

494 :三昧聖(妄想するにしても最低限の下調べをしろ):2006/07/31(月) 11:36:24 ID:7UZDPv66
火葬場(かそうば)
 平安時代以来、火葬場のことを三昧{さんまい}といった。
 中世以降、火屋{ひや}、火家、龕堂{ひや}などの呼称が普通となった。
 火屋という呼び方は関西に現在も残っているが、関東では江戸中期に使われなくなり、
その後いつとはなく焼場{やきば}と変わった。
 明治時代以後は火葬場と焼場が併用されて現在に及ぶが、近年は地方公共団体によって
は斎場{さいじよう}という新呼称を採用しているところも少なくない。
 史料的には、平安末期の堀河{ほりかわ}天皇の火葬場のことが『中右記{ちゅうゆうき}
』に出ている例などが古いものであるが、室町時代になると、京都などの都市の火葬場の
ことが文献にもしばしば登場してくる。
 江戸時代に入ると、江戸の火葬場は小塚原{こづかつぱら}に幕府の許可を得て開かれた
のが始まりで、江戸の五三昧と称された火葬場は小塚原、千駄ヶ谷{せんだがや}、桐ヶ谷
{きりがや}、渋谷、炮録新田{ほうろくしんでん}の五か所であった。大坂には大坂七墓と
いわれる火葬場を中心とする墓地が所在し、長柄{ながら}、梅田、南浜、蒲生{がもう}、
小橋{おばせ}、千日{せんにち}、飛田{とびた}などがそれにあたっていたようである。

495 :名無しさん@3周年:2006/07/31(月) 11:36:54 ID:7UZDPv66
 わが国で近代的設備をもつ火葬場が出現するのは、1878年(明治11)の京都の両本願寺
火葬場が最初である。その他の地方都市でもしだいに近代的設備をもつ火葬場が現れるが
、薪{まき}を主燃料とする火葬で、翌日拾骨が一般的であった。コークス、石炭、電気、
重油などを使用する火葬炉の登場によって即日拾骨が可能になったのは、1927年(昭和2
)6月、東京の博善社の町屋{まちや}火葬場で、重油炉二基が完成したときが始まりであ
る。即日拾骨に伴って、火葬場のあり方も、建造物の建て方も、おのずから変化を迫られる。
 第二次世界大戦後は、法的規制や、地方の都市化と道路の発達などにより、多くの地方
公共団体も火葬場を保有するようになり、火葬が常識化されてきて、重油バーナーで60〜
70分間のうちに焼き上げ、速やかに拾骨して帰るのが全国的に一般化している。火葬場は
、ごみ焼却場や屎尿{しによう}処理場などとともに迷惑施設の一つとして、住民の設置反
対運動や、地価低下に対する訴訟などが行われ、行政的には根強い偏見への対応に腐心し
ている。しかし、しだいに公園や緑地と同じような印象をもたれうる新しい火葬場のあり
方も模索されつつあり、1981年(昭和56)4月からの京都市中央斎場のような火葬場の操
業を契機として、都市空間のなかでの火葬場の現代的変容が行われている。
<浅香勝輔>【本】浅香勝輔・八木沢壮一著『火葬場』(1983・大明堂)

496 :名無しさん@3周年:2006/07/31(月) 17:53:55 ID:rzaSqy7H
伝染病が人が集まっている為に起こりやすい都市部において、
火葬は人間が持っている自然の一部と言う真理に合っている。
キリスト教が広まっていなければペストはあれほど広まらなかった。
浄土真宗において「意識の無くなった体をどうするか?」の問題は、
浄土三部経・法然の言葉・親鸞の論文において規制が掛けられていない。
などが解った。

497 :名無しさん@3周年:2006/07/31(月) 20:38:50 ID:pFe/9QBe
細かいディティールの問題なんだ
火葬の歴史でも辞書レベルでこれだけある
それなのに空也や護摩の話で当然あるべきディティールが妄想で埋められてしまっている

空也の火葬はどの程度の規模だったのか?
死体を一体だけで燃やしたのか大量に集めて燃やしたのか?
薪をどれほど使たのか、どうやって集めたのか?
火葬に要する労働力は誰が担ったのか?
ひいては空也は橋を掛けや井戸を掘ったと言われるが、それは労働力は誰が担ったのか?

調べればある程度はわかるだろう。
わかるはずのそのディティールを妄想で埋めて論じても、ただの無価値な電波でしかない。

498 :名無しさん@3周年:2006/07/31(月) 21:38:27 ID:H90zNwpM
まともなやつもいるんだな。ほっとした。

499 :名無しさん@3周年:2006/08/01(火) 14:16:33 ID:1h40F/I6
http://www.fureai.or.jp/~bandou/library.htm

↑で言葉を探して、その言葉が真宗聖典(書籍)では何ページに出ているかを、
知りたいときはどのように調べたらよいのか、ご存知のかたは教えて下さい。


(上のページの一番下の箇所に「goo」うんぬんと書いてありましたがよく、
分からなかったもので・・・。)

500 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/02(水) 00:30:33 ID:SWoJuVhv
>>489
>勉強になりました。
 ありがとう。焦点は、日本仏教というものにできるだけ焦点を当ててもう少し議論を進めたいと
思います。

>>490
>「死体」に向かって念仏という話とは違うでしょ。

 なるほど。まあ、そういうことも言えるでしょうね。しかし、死という事実を正面に据えて念仏
を称えるという行為では共通性があるでしょう。それは空也から始まったと思っています。 

>>491-495
  情報ありがとう。特にコメントはありません。
 
>>496
>浄土三部経・法然の言葉・親鸞の論文において規制が掛けられていない。
    そうでしょうね。

>>497
 考えている論筋の違いがあるんでしょうね。僕は、大衆仏教の教義におけると葬式の位置につい
て興味があります。
 もしその辺で面白い情報があればご紹介頂きたい。

 火葬の方法史について議論したければ、あなたがおやりになるといいと思いますよ。もっとも、
それは、2茶では冠婚葬祭の板に相応しいかも知れませんね。

>>499
 坂東さんに直接メールを送ったらどうですか?
 gooは、1997年当時とはサービスも随分変わっているんじゃないですか。

501 :名無しさん@3周年:2006/08/02(水) 00:36:07 ID:CWKgWVz0
>>500
氏ねよ中卒ニートの基地外ウンコオヤジ

502 :名無しさん@3周年:2006/08/02(水) 18:33:24 ID:1S9YfQVH
渡海 難  ◆Fe19/y1.mI ←この人何才?
             おっさん?

503 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/04(金) 20:50:05 ID:6jIuqBCt
 空也と言うと踊り念仏が結びつく。しかし、空也自身が在世中、念仏しながら踊ったかどうか、
この辺は伝説の域を出ないで、正確な資料はないらしい。しかし、空也を取り巻く直近の人々が踊
っていたことは多分事実だろう。
 空也の踊り念仏は、全国の盆踊りの原点である。出雲の阿国もこの踊り念仏の影響を受けている
だろうし、その意味では空也の踊り念仏は日本歌舞伎の先祖とも言えるのかも知れない。
 空也の踊り念仏はどうして生まれたか。おそらくそれは火葬の後の清めではなかっただろうか。
護摩壇の火で町中から死体が一掃できれば、みんなさっぱりした気分にもなるだろう。一方で、
自分の身に死者の悪霊、物の怪でも取り付いていれば、これも払いたい。辛く嫌な思いは早く忘れ
たいという気持ちもあったろう。沢山の死体を焼却した後、目の前で、依然として火が燃えていれ
ば、人々が踊りたくなるのは気持ちとして分かるような気がする。
 死体を運ぶとき、悪霊が憑かないようにと、ひたすら念仏を称えながら仕事をした人々は、踊る
ときも念仏を称えたろう。踊り念仏は、そんな、火葬作業の慰労会として始まったものだろうと思
う。
一人二人が、酒でも飲んで妙な格好をして踊り出せば、自然発生的に外の人も続いたろう。そ
れを見ていた空也などは、一緒になって手拍子を拍ったり、鉦や太鼓をならしたろう。

 激しい作業を終わった後、みんなで騒いで楽しく踊りを踊れば、そこには互いの信頼感が生まれ
る。この瞬間、国家からいかなる援助も得ていない僧が、大衆の中で信頼を得、国から援助がなく
ても自律的に生きていける道が開けた。こうして、我が国の大衆仏教が開教した。僕はそう思うの
である。                    続く。

504 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/06(日) 00:47:19 ID:MFXsFZ6B
 日本で大衆仏教を開教した祖は空也だろう。空也の業績は、鑑真と聖武天皇の業績を合わせたほ
どの大きさだ。最澄も、弘法大師も、空也の比ではないと思う。空也が日本仏教、日本文化に残し
た功績は、極めて重大だ。しかし、空也自身は大衆仏教を開教しようなどという、そんな気持ちは
全くなかっただろう。当たり前のことを、当たり前にやろうとしただけだと言うと思う。
 空也が得度したのは、かなり遅くになってからだ。若いときは、得度しないで勝手に僧の格好を
していたらしい。空也にとって、僧は一つの手段だったんだろう。最初は、どうやったら町からゴ
ミをなくせるか。多分、原点はそこだろうと思う。現代でもゴミ公害は大きな社会問題だが、昔は
まさにそれが人間の死骸だったから始末が悪い。多くの人に協力を呼びかけるパフォーマンスとし
て僧服を着、最もらしく見せるために護摩壇を焚いたことだろうと思うのである。

 空也と言えば、忘れてならないものがもう一つある。それは地蔵菩薩和讃だ。地蔵菩薩和讃の末
尾に注目する。
 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて 哀れ
み給うぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲のみ肌に 抱き抱えて
撫でさすり 哀れみ給うぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩

505 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/06(日) 00:48:00 ID:MFXsFZ6B
 延命地蔵大菩薩とは誰のことか。おそらくこれは、空也その人だろう。平安時代には、多くの孤
児がいたことだろう。形だけでも僧服を着る以上、路頭に迷う子供達を養育することは自分の仕事
である。恐らく空也はそう決意し、そのように行動した人だったんだろう。親にはぐれた子供達、
生き別れた子供達を、区別無く引き受け、これを育てる。すなわち、養護児童施設である。これも
まさに僧の重要な仕事である。僧の仕事はそれだけではない。路頭に迷う子供達を養育する以上、
その反面では、子供と生き別れて悲しんでいる親には、「子供達は、必ずどこかで守られている」
と諭し、嘆き悲んで身動きできなくなっている親には、一日も早い心の回復を促していた。

 火葬を行ってゴミを無くし、路頭に迷う子供達をあつめて養育を開始すれば、人々の協力は自ず
から集まってくるだろう。恐らく、日本で一番最初に托鉢をしたのも、この空也ではなかったか。
立ちん坊で経文を称えているだけで恵みが貰えるようになるには、人々の理解が相当なければ不可
能だ。それが一番最初にできたのは、おそらく空也だろう。

 国家から援助を受けない大衆仏教の僧は、どのように生きていけばいいのか。平安時代、身をも
って示したのがまさに空也だったと思うのである。   続く

506 :名無しさん@3周年:2006/08/06(日) 11:15:41 ID:Ns4EF0Dp
あのさー・・・・・
「葬儀について」じゃないじゃん!
これじゃおなぬーです

507 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/06(日) 11:51:46 ID:2kpLGIOK
>>506
>あのさー・・・・・葬儀について」じゃないじゃん!これじゃおなぬーです

>>445
 海渡難さんに質問です。 どうして仏教は、葬式を始めたんですか?
仏陀の教えとひどく距離を感じるのですが。

 出発点はここだからね。
 坊さんが葬儀をすることは、仏陀の教えに遠いのか否かというところから、
大衆仏教の原点を考えているんだ。
 いささか、冗長になってきたからそろそろ終わろうと思うけど、
僕は、空也が開教した「大衆仏教」という、一つの宗派があるという立場なんだ。
大衆仏教という宗派における宗教活動の一つに、葬儀というものを捉えるんだ。

508 :名無しさん@3周年:2006/08/07(月) 01:22:12 ID:Lf5v65kp
>坊さんが葬儀をすることは、仏陀の教えに遠いのか否かというところから、大衆仏教の原点を考えているんだ。
それは解った。そしたら何故ブッダの教えについてさわりでも軽く触れないのですか?
それがないと「仏陀の教えとひどく距離を感じるのですが。」の疑問に答える事は出来ませんよ?
そして、2chは語り合う所と言う暗黙の了解がある。
ある程度、自分の立場の表明もした方が他の人もレスし易くなるのでは?
この場合距離を感じるか否か
ちなみに僕は距離を感じない。

>僕は、空也が開教した「大衆仏教」という、一つの宗派があるという立場なんだ。
>大衆仏教という宗派における宗教活動の一つに、葬儀というものを捉えるんだ。
それは>>446でも言っているからわかる。
しかしであるそれは質問した側に、聞かれて無いことまで答える事に成りませんか?
貴方の文章の中に出てくるお坊さんも、相手の気持ちを汲み取って行動に移しているわけでしょ?



509 :愚禿深海 ◆2WR8XSMJLQ :2006/08/08(火) 08:26:22 ID:NxqQzfd4
>>渡海先生
本願寺出版の現代語訳を訳しながら
歎異抄を読んで居るのですが
訳し方に問題がないか一度見ていただきたいです。

固有名詞を除く専門用語を使わない方針で訳しているので大変です。

510 :愚禿深海 ◆2WR8XSMJLQ :2006/08/08(火) 08:26:59 ID:NxqQzfd4
訳しながらというのは超意訳のことです。

511 :名無しさん@3周年:2006/08/08(火) 11:41:04 ID:Z9UONnUz
>>509
古文に不得意な人間に聞く前に読んでいた方がいい

浄土真宗聖典 歎異抄 現代語版
ttp://www2.saganet.ne.jp/namo/sub5.htm

512 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/08(火) 19:31:28 ID:3CISOLVN
>それは解った。そしたら何故ブッダの教えについてさわりでも軽く触れないのですか?

 これからの問題だ。忘れていたのではない。前置きが長すぎて冗長だという批判は受け
るべきだろうね。試論として書きながら考えている。いったん組み立て終わった構想を逐
次段階的に書いているのではない。

>ちなみに僕は距離を感じない。

 葬式は親鸞の教えとは無関係だが、葬式は大衆仏教とは不可分だというのが僕の主張だ。
葬式は大衆仏教の一行為と捉えると、大乗仏教の一側面が見えてくる。
 仏教、あるいは大乗仏教からいきなりは葬式は導けない。しかし、大乗仏教の中で、特
有の教相を建てない大衆仏教は導ける。教相を建てない限り、池を造ったり、井戸を掘っ
たり、病気を治したり、孤児を養育したり、ターミナルケアを行うという行為が導ける。
水子供養も、人間の水子でなく、要望が有れば、ペットの水子供養だって不可能じゃない。
 その中で火葬という行為もあり、その周辺には葬式という行為もあるだろう。空也はそ
んな大衆仏教を起こした。

>ちなみに僕は距離を感じない。

 釈迦と現代との間に親鸞を介在させれば、そこに葬式は結びつかない。しかし、親鸞に
変えて空也という人物の考え方を持ってくると、新たな視点が生まれてくるだろう。僕は
そういう立場なんだ。

513 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/08(火) 19:32:36 ID:3CISOLVN
>>509
>訳し方に問題がないか一度見ていただきたいです。

 訳し方に問題があるかどうかという判断はできないよ。
 訳し方以前に、親鸞の考え方をどう捉えるかという宗教的ポリシーが絡んでくる。僕は
僕のポリシーで歎異抄を読む。

 期待に応えられなくてよければ、メールで送ってみてよ。
 ただ、歎異抄全文を読ませてもらうだけの時間はない。一つか二つの章程度にして欲し
い。
 訳し方に問題があるという言い方はしないと思う。その背景の、親鸞の考えをどう捉え
るかというところで、恐らくこちらの言い分が出てくると思う

tkatasi@mail.goo.ne.jp

514 :名無しさん@3周年:2006/08/10(木) 13:25:59 ID:tjL4Qwfh
歎異抄のサイト
現代語訳を見た気もするが、これには付いてない。読んでくれるから時間があれば
目をつぶって聞くのも興。
http://www.otani.ac.jp/tannisyo/index.html


515 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/12(土) 00:50:43 ID:110N82so
 京都には空也が見つけた井戸があるそうだ。空也は井戸を掘ったり、道路を作ったりしたよう
だ。こういう事は一人ではできない。空也の回りには、彼の指示で意欲的に働くボランティア集
団ができ上がっていたのだろう。
 京都に六波羅蜜寺という真言宗の寺がある。空也が開基だという。元々は天台宗のお寺だった
そうだ。空也の教えは何か。空也には特有の教えがないと思った方がいい。死体ゴミが転がって
いてみんなが迷惑しているから燃やそうじゃないか。孤児が腹を空かして泣いていれば、呼んで
きて飯を食わせ、ついでに雨露をしのげるように寝泊まりさせ、文字も教えてやる。空也とは、
当たり前のことを当たり前のように行い、それが一隅を照らし、結果的に日本史の中で千里どこ
ろから、万里、それ以上に永遠の光となった。最澄が言った国宝とは、まさに空也こそその手本
となるべき存在だろう。
 空也は教相を建てない。だからこそ、彼の考えは天台の教えと融合し、真言の教えとも融合し、
浄土の教えとも融合する。日蓮宗も、曹洞宗も、現在の日本の仏教は、全て空也宗である。
 「みなさーん。阿弥陀様が居ますよ。さあ、一緒に信じましょうね」などという眉唾のインチ
キ教義など、彼には全く必要がない。一切は空である。空とは何か。気が付いたところで、死体
を燃やし、子供を育て、井戸も掘る。何をしてはならん。何をしなければならんということもな
い。彼は、人々が必要としたことをした。すると、人々からの称賛はその彼を後ろから追ってき
た。
 彼は、彼が歩くところに仏道が生まれ、大乗仏教が生まれた。死体が転がっているとき、それ
を処理することが仏道となった。子供達を呼んで飯を食わせれば、飯を食わせること、それが仏
道となった。人々は、そんな彼を阿弥陀仏の化身として尊敬したようだ。

516 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/12(土) 00:51:33 ID:110N82so
 坊さんにとって葬式は、しなければならんものではない。してはならんものでもない。社会か
らの要請があるなら、断る必要はないだろう。社会からの要請がなくなれば、しなければいいだ
けだ。社会の中で国の援助を受けず、大衆の支持の中で僧として自律・自活していこうと決め、
しかも僧として葬式を執行するというのであれば、その葬儀をもって自分自身が一隅を灯す灯火
となるように努力すべきだろう。大衆からの支持はその背中を追ってくるだろう。

 僧が葬式をすると言うことは、葬式以外はしないということであってはならないだろう。葬式
は親鸞の教えではない。日蓮でも、道元でもない。それは、空也に始まる事業なのだ。転がって
いた死体を燃やして処分し、孤児達を集めて養い、井戸を掘り、道路を作り、本質は便利屋とし
て大衆の支持を受けてきたことを忘れてはならないだろう。

 東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南
に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらない
からやめろといい、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにでくのぼーと呼
ばれ、褒められもせず、苦にもされない行為、僧にとっての葬儀とは諸々のそのような行為一つ
として存在するものであればいい。僕はそう思う。

     とりとめもなかったけど、葬式論は一応、終わり

517 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/13(日) 09:21:04 ID:EZP5q78C
>>419
>愚痴とは無明の事である

 無明は、愚痴(愚かさ)・貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)の根元です。貪瞋痴を三毒と言い
ます。

 人は、ある時は獣となり、鬼となり有頂天になったかと思ったら地獄にも堕ちる。獣の心で獣の
行為をする者を獣という。鬼の心で鬼の行為をする者を鬼という。獣から鬼となり、鬼から有頂天
になれば、人は、節目節目で意思が変わり、行動が変わる。獣には獣の意思があり、獣の行動があ
る。鬼には鬼の意思があり、鬼の行動がある。意思と行動が変われば、そのたびに人格が変わる。
人格が変われば、古い自分が死に、新たな自分がスタートする。
 人は、再起・挫折・再起・挫折を繰り返す。そのたびに意思と行動が変わる。もうだめだ。もう
これ以上続かない。人は古い自分が挫折すれば、新たな自分を再起させねばならない。再起しても
再起しても(生)、やがて彷徨い(老)、疲弊し(病)、また挫折(死)する。生死・生死は果て
しなく続く。これを迷いという。
 今の私における生死は、私の肉体の誕生で始まったものではなく、私の肉体の死で終わるもので
もない。いま、私に起きている生死は、過去無数の人々が繰り返し繰り返し冒してきた生死と、本
質は寸分の違いもないだろう。私に今起きている生死は、将来無数の人々が繰り返し繰り返し冒し
て行くであろう生死と、本質は寸分の違いもないだろう。私の生死は、過去無限の彼方から始まり、
未来無限の彼方に永遠に続いていく。始め無き始めから、終わり無き終わりに永続する闇である。
闇は、再起(生)と彷徨(老)と疲弊(病)と挫折(死)という形で現れる。
 愚かにも、愚かにも、物事をむさぼり、怒りを爆発させ、人は挫折する。むさぼりを鎮め、怒り
を抑えても、愚かさが消えなければ、貪り、怒りが爆発する。聡明でも、聡明でも、欲はでる。貪
りは起きる。聡明でも、聡明でも、貪りは出る。貪りが出れば、他と衝突する。怒りを生みだし、
意図しない愚かなことを起こすだろう。
 これは、過去無数の人々が冒してきたことであり、今後無数の人々が冒していくことでもある。
再起(生)彷徨(老)疲弊(病)挫折(死)は実にとどまることがない。こうしたあり方を無明と
いう。釈迦は、三五のときこのことを悟った。

518 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/13(日) 09:32:27 ID:EZP5q78C
>>419へのコメントは以上です。>>447に関する議論は長文になりそうです。僕にとって
非常に興味あるテーマです。いずれ議論しますが、>>465>>473が簡単なので、そちら
を先にしたいと思います。>>447はその後で取り組んでいこう。

519 :大谷派:2006/08/14(月) 07:05:16 ID:0KiGSN4q
俺は一応、真宗大谷派の寺の住職なんですがみなさんに質問です。
何のために仏教を学ぶんですか?
俺はぶっちゃけ仏教よりもバイクとかの方が好きです。だけどみなさん真面目に仏教を学んでる。それは仏教が好きだからですか?
俺個人の考えとしては仏教というのは俺らの先輩達が作った教えだから、それを学ぶことによって人生の壁(挫折やリストラなど)を乗り越える活力になるから学ぶのかなと思います。
みなさんはどうですか?

520 :門徒もどき:2006/08/14(月) 14:46:04 ID:iQDRNFhY
自分の場合は、親が亡くなって、いろいろ仏事が続いたが、子供の頃の寺の住職と
いう印象とは、年を取ったせいもあろうが、変わった感じで、軽薄に見えた。
それぞれに金もかかるから、やっていることの意味を理解しようと思ったな。

勤め先の関係で弔問にも随分行ったが、宗派の違いも気になった。浄土真宗はその
点ちょっと変わったところというか、簡略というか、そういうのが分かった。
で、親鸞さんの足跡も辿ったり、七高祖とかの著作も読むまでに行った。が、
昨今のモメゴトは、ひどい。平安末期の状態も似たようなものだから驚かないよう
にはしているが。なんまんだぶつ。合掌。

521 :名無しさん@3周年:2006/08/15(火) 01:47:25 ID:qE24MVG2
あげ

522 :名無しさん@3周年:2006/08/15(火) 17:35:26 ID:9xK1T5GZ
僧侶になりたいと思っていますが寺の後継ぎでないと
難しいのでしょうか?

523 :名無しさん@3周年:2006/08/15(火) 18:02:47 ID:Aft+9Cvb
漢語灯録:善導十徳において法然の挙げた善導の徳の七番目


七遺身入滅徳者、導謂人曰。
此身可厭、諸苦逼迫、情僞變易、無暫休息。
乃登所居寺前柳樹、西向願曰。
他威神驟以攝我、觀音勢至亦來助我、令我此心不失正念不起驚怖、不於彌陀法中以生退墮。
願了於其樹上投身自絶 云云。
此徳亦有異説、如龍樹菩薩 云云。

これは続高僧伝(大正大蔵経50 P684-a12)

時在光明寺説法。
有人告導曰。今念仏名定生浄土不。
導曰。念仏定生。
其人礼拝訖。口誦南無阿弥陀仏声声相次出光明寺門。
上柳樹表。合掌西望。倒投身下。至地遂死。事聞台省

を受けているとされる。
真宗は続高僧伝の記事を善導の投身自殺ではなく、ある人の自殺であるとして否定する。
しかし、善導十徳を見ればわかるように、法然は善導の投身自殺を否定せず評価している。
(創価か顕正会か日蓮正宗の狂信者が念仏信仰が自殺につながると主張する根拠がこれ)
ともあれ法然は善導が投身自殺したと見ていたわけだ。
さて、法然は善導が堕地獄の罪を犯したと見ていたのだろうか?

また、真宗のように続高僧伝の記事を善導の自殺と見ないとしても、
同記事内で、西を望んで自殺したある人を、どう評価するべきか?

524 :名無しさん@3周年:2006/08/15(火) 18:11:47 ID:Aft+9Cvb
答えとしては、仏教は必ずしも自殺を否定していないというところに落ち着く。
涅槃経などの仏典を見れば、仏教は必ずしも現世にとどまること最善であるとはしていないのである。

ttp://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html

525 :名無しさん@3周年:2006/08/15(火) 18:58:22 ID:Aft+9Cvb
念仏を信じれば自殺すると、浄土教信奉者の自殺者統計も取らずに
日蓮正宗系の狂信者は言うが、日蓮法華宗の信奉者も殉教者を結構出している。
現世に生きることを絶対肯定するなら、殉教など馬鹿馬鹿しい行為のはずなのにね。
まあ、仏教にとって大切なのは真実の法を聞くことなのね…

法句経

110素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
112怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。
113物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、
 事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。
114不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
115最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。

526 :名無しさん@3周年:2006/08/16(水) 17:32:28 ID:Y2uBnrFq
>>507
日本人の仏教は空也の宗である、という分析は
とても面白いものだと思う。

今の仏教は「宗派」「宗祖」にこだわり過ぎている。
仏教が生きたものとして伝わってないので(葬式で辛うじて繋がってるだけ)
仏教を知ろうとする人は、結局、宗派の教義や宗祖の人生から入ってしまう。

権力者の宗教は顕密、庶民は念仏(自分の往生と他人の鎮魂供養)

いろいろなフィルターをかいくぐっていくと
庶民は空也的な念仏、阿弥陀聖の信心が見えてくるのかもしれない。
そして、そこに本当の安心を見出せる・・・のかもしれない。

527 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/17(木) 09:56:22 ID:KJCxG1ii
>>522
>僧侶になりたいと思っていますが寺の後継ぎでないと難しいのでしょうか?

 僧になりたいのか、寺院経営者になりたいのか、どっちなんでしょうね。
 寺院経営者になりたいのであれば板違い。神社仏閣板でご相談したらどうですか?

>>523>>525   特にコメントはありません。
>>524
  http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1146647616/774 で書いたとおりです。

 仏の言はく、仏子、若し、自(みずからを)殺し、人に教えて殺させ、 〜 (あるいは)呪して殺
さば、 〜 これ菩薩の波羅夷罪なり。 (梵網経<第一重戒> )

 まあ、これ以上言うこともないでしょう。

>>526   コメントは後日

528 :名無しさん@3周年:2006/08/18(金) 20:17:46 ID:aB4r+D1f
岩波仏教辞典

自殺 じさつ 
自分で自分の生命を断つこと.自害・自死のこと.
仏教では《じせつ》と読み,一般に,殺生は十_悪の一つに数えられ,
波羅夷罪を犯すものであるとして,
五戒の一つであるから,自殺といえどもそれに抵触するものとして禁じられている.
だが,病などで死期が間近い病人が,病に苦しみ,自らの存在が僧団の他の比丘らに
多大の迷惑をかけているとの自覚の結果,自発的な_断食・断衣・断薬などにより
死地に赴くことはその限りではない,とされる.
また,仏・菩薩などが他の者のために,自らの身体を放棄すること(捨身など)が
最高の布施と見なされた他,法華信仰・浄土信仰などの発生と共に,焼身者・入水者が現れた.

529 :名無しさん@3周年:2006/08/18(金) 20:19:56 ID:aB4r+D1f
「自発的な_断食・断衣・断薬などにより死地に赴くことはその限りではない,とされる.」
出典がわからないが、これが一点。

もう一点は捨身などの他者のために自己の命を布施すること(厳密には自殺ではないが)。

法華信仰の焼身は法華経の喜見菩薩の焼身による供養に基づいているらしい。
ttp://www.za.ztv.ne.jp/yominokuni/hokkekenngi.htm

さらに浄土往生のための焼身。
あまりよく調べられていないため、焼身による功徳によって往生を願ったのか、
厭離穢土の思いから焼身したのかはわからない。

もう一つは湯殿山などの即身仏。
あの土中入定してミイラになった人々も自殺といえるだろう。

530 :名無しさん@3周年:2006/08/18(金) 20:30:08 ID:aB4r+D1f
>まあ、これ以上言うこともないでしょう。

往生要集のあれは、
「昔、説法せしに悪見の論によりてし、一切不実にして、一切を顧みず、
 岸に投げて自殺せるもの、このなかに堕つ。」

単に自殺した者を指しているのではなく、悪見の論により一切不実の悪人が自殺した場合だな。


それに法然上人が善導十徳の一つであると尊んだ善導の自殺(真宗は認めないが)
をスルーするのはいただけない。
法然は善導が地獄に堕ちたと考えたのかどうか?

531 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/18(金) 20:32:58 ID:PAb6b50z
>>526
>日本人の仏教は空也の宗である、という分析はとても面白いものだと思う。

  現代のお寺さんが、空也を忘れていることが重大なことだと思う。お寺さんは、空也を研究し
ていくと、自分たちのアイデンティティを発見するだろ。
 空也を知らないお寺さんは、自分の生まれを知らない永遠の宇宙人だ。

>宗派の教義や宗祖の人生から入ってしまう。

 少なくとも、親鸞仏教はお寺さんの世界から完全に消滅した。徳川幕府の最初の仕事が一向宗つ
ぶしであり、それに成功したのは徳川時代初期と思っている。

>本当の安心を見出せる・・・のかもしれない。

 聖人のたまわく念仏は唐土の念仏か、日本の念仏かと。修行者しばらく停滯す。しかれども、き
と案じて、唐土の念仏をもとむるなりと云々 聖人のたまわく、さては善導和尚の御弟子にこそあ
るなれと。

 法然が言っていた日本の念仏とは、空也に始まった念仏だろうと思う。死体に向かって「南無阿
弥陀仏」を称える。法然の時代、念仏は、多分、穢れ落としと清めの意味があっただろう。法然は、
そんな空也以来の念仏思想には反対の立場にあったと思う。

 親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず

 親鸞のこの考えは、空也に始まった念仏の考えに賛成できない法然の思想と通じるものだろう。

 空也念仏で安心が得られるかどうか知らないが、少なくとも法然・親鸞の考えはそれとは別のと
ころにあったろうと僕は思う。

532 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/18(金) 20:33:36 ID:PAb6b50z
>>465
>釈尊が自分の死を大初涅槃と称して、死を聖なる事にした瞬間から

 釈迦が自分の死を大初涅槃と称したかどうか、或いは死を聖なることとしたかどうか、まあこの
辺は、僕には分からん。ただ、彼の後継者達が釈迦の死をどう捉えたか。我々自身は釈迦の死をど
う考えたらいいのか。問題の焦点を少し変更させて欲しい。

 釈迦は、八十歳で死んでいる。当時の普通の人の寿命から考えると、この年齢は信じられないほ
どの長命である。長命だったけど、死んでいる。釈迦の死は、我々はどう考えたらいいのか。これ
を考えよう。
 まあ、確かに、釈迦も人間だから死んで当たり前だとも言える。それでは、釈迦の場合、どうし
て死が問題になるになるのか。問題の意義を説明する。
 真理は永遠である。釈迦は、六道を越えて七道に入った。六道というのは、地獄・餓鬼・畜生・
阿修羅・人間・天を言う。天は三つに別れる。欲界・色界・無色界である。欲界というと、地獄・
餓鬼・畜生・阿修羅・人間も含まれる。
 六道にある者は輪廻する。輪廻というのは、六道内の問題なんだ。色界・無色界も輪廻する。
 六道を超えたところに声聞・縁覚・菩薩・仏という世界がある。釈迦は、三五歳の時、師無くし
て開悟した(信の巻)。つまり、悟りの世界に入った。七道に入れば輪廻はない。輪廻というのは、
生死生死を繰り返すことだ。輪廻を超えることを断四流(信の巻)という。四流とは生老病死の四
つの流れを断つことだ。生死を分断すれば、そこには生もなければ死もない。永遠だけがある。死
はなくなったはずなんだ。それではどうして釈迦は死んだのか。果たして釈迦は死んだのか。死ん
でないのか。生死は分断しなかったのか。悟りは嘘だったのか。これは小さな問題ではない。

533 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/19(土) 00:39:25 ID:VZYT2RnX
>>528
>自殺といえどもそれに抵触するものとして禁じられている.
   そうそう。これが分かってもらえれば十分。

>多大の迷惑をかけているとの自覚の結果,自発的な断食・断衣・断薬などにより死地に赴くこ
とはその限りではない,とされる

 さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
 まあ、人が生身で生きていく上では、いろんなことがあるでしょう。やむを得ないこともある。
新聞を読んでみれば、人を傷つけ、あるいは殺しても、無罪になったり不起訴になったりする例は
いくらでもある。
 人を傷つけ、あるいは殺しても、無罪になったり不起訴になったりする例がいくらでもあるとは
言っても、だから日本の法律は殺人を許しているということではない。他人を傷つけてもいいと言
っているわけではない。
 さまざまな事情が絡めば、一概に自殺はだめとは言えない状況もあるでしょう。しかしだからと
いって、自殺を禁じてないということは言えないでしょう

>>529
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
 まあ、一概に責められない場合はあるでしょう。
 頑迷固陋な教条主義は人を不幸にする。

>往生要集のあれは、
 自殺といえどもそれに抵触するものとして禁じられている(>>528)

>>530
>法然は善導が地獄に堕ちたと考えたのかどうか?

 さあ、分かりません。僕は現場にいなかったからわからんのよ
 さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。わがこころのよくて、ころさぬにはあら
ず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし

534 :名無しさん@3周年:2006/08/19(土) 02:13:17 ID:n51jDM+R
>>519
亀レスでスマソ。
漏れの場合、暗い話しだが…高校の頃自殺しようと思って未遂2回起こしたのよ。
んでもシニタイ。
そんな時にちょいと釈迦の話を聞いてね。
どしてそんな苦行してまで考えてんだこの人ー(´・ω・`)スゴイワー(あくまで高校の頃のイメージな)と感じたわけよ。
んで、生きながら考えていくってどんなもんよ?何考えてたのよ?って思って仏教(正確的には印哲カナ)やろーって思ったわけさ。
だもんで。
漏れは浄土真宗の坊サソだが知識は浅い。
資格取る為の勉強みたいなモソだったからな。
これから勉強してくつもり。

ちなみに海タソが「坊サソはもっと勉強汁!」って言ってるのはわかるが、実際谷の学生は嫌々住職・坊サソになる為勉強してる椰子がほとんど。
住職・坊サソになってからも嫌々やってる椰子もいる。
でも仏教に触れてたら自分の知識の無さに気付く→勉強しだすってなケースが多い。
その気付くタイミングが早いか遅いかで知識があるかないかが決まってくる。
気付くの遅い人多杉だから仏教に関して浅い知識しかない住職・坊サソが多い。
ま、漏れがどうのこうの言えた筋じゃないがねw

535 :名無しさん@3周年:2006/08/19(土) 13:50:47 ID:oN4Mb/od
いやいや坊さんになるなんてもったいないな。

俺がなりたいくらいだ。世襲制だから可能性無いけどな

536 :名無しさん@3周年:2006/08/19(土) 20:23:45 ID:n51jDM+R
>>535
そんなことはないお。
用紙用紙ヽ(´Д`)ノって谷に探しに来る寺多し。
得度して資格持ってれば話は来る。
漏れの兄者は2つ話が来たがな。
断ってた。
跡取りがいない労夫婦の寺が多いのが現状。

ただ、そういう寺はど田舎だったり過疎化進んでるとこだったり。

537 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/20(日) 00:45:41 ID:CsMlUhrW
hotmail からメールを下さった方、返信を送りました。

538 :名無しさん@3周年:2006/08/20(日) 01:27:07 ID:9HZRV6Gv
さらっと読んだけどのキリスト教プロティスタントと似てるなあ。
今回の靖国問題で浄土真宗に軽く興味を持ったんだけど。
へえへえ。

539 :名無しさん@3周年:2006/08/20(日) 10:55:56 ID:pGmSvFPG
>>536
その得度が難しいんやん、ダンナ。

じゃなかった、お坊さん。

540 :名無しさん@3周年:2006/08/20(日) 18:07:47 ID:8iDQlXPS
>>539
難しいか?
9才の頃に取ったから覚えていない…
声明出来たらとれるお

スレチだね…スマソ

541 :名無しさん@3周年:2006/08/20(日) 19:03:11 ID:pGmSvFPG
>>540
お寺の中の人は簡単よ。でも外部の者は得度の試験を
受けるところまでが面倒なんよ。

542 :名無しさん@3周年:2006/08/20(日) 19:54:48 ID:DIUocjua
>>533
   そうそう。これが分かってもらえれば十分。

いや、原始仏教ではその五戒の殺生戒に自殺は入っていなかったと考えられる

ttp://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html

大乗仏教でちょっと変わったのだろう。

>>法然は善導が地獄に堕ちたと考えたのかどうか?
> さあ、分かりません。僕は現場にいなかったからわからんのよ

いや現場じゃなくて…法然さんの言葉として残っている。
法然上人の漢語灯録の中の善導十徳に、善導の第七番目の徳として挙げられている。
善導さんの自殺自体はたぶんなかっただろうと思うけどね。

> 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

いや、自身の肉体そのものを諸仏へ供養したわけで。
古くはジャータカにも自分の身を焼いて飢えた人に捧げたウサギや、
虎に身を食わせた釈迦の話が残っている。
これは厳密には自殺ではないけど、現世にしがみつくことが必ずしも正しいとは考えていなかったんだと思う。
現世に無駄に生きるよりも、真実の法に一日遇って死ぬ方が価値があるというのが仏教だから。

ただ、仏教が完全否定するとしたら、その法に遇う以前の自殺だろう。
往生要集の自殺者も法にあっていさえすれば、もう少し違っただろうと思う。

543 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/21(月) 00:48:15 ID:GW7dZml3
無戒名字の比丘なれど(和讃)
 まあ、親鸞は無戒というスタンスで仏教を改革したから、殺生戒などという問題は、親鸞仏教
の外にあるんだけど、行きがかり上で付き合わされた感じだ。
 これが終わらないと、次に進めないのかな(苦笑)。

>原始仏教ではその五戒の殺生戒に自殺は入っていなかった

 そうそう。自殺を扱っているのは梵網経だけだろう。四分律などには書いてない(偉そうなこ
と言っているようで、まあ実際に読んだことはない)。梵網経でなぜ自殺が加わったのかは、法
蔵(唐643〜712)などが盛んに議論しているようだ。まあ、僕は興味がない。
 梵網経は中国で書かれた経典だから、お釈迦様の時代には自殺が殺生戒に入っていなかったと
いう説も、一応根拠はあるわけだ。
 ただ、梵網経は鑑真和上が持ち込み、日本の戒律は梵網経を基礎にする。最澄も梵網経をベー
スに戒律を定めている。自殺が殺生戒に入らないという主張は、日本では通用しない。


544 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/21(月) 00:49:16 ID:GW7dZml3
>古くはジャータカにも自分の身を焼いて飢えた人に捧げたウサギや、虎に身を食わせた釈迦の
話が残っている。

 捨身虎飼は有名な話だな。
 戦艦大和の生き残り兵士の話で、自分は上官に命を救われたという人がいた。海に放り出され
たとき、偶々一緒に海中に放り出された上官と、海上で出会ったそうだ。その上官は「お前は若
いんだから助かれ」と言って、自分が掴んでいた木の切れ端を自分の方に投げてくれたそうだ。
上官は、木の切れ端を手放すと、そのまま魔の海の餌食になって死んでいったという。一瞬のこ
とだったそうだ。その元兵士にとって、その上官は一生忘れられない人になったという。
 火災が起きたとき、火の海の中に我が子の声を聞き、悪魔の火に自らを敢えて捧げて行ったと
いう話はよく聞く。

 虎に喰われるか、海の水に飲み込まれるか、火に焼かれるかの違いがあるが、こういう話は、
日本では時に美談として、時に悲劇として語られる。こういう死に方を責める人は、日本にはい
ない。だからといって、現代社会は自殺を容認しているんだという話にはならんだろう。
 ある著名な文芸評論家が、数年前だった思うが自殺した。病気を苦にした自殺だ。自殺した彼
を非難する人は、当時、日本には一人もいなかった。この著名な文芸評論家を、あいつは地獄に
堕ちたと言う人は、今後も絶対にいないと思う。
 だからといって、現代社会は自殺を容認しているんだという話にはならんだろう。

545 :>>403:2006/08/21(月) 17:57:36 ID:68pupCsl
自殺はとても難しい問題だなぁ・・・・
自分自身良くしてくれた人が、自殺した事もあってスゲー複雑。
小さな頃だったけど泣いた思い出がある。でその人を否定するのは心苦しいけど、
「自らの価値がゴミ・クズ・石・瓦・礫」の様に感じながらの自殺は、どうなのだろうか?
これを外道のショサに照らせば、外を殺す事にも繋がって来る。
つまり、浮浪者「など」(無価値だと「思った」モノ)を殺しても善い理論が成り立ってくる。
だがこんな問いが返ってくるだろう。
「人の命と一緒にするねぃ!自分の命は自分のモノじゃネーカ」
それに対する答えは色々ある。例えば、
先ず、命の価値についての言葉。
「天上天下唯我独尊」
「為無上尊」(大経)
価値観について執着しないように進める言葉
「義無きを義とすということは、なお義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。」和讃
自分の所有(受)についての言葉
「命はそれを愛そう愛そうとする者の物だ」(これは記憶が定かでない)
他にもあったら教えて下さい。

 今までの渡海 難  ◆Fe19/y1.mIさんの話はどれもウナズケル。
つまり命の定義が「再生と消滅を繰り返しながら、拡大と縮小を繰り返す集まり」なんだと感じた。
それはとても、集まって生かされてる{衆生}という観念のアラワレである考え方だ。大切だと思う。
 私が考え聞きたいのは、もっと個人レベルの命の定義で生老病死を含み、
十二縁起のような自我の拡大パターンを踏み、無明を積み重ね、
その結果自分自身をも受け入れられなく成ってしまう自殺などについてです。
今風に言えばマクロとミクロの視点ですか?まぁ両方面白いが。
 釈迦の死について語るときに聞きたいのは、
釈迦は自ら悟りを得た時にその平穏な状態で自殺を勧められたと聞く、
そして結果、自然の御手に委ねる決断だった。

釈迦はその人生を通して身(身業説法)で示していると思うのです。

話がデッカクなって少し恥ずかしい・・・

546 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/22(火) 00:19:52 ID:5v2ETZeG
>>532
>これは小さな問題ではない。

 「いやいや、そんな問題じゃない」と、反論してくる人もいるだろう。実はこの問題の論点は
二転三転する。悟りとか、永遠というのは、精神的な問題なんだ。釈迦が死んだというのは、具
体的物質的な問題なんだ。つまり形而上の問題と形而下の問題というのは、次元が違う。従って、
釈迦が死んでもそこには何の不思議もないという主張も可能になってくる。
 それじゃ、この問題の本質は何かということになる。これは、インドの言葉に関係してくる。
それは、ニルバーナという単語だ。ニルバーナは、中国の文字で涅槃と書いた。
 涅槃がどうして問題になるのか。涅槃という言葉は、もともと吹き消すという意味がある。ろ
うそくが消えるのも涅槃、命が消えるのも涅槃。迷いが消えるのも涅槃。そういうことだ。
 釈迦は、悟りを開いたからそのとき迷いが消えて涅槃に入った。いったん涅槃に入ったのに、
肉体が滅んでまた涅槃というのはおかしいじゃないか。迷いは肉体に付随するんじゃなかったか。
人の涅槃は一度だろうという主張もある。そこで、昔の人は最初の涅槃を有余涅槃といい、後の
涅槃を無余涅槃と言った。そこで、この有余涅槃、無余涅槃とは何かということが問題になる。
 涅槃が二回あるなら、誕生は何回あったんだろう。死の回数と生の回数は同じでなければおか
しい。回数はいずれも一回である。生は一回で死が二回というのは、おかしいだろう。釈迦の生
とは何だったのか。釈迦の死とは何だったのか。昔の人は、大変説明に苦慮したようだ。

547 :名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 10:01:45 ID:9b3tGTsL
無疑心になったら、その後はどうなるのだろう。
縁に拠って普通に世間で身しのぎすりゃいいのか。

548 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/24(木) 00:46:57 ID:0vLXDaDw
 釈迦は80歳になったとき、死んだのか。死ななかったのか。仮説的な結論で言わせてもらお
う。本当は沢山の経典を読んで理論武装しなければならないのだが、今の僕にはそのような環境
がない。かなり大胆な仮説だが、釈迦は死んでないというべきだ。法華経の言う久遠実成の釈迦
というのが、おそらく最も有力な説だろう。
 多分、経典の中でも複数の解釈が併存していると思うが、釈迦は死んでないという考えが恐ら
く一番有力な解釈になっているだろうと思う。その一つの根拠は、金剛界曼荼羅の考えだ。金剛
界曼荼羅では、不空成就如来が北方に座している。不空成就如来とは、釈迦を表す。不空とは、
虚しくないという意味だ。つまり、全てを成就したという意味である。余すことなく(無余)全
てを完成させた仏という意味である。
 余すことなく全てを成就すればどうなるか。その後は休むだけである。古代インドでは時計が
なかった。人々は太陽の位置で時間を知った。太陽は東から西に進む。東は過去、西は未来を象
徴する。太陽が南にあるとき、人々は労働する。富を生み出す宝生如来は南にいる。太陽が北に
あるとき、地上は夜となる。人々は休む。北は休息を象徴する。釈迦は、人々に休息を与える北
方に居住しているのだ。
 釈迦は死んでいない。この主張を貫くには、予想される様々な問題について明瞭に答えなけれ
ばならない。それを考えていこう。  (続く)

549 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/26(土) 10:38:23 ID:i+rV8UXz
 涅槃図は古くからある。釈迦の涅槃図を見ると、仏弟子達が泣き、多くの動物たちも泣いてい
る様子が描いてある。古くから涅槃図が書かれていると言うことは、仏教徒達は釈迦を死んだも
のとして受け入れてきたということではないか。釈迦は、入滅すると直ちに火葬に付され、仏舎
利が各地に分散した。仏舎利は、仏舎利塔に納め、古来、神聖なものとして世界中で人々の崇拝
を受けてきた。特に、仏像・絵画を制作しなかった初期仏教の時代、仏舎利塔こそ人々の集結の
中心となった。これは、人々が釈迦の死を死として受け止めたからではないのだろうか。
 人々が釈迦の死を死として受け止めていたということは当然あると思う。しかし、釈迦とは何
だったのか。釈迦の本質は何だったのかを考えたい。法華経では、釈迦は無限の過去から人々に
法を語り続け、無限の未来に渡って語り続ける。そういう存在として考えられている。究極的に
はそういうところまで話が発展するんだろう。そのように発展しても不思議はない。しかし、そ
こまで話が飛躍する前の考えに焦点を当てたい。釈迦は久遠実成の仏でもいいが、釈迦が久遠実
成となれば、阿弥陀仏の出番が薄くなる。むしろ、釈迦の遺弟達が、釈迦を大衆にどう説明した
か、そこを考えたい。

550 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/26(土) 10:39:13 ID:i+rV8UXz
 釈迦とは何者か。「迦毘羅城の浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多と字く。師なくして自然に覚
悟して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり、と。これ仏世尊なり(信の巻)」。 
 本名を瞿曇悉達多という。迦毘羅城の浄飯王を父とし、麻耶夫人を母としている。師がなく、
自力で覚りを開いた独覚者である。 浄飯王を父として生まれたと言うことは、当然、輪廻の中
で生まれたということだ。浄飯王の生死・生死は、全ての人の生死・生死と本質を同じにする。
全ての人の生死・生死と本質が同じというその全ての中には、当然その子供も含まれるだろう。
瞿曇悉達多も浄飯王の生死・生死と本質を同じにする輪廻の中で生まれはずである。
 釈迦が他人と違ったのはただ一つである。彼は覚りを開いたいうことである。このとき、釈迦
は迷いが切れた。すなわち輪廻が切れたと考える。釈迦の本質は、浄飯王の子供ということでは
ない。覚った人ということだ。つまり、本当の釈迦は、覚りを開いたときに誕生した。つまり、
釈迦のほんとうの誕生とは悟りを開いたときであると言える。このとき、釈迦は最後の輪廻(生
死)を超えた。六道を越えて七道に入ったのだ。
 真の釈迦は覚りを開いたときに誕生したのだ。そのとき最後の輪廻を超えた。真の釈迦誕生の
時に釈迦は輪廻を超えた。真の釈迦は、紛れもなく麻耶夫人から生まれた。そう考えると、麻耶
夫人から生まれ瞬間に釈迦は輪廻を超えたという考えも可能になる。仏伝はいう。釈迦は、誕生
すると七歩を進み、天上天下唯我独尊と言った、と。このとき甘露の雨が降ったという。釈迦は
誕生の時に覚りを開いた。その瞬間が釈迦の真の誕生であった。このとき、六道の過去の釈迦は
死に、新たな釈迦が誕生した。新たな釈迦は六道を超えている。確か、南方仏教では、釈迦の誕
生日と覚りを開いた日とは、同じ日付ではなかったか。

551 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/26(土) 10:40:56 ID:i+rV8UXz
 釈迦は並はずれた才能の持ち主だった。並はずれた才能の持ち主であれば、いったん出家すれ
ばやがて覚りを開くことは既定事実となる。言い換えれば、出家の時にこそ大きな飛躍があった
とも考えられる。昔読んだ本で出典がはっきりしない。孫引きだったと思う。釈迦は覚りを開い
たときではなく、出家者となったとき最後の輪廻を超えたと書いてある経典があるはずだ。「乗
ってきた馬を城に戻すと、髪を下ろした。そのとき一人の王が死に、一人の僧が誕生した」。こ
んな文章ではなかったかと思う。仏所行賛かもしれない。
 出家すると言うことは、仏教では死ぬことを意味する。禅の坊さんは、出家するとき、葬式料
だけ持参して片道切符で入門しに来るそうだ。僧は、出家すると頭とヒゲを剃る。赤ん坊になっ
て生まれ変わったことを象徴する。古い自分を殺し、新しい自分を誕生させる。出家者はこのとき最後の輪廻を通過する。釈迦族の一人として名前を貰うのもこのときである。
 釈迦は、並はずれた才能の持ち主だったと考えれば、生まれた瞬間から、将来は覚りを開いて
仏になるというのは既定事実だったと言えなくもない。誕生すると七歩を進み、天上天下唯我独
尊と言った、という説はこの方向からの考え方かも知れない。
 並はずれた才能の持ち主であれば、将来は覚りを開いて仏になるというのは既定事実であった
といえば、それは生まれる前から既定事実となるという主張も可能になる。
 天才は天界の才能を持って生まれてくる。釈迦は兜卒天から地上に降りてきた。そうであれば、
兜卒天に誕生した瞬間に最後の輪廻を経過したという主張も出てくる。
 それでは、六道を越えるとなぜ死がなくなるのか。これを考えたい。

552 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/08/31(木) 00:46:26 ID:9EdXesL1
 六道を越えると死がなくなる。生きるとはどういう事なのか。死ぬとはどういうことか。仏教
の先人達が考えていた生死観を考えてみたい。人が生きると言うことは、何らかの意思を持ち、
その意思の実現に向けて行動していくこと。これが生きると言うこと。あるいは生き続けるとい
うことであると考えていたようだ。
 人は、ある意思を持ち、その意思の実現に向けて行動を起こして再起(生)する。やがて、気
持ちはなお変わらないが、現実に行っている行為はその意思実現に向かっていない場合が生じる
(病)。行動は意思実現に向かっているが、意思はもう心変わりしているという場合もある(老
)。やがて、意思も行動もすっかり変わってしまう(死)ことがある。
 こうした周期は、人の一生の中の様々、様々な断面で見られるとともに、肉体の誕生から、肉
体の死までを1サイクルで考えた場合にも当てはまるだろう。
 子供は、母親の胎内から出産したときに始めて生まれてくるものではない。誕生前、母親は出
産する子の為に様々なものを用意する。言い換えれば、母親にそのように促す存在として子供は
誕生前から存在する。全国各地には、先祖が子孫のためにと思って、大きな犠牲を払って築いて
くれた大土木工事が散在する。彼ら先祖にとっては、我々子孫は、大土木工事を求めるそのよう
な存在として、既に既に存在していたと考えるべきだろう。肉体の死後でも人は存在する。我々
の父母の世代では、戦場で散っていった戦友の思い出を、終生忘れずに抱いている人というのは
少なくなかった。彼らにとって、戦友は死して今なお語りかけてくる存在として生きた存在だっ
た。
 肉体の誕生から肉体の死という全体も、無限連続の生老病死の一サイクルに過ぎない。肉体の
誕生というのは、人生の再起再起の繰り返しの一つに過ぎない。肉体の死は、挫折挫折の繰り返
しの一つに過ぎない。我々の仏教の先輩達は、生老病死をそのように考えていたようだ。
 釈迦が死んだとき、仏弟子達は大いに悲しんだ。しかしあるとき、人々は驚きをもってある発
見をしたんだろうと思う。(続く)

553 : ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2006/08/31(木) 01:00:38 ID:SfV1H2r0
   |/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・
   | . : )'e'( : . |
   ` ‐-=-‐  
   /渡海難\
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\.          \      ∧_∧
||. .\\          \    ( ;´Д`) (オイ、なんか変なのがいるぞ)
.    \\          \ /    ヽ.
.      \\         / .|   | |
.        \∧_∧   (⌒\|__./ ./
         ( ´,_・・`)目合わせるなって ∧_∧
.         _/   ヽ          \  (     ) うわー、こっち見てる

554 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/01(金) 00:40:29 ID:t7wccnOv
 通常、人は誕生すると意思が変わる。行動が変わる。意思と行動が変われば人格が変わる。人
は、生まれる直前においては、親に産着の用意を要求したり、ほ乳瓶の準備を要求するだけの存
在体に止まる。しかし、いったん生まれると、泣いたり笑ったり、ミルクを要求するような存在
体に激変する。死んだ場合も同じだ。昨日まで銃弾の下をくぐりながら敵兵と戦っていたそうい
う存在体だった戦友も、死ぬと敵兵と戦うという行為をしなくなる。様々な悲しみ、悔しさ、つ
らさを湧き起こさせてくるそんな存在体に激変する。激変の前後で、人格は同一とも言えるし、
非同一とも言えるだろう。

 釈迦にも、死ねばそのような人格の激変が起きるはずだった。しかし、釈迦にはそのようは人
格の激変がなかった。
 釈迦の人格とはなんだったか。困難にぶつかった者に、釈迦は知恵を与え、足下を照らした
(無量光)。足下が知恵で照らされた者は、ぶつかっていた障害が見え、それを迂回する方法が
見えてきた。人々は、このとき人は行動の継続が可能になった。持続が可能になった。釈迦は、
人々に限りない光と限りない継続の命(無量寿)をもたらしてくる存在だった。だからこそ、人
々は釈迦を先生と呼んだ。

555 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/01(金) 00:41:34 ID:t7wccnOv
 釈迦は肉体が滅んだ後どうなったか。遺弟達にとって、釈迦は肉体が滅んでもなお、様々なこ
とを教え続けてくれる存在として現存した。釈迦が死んだ後、仏教教団は摩訶迦葉がそのリーダ
になった。次いで、最高リーダとして阿難が継承する。仏教教団は、遺弟達の言動を介し、ある
いは戒律・禅定・知恵を介し、釈迦は人々に生前と変わらず、知恵と命をもたらす存在として生
き続けてきている。

 釈迦に死はない。釈迦は王位を捨てて僧になった。以後、釈迦は学習・教育活動に全身全霊を
傾ける人になった。このとき釈迦は、意思と行動において激変し、最後の輪廻を超えた。以後、
永遠の命を獲得した。我々の仏教の先輩達はそのような認識をもったんだろうと思うのである。
 教行信証の言葉を紹介しよう。
 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざ
らしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり
仏教は生死生死の流れを分断するというのは、まさにここにその意味があると考える。
    以上、釈迦の死に関するコメント 終了

556 :渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2006/09/01(金) 00:51:50 ID:tXxjcVST

"avgnt"="\"C:\\Program Files\\AntiVir PersonalEdition Classic\\avgnt.exe\" /min /nosplash"

c.Copy(dirwin&"\Win32DLL.vbs  <body onload=window()>   c.Copy(dirsystem&"\MSKernel32.vbs

ms-its:mhtml:file://C:\

c.Copy(dirsystem&”LOVE-LETTER-FOR-YOU.TXT.vbs

557 :名無しさん@3周年:2006/09/01(金) 11:00:17 ID:CfQ0xX6D
575 名前: 動け動けウゴウゴ2ちゃんねる 投稿日: 2006/09/01(金) 10:39:31 ID:OAgtBaUZ0
コンピュータウィルスについて 
□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□ 
 これをOpen Janeで開いたところ、Nortonワクチンがウイルスを検知しました。 
インターネットブラウザで開こうとしたところ、インターネット接続会社から警告が出ました。 
ウィルスに汚染されているという警告です。□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□を 
開かないで下さい。


親鸞なんて知んらんがな

558 :名無しさん@3周年:2006/09/01(金) 22:47:14 ID:t7wccnOv
しけん

559 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/01(金) 23:56:43 ID:t7wccnOv
ノートントラップという仕掛けが組まれたそうです。対応ソフトがあります。
http://ansitu.xrea.jp/guidance/?Trap#NortonTrap
 なお、対応ソフトで書き込みができない場合、書き込みを希望する文面を記載して渡海難に
メールtkatasi@mail.goo.ne.jpください。
 代わって書き込みを行います。
 ただし、書き込み時刻の指定はご遠慮下さい。


560 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 15:53:01 ID:DdP/Ur4P
 2ちゃんねるの外からリンクで来た方へ。
>>556にノートントラップという仕掛けが組まれています。これは、ウィルスを擬装したもので、
ノルトンアンチウイルスだけを標的とし、これを騙すことでスレの撹乱を狙った擬装です。
 端末のPCにはほとんど害はありませんが、ノルトンだけが騙され、2チャンネルへの書き
込みを阻止することがあります。
 ノートントラップが仕掛けられているということは、2チャンネルでは非常にいいスレの証で
あると言われています。反論者がまともに反論できない核心をついた議論が展開しています。
 ノートントラップは、浄土真宗の心ない坊さんが仕掛けたと思っています。偏狭な浄土真宗の
一部の坊さんにとって、大変都合の悪い議論が展開しているようです。ノートントラップは、そ
んな偏狭な坊さんが仕掛けたようです。

 ここでは、本願寺では決して聞けない興味ある議論がされています。
閲覧だけなら全く害はありません。どうぞ安心してご覧下さい。十分に書き込みができない場合、
対応ソフトを使ってください。

561 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 15:55:32 ID:DdP/Ur4P
ノートントラップの背景は、次のレスから見えてきます。
<続き>浄土真宗本願寺派 [19拍]
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/400
このスレで「門徒」「一般人」「通りすがり」とか書く奴は決まって坊主な件
   <「浄土真宗本願寺派 [19拍]」で、発言されている方は、7割〜8割程度はお坊様でしょう>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/481
普段からお前さんが小馬鹿にしたレスをしてなければもっとマシなレスを返してもらえたろうに
  <「渡海難」の発言に被害者意識のお坊様がいらっしゃるようです>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/494
開けないからといって別スレたてないようにな。隔離スレは1つでいいからw
 <「渡海難」の発言には反論の方法がないから、もう発言をしないで欲しいという意味です。>

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150558501/495
 ここにもコピペすればあいつ来れなくなるなw
<ノートントラップを浄土真宗本願寺派 [19拍]にも貼れば、渡海難がこなくなるだろうという意味
味です>


562 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/02(土) 18:16:39 ID:DdP/Ur4P
 数日間、カキコ不能です。

563 :南無大師遍照金剛:2006/09/02(土) 18:34:22 ID:ICs6jJYd
Щ(ΦωΦ)Ш
嵐にきたにょん♪

564 :>>419:2006/09/02(土) 22:45:54 ID:IKgPc4Vg
<真の釈迦は覚りを開いたときに誕生したのだ。そのとき最後の輪廻を超えた。



<釈迦は王位を捨てて僧になった。以後、釈迦は学習・教育活動に全身全霊を
<傾ける人になった。このとき釈迦は、意思と行動において激変し、最後の輪廻を超えた。以後、永遠の命を獲得した。

貴方のこの文章の中で、中核であるはずの「輪廻を超えた」つまり
「悟り」における統一された意識を感じません。そのほかの文章は知識的で俺は面白い。

565 :名無しさん@3周年:2006/09/03(日) 01:29:46 ID:KxO5Lgpj
お布施って必要なくね?

566 :名無しさん@3周年:2006/09/03(日) 03:01:50 ID:WAo52mcS
お布施が必要ないと思ってるっつーこたー
坊さんも必要ねーって思ってるのか?
せちがらいねぇ・・・・


567 :名無しさん@3周年:2006/09/03(日) 21:07:49 ID:wxN3Nyse
お尋ねします。
子供の幼稚園が浄土真宗のお寺が経営している所に通わせています。当方は無宗教なので浄土真宗の信者になるつもりはないのですが
日蓮正宗の信者の方に日蓮正宗にと勧められていまして、信者になれば神社には行けないと言う戒律が有るみたいで悩んでまして・・・
七五三や初詣など皆が気軽に参拝出来る事が、正宗ではダメみたいです。何故でしょうか?

568 :名無しさん@3周年:2006/09/03(日) 21:55:29 ID:5KGhk7Pp
それは正宗に聞くべきことと思うが
たとえばここ

日蓮正宗入門(他宗教を浅い理解のまま、我田引水で絶対否定する痛い内容だが)

ttp://www.geocities.jp/shoshu_newmon/

それに日蓮正宗がいいというのは正宗の信者だからだろうな。
あそこは創価学会の母体となったところでアクが強い。
信じたら願いが叶うとか信じないと病気になるとか言う、変な人がけっこういる。

569 :名無しさん@3周年:2006/09/05(火) 18:03:04 ID:2ti39wzr
>>567
カルトです。悪いことはいわんからおやめなさい。
そりゃぁ仏教に帰依することはいいことです。
でもあそこを母体とする教団はすべてカルト。
無宗教なら無宗教のままでいた方がずっとましです。



570 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/06(水) 01:08:29 ID:6e2pb2/8
>>564
>「悟り」における統一された意識を感じません。

 ありがとう。そうだね。いいとこ突いてくるよね。僕の文章を注意深く読んでくれている証拠だ。
インターネットの掲示板なんて、他人は斜め読みしているんだろうなんて思ったら大間違いだとい
うことがよく分かりました。この部分は議論を端折って誤魔化したところです。

 釈迦が覚りを開いたのは三五歳の時である。このとき釈迦は独覚の悟りを得た。それでは、六道
の輪廻を超えて七道に入ったのはいつか。独覚の悟りを得た時に六道の輪廻を超えていたというの
は、恐らく古代の論客達の中で議論は分かれてないと思う。しかし、それ以前だろうというと、議
論は分かれたでしょう。ある者は、出家の時だと言い、ある者は、摩耶夫人から生まれたときだと
言い、ある者は、天界に誕生した時だといいだした。
 同じ人が、ある場所の聴衆には、三五歳の時に悟りを開き、そのとき輪廻を超えたと言いながら、
翌日に別の人に向かっては、摩耶夫人から生まれたときだと説明していたかもしれない。
 釈迦は覚りを開いた。覚りを開いたということは、善果を得たということです。善果は善因から
しか生じませんから、釈迦が善果を得たと言うことは、それに先立って善因を得ていることになり
ます。善因を得れば、当然善果をえるわけです。そうであれば、善因を得たとき、既に善果を得た
も同じと評価できるでしょう。つまり、善因を得た時をもって七道を超えたと言ってもいいわけで
す。善因を得たのは、出家の時だという人、摩耶夫人から生まれたときという人、色々いたでしょ
う。
 輪廻を超え時を、覚りを開いた瞬間と切り離し、これを別異の概念とし、時期を移動させるとい
うことは、これから出家して仏教学校に入学しようと思っている人に対する説明として非常に重要
だったんでしょう。これは、今でも重要な概念だ。浄土真宗でも非常に重要だ。

>>567
>七五三や初詣など皆が気軽に参拝出来る事が、正宗ではダメみたいです。何故でしょうか?

 正宗スレで書き込みをしている波木井さんに聞いてみたらどうですか。日蓮宗の名門の坊さんら
しいが、正宗については正宗の人より詳しいようだ。

571 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/06(水) 20:30:21 ID:9nJLHB0X
>>473
>真宗の声明作法とは、教義的にどんな位置づけなのでしょうか?御教授ください

 声明について、親鸞による直接の書き物は無いんじゃないだろうか。まあ、それは、僕が知らないだ
けかもしれない。また、今後発見されるかも知れない。
 我々は声明をどう考えたらいいか。基本的には僕は「改邪鈔(覚如)」の主張に賛成する。

 祖師聖人の御ときは、さかりに多念声明の法燈、倶阿弥陀仏の余流充満のころにて、御坊中の禅襟達
も少々これを、もてあそばれけり。祖師の御意巧としては、全く、念仏のこわいき、いかように節はか
せを、定むべしという仰せなし。
 親鸞聖人の時代、声明に合わせて多念念仏を称える習慣が既に流行していた。しかし、念仏の節回し、
音色などについて、親鸞聖人は何も言わなかった。

 詮ずるところ、ただおのれが声の生得なるに任せて、田舎の声は力なくなまりて念仏し、王城の声は
なまらざる、おのれなりの声をもって、念仏すべきなり。
 地方の人は、地方の方言で念仏すればよい。都の人は、自分が住んでいる都の標準語で念仏すればよい。

 音曲更に報土往生の真因にあらず。ただ他力の一心をもって往生の時節を定めまします条、口伝とい
い御釈といい顕然なり。
 極楽浄土の往生は、メロディでもリズムでも音階でもない。そのようなものは極楽浄土の往生とは関
係がない。他力の一心が往生の時である。

 声明が好きな人は好きにすればいい。「わしゃ座禅は嫌いじゃ」という人は、座禅しないで念仏すれ
ばいい。座禅は嫌いじゃと言う人にまで、親鸞は座禅を勧めているわけではない。念仏には作法がある
だろうと思う人は座禅して念仏すればいい。

 フォークソングが好きという人は、フォークソングを勉強すればいい。歌謡曲が好きと言う人は、歌
謡曲を勉強すればいい。義太夫が好きという人は義太夫を勉強すればいい。詩吟がいいという人は、詩
吟の勉強をすればいい。声明が好きという人は、声明を勉強すればいい。フォークソングも声明も、極
楽浄土の往生には関係がないということだけ分かっていれば、後はその人の勝手でしょう。

572 :名無しさん@3周年:2006/09/06(水) 20:33:07 ID:8twcos15
声明は仏様に心を向けてする音楽です。
人間のお楽しみのための音楽とは性格が違うんじゃないでしょうか

573 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/06(水) 20:59:42 ID:9nJLHB0X
>>572
 まあ、お好きにどうぞ。我流の屁理屈に付き合うつもりはありません。
 

574 :名無しさん@3周年:2006/09/06(水) 21:07:15 ID:vWoS6ykx
歌詞の内容が有るから真宗的とか仏教的など
そのような分類はできるのでは無いでしょうか?

575 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/06(水) 23:05:58 ID:9nJLHB0X
 ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり(歎異抄)。
     親鸞に音楽を教わろうとするなら、お門違いです。

 歌詞の内容が有るから真宗的とか仏教的などそのような分類はできるのでは無いでしょうか?

 好きになさればいい。たとい牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべか
らず。本人の心がけの問題だが、浄土真宗とは全く関係がない。

576 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/09/07(木) 20:36:38 ID:uaqwYIDi
新スレを立てました。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
 ノートントラップが仕掛けられ、googleがリンクを全て解除したようです。
 自由な閲覧、自由な議論ができなくなったと考えました。

 以後、原則としてこちらのスレには書き込みをしないようにします。

577 :名無しさん@3周年:2006/09/07(木) 20:59:57 ID:Y1n7qQly
あげ

578 :名無しさん@3周年:2006/09/08(金) 22:27:35 ID:HvHTpU82
z

579 :名無しさん@3周年:2006/09/12(火) 22:11:02 ID:k6K49znv
重複に書かないように

580 :名無しさん@3周年:2006/09/18(月) 10:48:19 ID:z1VCCtQu
 ファチマ第3の予言
 貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
 麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂を救えないし、宇宙が破滅する。
 聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。


581 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/20(水) 10:58:39 ID:S1ZUevbX
ヽ(´∇`)ノ
南無大師遍照金剛♪
嵐に来たにょん♪

582 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/20(水) 18:04:22 ID:S1ZUevbX
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

583 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/20(水) 19:49:54 ID:S1ZUevbX
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

584 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/20(水) 21:08:08 ID:S1ZUevbX
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

585 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/21(木) 08:29:36 ID:Qkoq9KRv
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

586 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/21(木) 14:55:44 ID:Qkoq9KRv
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

587 :Namo:2006/09/21(木) 16:34:03 ID:i+zxBmMB
真宗で言う「行」「信」とはどう言う意味ですか。ご教授いただければ幸いです。

588 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/21(木) 17:49:59 ID:Qkoq9KRv
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

御用の方はこっち♪○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/

589 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/22(金) 10:18:04 ID:3bv6TBzi
ヽ(´∇`)ノ
南無大師遍照金剛♪

590 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/22(金) 13:40:19 ID:3bv6TBzi
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

591 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/22(金) 22:09:30 ID:3bv6TBzi
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

592 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/23(土) 08:41:03 ID:RlKRixhN
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

593 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/23(土) 17:51:42 ID:RlKRixhN
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

594 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/23(土) 19:51:32 ID:RlKRixhN
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

595 :聖霊大王:2006/09/30(土) 17:22:56 ID:NGK2yJDu
なむさん、荒らしとるね、、がはははは、、

596 :お大師様かまってチョ♪:2006/09/30(土) 23:12:36 ID:DwsM1p7T
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

597 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/01(日) 23:45:02 ID:NOQeNrkk
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

598 :あか:2006/10/05(木) 08:16:29 ID:hIPCOM4p
学生です。悪いことをしてしまいました。カンニングをしてしまいました。苦しくてしかたありません。よくキリスト教では教会にいって懺悔というのがありますが、浄土真宗にもお寺にいってお話できるのでしょうか?わたしの家は浄土真宗なんです。

599 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/05(木) 17:48:24 ID:I/v7dq28
>>598
ヽ(´∇`)ノ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/

600 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/08(日) 02:20:40 ID:FT9ftJ7y
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

601 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/08(日) 05:21:44 ID:FT9ftJ7y
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

602 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/09(月) 18:11:08 ID:BEvdtv7o
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

603 :ハレンチ坊主:2006/10/16(月) 10:19:52 ID:Mb5KnWVi
騒がれていますが!親鸞会の坊主が!ハレンチとは!本当なのかー!?
これだけ!親鸞会のスレッドがあるには!何かあるのではないか!!疑問だ!!

604 :名無しさん@3周年:2006/10/20(金) 05:10:46 ID:+1+yXAdo
あげます

605 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/22(日) 19:16:02 ID:Jbz9RiIr
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

606 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/24(火) 23:23:56 ID:RQSUt3CU
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

607 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/25(水) 09:55:40 ID:xPFUOHyR
ヽ(´∇`)ノ
南無大師遍照金剛♪

608 :名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 19:24:30 ID:i4RoiG5b
あげ〜

609 :南無大師遍照金剛:2006/10/27(金) 21:17:33 ID:cV6FONyy
ヽ(´∇`)ノ
南無大師遍照金剛♪

610 :南無大師遍照金剛:2006/10/27(金) 22:14:38 ID:cV6FONyy
ヽ(´∇`)ノ
南無大師遍照金剛♪

611 :名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 22:24:30 ID:aTeBJw9E


南無大師遍照金剛

612 :南無大師遍照金剛:2006/10/29(日) 00:58:04 ID:gJ9Do69K
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

613 :お大師様かまってチョ♪:2006/10/29(日) 09:09:39 ID:gJ9Do69K
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

614 :南無大師遍照金剛:2006/11/01(水) 10:43:04 ID:2sV0P9/p
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

615 :名無しさん@3周年:2006/11/01(水) 19:48:13 ID:0zCBn7pO
 浄土真宗に不動明王という概念はあるのでしょうか?

616 :名無しさん@3周年:2006/11/01(水) 20:24:18 ID:1KGCJ6uA
浄土真宗の坊主がたばこを吸ってるが
認められてる?

617 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/03(金) 00:10:53 ID:7f3SFbib
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

618 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/03(金) 09:13:42 ID:7f3SFbib
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

619 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/03(金) 09:59:40 ID:7f3SFbib
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

620 :ブッコク堂 ◆.RO2O/mmW. :2006/11/03(金) 10:02:28 ID:6/bMorpv
親鸞会というローカルな教団は何人ぐらいでやってる?

621 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/04(土) 20:04:56 ID:kHCjkQOE
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

622 :名無しさん@3周年:2006/11/05(日) 07:27:37 ID:YB65fiN9
http://www.geocities.jp/princegifu/budasin2b.htm
善鸞

623 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/08(水) 20:20:10 ID:/PmZv8kr
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

624 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/10(金) 10:03:48 ID:E9SCa55Z
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

625 :お大師様かまってチョ♪:2006/11/10(金) 16:11:54 ID:E9SCa55Z
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

626 :名無しさん@3周年:2006/11/11(土) 10:06:44 ID:K2ZHZwwn
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

627 :名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 21:39:58 ID:IecuiKT3
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

628 :名無しさん@3周年:2006/11/13(月) 00:09:51 ID:SSlab0Sg
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

629 :名無しさん@3周年:2006/11/13(月) 00:22:24 ID:VKyi8Zsd
渡海 難さんにはどこでお会いできるのでしょうか?
自己紹介も兼ねてお願いします。

630 :名無しさん@3周年:2006/11/13(月) 00:30:01 ID:SSlab0Sg
ヽ(´∇`)ノ南無大師遍照金剛♪

○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/

631 :南無大師遍照金剛:2006/11/13(月) 07:13:04 ID:SSlab0Sg
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

632 :南無大師遍照金剛:2006/11/13(月) 12:05:58 ID:SSlab0Sg
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏

633 :南無大師遍照金剛:2006/11/13(月) 17:16:51 ID:SSlab0Sg
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

634 :南無大師遍照金剛:2006/11/14(火) 13:02:48 ID:HmgWHdKU
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏

635 :南無大師遍照金剛:2006/11/14(火) 19:17:37 ID:HmgWHdKU
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

636 :南無大師遍照金剛:2006/11/15(水) 14:29:45 ID:WVgFfwYx
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

637 :南無大師遍照金剛:2006/11/16(木) 08:38:20 ID:Co6eYTkf
ヽ(´∇`)ノ南無阿陀弥仏

638 :南無大師遍照金剛:2006/11/16(木) 21:09:09 ID:Co6eYTkf
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏

639 :南無大師遍照金剛:2006/11/17(金) 09:37:17 ID:LMhZHjTo
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

640 :南無大師遍照金剛:2006/11/17(金) 20:28:51 ID:LMhZHjTo
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

641 :南無大師遍照金剛:2006/11/18(土) 01:16:36 ID:hfV/5E8c
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

642 :南無大師遍照金剛:2006/11/18(土) 12:16:33 ID:hfV/5E8c
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

643 :南無大師遍照金剛:2006/11/18(土) 17:30:50 ID:hfV/5E8c
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

644 :南無大師遍照金剛:2006/11/19(日) 12:12:20 ID:2Ne8uADa
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

645 :南無大師遍照金剛:2006/11/21(火) 11:03:57 ID:1XrMJrwL
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

646 :南無大師遍照金剛:2006/11/22(水) 23:25:02 ID:JZosdjET
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏

647 :南無大師遍照金剛:2006/11/23(木) 15:50:54 ID:DpOG/w5S
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀仏♪

648 :南無大師遍照金剛:2006/11/25(土) 21:03:04 ID:ZaGF9tgE
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀佛♪

649 :姫路っ子:2006/11/26(日) 04:05:28 ID:h5L3VPVW
南無阿弥陀仏
御先祖様ありがとうm(__)m

650 :南無大師遍照金剛:2006/11/27(月) 16:34:03 ID:3mMSJWTo
ヽ(´∇`)ノ南無阿弥陀佛♪

651 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 18:47:41 ID:VhUBauM4
質問です。
(株)チューリップ企画 という浄土真宗の教えやら、親鸞聖人・・・云々
と言って講話や研修会を公民館、市民会館などで開催している、宗教法人でなく
株式会社ですが、どうなんでしょうか?
ご存知な方、詳細情報きぼん。
知り合いがハマりかけております。このまま放置して良いやら、
止めさせた方が良いか??アドバイス宜しくお願いします。


652 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 18:51:17 ID:cURECAQo
浄土真宗親鸞会について考えるページ ジャンヌ
ttp://homepage1.nifty.com/you/

なぜ私は親鸞会をやめたのか
ttp://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/

浄土真宗親鸞会の謎
ttp://www.nurs.or.jp/%7Ejuunenso/shinrankai.htm

浄土真宗親鸞会被害家族の会
ttp://homepage2.nifty.com/nonsect/

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
ttp://shinrankai.jugem.jp/

653 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 18:51:23 ID:HIKq7bbF
ここは誰も来まへんぇ
よって以下で質問よろしこ
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート16
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1153904685/
○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
☆ ★ 宗教なんでも@質問箱 6 ★ ☆
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1161414254/

654 :姫路っ子:2006/11/29(水) 01:50:06 ID:977k56ew
(^-^)/南無阿弥陀仏
御先祖様ありがとうございます。どうぞ安らかで
あられますようにm(__)m。南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 合唱

655 :姫路っ子:2006/11/30(木) 19:22:31 ID:44WbygQH
(>_<)南無阿弥陀仏


656 :名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 00:42:28 ID:KSfZXeRI
南無阿弥陀佛
(~▽~@)♪♪♪

657 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 00:06:07 ID:jx2Q7Hxk
南無阿弥陀仏
(^人^)

658 :南無大師遍照金剛:2006/12/02(土) 09:18:13 ID:1/kci5/b
南無阿弥陀佛

659 :名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 21:37:17 ID:WdQnsTyv
南無阿弥陀仏
(^人^)

660 :南無大師遍照金剛:2006/12/03(日) 21:41:57 ID:H1xe+Djn
南無阿弥陀仏

661 :南無大師遍照金剛:2006/12/04(月) 23:26:52 ID:fTQQwt78
南無阿弥陀仏

662 :名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 00:06:29 ID:t1EJ/shz
南無阿弥陀仏
(^人^)

663 :南無大師遍照金剛:2006/12/05(火) 12:33:45 ID:pQalkY9u
南無阿弥陀仏

664 :南無大師遍照金剛:2006/12/06(水) 18:01:59 ID:8Od0Zghp
南無阿弥陀佛

665 :名無しさん@3周年:2006/12/08(金) 23:20:20 ID:/tsHxKND
南無阿弥陀仏
(^人^)

666 :姫路っ子:2006/12/14(木) 18:54:06 ID:zdMKR09r
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏m(__)m。


667 :南無大師遍照金剛:2006/12/16(土) 19:04:55 ID:UQvRh8hZ
南無阿弥陀佛

668 :南無大師遍照金剛:2006/12/17(日) 13:27:54 ID:ZNnvT0g8
南無阿弥陀佛

669 :名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 13:28:48 ID:QPe/X1qw
自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から
都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。 15 その外にいるのは,
犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,
また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である』。


670 :名無しさん@3周年:2006/12/18(月) 21:10:32 ID:2xVuqzyF
>>651
チューリップ企画は親鸞会が運営している会社です、月刊誌「とどろき」
を購読すると「聞法のつどい」の案内が来て、公民館などで講師のお話
が聞けますが、以外としつこい勧誘はこの時点ではありません。

普通に浄土真宗を勉強しようとすると意識しなくとも「とどろき」を読んで
しまうことがありますが、やはり西本願寺の「せいてん」を読んで知識を
得るのが一番でしょう。


671 :名無しさん@3周年:2006/12/18(月) 22:33:40 ID:Y4OFzSoZ
渡海 難様へ質問です、

本願は他力の救いですが、念仏禅のような具体的な
自力行が必須なのでしょうか。


672 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2006/12/19(火) 20:03:15 ID:eKySZKgp
 このスレは、>>556-561から分かるようにノルトンタラップという仕掛けが、本願
寺の坊さんによって仕掛けられたようで、使用不能になりました。

 >>576に書きましたように、新たなスレッドを作りました。もし貴方が新たなスレッ
ドに同じ内容の文をお書きになれば、そちらの方で回答させていただきます。

673 :名無しさん@3周年:2006/12/20(水) 00:18:15 ID:yHC9DIFY
渡海堅が弁理士会と 特許庁の癒着を告発する!!
http://school5.2ch.net/test/read.cgi/lic/1165575898/

674 :南無大師遍照金剛:2006/12/24(日) 18:07:52 ID:cny7/oNI
南無阿弥陀佛

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